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み言葉のいづみ

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キリストのからだに聖霊が注がれて

2022-05-01
千代崎 備道

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 
(創世記二章7節)

神様が人間を造られた様子を描いています。人間の物質としてのからだは、「土地のちり」から造られ、死んだら塵にもどると言われるように、儚く脆い存在です。その肉体に神様が息を吹き込まれたことによって「生きた」存在となったのです。神様のいのちの息と表現されているのは、人間の霊のことだとも言われます。ヘブル語の「霊」(ルーアハ)という言葉は、息や風と訳されることもあるからです。神が霊を与えてくださらなければ、人間は単なる物質であり、動物と大して変わらない生物にすぎません。「神のかたち」(一章27節)として造られたと言われる人間の特別な面は、この霊が与えられていることだと言われます。
キリストのからだと呼ばれる教会も、それと似ているのかもしれません。弟子たちが集まっているだけですと、それは生きた教会ではない。イースターの午後、弟子たちは集まって恐れていました。復活のイエス様が彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。イエス様が天に昇られた後、弟子たちは集まって祈っていましたが、そこに聖霊がくだられ、教会が誕生しました。それがペンテコステです。神の霊を受けなければ、、キリストのからだも生きていないのです。
私たちは、教会は建物ではないと教わりますが、建物はそこに集まるためのものです。現代はコロナ禍のために集まることが困難な時代ですが、迫害時代もクリスチャンは表だった建物ではなく、隠れて集まりました。今はインターネットも一つの集まる方法となっています。でも集まっただけでは足らないのです。私たちが聖霊に満たされる必要があります。祈りと御言葉のうちに聖霊が働いてくださいます。私たちが信仰をもって祈り、また聖書の言葉に聞き従うとき、そこに聖霊の働きが始まります。聖霊が生きて働かれるとき、人間の限界を超えて御業がなされます。インターネットでさえ、聖霊は用いることができるのです。離れていても、聖霊の助けをいただき、御言葉と祈りの交わりにより、私たちが霊的に一致するとき、それが生きた教会、キリストのからだとなるのです。
「キリストのからだを建て上げるため」、今日もお互いのために祈り合い、愛をもって仕え合いましょう。また同じ御言葉によって導かれ、キリストの御心に従う群れとなりましょう。そこに人知を超えた聖霊の働きがなされるからです。

復活によるキリストのからだ

2022-04-01
千代崎 備道  

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
(エペソ人への手紙一章20節)

「教会はキリストのからだである」ということは今年の教会の標語でもあるエペソ書四章に教えられていますが、一章の最後にも書かれています。それは最初からそうだったのではなく、キリストの復活と召天が背後にあることを、この一章20節は教えています。復活前は、人間となられたイエス様の肉体はいつもイエス様とともにありました。しかし復活されたイエス様のお体は、これまでとは異なった面があったのです。遠く離れていた場所に一瞬で移動でき、鍵で閉ざされた部屋の中に突然に出現された。見た目は以前と変わりませんし、手に釘痕もあります。でも新しい体、復活のからだとなられたのです。
さらにイエス様は天に引き上げられました。今度は肉眼では見えなくなりましたが、代わりとして来てくださった聖霊が教会に下られ、一人一人の心に宿ってくださり、聖霊を通じてイエス様が心の中にいてくださるのです。聖霊が教会の中に豊かに働かれることで、かしらであるキリストが教会を導いてくださり、教会はキリストのからだとしての役目を果たすことができるのです。
復活と昇天、そして聖霊降臨という大きな御業があったからこそ、教会はキリストのからだとなることができたのです。私たちが自分の力でキリストにふさわしい姿となり、御心に忠実な働きをして、キリストのからだなる教会が建てあげられるのではなく、人間の働きも聖霊の助けをいただいて、キリストご自身が働いてくださり、教会が建てあげられていくのです。
どうしたら、私たちは教会を建て上げることができるか。それは、この神様の全能の力を信頼し、キリストに従うことです。かしらであるキリストのお考えを無視して、自分の思いのままにするなら、いつのまにか神様の働きを妨げるかもしれません。神様まかせで自分は傍観者になるなら、建て上げられていくキリストのからだからも離れてしまいます。聖霊が語りかけてくださるままに、御言葉に示されることに従い、喜んでキリストの僕として仕えていくとき、キリストのからだは成長していくのです。今年は、キリストのために、神の栄光のために、心から神様に従うしもべとなりましょう。神様はそんな私たちを嬉しく思い、豊かに祝福して用いてくださるのです。

キリストのからだを結ぶ十字架

2022-03-01
千代崎 備道  

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エペソ人への手紙二章16節)

この御言葉の中で「両者」とはユダヤ人と異邦人のことです。旧約聖書の時代にはイスラエル人は自分たちだけが神の祝福に与ることができると思っていました。確かに神様はイスラエルを神の民とされましたが、その目的は彼らが世界中の人が神様の祝福を受けるための「祭司の国」となることでしたが、高慢と自己中心のためにユダヤ人は異邦人を見下していました。そんな彼らのことを周囲の異邦人も嫌がり、ユダヤ人と異邦人の間には敵意という隔ての壁があったのです。その壁を打ち砕き、両者を一つとするのは並大抵のことではありません。
この手紙が書かれた一世紀だけでなく、今も教会の中に隔てが生じることは度々あります。もともと私たちはそれぞれ違いがあります。好みや考え方、あらゆることで違いがあるのは当然です。また性格の違う人と「馬が合わない」のも普通です。しかし、それが隔てとなり、敵意にまでなってしまうのは、やはりそこに人間の罪があるからです。違いに目をとめて、自分は正しく相手は間違っていると考えるのは「自己義認」の罪です。相手を自分の思い通りにしたい、そうでなければ敵視する、というのは自己中心です。
お互いに、あるいは一方が我慢をしていても、続きません。本当の解決は十字架だと聖書は教えます。十字架は私たちに神様との和解をもたらします。神に背を向けていた罪を赦してくださり、神の子として受け入れてくださった。その神様の愛を知るなら、神様と敵対することはできなくなります。そのようにして私を受け入れてくださった神様が、我慢できないと思っている相手のことをも愛しておられ、イエス様が十字架の贖いで救ってくださった。その恵みを否定するなら、自分の救いも否定することになります。キリストの十字架が間に立っているとき、「両者」はキリストのからだ、すなわち教会の中で一つとしていただけるのです。
教会の交わりは、人間的な交わりだけですと、時には仲違いもおきるでしょう。十字架を中心とした交わりが聖徒の交わりとなるのです。キリストのからだである教会には様々な部分があり、違いがあります。それを結びつけるのは十字架に示された神の愛、キリストの恵みによる救いです。キリストのからだを建て上げるために、もう一度十字架に目を向けましょう。今は受難節です。

