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み言葉のいづみ

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不思議なキリストのからだ

2022-10-01
千代崎 備道  

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(コリント人への手紙第一・十五章44節)

パウロは復活について教えている中で、血肉のからだと御霊(あるいは「霊」)のからだの違いを語っています。イエス様のお体は、十字架以前は私たちと変わらない肉体(血肉)で、疲れることもありました。復活後は不思議なからだとなり、戸を閉じていても室内に入ったり、エマオからあっという間にエルサレムに戻ったりしておられます。十字架の傷跡もありつつ新しいからだとなったのです。
教会が「キリストの」からだと言うとき、単なる肉体とは違います。教会に限らず、どんな組織でも「からだ」のように様々な人が集まっています。またかしらであるリーダーが存在します。部分である手や足が力を合わせることで大きな力を発揮します。しかし、教会はそのような組織以上の存在です。かしらであるキリストが聖霊を遣わして、教会に、また私たち一人一人の内側に働いておられます。ですから人間の力を越えて神の御業がなされるのです。
パウロは、この不思議なからだを「御霊」のからだと表現し、復活について教えました。教会は復活の主のおられるところです。人間の肉体はいつか終わりが来ます。組織も時代と共に変化し、衰えることもあります。しかし教会は時代の波にもまれて倒れたように見えても、また立ち上がります。迫害により多くの信徒が殉教しても、また救われる人が起こされます。時代の思想によって信仰がゆがみ、暗黒時代となっても、内側から改革が起きて息を吹き返します。人間の組織であると同時に、キリストの生きておられる場所なのです。また、イエス様のお姿は今は私たちの目には見えません。キリストのからだなる教会も、目に見える個々の教会とともに、全世界を覆っている目に見えない教会があり、個々の教会はその大きな教会の部分部分となっています。また、キリストが世の終わりに再臨されるように、キリストのからだなる教会は時代を超えて永遠に存在します。なんと不思議なからだでしょうか。
私たちの教会も創立以来、多くの方を天国に送りました。しかし、それは人数が減ったということではなく、今も天国で証人として祈っておられ、先に行って待っておられるのです。ギリシャ正教では昔の聖人の絵(イコン)を飾り、共に礼拝していると信じているそうです。私たちも先達の方も、またこれからの教会を担う人たちも、心を合わせてかしらなるキリストに仕えてまいりましょう。

キリストのからだの成長

2022-09-01
千代崎 備道  

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。      
(エペソ人への手紙四章16節)

「からだ」の成長には様々な面があります。身長や体重と言った数値的な成長も大切ですし、内面的な成長も不可欠です。教会もきりすとのからだとして、あらゆる面で成長が期待されます。
人間のからだを考えると、その組織がいかに精巧に作られているかを知ると、神様の創造の御業の素晴らしさを感じます。また、その部分部分の組み合わせも驚くほどです。私は医学や生物学に関しては素人ですから詳しいことは言えませんが、肉体の一部分の調子が悪くなるだけで、その影響が全身に現れるのを見ると、からだとは単なる部品の寄せ集めではなく、絶妙に組み合わされ結びつけられた存在だと思います。さらに精神的な側面も結びついていて、心がからだに、またからだが心に影響を及ぼします。
一人のからだだけではありません。さらに人は他の人たちとの結びつきによって生きています。聖書でも、人間の創造は「男と女に創造された」と書かれ、「一人でいるのは良くない」と言われているように、最初から共同体を形成するようにと神様は導いておられたことが分かります。さら、「神のかたちに創造された」と教えられているのは、神様との関係も無くてはならないということです。
教会、すなわちキリストのからだを建て上げるというのは、教会全体の数量的な成長だけでなく、個々人のクリスチャンの信仰的人格的な成長、そして、その信徒同士の交わりが神様との結びつきの中で強められ、深められていくということも大切なのです。それが福音書では「神の国」と呼ばれ、『使徒の働き』と書簡では「教会」に関する教えにも示されています。
一つ一つの部分は地からも役割も違いがありますが、その力に応じて他の兄弟姉妹と結びつきを築き上げ、「あらゆる結び目」とあるように、各会や様々な奉仕、教会での交わりと、手紙やメールなどのやりとりなど、あらゆることが私たちを結びつけ、しっかりと組み合わされるのです。人間同士ですから時には人間関係のトラブルも起こるかもしれませんが、キリストの愛によって互いに許し合い、助け合う。これが、キリストのからだの建設です。肉体に無駄な部分がないように、教会の誰もがこの働きのために招かれ、用いられ、そして共に主にお仕えしていくのです。

