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み言葉のいづみ

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主の手は命と死をも越えて

2024-03-01

千代崎 備道  

よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。 

(イザヤ書三十八章18~19節)


復活を知らなかった旧約時代の信仰者たちは、命の危険の中で祈る時に、「死んだら神様を賛美できないので、生かしください」という祈りを度々捧げました。ヒゼキヤという王は国際危機が迫る中で不治の病であることを告げられ、自分のためではなく国を守るために、必死で神様に延命を求める命をしたことがイザヤ書や列王記に記録されています。神様は彼の祈りを聞き入れて、寿命を十五年延ばしただけでなく、神様が国の都を守ると約束をしてくださったのでした。冒頭の聖句は、その時の感謝の祈りです。
人々は神様だって死んだらどうすることもできない、という考えの中におりましたから、そのように祈るしかなかったのです。でもキリストの復活により、私たちも死んだ後に天国で永遠の時が与えられると信じることができ、さらに天の御国では救われた大群衆が国や言語を越えて一緒に神様を賛美している様子が黙示録に描かれています。
神様の御手はどこまで伸ばされるのでしょうか。人間の理解では、死の先には届いていないかのように考えてしまいます。でも「主の手は短かろうか」。死さえも越えて伸ばされているのです。私たちが死んだ後にどうなるかは、知ることはできません。でも、神様を信頼することができます。きっと神様は最善のことをしてくださる。そう信じること、私たちは平安と希望をあたえられるのです。
昨年暮れから今年初めにかけて何人もの兄弟姉妹を天に送りました。また新しい命の誕生もありましたし、キリストを信じて救われ永遠の命を受けた方もおられます。「母の胎にいるときから、白髪になるまで」、いいえ、黄泉に下ってさえ、神様は生ける者も死せる者も支配しておられるのだと私たちは信じています。
自分の手では届かないときは、神様の御手に委ねましょう。私たちが考えていること以上のことを神様はなさることがおできになるし、また不思議なことをしてくださるのです。そのことを信じて、今は、生かされている私たちにできる限りのことをするのです。今、生きている意味も人生の目的も、全ては神様と共にあります。ただ主を信頼し、従っていこうではありませんか。

恐れるな、主の手は短かくない

2024-02-01


千代崎 備道

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 
(イザヤ書四十一章10節)

 現代は不安の時代です。もちろん昔から天災があり戦争などの社会的な混乱はありました。命に関わる病は、医学の発達していない時代には今よりも恐ろしかったでしょう。しかし現代の私たちは、失いたくないものが増え、ちょっとしたことで平穏な日常が崩れてしまいます。何よりも、神様への信頼感が損なわれている時代、頼るのが人間であり自分であるなら、力が及ばないことがあれば、たちまちに不安に囲まれてしまいます。
 神様が人間に語る言葉は、昔も今も変わりません。「恐れるな」、「恐れてはならない」という御言葉が旧約聖書にも新約聖書にも何回も出て来ます。今も神様は私たちに語っておられます。「恐れなくて良いのだ」と。
 池の上教会では、昨年終わりから立て続けで五人の兄弟姉妹を天に送りました。寂しさを感じると共に、これまで共に歩み、共に主に仕えて来た方にとっては、これからどうなるか、という不安があります。これからも天に召される方があるということは厳粛な事実です。教会は、そして私たち一人一人はどうなるのでしょうか。
 私たちは、それでも御言葉の約束を信じ、天国の希望を堅く持ち続けます。「死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません」との詩篇を思い起こし、いかなる困難が待ち受けていても、ついに地上の生涯が終わるときが来ても、主の手に守られていることを信じましょう。
 日本だけでなく多くの先進国で少子高齢化が叫ばれています。多くの教派や教団でも信徒の高齢化、若者の流出や減少、そして牧師不足が課題となっています。十年、二十年先にはどうなっているでしょう。複数の教会を兼任する牧師が当たり前になり、それでも足らずに無牧となる教会、他教会と合同や、あるいは閉鎖。信徒数の減少は人材的にも経済的にも教会の働きも交わりさえも維持できなくなる「限界集落」ならぬ」「限界教会」。不安は尽きません。
 だからこそ、私たちはもう一度、主の御言葉に耳を傾け、「私の義の右の手で、あなたを守る」と言ってくださる主の助けを信頼して、仕えてまいりましょう。自分たちの力では足らないとき、もうどうすることもできないと諦めたくなるとき、それでも「主の手は短かろうか、いいや、そうではない」と信じて、主の手の助けを仰ぎつつ祈りましょう。

主の手は短かろうか

2024-01-01
千代崎 備道

主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」 
(民数記十一章23節)

