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み言葉のいづみ

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十字架による神の国

2023-03-01
千代崎 備道

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
(マタイの福音書二〇章28節)

イエス様の十二弟子の中にヤコブとヨハネという兄弟がいます。エルサレムに向かう最後の旅の途中、この二人の母親がイエス様に、息子たちをイエス様が王となる時、その国でイエス様の左右に座る、言わば「右大臣と左大臣」にして欲しいと願い出ました。彼らは神の国を地上の政治的国家と同じに考えていたのです。人間の組織では誰もが人の上に立ちたい、出世したい、と願います。イエス様は彼らに「私の杯を飲めるか」と問いかけましたが、その杯が十字架だとは分かっていなかったのです。ヤコブとヨハネの抜け駆けに腹を立てた他の弟子たちも考えていたことは同じです。そこでイエス様は、上に立ちたい者は仕える者になりなさい、と教えた後、人の子(キリスト)が地上に来た目的は「多くの人の贖いの代価として命を与えること」、すなわち十字架だと告げられたのです。
神の国は、イエス様がこの世においでになったことで「神の国は近づいた」と宣言されたように、実現の条件が整い、イエス様が十字架にかかったことで成就しました。それは人間が考えるような国ではありませんでした。王であるお方に背く罪を犯した人々を救うために、王であるお方自身が十字架で犠牲を払われる国です。そんな国は歴史上存在したでしょうか。それは神の国だけです。
十字架につかれたキリストを王として従う者、それが神の国の国民です。私たちも人の上に立って自分の思い通りにしようとする生き方ではなく、皆に仕える僕の生き方を目指します。そこには犠牲も伴います。自己中心では歩むことができません。でも、確かにイエス様の足跡をたどる道なのです。クリスチャンとしてこの世界で生きるとき、困難があるでしょう。教会でお互いに仕える奉仕をするのは犠牲かもしれません。でも私たちはイエス様と一緒に生きているのであり、その人生は来るべき天国へとつながっています。
出世を願った二人ですが、ヤコブは十二弟子の中で最初の殉教者となり、イエス様の後に続きました。一番若いヨハネは、十二弟子の中では一番最後の殉教者となります。「右大臣と左大臣」かは分かりませんが、弟子として立派に生き抜いたのです。私たちも、残された生涯を通して、イエス様の弟子として歩みましょう。それが「神の国」を生きることなのです。

神の国に攻め入る者

2023-02-01
千代崎 備道  

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 
(マタイの福音書十一章12節)

「神の国」のことを「天の御国」(口語訳聖書では「天国」)と呼ぶこともあります。天の御国を激しく攻めるとはどういう意味か、さまざまな意見が挙げられています。良い意味も悪い意味もあります。
バプテスマのヨハネがイエス様の先駆けとして登場して以来、イスラエルの人々は「天国」や「永遠の命」を願い求めました。でも、イエス様によらないでは神の国に入ることはできません。イエス様を救い主として信じることを拒んだ人たちは、それを受けることが出来ませんでした。
悪魔は、神様の働きに反抗して、神の国に入ろうとする人たちを邪魔して誘惑し、神の国の民を奪おうとします。多くの人が悪魔の甘言に惑わされて、キリストを拒み、離れていってしまいます。
私たちは神の国を求めているでしょうか。もし、神様を王とすることを拒み、自分の思い通りに生きることを第一とするなら、自分が王である自分の国を求めていることになります。「自分が正しく、他の人が間違っている」と他者を裁き、「自分が不幸なのは神様のせいだ」と神様を裁いているなら、それは自分を義としており、神の義からは離れています。
もし、私たちが何ものよりも神の国と神の義を求めて、神の国に入るために全力になるなら、それは「攻め入る」ような姿ですが、でも、神様はそのように求める者を喜んでくださり、「奪い取る」以前に、恵みとして与えてくださるのを受け取るのです。私たちは、どれくらい神の国を求めているでしょうか。二の次、三の次、いいえ、気が向いたら求めるけれども、他のものが全部手に入ってから、最後に天国を願おうか。それでは神様が喜んで迎え入れてくださるのでしょうか。
「激しく攻め」「奪い取る」とは物騒な言い方ですが、遠慮をせずに救いを求める人を神様は喜んでくださいます。旧約聖書のヤコブは、人を押しのける自己中心な人間でしたが、神様の祝福を願うことにかけては真剣でした。それがヤコブが兄エサウよりも神様に愛された理由です。新約聖書でイエス様に娘の癒やしを願った異邦人の女性は、貶(けな)されるような言葉を受けてもイエス様に求め続け、その信仰を賞賛されました。私たちも神の国とその義を真剣に求める者となりましょう。

神の国とその義を第一に求めよ

2023-01-01
千代崎 備道  

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもとは全て与えられます。
(マタイの福音書六章31~33節)

