み言葉のいづみ
神の言葉こそが成就する
(エレミヤ四十四章28節後半)
預言者エレミヤはイスラエルの南ユダ王国が滅亡するときに活躍しました。神様はイスラエルが罪を悔い改めなければ滅びると語られ、そのとおりに北イスラエル王国も南ユダ王国も滅亡します。南ユダ王国がバビロン帝国に攻撃されたとき、エジプトに助けを求めようとした親エジプト派の人々がいました。彼らは、エジプトに頼るなら救われると主張しますが、神様はエジプトに亡命した人々に警告しました。自分たちの罪を悔い改めるのではなく、政治的なやり方で解決しようとするなら、やがて彼らも倒れるときが来る、と。
今でも人間は、神様の言葉に従うのではなく、自分の考え、自分の言葉に頼ろうとします。しかし、一時的に自分の思い通りになったとしても、ついには神様の言葉が正しいことを知るようになるのです。
これは私自身のことでもあります。中学生の頃に牧師になるように神様に示され、将来は牧師になるつもりでした。しかし大学生になり、実際に献身することをためらうようになり、牧師ではなく高校教師の道を選びました。しかし、ついに神様が私の心に語り掛け、従わざるを得ないまでに導かれました。退職して東京聖書学院に入学したとき、やはり神様の計画が実現するのだと思いました。先日、ある牧師と話をしていたとき、彼も同じような経験をしたことを聞いて、御言葉の力を思わされました。
神様が心に語り掛けてくださっても、私たちはすぐには受け入れられず、「でも私はこう思う」と言って、自分のことばを押し通します。でも人間の計画は不完全です。思ってもいなかったことが起こって、計画が崩れ、自分の足らなさに気が付きます。そのとき、私たちが信頼することができるのは、ただ神様だけだと知らされるのです。そうなって初めて神様の言葉に従うことが最善であることに目が開かれるのです。
神様のお言葉を信頼しましょう。自分の理解では難しいと思っても、出来ないことは神様がちゃんと助けてくださる備えをしておられます。聖書の言葉を聞いて、それを信じ、それに従うなら、神様は喜んで導いてくださるお方です。もっと神様の言葉を聞いて、御言葉が実現する、最も祝福される人生としていただきましょう。
神様の方が先に
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの
名によって父の求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
(ヨハネの福音書十五章16節)
「神様に祈るなら、何でも適えられ、与えられる」という約束を、自分の欲望を満たすために用いるのは祈りの間違った用い方ですが、神様がキリストのゆえに祈りを聞いてくださるということは素晴らしい恵みです。私たちが神様に「おことばどおり、この身になりますように」と言うときに、神様の方が「私があなたのために何でもしてあげよう」と言ってくださいます。しかも、私たちがこの神様を自分が従うべき主として選ぶ前に、キリストの方から私を選び、遣わし、託された働きを通して実を結ぶようにしてくださったのです。
誰でもクリスチャンになりたての頃は、まず病気や人間関係など、悩んでいた問題からの救いを願います。聖書を通して罪からの救いということが一番重要であることが分かるようになり、キリストの十字架の愛を理解し、このお方に従うことが良いことだと考えるようになります。そして、神様への信頼が成長し、主に従う生き方を選び、決断をする。この段階に至るまで、多くの場合は何年もかかるかもしれません。
ところが神様の方は、私たちの信仰が十分に成長し、キリストを主として従うようになってから救ってくださるのではありません。どれほど未熟な信仰でもあっても、神様への理解が不十分でも、「イエス様を信じます」と告白するだけで、私たちを救い、罪を赦して義と認め、神の子として永遠の命を与え、天国の保証をしてくださったのです。いえ、信仰の告白をするよりまえから、聖霊を私たちの心に遣わして、信じる助けを与えてくださり、時には洗礼を受けるより前であっても祈りを聞き届けてくださるのです。
神様の方から私たちに対して、ご自身が真実なお方であることを証しし、私たちを必ず救うことを約束し、その証拠として御子を救い主として遣わしてくださいました。それなのに、どうして私たちの方が神様を信頼して、神様の言葉に従うことを躊躇(ためら)うのでしょうか。従ったらどうなるかなどと心配するのではなく、神様の愛を信頼して、御言葉に従う者となろうではありませんか。
聖霊による信仰告白
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
(使徒の働き一章8節)
聖霊が弟子たちの上に降られたときに教会が誕生し、宣教の働きが世界に向かってスタートしました。特に、教会の歴史の初期には聖霊が降ることで様々な不思議なことも起きて、弟子たちが聖霊の確かに降られたことを理解できるようにしてくださいました。他国の言葉や異言(天使の言葉との理解もある)を語ったことも、癒やしなどの奇蹟が起きたこともあります。