 天地を造られた神は全知全能のお方です。人間が考えそうなことはご存じです。でも人間は有限の存在であり、時には自分が間違った考えをしていることさえ分かっていない。ですから神様はあえて問いかけ、私たちの間違いに気がつかせてくださるのです。
 聖書の中にはたびたび反語と呼ばれる表現が出て来ます。今年の教会の標語「主の手は短かろうか」とは、主の手は短いと言っているのではなく、「短いと言うのか、いいや、決してそうではない」という強い否定を意味します。以前は、どうしてこんなひねくれた言い方で語られるのか、と不思議に思っていました。ストレートに「主の手は短くない」と言えば分かりやすいのに。でも、聖書を読み続けているうちに、神様が自分にも問いかけていることに気がつくのです。私は、もしかして主の手が短いと思っていなかったか。神様は、そうではないぞ、主の手はお前が思っているより遙かに長いのだ、と語っておられるのです。
 二〇二四年は年明けそうそう能登半島で大地震があり、飛行機の事故があり、今年は大変な年になりそうだと予感された方もおられるでしょう。池の上教会にとっても、昨年末に何人もの方が天に召され、まだ受け止めきれない思いもあります。コロナがすっきりと終わったとは言えない中で、かといっていつまでも留まり続けることはできませんので、前進していかなければなりません。しかし本当に大丈夫だろうか、と現状を見ると不安を払拭できません。
 その時、私たちは知らないうちに、私たちと共にいてくださる神様の手が短いと思っているのです。神様だって、こんな状況の私たちを助けることは出来ないのではないか、と。本当にそうでしょうか。主の手は、決して短いはずがないのです。神様が何をなさるかは分かりません。私たちの願いが叶うということではありません。でも、神様が池の上教会の上に、また神様を信じる私たち一人一人の人生に、必ず御手を伸ばしてくださると信じるのです。
 厳しい荒野を旅していた民は、周囲の状況を見て神様に背きました。モーセでさえ、神様の力を信頼できずに、「イスラエル全員に肉を飽きるほどに与えるなんて、いくら神様でも無理です」と思ってしまった。そのモーセに「主の手は短かろうか。私を信じなさい」とチャレンジなさったのです。私たちも神様のお言葉を受け止め、もっと神様を信頼して前進していこうではありませんか。

神の国の王キリスト

2023-12-01
千代崎 備道  

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は、
「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」
と呼ばれる。
(イザヤ書九章6節)

 クリスマスに度々開かれる預言の言葉です。四つ(読み方によっては五つまたは六つ)もの名前を持つのは、この方が王であるからです。この預言が成就したのは言うまでもなくイエス・キリストです。キリストは王としてお生まれになったお方です。当時、イスラエルの王であったヘロデは、このお方を王と認めずに殺そうとしましたが、東の国から来た博士たちはこの幼子を王として礼拝したと記されています。
やがて成長され大人になったイエス様は人々に神の国の教えを伝え、その権威と力によって奇蹟を行い、多くの人を癒やされました。五千人以上を五つのパンで養われたとき、人々はイエス様を王としようと考えましたが、それは自分たちの欲を満たすためで、そのような王ではないイエス様はそのことを拒みました(ヨハネ六15)。結局、民衆はイエス様から離れ、ついには「十字架につけよ」と叫ぶようになったのです。
神の国は、神が王であって、その神様が遣わされたキリストを主として従うのが、神の国の国民です。神の義は、神の正しさであって、それと照らし合わせるなら人間は義ではなく罪人です。しかし、キリストの十字架は私たちの罪を贖って、生まれ変わらせて義なる者としてくださる。キリストの義とは私たちに与えられる救いです。
このイエス様によって救っていただいた私たちが、神の国を第一とし、神の義を求めて生きることは当然のことと言えましょう。でも、それは自分の力で完璧にできるのではなく、与えてくださるキリストを信頼し、その御言葉に従うことが大切です。それは、今年だけでなく、これからも追い求め、導かれていく道なのです。
私たちのために生まれてくださった救い主は、不思議な助言者として私たちを教え諭され、力ある神として助けてくださり、永遠の父として天国まで導き、平和の君として私たちを守ってくださいます。こんな素晴らしいお方が王として主として共にいてくださる。この恵みを忘れずに、これからも「神の国とその義を第一に求め」てまいりましょう。

神の国の犠牲と恵み

2023-11-01
千代崎 備道  

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」
(ルカの福音書十八章29~30節)

歴史を振り返るなら、世界のどこでも、およそ国の誕生にあたって苦難が無いことはないでしょう。独立しようとして周囲の国から攻撃されることもあります。また内部で反対する者たちから反抗されることもあります。戦争になることも少なくありません。そこには多くの犠牲者があり、困難に対面する者は数知れません。たとえ、その国が正義によって打ち立てられる場合でも、苦しみがないことはあり得ないのです。多くの犠牲が支払われたのです。
神の国が建て上げられるために、多くの人の犠牲がありました。誰よりも、イエス・キリストご自身が十字架の苦しみを受けられました。御国の福音を伝えた使徒たちも殉教しました。多くのクリスチャンが迫害を受けました。また、世界に福音を伝えるために困難を味わった宣教師がどれほどいたでしょう。今、私たちは、多くの人たちの苦難の結果として祝福に与っているのです。
では、私たちには何の困難も無いのでしょうか。この世の流れに身を任せて、当たり障りの無い道もあるかもしれません。しかし、神様の御心に従って歩むときには罪の世との軋轢(あつれき)が生じます。そして、その困難との戦いで犠牲を払うこともあります。
しかしイエス様は弟子たちに、その犠牲は決して無駄では無く、この世でも多くの恵みが与えられ、天国では永遠の命が約束されていると教えました。ルカの福音書の記事では、家や、家族を捨てると書かれていますが、マタイの福音書十九章29節では、「あるいは畑を捨てた者は」と、財産の全てが含まれています。一昔前は日本でもクリスチャンになるときに親から勘当された人もいます。友人関係も整理することもあるでしょう。仕事にも影響するかもしれません。でも、失うものよりも与えられるものははるかに勝っているのです。神の国はそれほどに価値のあるものです。
もし地上で幾ばくかのものを手にしたとしても、それを思いがけないことで手放すかもしれませんし、何よりも天国を失うことを考えるなら、目に見えるものに固執することは得策ではありません。神様が私たちを救うために御子を与えてくださったことを思うなら、私たちも喜んで神様のために犠牲を払うことが出来るのです。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
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FAX.0422-33-0061
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