 私たちは神様に何かを求めて祈ることがあります。世の中では祈りとは自分の願いを叶え、欲しているものを求めることですが、私たちは欲望のままに願い求めることが貪欲の罪であると知っています。でも、本当に必要なことを求めるのは決して貪りではありません。しかし、全ての人に一番必要である飲食について、神様は私たちが祈る前からご存じであって、父なる神様は必要なことは必ず与えてくださるはずです。ですからイエス様も、これらのことで心配して、思い患ってはならない(口語訳)と教えておられます。
 では、私たちは何を求めたら良いのでしょうか。「神の国と神の義」こそ、第一に求めることだと御言葉は語っています。神の国は、王である神様に従うことです。強いられてでは無く、自ら進んで神様のお声に従うしもべとなるのです。また神の義は、自分の正しさを主張するのではなく、神様の正しさの前に悔い改め、従おうとしてもできない自分の罪を赦していただくことも神様の御心にかなった祈りです。第二、第三と、祈ることはさらにあるでしょうが、第一のことを第一とするなら、他のことは神様が整えてくださいます。
 それでも私たちの祈りがいつのまにか自分中心になったり、神様への信頼に欠けて不安に陥ることもあるかもしれません。だから、祈ることを通して神様の前に進み出るのです。その時、神様との交わりが生まれます。人間の力や功績ではなく、神の国と神の義を求めるには、神様を抜きには不可能です。私たちが神の国と神の義を求めるときに、私たちが神様に頼り、神様からの言葉を聞いて教わることを神様はご存じで、私たちとの交わりを待っておられるのです。
 今年、教会全体でも「神の国と神の義」ということを考え、また実践すると共に、一人一人が神の国と神の義を求めて、祈り、また王なる神の御声に聞き従うことを大切にし、それを他のこと以上に求めて行きましょう。

キリストのからだのかしら

2022-12-01
千代崎 備道  

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
(コロサイ人への手紙一章18節)

 今年は「キリストのからだを建て上げるため」との標語を掲げ、キリストのからだである教会のことを考えてきました。「からだ」に例えられるような有機的な交わりが教会にとって大切ですが、同時にコロナ禍にあっては交わりを持つことが難しいという課題にも向き合ってきました。足らない面を補うように、祈りによって結びつき、またインターネットなどの最新の方法も取り入れてきました。困難な一年でしたが、教会成長の新しい可能性も垣間見ることができた一年でした。
 しかし、私たちが教会を外面的なこととして捉えるのには気をつけなければなりません。人数という数字だけを追求することも、また教会員の満足という視点だけを顧みることも、教会を単なる人間の集合体としてしまいます。キリストのからだは、からだだけの存在ではなく、頭(かしら)が不可欠であり、そこに命の根源があります。
日本語でも「かしら」と「あたま」は同じ漢字を用いますが、聖書の言葉でも「かしら」は「あたま」を意味しますし、さらに「一番のもの」でもあります。キリストが教会のかしらであるとは、キリストが第一のお方だということで、私たちが第一ではないのです。また、身体が頭脳の命令に従うように、私たちはキリストの御声に聞き従うべき存在です。「お頭」と言うとリーダーのことですが、イエス様こそが私たちのリーダーであり、もし私たちが間違っているときは正しく導いてくださる羊飼いですから、私たちはキリストの言葉によって歩むのです。
「からだ」について御言葉から多くのことを学ぶことができましたが、身体だけに目を向けるのではなく、あらためて、かしらなるキリストに目を向けましょう。クリスマスは神の御子が人間となって生まれてくださったのですが、それは十字架で私たち全ての罪を背負って、私たちを救ってくださるためであり、さらに復活によって新しい命を与え、キリストのからだである教会の一員としてくださるためです。教会の営みの全てにおいて、キリストがかしらであり、また私たちの人生においてもキリストは主です。いつもかしらなるキリストに従う教会、また一人一人でありましょう。

生ける石となって教会を建てよう

2022-11-01
千代崎 備道  

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
(第一ペテロ二章5節)

今年の池の上教会の標語『キリストのからだを建て上げるため』は教会のことです。教会を現す例えとして用いられるのは、「からだ」以外にも「民」や「家族」のような人間的な交わりを示すものもありますが、「家」(家屋)も用いられます。「建て上げる」も家の建設をイメージしています。
キリストが使徒ペテロに「この岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ十六・18)と言われましたが、そのペテロが書いているのは、「自分だけではなく、あなたがたも石であり、教会を建て上げるものだ」ということです。昔の家は石を積み上げて作りました。キリストの霊が住んでおられる家は、私たち一人一人が積み重ねられてできているのです。その石の中でも一番大切な役目と言われる「尊い礎石」(第一ペテロ二・6)はイエス様ご自身です。
家の壁となっている石は、上の石から重さがかけられます。苦しさや痛みがあるかもしれません。でも、自分も下の石に支えてもらって、全ての重さは土台の石にのしかかります。池の上教会もキリストと御言葉の上に山根先生が最初の石を据えられ、その上に多くの先達が石を積み上げてくださいました。今、私たちもその石の一つとなって、さらに教会は成長していきます。誰一人として無駄な石はありません。誰かが欠けるなら、壁に穴が空いて隙間風が入ります。様々な色の石が組み合わさることで生まれる美しい模様は聖霊による芸術です。
「生ける石」という表現も不思議です。石は命の無いものだと私たちは考えます。私たちがキリストのからだであり、霊の家である教会の一員であるとき、私たちはキリストの命につながっています。それは永遠の命です。教会の歴史において、教会設立の時の方々は順に天に召されていきます。でも、キリストのからだの部分として、霊の家の石として、今も生きて働いているのです。ギリシア正教では礼拝堂に昔の聖人の絵を飾り、その人たちは今も一緒に礼拝をしている、と受け止めています。それは天国の前味わいでもあります。
地上での人生を送っている私たちも「生ける石」です。自分にピッタリの場所が教会にあって、そこに当てはまるときに、与えられた賜物が用いられ、周りの兄弟姉妹との関係も落ち着ける。一人一人が教会の一員なのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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