み言葉のいづみ
質も量も成長する教会
2022-08-01
千代崎 備道
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
(ガラテヤ人への手紙四章19節)
「教会成長」ということが言われるようになったのは最近のことではありません。ホーリネス教団でも教会を次々と開拓した時期がありました。その頃、人数だけを増やすのはどうなのか、小さな教会はダメだと言うのか、という反論もあり、そのときに言われたのは、質と量における成長ということです。教会員数が増える、教会の数が増えるという量の成長だけを基準とすると、地方の小さな教会はなかなか増えることができないが、過疎地の小さな教会でも、そこに集っている信徒は、困難な環境でも信仰を守り通している、質の高いクリスチャンであり、教会は質的な成長も大切だ、という意見です。しかし、質か量か、ではありません。質が高いなら、生き生きとした信仰が周囲の人を惹き付け、人数も増えていくはずですし、また多くの人が来るようになれば、交わりと訓練により信仰も成長し、質的にも成長するはずです。数だけを誇ったり、質だけにプライドを持つなら、どちらも停滞する結果となってしまいます。
「キリストのかたち」は、キリストのからだである教会に属する一人一人に与えられている目標であって、キリストの十字架によって救っていただいた者はキリストのものとされ、キリストの御心に沿った者となり、その人の姿を通してキリストの栄光が証しされるのです。パウロは、多くの異邦人に福音を伝えて各地に教会を建て上げただけでなく、各教会のクリスチャンが成長してキリストのかたちとなっていくために、「産みの苦しみ」と表現するほどに、祈り、配慮し、また命がけで再訪問し、手紙を書いたのです。
今も、池の上教会がキリストのからだとして建て上げられ、成長しています。質も量もです。コロナ禍という特殊な状況のために、質的には厳しい状況ですが、その間、教会は新しい働きを始め、これまでは教会に来ることができなかった人ともつながり、祈りの交わりが増えてきています。三密を避けるために三部礼拝を行ったことは、将来に礼拝人数が増えても対応できる準備であり、仕事や学校の部活動など日曜の朝に来られない人に配慮する助けにもなります。十字架の苦しみさえも救いの道に変えられたキリストは、どんな困難をも用いて、私たちを御心のままに造り変えてくださるのです。子どもが質(人格)も量(体格)も成長するように、キリストのからだなる教会も、その一員である私たちも成長しましょう。
「キリストのかたち」は、キリストのからだである教会に属する一人一人に与えられている目標であって、キリストの十字架によって救っていただいた者はキリストのものとされ、キリストの御心に沿った者となり、その人の姿を通してキリストの栄光が証しされるのです。パウロは、多くの異邦人に福音を伝えて各地に教会を建て上げただけでなく、各教会のクリスチャンが成長してキリストのかたちとなっていくために、「産みの苦しみ」と表現するほどに、祈り、配慮し、また命がけで再訪問し、手紙を書いたのです。
今も、池の上教会がキリストのからだとして建て上げられ、成長しています。質も量もです。コロナ禍という特殊な状況のために、質的には厳しい状況ですが、その間、教会は新しい働きを始め、これまでは教会に来ることができなかった人ともつながり、祈りの交わりが増えてきています。三密を避けるために三部礼拝を行ったことは、将来に礼拝人数が増えても対応できる準備であり、仕事や学校の部活動など日曜の朝に来られない人に配慮する助けにもなります。十字架の苦しみさえも救いの道に変えられたキリストは、どんな困難をも用いて、私たちを御心のままに造り変えてくださるのです。子どもが質(人格)も量(体格)も成長するように、キリストのからだなる教会も、その一員である私たちも成長しましょう。
教会はひとりの救いから
2022-07-01
千代崎 備道
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
(ルカの福音書十五章10節)
ルカ十五章でイエス様は三つのたとえ話を語っています。「百匹の羊のうち、一匹が迷子になる」、「十の金貨のうち、一つが見つからなくなる」、「二人の息子のうち、一人がいなくなる」。共通しているは、失われた一つの救い、です。一匹の羊、一つの銀貨、そして放蕩息子。その一人が救われたとき、大きな喜びが天にあるのです。新約聖書の中には数千人が一度に救われるという出来事(使徒二~四章)が記されていますが、一人の救いも描かれています。イエス様もサマリヤの女性(ヨハネ四章)や悪霊に憑かれたゲラサ人(ルカ八章)を救うためにわざわざ出かけていきました。使徒八章ではピリポが一人の宦官を救うために遣わされます。