キリストのからだを建てる信仰

2022-02-01
千代崎 備道  

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 
(マタイの福音書十六章18節)

「教会」という言葉が新約聖書の中で初めて登場する箇所で、ペンテコステに教会が誕生する前からイエス様は教会を建てることを計画しておられたことが分かります。この岩が何かについては、カトリック教会ではペテロのことだと言われます。ペテロとは「石」を意味しますので、岩との関連性があるからです。でも、この直後にペテロはイエス様から「下がれ、サタン」と叱られてしまいます。プロテスタントでは、この岩とはペテロが告白した「あなたは生ける神の子キリストです」(16節)という信仰告白だと考えられています。
教会がその上に立てられるべき土台がイエス様を救い主だと信じる信仰告白にあるということは大切なことです。イエス様を信じる人がいなければ人数が多くても教会とはなりません。二人、また三人でもイエス様を信じて集まるなら、そこに教会が建てられます。私たちもイエス様の十字架によって救われ、イエス様を救い主として信じる信仰によって生きるとき、キリストのからだである教会が建てあげられていくのです。また、その信仰を告白し、語り伝えるなら、教会は広がっていきます。ペテロがイエス様の十字架を否定し、人間的な考えを優先したとき、「下がれ」と言われてしまった。教会はイエス様への信仰が第一なのです。
この御言葉で見落としてはいけないのは、「わたし」です。ここで「わたし」と言っているイエス様です。教会は「わたしの教会」、すなわちイエス・キリストの教会であって、人間のものではありません。キリストを頭(頭)とする、キリストのからだなのです。また、「わたし」が建てる、というのは、人間の力だけでは教会は立つことはできません。イエス様が共にいてくださり、イエス様に従って働くとき、イエス様が建ててくださるのです。
今年の池の上教会の標語は「キリストのからだを建て上げるために」です。教会とは何か、キリストのからだとはどのように働くのか、一つ一つ考えてまいります。まず、イエス様こそ私の、また私たちの救い主キリストであることを信じる信仰を確認しましょう。まだ世界は揺れ動いています。でも小さくてもイエス様を信頼するなら、ハデス(黄泉)の門という人間には打ち勝てない死の力にさえも打ち勝つ。それが教会だとイエス様は約束しておられるのです。

キリストのからだを建て上げるため

2022-01-01
千代崎 備道  

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり・・・。  
(エペソ人への手紙四章12節)

「キリストのからだ」とは教会のことですが、教会を建て上げるとは建物の建築ではありません。今も生きておられるキリストの「からだ」としての働きを担っている教会に、神様に召された私たちがキリストを中心として集められ、一つとなって主なるキリストに仕える。それがキリストのからだなる教会を建て上げることです。
疲れた体と心は休むことで癒やされても、休んだままですと動く力まで衰えてしまいます。コロナ禍の疲れから癒やされるために、教会は何をしたら良いのでしょうか。教会は互いに仕え合うため、また宣教のために存在しています。仕え合うとは具体的には奉仕です。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」とは、キリストに仕えたいクリスチャンが御言葉によって信仰を整え、御心を学び、より良く仕えることで、キリストに仕える喜びがあります。昨年はできないことも、できたこともありました。退修会やコンサート、若者たちの新しい活動、また先輩の信徒たちがインターネットで集会を行いました。今年はさらにできることを探し、これまで以上に助け合いつつ神様に仕え、教会はますます成長するのです。
昨年は聖餐式も二回行いました。聖餐式は主の命令であり、十字架の意味を教えます。「キリスト、我がうちにありて生くるなり」と、キリストが私を通して働かれ、キリストと同じ生き方へと変えられる。最後の晩餐でイエス様は弟子たちの足を洗い、僕となって互いに仕えるように教えました。私たちも教会の中でも外でも、隣人に仕え、福音を伝えるのです。仕えるよりも人の上に立ちたいのは自己中心です。僕となって仕えるときに私たちは成長します。私たちが主に仕え、奉仕と宣教で互いに仕え合い、自分も教会も前進する。それがキリストのからだを建て上げることです。
現実の教会には不足があり、不満を覚えるでしょう。でも自分も足らない点があり、それを補い合うのが愛です。人の不足を裁くのではなく愛によって補うとき、人間の不足にキリストが働かれ、その愛がキリストのからだの各部分をつなぎます。昨年来、教会の交わりは大きな打撃を受けています。でも共に祈り、共に主に仕え、離れていてもお互いのために何かをして、前よりも強く結び合うのです。どんな試練も乗り越える力が与えられ、教会はさらに強められます。教会も一人一人も成長することを目指していきましょう。
(元旦礼拝説教より)
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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