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み言葉のいづみ

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前進できない時に

2017-07-01
千代崎 備道
 
 なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
(出エジプト記十四章15~16節)
 
私たちはこの結末を知っていますが、この時の人々はまさか海が分かれて歩けるようになるとは夢にも思っていませんでした。ですから彼らには絶望的な状況しか見えていませんでした。目の前は海で、もう一歩も前には進めない。後ろからはエジプト軍が迫ってきている。逃げ場が無いと思った彼らは、神に向かって叫び、モーセに文句を言いました。その時、神様が語ってくださったのです。
教会は何度も絶体絶命のような危機を通ってきました。最初の教会は大迫害のためにエルサレム教会は壊滅状態になりました。教会の指導者であった十二弟子のうち、主要な三人(ペテロとヤコブとヨハネ)の一人であるヤコブが殉教し、ペテロも捕らえられました(使徒の働き十二章)。パウロは何度死にかけたか分かりません(第二コリント十一章23節以降)。しかし、そのたびに神様の御業がなされ、クリスチャンたちは教会が人間の思いを遥かに越えた神の力によって導かれていることを知って、神の栄光を仰ぎました。
初代教会の歴史だけでなく、旧約聖書に描かれている神の民の歴史を見ていてもそうですが、危機的な状況は神の働きがなされる時でもあります。平穏無事な時代は、神の働きを見いだすのが難しい(もちろん、良く読むと、いつの時代にも神は生きて働いています)ばかりか、堕落や腐敗が始まり、いつのまにか危機に陥っていくことが少なくないのです。教会も、順調に進んでいるときは、気をつけなければ油断したり高慢になったりしやすい。でも、危機に陥ると、必死で神様に祈ってすがり、そして神様は祈りに応えて、御業を行って栄光を表してくださるのです。
一番気をつけなければならないのは、危機に陥っている、あるいは陥りかけているのに、問題から目を背け、自分さえ無事ならば良いという間違った平安と満足で良しとしてしまうことです。教会にある問題、いいえ、他人事ではなく自分自身の内側にある問題にしっかりと御言葉の光を当てていただき、悔い改め、そして神様への信仰に立ち帰りましょう。そうするならば、絶体絶命のピンチでさえ、神様はチャンスとして用いて、私たちの信仰をさらに成長させてくださるのです。前進が出来ないとき、神様を見上げましょう。

共にゴールを目指して

2017-06-01
千代崎 備道
 
 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル人への手紙十二章1~2節)
 
教会成長を人数という面だけで見るならば、それは決して順調ではありません。キリストを信じて救われて教会員となる人が起こされて人数が増えることを私たちは祈り願っていますが、教会員となった方々がいつの日にか天に召されることは時期は分かりませんが必ずやってきます。ですから礼拝人数や教会員数は、増えることも減ることもあります。しかし、もし先に天国に行かれた方々の人数も含めてカウントするなら、これからも増え続けるはずです。
ギリシャ正教やロシア正教では、礼拝堂の中に昔の聖人たちの絵が飾られています。これは人間を拝むという偶像化ではなく、彼らも共に神様を礼拝している、という理解だと聞きました。池の上教会で毎年一月末に行われる召天者記念礼拝で召天された方々の写真を飾っているのと似ているかもしれません。天国に行かれた方々も、天において神様を礼拝している。私たちも共に礼拝をしているのです。
毎年、何人かの方が天に召され、寂しさを覚えます。でも、その方々も雲のように私たちを取り囲み、私たちの信仰のレースを見守っていてくださる。ちょうどマラソンや駅伝で、先に走り終えた選手たちが応援をしているかのようです。ですから私たちは励まされ、レースには苦しい時もありますが、神の家族が待っているゴールを目指すのです。
ヘブル人の手紙では、信仰の生涯をレースに例えて、信仰の歩み(走り)を妨げる罪から離れつつ、完成者であるキリストの似姿となることを目標として、前進するようにと勧めています。キリストから目を離さないならば、正しい方向に向かって進むことができて、走ってきたことが無駄になるような、コースから外れたレースにはなりません。しっかりとキリストを見つめ、信仰を堅く保って歩みましょう。すでに人生のレースをゴールされた方々の良き模範、それは何よりも最後まで信仰を守り通した姿です。その模範となる信仰の生き方を思い起こしつつ、これからも教会も、また一人一人も前進してまいりましょう。

私の身に起こったこと

2017-05-01
千代崎 備道
 
 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
 
(ピリピ人への手紙一章12節)
 