近代では多くの人を集めての伝道集会が盛んになりました。ビリー・グラハム大会や「セレブレーション・オブ・ラブ」などの集会を覚えている方もおられるでしょう。大きな集会でも、求道者が決心をするときは一人が一人を導きます。教会成長も多くの人に福音を伝える面と、一人一人に救いを手渡す面の、両方が大切です。池の上教会の歴史も遡っていくと創立者である山根可弌先生が救われたことが発端であり、それは教会のお母さんと呼ばれた恵代先生の祈りと献身があったからだということは、何度もお聞きになったことがあるでしょう。
一人が救われるためには、何人ものクリスチャンが陰にあって祈り続け、また様々な形でその人の救いのために尽くしていたことが背後にあります。誰かが祈り、誰かが集会に誘い、誰かが声をかけ、誰かが親切にし、誰かが福音を伝える。その時、聖霊も働いてくださり、やがて、その人が信仰を告白するようになっていくのです。
キリストのからだである教会を建て上げるのは、教会全体が聖霊によって一つとなって働くことが大切であると同時に、一人一人の信仰が成長し、豊かな恵みに満たされ、祈りと証しがなされていくことも大切です。個々の信徒が、そして教会全体が神様の御心にかなった姿となるとき、その一人一人が用いられて宣教の働きも前進していく。個人と全体、信仰成長と教会成長、それは別々のことではなく、固く結びついているのです。ですから、一人が救われるときには、祈った人、導いた人、そして教会全体が喜びを感じ、天でも御使いたちに大きな喜びがあるのです。一人が一人を導く、この原則を忘れないようにしましょう。
私の教会、私たちの教会
2022-06-01
千代崎 備道
咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
(詩篇六五篇3節)
礼拝で信仰告白として読む「使徒信条」の冒頭は、原文では「我、信ず」と始まり、信じるのは「わたし」ですが、「我らの主、イエス・キリストを信ず」と、自分だけでなく教会全体にとってキリストが主であると告白しています。先に掲げた詩篇の言葉も、赦されるべきは「私の咎」であり、「私たちのそむきの罪」だと、個人の罪と共同体全体の罪とを結びつけています。
旧約聖書の時代は、神様はイスラエルを民族としてエジプトから救い出され、彼らを「神の民」として共同体を導いていかれますが、多くの人が偶像礼拝に染まってしまった時代には、「でも、私は主なる神様を信じます」と個人の信仰が重要なときがありました。新約時代になると、ユダヤ教や異教社会の中から一人一人がキリストを信じて救われるという個人の救いが原則となりますが、救われた者たちは「キリストのからだ」である教会を形成し、新しい「神の民」となっていきます。
欧米社会では、どちらかというと個人の信仰を重視してきたように思えます。教会も、気をつけませんと個人の寄せ集めになってしまう危険があります。日本などのアジア社会では共同体の力が強く、その中に生きている個人がキリストを信じようとするときに強い決断を必要とすることもあります。信じて救われてからは、新しい共同体である教会の中で、個人の信仰に立つよりも、「みんなが信じているから自分も大丈夫」と、共同体の中に埋没してしまわないように、しっかりと信じることを忘れてはいけないのです。
個人と共同体は、どちらも大切です。個人だけになると教会は個人主義に陥り、自分だけという自己中心に傾いてしまいます。反対に共同体を強調しすぎて、個人の心を押さえつけてしまうのは間違いです。両者のバランスが必要です。そのためには、教会のかしらであるキリストを中心とすることが大切なのです。もう一つは、他の人の信仰を受け止めあうことです。証しを通して、一人一人になされた神様の御業を崇めます。また誰かの罪を批判するのではなく、自分も同じ罪人であり、共に神様の前に心を合わせて祈り、赦しをいただくのです。こうして私たち一人一人がキリストの前で一つとなるとき、キリストのからだである教会は強められ、成長していくのです。今日も、お互いに信仰を励まし合い、また他の人の悩みのために祈りあいましょう。
キリストのからだに聖霊が注がれて
2022-05-01
千代崎 備道
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
(創世記二章7節)