質も量も成長する教会

2022-08-01
千代崎 備道  

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
 (ガラテヤ人への手紙四章19節)

「教会成長」ということが言われるようになったのは最近のことではありません。ホーリネス教団でも教会を次々と開拓した時期がありました。その頃、人数だけを増やすのはどうなのか、小さな教会はダメだと言うのか、という反論もあり、そのときに言われたのは、質と量における成長ということです。教会員数が増える、教会の数が増えるという量の成長だけを基準とすると、地方の小さな教会はなかなか増えることができないが、過疎地の小さな教会でも、そこに集っている信徒は、困難な環境でも信仰を守り通している、質の高いクリスチャンであり、教会は質的な成長も大切だ、という意見です。しかし、質か量か、ではありません。質が高いなら、生き生きとした信仰が周囲の人を惹き付け、人数も増えていくはずですし、また多くの人が来るようになれば、交わりと訓練により信仰も成長し、質的にも成長するはずです。数だけを誇ったり、質だけにプライドを持つなら、どちらも停滞する結果となってしまいます。
「キリストのかたち」は、キリストのからだである教会に属する一人一人に与えられている目標であって、キリストの十字架によって救っていただいた者はキリストのものとされ、キリストの御心に沿った者となり、その人の姿を通してキリストの栄光が証しされるのです。パウロは、多くの異邦人に福音を伝えて各地に教会を建て上げただけでなく、各教会のクリスチャンが成長してキリストのかたちとなっていくために、「産みの苦しみ」と表現するほどに、祈り、配慮し、また命がけで再訪問し、手紙を書いたのです。
今も、池の上教会がキリストのからだとして建て上げられ、成長しています。質も量もです。コロナ禍という特殊な状況のために、質的には厳しい状況ですが、その間、教会は新しい働きを始め、これまでは教会に来ることができなかった人ともつながり、祈りの交わりが増えてきています。三密を避けるために三部礼拝を行ったことは、将来に礼拝人数が増えても対応できる準備であり、仕事や学校の部活動など日曜の朝に来られない人に配慮する助けにもなります。十字架の苦しみさえも救いの道に変えられたキリストは、どんな困難をも用いて、私たちを御心のままに造り変えてくださるのです。子どもが質(人格)も量(体格)も成長するように、キリストのからだなる教会も、その一員である私たちも成長しましょう。

教会はひとりの救いから

2022-07-01
千代崎 備道  

ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
(ルカの福音書十五章10節)