旧約聖書の時代にも、少し違いはありますが、神の霊が降った人々に不思議なことが起こったケースがあります。初代王サウルは神の霊を受けて、一種の恍惚状態になり、最後は気を失っています。もちろん、そうではなく、神からの力を受けた人たちもいます。このイメージがあるためか、聖霊が私たちの心を満たすと、何か自分が自分ではなくなてしまわないか、という心配をする人もいるかもしれません。また、聖霊が与える力だけを求める人も出てきます。
イエス様の弟子たちは、聖霊を受ける前から、大きな働きが始まる期待を持ち、イスラエル復興を予想し(使徒一6)、きっと自分たちがその働きの中核を担うと考えていたでしょう。だからイエス様は彼らに「待ちなさい」と命令し、彼らは聖霊を受けるまで祈り続けていました。それは、人間的な考えだけで進めるなら、必ず失敗に終わるからです。聖霊に満たされたとき、彼らの働きが用いられて、神様の願っておられる形で主の働きが始められ、進められていったのです。
聖霊に満たされるとは、自分の意識が無くなることではなく、自分中心の考え方、自分の思い通りにしたいという自己中心が造り変えられ、神様に従う考えになっていくことです。そのとき、間違ったやり方ではなく、また自分の分を越えたことをするのではなく、むしろ神様が与えてくださった賜物が一番良く発揮され、神様が中心となってくださって良い働きができ、主の栄光のために用いていただけるのです。
マリヤやルツの、「おことばどおり」という信仰も、弟子たちとは違う形ですが、そこに神の霊が働いて、導いていてくださったからこその告白です。私たちも聖霊の導きに従いましょう。
聖霊が示す御言葉どおりに
(使徒の働き二章4節)
最初の聖霊降臨の時に起きた不思議な現象は、弟子たちに聖霊の働きを明らかに理解させ、また人々に神の働きであることを証しする出来事となりました。その中でも弟子たちが外国語で語り出したことは、福音が全世界に広められることの予表でもあります。語った内容は神様の偉大な救いに関することでした。弟子たちは聖霊が語らせるままに語り、神様が伝えさせたいことを話したのです。
聖霊の働きは、その後、変化していく部分があります。聖霊の存在がもう明らかになってからは、外国語を語るという奇蹟は無くなっていきます。天使の言葉で語ることもありましたが、そのような外面的なことよりも、信じる者の心に聖霊が来て下さることのほうが大きな奇蹟であり、それは今も変わらず、人がキリストを信じるときから聖霊が働いて助けていてくださるのです。
私たちが聖霊に満たされるとき、何が起きるのでしょうか。それは福音を伝え、救いを証しするために必要な力が与えられ、自分では出来ない伝道が聖霊によってなされ、私たちはその働きに参加させていただくのです。でも聖霊に従うのではなく、自分の力で何でも出来ると考えるなら、聖霊の働きは控えめになります。それは伝道のような大きな働きに関してだけでなく、自分自身の信仰においても同じです。聖霊が私たちの心に語りかけてくださる御言葉に従っていくとき、私たちの救いも大きく前進し、信仰が成長するのです。
私たちは聖霊が(分かりにくい人には「神様が」といっても同じです)示してくださる通りに語り、行っているでしょうか。それとも自分の思いに従い、言葉や行いにおいて失敗をしていないでしょうか。まず御言葉を通して語りかけてくださる聖霊の導きに従ってまいりましょう。そのとき、聖霊が助けてくださいます。
聖書に書かれているとおりに
旧約聖書の原語であるヘブル語では「言葉」を意味する「ダーバール」という言葉は、「出来事」と訳す場合もあります。神の言葉は語られてお終い、ではなく、御言葉は必ず実現し、出来事となるからです。ですから、聖書に書かれていることも事実となっていくのであり、今も御言葉は生きていて、出来事となって行きます。
イエス様が父なる神様の御心に従って十字架で死なれたとき、旧約の預言のとおりになったのであり、だからこそ復活も成就することを信じて、十字架の苦難を忍ばれました。そして、事実、キリストは三日目に復活されたのです。そして、今、罪の赦しの福音が世界中に広められているのであって、私たちもその御救いに与った証人なのです。それは単に十字架と復活を信じ、そのことを伝える、という証人であるだけでなく、神の御言葉が必ず成就することの証人でもあるのです。そして、聖書は、十字架の贖いによって罪赦された私たちは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるのであり、復活の命、永遠の命が与えられていることを教えています。この御言葉も事実となるのです。
私たちは復活の証人です。それは、クリスチャンになったら、誰もが死んでから三日目に生き返るということではありません。でも、死んでしまったら消えて無くなるのでも滅んでしまうのでもない。「死」という眠りについて、やがて御国で目を覚ます時が来る。そのことを私たちは信じるのです。キリストと同じ栄光の体に変えられることを御言葉のとおりに信じるのです。私たちは死を恐れたり、忌み嫌うのではなく、死の先にある希望を信じて生きるのです。死だけではなく、どんな困難にも立ち向かうのです。ですから、私のうえにも「御言葉どおり、この身になりますように」と祈ります。