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み言葉のいづみ

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神の国の喜びと楽しみ

2023-09-01
千代崎 備道  

ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。
シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。
(詩篇一四九篇1~2節)

 イスラエルは、エジプトから救い出していただいた建国の頃は王がいない国でした。それは「神こそが王である」という信仰があったからです。やがて。他の国々には王がいるのを見て、うらやましくなった民が王を求めるようになり、サウルが王となり、さらにダビデが王となりました。しかし、人間の王は自分の上には神が王として君臨していると信じて御言葉に従うなら、その王は良い王となりますが、神に従わず自分の意思と欲に従う悪い王により国は滅亡してしまいました。
 神様はかつてダビデに、彼の子孫が王座に着くと約束されましたが、その時も、もし子孫が神の言葉に背くなら国は倒れると警告され、その通りにアッシリヤやバビロンによってイスラエルは滅んでしまったのです。 捕囚として連れて行かれた民は、自分たちの罪に気がつき、やがて預言の通りにエルサレムに帰って神殿を再建した民は、「主こそが王である」と、喜びをもって賛美をするようになったことが、詩篇の後半に示されています。
 詩篇の最後は「ハレルヤ詩篇」と呼ばれる五つの詩が全体の結論となっていますが、人々は「ハレルヤ」(主を褒め称えよ、の意)と神様を賛美した。その賛美は喜びに満ちていました。彼らが神を王として従うとき、神様は彼らを喜ばせ、楽しませてくださったことが、冒頭の詩篇のメッセージです。シオンとはエルサレムの別名です。やがて時代が変わり、イエス・キリストがロバの子に乗る平和の王としてエルサレムに入城されたとき、イエス様を信じて従う人々は喜びの余り「ホサナ」(主よ、お救いください、の意)と主を賛美しました。
 私たちがイエス様を心の王としてお迎えするとき、私たちの心に聖霊が喜びを与えてくださいます。そして、その王のもとで王の言葉に従って歩む民は、楽しみさえも味わうのです。その楽しさは快楽や自己中心ではなく、主を愛し敬い、また主にある兄弟姉妹と一つとなって体験できる楽しみです。教会には、また一人一人も、苦難を通ります。それでも主を信じて従い、神の家族と心を合わせて苦境を乗り切る。それは、簡単で楽な喜びではなく、厳しさを通り抜けたからこそ味わうことができる喜びであり楽しさなのです。

神の国の偉大な者

2023-08-01
千代崎 備道  

女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。 
(マタイの福音書十一章11節)

「女から生まれた者」とは、アダムとエバという特例を除けば、全人類を指します。イエス様ご自身がバプテスマのヨハネの偉大さを証ししているのです。しかし天国に入った者は全員が彼よりも偉大だというのは驚くべきことです。決して矛盾を語られたのではありません。「出ませんでした」と過去形で語っておられますから、ヨハネ以降の人物は別なのかもしれませんが、もう一つは、人間的な方法で生まれた者、パウロならば「肉から生まれた者」と言うでしょう。それに対して、天国に入るのは「水と霊から生まれた者」(ヨハネ三・5)だとイエス様はニコデモに教えられました。人間の努力や才能ではなく、神様の恵みによって救われることを信じるときに、聖霊が働いてくださり、洗礼を受けるのです。
バプテスマのヨハネの偉大さは、彼のところに多くの人たちが集まって悔い改めのバプテスマを受けたことや、彼の死後も影響を受けた人たちが多くいたことを聖書は記し、『使徒の働き』に登場するアポロもその一人でした。では、天国に入る者の「偉大さ」とは何でしょうか。ヨハネの素晴らしい点は、イエス様のことを、「私にはその人の足のひもを解く値打ちもない」と語り、「彼は栄え、私は衰える」と言ったことです。イエス様をキリストと認め、自分よりも上のお方だと証言できるのは、謙虚さがなければなりません。
神様は高慢な者を退けるお方ですから、ヨハネが人々の評価を受けておごり高ぶっていたら滅ぼされたでしょうが、彼はイエス様の前に謙ることができました。私たちも自分や他者の評価を求めたり高ぶったりする罪を悔い改め、自分の罪を赦すために十字架についてくださったキリストを信じるとき、私たちの心は自己の罪を認める「砕かれた魂」となるのです。その点では、十字架以前に殺され、罪の悔い改めをできなかったヨハネよりも心を低くすることができた。ですから「彼より偉大」だとイエス様は語られたのです。
教会は天国の「ひな形」です。自分の罪を認め、キリストの前に謙り、自分の力ではなく、ただイエス様の恵みにすがって十字架を信じることが最も賞賛されます。素直な幼子は大人よりも純粋に自分の小さな罪を認め、イエス様を信頼する点で天国に相応しい、とイエス様は教えられました。大人も幼子のような素直な信仰を持ちたいと思います。

神の国の王は?