ルカ十五章でイエス様は三つのたとえ話を語っています。「百匹の羊のうち、一匹が迷子になる」、「十の金貨のうち、一つが見つからなくなる」、「二人の息子のうち、一人がいなくなる」。共通しているは、失われた一つの救い、です。一匹の羊、一つの銀貨、そして放蕩息子。その一人が救われたとき、大きな喜びが天にあるのです。新約聖書の中には数千人が一度に救われるという出来事(使徒二~四章)が記されていますが、一人の救いも描かれています。イエス様もサマリヤの女性(ヨハネ四章)や悪霊に憑かれたゲラサ人(ルカ八章)を救うためにわざわざ出かけていきました。使徒八章ではピリポが一人の宦官を救うために遣わされます。
近代では多くの人を集めての伝道集会が盛んになりました。ビリー・グラハム大会や「セレブレーション・オブ・ラブ」などの集会を覚えている方もおられるでしょう。大きな集会でも、求道者が決心をするときは一人が一人を導きます。教会成長も多くの人に福音を伝える面と、一人一人に救いを手渡す面の、両方が大切です。池の上教会の歴史も遡っていくと創立者である山根可弌先生が救われたことが発端であり、それは教会のお母さんと呼ばれた恵代先生の祈りと献身があったからだということは、何度もお聞きになったことがあるでしょう。
一人が救われるためには、何人ものクリスチャンが陰にあって祈り続け、また様々な形でその人の救いのために尽くしていたことが背後にあります。誰かが祈り、誰かが集会に誘い、誰かが声をかけ、誰かが親切にし、誰かが福音を伝える。その時、聖霊も働いてくださり、やがて、その人が信仰を告白するようになっていくのです。
キリストのからだである教会を建て上げるのは、教会全体が聖霊によって一つとなって働くことが大切であると同時に、一人一人の信仰が成長し、豊かな恵みに満たされ、祈りと証しがなされていくことも大切です。個々の信徒が、そして教会全体が神様の御心にかなった姿となるとき、その一人一人が用いられて宣教の働きも前進していく。個人と全体、信仰成長と教会成長、それは別々のことではなく、固く結びついているのです。ですから、一人が救われるときには、祈った人、導いた人、そして教会全体が喜びを感じ、天でも御使いたちに大きな喜びがあるのです。一人が一人を導く、この原則を忘れないようにしましょう。

私の教会、私たちの教会

2022-06-01
千代崎 備道  

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。   
(詩篇六五篇3節)

礼拝で信仰告白として読む「使徒信条」の冒頭は、原文では「我、信ず」と始まり、信じるのは「わたし」ですが、「我らの主、イエス・キリストを信ず」と、自分だけでなく教会全体にとってキリストが主であると告白しています。先に掲げた詩篇の言葉も、赦されるべきは「私の咎」であり、「私たちのそむきの罪」だと、個人の罪と共同体全体の罪とを結びつけています。
旧約聖書の時代は、神様はイスラエルを民族としてエジプトから救い出され、彼らを「神の民」として共同体を導いていかれますが、多くの人が偶像礼拝に染まってしまった時代には、「でも、私は主なる神様を信じます」と個人の信仰が重要なときがありました。新約時代になると、ユダヤ教や異教社会の中から一人一人がキリストを信じて救われるという個人の救いが原則となりますが、救われた者たちは「キリストのからだ」である教会を形成し、新しい「神の民」となっていきます。
欧米社会では、どちらかというと個人の信仰を重視してきたように思えます。教会も、気をつけませんと個人の寄せ集めになってしまう危険があります。日本などのアジア社会では共同体の力が強く、その中に生きている個人がキリストを信じようとするときに強い決断を必要とすることもあります。信じて救われてからは、新しい共同体である教会の中で、個人の信仰に立つよりも、「みんなが信じているから自分も大丈夫」と、共同体の中に埋没してしまわないように、しっかりと信じることを忘れてはいけないのです。
個人と共同体は、どちらも大切です。個人だけになると教会は個人主義に陥り、自分だけという自己中心に傾いてしまいます。反対に共同体を強調しすぎて、個人の心を押さえつけてしまうのは間違いです。両者のバランスが必要です。そのためには、教会のかしらであるキリストを中心とすることが大切なのです。もう一つは、他の人の信仰を受け止めあうことです。証しを通して、一人一人になされた神様の御業を崇めます。また誰かの罪を批判するのではなく、自分も同じ罪人であり、共に神様の前に心を合わせて祈り、赦しをいただくのです。こうして私たち一人一人がキリストの前で一つとなるとき、キリストのからだである教会は強められ、成長していくのです。今日も、お互いに信仰を励まし合い、また他の人の悩みのために祈りあいましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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