神様が人間を造られた様子を描いています。人間の物質としてのからだは、「土地のちり」から造られ、死んだら塵にもどると言われるように、儚く脆い存在です。その肉体に神様が息を吹き込まれたことによって「生きた」存在となったのです。神様のいのちの息と表現されているのは、人間の霊のことだとも言われます。ヘブル語の「霊」(ルーアハ)という言葉は、息や風と訳されることもあるからです。神が霊を与えてくださらなければ、人間は単なる物質であり、動物と大して変わらない生物にすぎません。「神のかたち」(一章27節)として造られたと言われる人間の特別な面は、この霊が与えられていることだと言われます。
キリストのからだと呼ばれる教会も、それと似ているのかもしれません。弟子たちが集まっているだけですと、それは生きた教会ではない。イースターの午後、弟子たちは集まって恐れていました。復活のイエス様が彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。イエス様が天に昇られた後、弟子たちは集まって祈っていましたが、そこに聖霊がくだられ、教会が誕生しました。それがペンテコステです。神の霊を受けなければ、、キリストのからだも生きていないのです。
私たちは、教会は建物ではないと教わりますが、建物はそこに集まるためのものです。現代はコロナ禍のために集まることが困難な時代ですが、迫害時代もクリスチャンは表だった建物ではなく、隠れて集まりました。今はインターネットも一つの集まる方法となっています。でも集まっただけでは足らないのです。私たちが聖霊に満たされる必要があります。祈りと御言葉のうちに聖霊が働いてくださいます。私たちが信仰をもって祈り、また聖書の言葉に聞き従うとき、そこに聖霊の働きが始まります。聖霊が生きて働かれるとき、人間の限界を超えて御業がなされます。インターネットでさえ、聖霊は用いることができるのです。離れていても、聖霊の助けをいただき、御言葉と祈りの交わりにより、私たちが霊的に一致するとき、それが生きた教会、キリストのからだとなるのです。
「キリストのからだを建て上げるため」、今日もお互いのために祈り合い、愛をもって仕え合いましょう。また同じ御言葉によって導かれ、キリストの御心に従う群れとなりましょう。そこに人知を超えた聖霊の働きがなされるからです。
復活によるキリストのからだ
2022-04-01
千代崎 備道
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
(エペソ人への手紙一章20節)
「教会はキリストのからだである」ということは今年の教会の標語でもあるエペソ書四章に教えられていますが、一章の最後にも書かれています。それは最初からそうだったのではなく、キリストの復活と召天が背後にあることを、この一章20節は教えています。復活前は、人間となられたイエス様の肉体はいつもイエス様とともにありました。しかし復活されたイエス様のお体は、これまでとは異なった面があったのです。遠く離れていた場所に一瞬で移動でき、鍵で閉ざされた部屋の中に突然に出現された。見た目は以前と変わりませんし、手に釘痕もあります。でも新しい体、復活のからだとなられたのです。
さらにイエス様は天に引き上げられました。今度は肉眼では見えなくなりましたが、代わりとして来てくださった聖霊が教会に下られ、一人一人の心に宿ってくださり、聖霊を通じてイエス様が心の中にいてくださるのです。聖霊が教会の中に豊かに働かれることで、かしらであるキリストが教会を導いてくださり、教会はキリストのからだとしての役目を果たすことができるのです。
復活と昇天、そして聖霊降臨という大きな御業があったからこそ、教会はキリストのからだとなることができたのです。私たちが自分の力でキリストにふさわしい姿となり、御心に忠実な働きをして、キリストのからだなる教会が建てあげられるのではなく、人間の働きも聖霊の助けをいただいて、キリストご自身が働いてくださり、教会が建てあげられていくのです。
どうしたら、私たちは教会を建て上げることができるか。それは、この神様の全能の力を信頼し、キリストに従うことです。かしらであるキリストのお考えを無視して、自分の思いのままにするなら、いつのまにか神様の働きを妨げるかもしれません。神様まかせで自分は傍観者になるなら、建て上げられていくキリストのからだからも離れてしまいます。聖霊が語りかけてくださるままに、御言葉に示されることに従い、喜んでキリストの僕として仕えていくとき、キリストのからだは成長していくのです。今年は、キリストのために、神の栄光のために、心から神様に従うしもべとなりましょう。神様はそんな私たちを嬉しく思い、豊かに祝福して用いてくださるのです。