2023-07-01
千代崎 備道  

国々の中で言え。
「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」
天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
(詩篇九十六篇10、11節)

旧約聖書の中では「神の国」という言い方は、ある意味、当たり前のことです。イスラエルは神の民と呼ばれています。詩篇では93篇から99篇までに「主は王」というテーマが繰り返されています。
日本語の翻訳を比べてみますと、新改訳は「主は王である」と訳していますが、口語訳聖書や、一番新しい聖書協会共同訳では「主は王となられた」と訳しています。「王となった」というのは、それまでは王ではなかったのか、という屁理屈を言う人がいるかもしれません。むしろ、神様の「御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます」(詩篇九十三・2)とも書かれているように、天地を造られたお方は、それよりも前から王であり、世界の所有者でしたし、天地が滅んだ後も、新しい天と地を支配される永遠の王です。このお方が世界を正しく治めてくださるとき、世界に生きるものは全て祝福された存在となります。
問題は人間です。最初の人が神様の御言葉に背いたときからずっと、人間は自分が王であると考え、神様の御心に背いて、自分の思い通りに生きてきました。その結果、神様との関係は悪くなり、人間同士も争い合い、苦しめ合ってきました。そして、自然界をも思い通りにしようとして破壊してきたのです。神様は、人間が悔い改めるまで、人間の自主性に委ねて見守っておられ、しかし救いを求める人には手を差し伸べてくださいました。どれほど人間が王のように振る舞って過ちを犯しても、神様はまことの王として私たちを導こうと御言葉を語っておられるのです。
私たちは、キリストの十字架によって救っていただいたときから、キリストのもの、キリストの弟子となりました。でも、自分の思い通りにしたいという自己中心の罪があって、だから揺るがない人生どころか、悩みつつ、自他を苦しめつつ歩んでいます。しかし、詩人は語ります、「主は王である」と。私たちが神様こそが王であると求め、このお方の前にひれ伏し、従う決心をするとき、主が私の王となってくださり、私たちの人生を造り変えてくださるのです。
あなたの人生の王は誰でしょうか。主が王です、と告白するとき、神様が王として私たちを救い、導き、神の民としてくださるのです。

神の国に属する民

2023-06-01
千代崎 備道

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
(ピリピ人への手紙三章20節)

神の国とは地上だけのことではありません。人間の国は永遠ではありませんが、神の国は永遠だからです。私たちは、その神の国に入れていただく者なのです。天国に入ることは、死んでから行くということではなく、地上にいるときから始まっています。そのことをパウロは「私たちの国籍は天にある」と言います。どの国で生活しているとしても、私たちは天に国籍のある「天国人」です。天国に属する私たちが、地上の国に一時的に生活しているのです。
海外で長く生活していると、自分が「外国人」だということを意識するときがあります。選挙権が無いことや、ビザが必要なことなどです。不便を感じることがありますし、時には差別を受けることが無いとは言えません。いつか自分の国に帰って、手足を伸ばして温泉に入りたいとか、○○屋の牛丼を食べたいとか、とりとめもないことを考えたりもしました。
クリスチャンが地上で生きている間は、信仰の故に悩むことも、小さな迫害を感じることもあるかもしれません。でも、私たちの国籍は天にあるのですから、地上での幸いだけを目指すのではなく、いつの日か天国に帰ることを忘れてはならないのです。どんな状況に置かれても、天国人としての自覚と誇りを持ち続けましょう。ヘブル書十一章には旧約聖書の信仰者たちの生き方が描かれていて、彼らが地上での生活で満足するのではなく、「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた」(16節)と証言しています。その彼らの信仰をご覧になった「神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした」。私たちが神の国に属する民として生きるとき、神様がそれを誇りとしてくださるのです。
私が池の上教会に赴任してから、もう数十人の方を天国に送りました。彼らが本当の国籍がある天国に到着したとき、天使たちが歓声を挙げて迎え、神様は、「良くやった、良い僕よ」との褒め言葉を持って迎え入れてくださるのです。この栄誉を受けるためなら、地上で「外国人」として歩む困難をも乗り越えることが出来るのです。
天の御国には先に行かれた先達が待っています。再会したときに、地上での苦労話、いいえ、神様の恵みによって生かされ、導かれたことを感謝を持って証ししあう時が来るのです。

神の国を継がせる聖霊

2023-05-01
千代崎 備道  

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
(第一コリント六章9~11節)

神の国は人間の力で打ち立てられるものではありません。人間が治める国には罪が忍び込みます。コリント人への第一の手紙六章9~10節には「罪のリスト」と呼ばれるものの一つがあります。他の箇所にも罪のリストがありますから、ここに書かれているのは一部です。罪を犯す者が神の国を受け継ぐことも、そこに入ることもできません。では、誰が神の国に入れていただけるのでしょうか。
それはキリストの御名を信じた時に聖霊が来てくださり、心の中からきよめられた人です。イエス様は「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」(ヨハネ三・5)と教えておられます。水は洗礼のことで、キリストを救い主と信じたことを告白して洗礼を受けます。でも水だけで救われるのではなく、御霊によって生まれ変わるのです。そのとき、「聖なる者とされ、義と認められ」、神の国に入れていただけるのです。
ペンテコステに聖霊が来てくださったのは、そのためです。イエス様は「神の国は近づいた」と宣言されましたが、それが十字架によって完成し、聖霊によって私たちのうちに成就するのです。聖霊によって私たちも神の国に入れていただくのです。それは、私たちが聖霊の声に従うことです。
聖霊と力とを混同する人がいて、聖霊を受けたら力が与えられる、その力が欲しいから聖霊を求めるのですが、それは間違いです。聖霊は神様ご自身です。私たちが力を所有するのではなく、聖霊が語る御言葉に従うとき、神様が働いてくださるのです。神の国の国民は神様に従う民です。しかし人間は自分の願いや思いを優先するあまり、神様の御心を二の次にしてしまいます。神の国と神の義を第一とするのは難しいのです。自分の力では出来ません。だからこそ神様は私たちを助けるために聖霊を送ってくださったのです。このお方の声を聞き、助けをいただいて歩みましょう。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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