この手紙を書いたとき、彼は牢獄に閉じ込められていました。ピリピで経験したような(おそらく地下の)薄暗い獄屋ではなく、手紙を書いたり面会をする自由がある、軟禁状態でした。しかし、自分の行きたいところにはいけず、パウロの伝道活動はストップしていました。パウロ投獄の影響も出ていました。パウロを心配する人たちもいましたが、パウロの反対者は、ここぞとばかりパウロを非難し、犯罪でも犯したに違いないと、誹謗中傷をしました。それが、パウロの仲間たちをさらに悩ませたのです。
何一つ良いことは無い、と思われたかもしれない。でもパウロは喜んでいるのです(18節)。パウロが迫害を受けたのを知って、キリストも使徒たちも迫害されたのだから、福音を伝えていたからこそパウロも迫害を受けている、と確信を与えられて、ますます大胆に福音を伝える人たちがいました。またパウロの敵たちも、パウロが身動きできないうちに、自分たちこそがキリストを伝えてるんだ、と伝道しました。パウロのいた牢獄を番していた兵士たちの中にもパウロの証しを聞いてキリストを信じる者が与えられたのです。そして、パウロは獄中でも手紙を書いて諸教会を教え励まし、教会は前進していきました。全ては福音の前進に役立っているのです。
パウロの身に起こった出来事だけではありません。私たちの身に起こったこと、また教会に起きている出来事、その全ては福音の前進を妨げることはできません。一時的に、また一面だけを見るならば、行き詰まっているように見えても、長い目で見るなら神様がそれを用いて益としてくだいます。ですから、自分の身に起こったことで思い煩う必要はありません。むしろ、導いてくださる聖霊の働きを信頼し、御言葉により強められ、主の働きのために私のような小さな者さえも用いていただけることを感謝するのです。

主と共に前進する教会

2017-04-01
千代崎 備道
 
 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
 
(マルコの福音書一六章19~20節)
 
主イエス様の復活の後、やがてペンテコステの日が来て弟子たちは、まず復活の証人としてイエス様の復活を証ししました。まず復活そのものを信じないサドカイ派のユダヤ教徒たちが弟子たちを迫害しました。つぎにパリサイ派のユダヤ人たちが、復活されたイエスこそ旧約聖書に預言されたキリストであると主張する弟子たちを迫害します。さらに、パウロが異邦人宣教を進めていったとき、アテネの町で福音を語ったのに対し、ギリシャ人たちは復活の言葉を聞いたとたんに、耳をふさいでしまいました。
復活を伝えることはいつの時代、どの人に対しても、簡単ではありません。時にはそれが妨げとなることもあります。でも、私たちは復活された主イエス・キリストを伝えるのです。なぜならば、それが福音の中心であり、復活された主でなければ、罪の贖いもできないと信じているからです。
そして、キリストを信じるものたちが復活の主を伝えて行ったとき、その主ご自身も共に行って働いてくださり、イエスの御霊である聖霊が心のうちに働きかけて、信じられなかった人が信じる者と変えられていった。こうしてキリスト教は広まり、現代にまで及んでいるのです。
マルコの福音書もわざわざ、天に上られたイエス様が、弟子たちと一緒に働かれたと、最初は理解しがたい言い方をしていますが、しかし、事実、その通りになっていったのです。理屈ではなく事実なのです。ですから、今も生きておられる主を信じて福音を伝えるなら、今日でも主は共に働いてくださり、そうやって教会の働きは前進していくのです。
信じがたいようなことは言わないで、人々が気に入るような言葉を伝えても、それは人間の業であって、主の働きではありません。信じる人がなかなか起こされないような現実があっても、復活の主を信頼して、与えられた使命に忠実であるならば、私たちを用いてくださるのは主なのです。また、私自身も、理屈ではなく信仰によって復活の主を頼るとき、主がしるしをもって証ししてくださるのです。復活の主を信じ、また証ししましょう。

教会の土台、私の土台

2017-03-01
千代崎 備道
 
 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
 
(第一コリント三章11節)
 
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ二章20節)
現代人にとっては建設における土台の重要性は常識でしょう。イエス様は大工の息子としての生活で土台の大切さを良くご存じで、建築に関する例え話をなさいました(ルカ六48など)。パウロも旧約聖書の研究をしてヨブ記(四19)などの知恵文学から土台の大切さを知っていました。教会にとって大切な土台はキリストです。二千年以上経ってもキリスト以外の救いを主張するものは異端として退けられます。
その救い主の到来を告げた預言者の権威により書かれたのが旧約聖書で、キリストの教えに従う使徒たちの権威により書かれたのが新約聖書です。そして両者のかなめ(「礎石」を新共同訳は「かなめ石」と訳しています)がキリストであるとは、旧約も新約もキリストを示すために書かれたのだから、読むときもキリストを知るために読む、ということであり、教会における聖書理解の原則です。
一人一人の信仰も、キリストが土台です。私を救ってくださったお方から目をそらすとき、この世のものに目が奪われたり、人との関係が躓きになります。私のために命を捨ててくださったお方よりも他のものを第一とするなら、主イエスとの命の結びつきが妨げられます。他の人を裁くとき、その人の罪も私の罪も、同じ十字架の血潮が贖っていてくださることが曖昧になり、罪赦された喜びが色褪せてしまいます。
毎年、春になると教会は十字架と復活を記念する時期となります。この季節だけでなく、礼拝では御言葉が語られるたびに、その焦点はキリストに向けられ、聖餐式のたびにキリストを心に迎えていることを確かめます。こうして、私たちは自らの信仰も、また教会全体も、土台であるキリストから離れていないか、何度も何度も確認するのです。
土台からズレたままで成長するなら、やがて倒れてしまいます。土台がしっかりしているなら、時間は掛かっても必ず成長し、前進し続けることができます。私の人生の土台であり、教会の土台また頭(かしら)であるキリストにしっかりと目を向けましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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