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み言葉のいづみ

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慣れないために

2021-07-01
千代崎 備道  

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
(ヨブ記四十二章5節)

人間は大抵のことに慣れてしまうものです。夏の暑さの中でマスクをすることにも二年目になって慣れている自分がいます。教会堂に入ったら、まず体温を測り手指をアルコール消毒することも、流れ作業のように自然とするようになりました。店に出入りするときも消毒、帰宅したら手洗いとうがい。新しい日常が普通となっているようです。悪い意味でも慣れてしまい、マスクや消毒の意味を忘れると、形だけになります。感染防止には役立っているのですが。
クリスチャンとして慣れてしまってはいけないのは、神様の恵みです。神様は毎日、毎年、様々な恵みを私たちに注いでおられますが、それに慣れてしまうと感謝をしなくなり、少しでも不足があると祈りよりも不満が出て、やがて恵みを与えてくださった神様から心が離れてしまいます。旧約聖書のイスラエルがそうでした。出エジプトの救いに与り、必要な水や食料は与えられていたのに、彼らはいつも不平不満で、御言葉に背き、神様に背を向けていたのです。
「恵み」という言葉はヘブル語で「ヘセド」ですが、神のヘセドに感謝してそれに応えようとする人たちのことをハスディーム、ある日本語訳では「聖徒」と呼んでいます。私たちは神様の恵みによって救われ、聖なる神様のものとしていただいた聖徒です。いつも恵みに応答することがあるべき姿です。そのためには恵みに慣れっこになるのではなく、恵みに敏感な心を育てることが大切です。恵みとは神の愛の現れです。人間同士の愛を確認するときに贈り物をすることがあります。プレゼントも慣れっこになり当たり前になると嬉しさを失いますが、贈ってくださった方の心遣いを思うときに感謝が生まれ、相手への愛も増し加わります。神様の恵みに気がつくなら、神への愛も成長するのです。
ヨブは神からも義人と認められる立派な人でした。定期的に犠牲を神に捧げ、それでよしとしていましたが、試練に遭ったことを通して神様との生きた関係を知ったのです。人から噂で聞いて知っているレベルから、自分の体験を通して見えない神様を「見た」のです。私たちも特別な経験や聖会などの特別な集会を通して神の恵みをあらためて確認し、神の愛を今まで以上に深く知るなら、さらに神への信頼が増し加わり、どんな苦難の中でも主を待ち望み、希望を持って生きることが出来るのです。

主を待ち望む者への励まし

2021-06-01
千代崎 備道  

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
(詩篇二十七篇14節)

今年の教会標語の御言葉はイザヤ書四十章31節です。その御言葉を賛美にした曲がいくつもあります。「主を待ち望む者は新たに力を受けて上る。走り疲れず、歩みてうまず、鷲のように上る」。作曲者不詳の賛美歌が夏のバイブルキャンプで大流行して、多くの若者たちの心を惹きつけました。短い歌詞ですので何度か繰り返して歌い、この御言葉が心に刻まれ、信仰が強められたキャンパーたちの中から、後に多くの献身者が誕生し、牧師となった仲間が何人もいます。夏になると思い起こす、青春時代の記憶です。
若い時は熱心だったクリスチャンが、歳を重ね、社会の荒波にもまれ、いくつかの挫折を味わい、残念なことに教会を離れてしまったという人たちも少なくありません。でも、その中には数十年たってから信仰が復活し、教会で再び主に仕えている方々も知っています。もし、その人がイザヤ書の御言葉を読んだら、昔の懐かしい賛美を口ずさむかもしれません。また、ずっと信仰生活を続けて、教会で奉仕をしていて、少し疲れをおぼえるとき、懐かしい賛美で消えかけている心の火が燃え上がるかもしれません。
旧約聖書の時代の信仰者たちの祈りと賛美が『詩篇』に数多く載せられています。その詩の言葉は時代を越えて様々な曲を付けられて賛美となり、教会の歴史を通して多くのクリスチャンを励ましてきました。賛美だけではありません。兄弟姉妹の証しや祈り、励ましの言葉も、挫けそうな信仰を強めて、新しい力を与えます。それは背後に主の御言葉があり、主への信仰を思い出させるからです。
神様は「恐れるな、雄々しくあれ」と命じるだけでなく、具体的な助けを送り、助け手となる人を側に置き、聖霊は御言葉を思い出させてくださいます。それらも新しい力をその人に与えるのです。ただ、そのためには、待たなければならないことがあります。神様の「とき」がありますから、今すぐにと求めても、信仰が養われ成長するために期間が必要なのです。だから「待ち望め」とも神様は語られるのです。
冒頭の詩篇二十七篇の御言葉もそのまま短い賛美となりました。学生時代に落ち込むことがあって悩んでいたとき、礼拝堂でひとりギターを引きながら小さな声でこの御言葉の賛美を歌っていたとき、神様が「心を強くせよ」と励ましていてくださるのを感じ、涙を流しながら賛美を献げ続けました。立ち上がる時は必ず来るのです。

闇の中で光を仰ぐ

2021-05-01
千代崎 備道  

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
(イザヤ書九章2節)

先日の皆既月蝕は残念ながら曇天のために見ることができませんでした。月蝕ではなくてもスーパームーンと呼ばれる大きな満月は、もし雲の無い空ならどれほど明るかったでしょう。でも、太陽が輝いているなら月の光はおぼろげにしか見えません。星々は昼間にはほとんど見ることができません。光は闇の中で強く輝いて見えます。
イザヤが神様から示されたこの預言は、クリスマスによく引用されるように、イエス・キリストにおいて成就します。しかし、救い主がおいでになるまでは、旧約聖書の民は暗黒の中を歩んでいました。イザヤの時代には北イスラエル王国が滅亡し、南のユダ王国はアッスリヤの攻撃で大きな被害を受けて国力は低下し、やがて滅亡へと進んで行きます。ついにバビロン帝国によって国は滅び民族は強制移住で祖国を失います。これもイザヤの預言の通りに一度国は復興しますが、ペルシャ帝国やギリシャ帝国の支配下で虐げられます。彼らを支えたのは、いつの日にか神様が救い主メシアを送ってくださるという希望の光でした。
希望は実現したら希望ではなくなります。しかし実現がまだ見えないときは、希望ははかない望みにも思えます。闇をじっと見るなら小さな光は見えなくなります。でも闇を見つつも光に目を向けるなら、小さく遠い光でも強く印象に残るのです。夜空の星は地球から遙かに離れているため、小さな光点に過ぎません。でも、夜空にあるからこそ、美しく、また大きく輝いて見えるのです。
私たちはコロナ禍にあって、一年が過ぎ、二年目もいつ終わるか分からない中にいます。神様が与えてくださる希望の光をしっかりと見つめないと闇で心が覆われてしまいます。でも、神様からの光は信仰によってしか見えない光です。神様を信頼し、神様に期待する。この信仰があるなら、神様が約束してくださった御言葉だけであっても、希望の光を見ることができます。
人生には多くの試練があり、闇があります。置かれている状況や、心の中にも、仕事の困難も、大きな失敗や挫折も、病気や怪我、誹謗中傷、不安や恐れがたくさんあります。だから、御言葉の光は小さくても、私たちの心に光り輝くのです。もし何もかも満たされていて、思い通りになる人生なら、きっと御言葉の光に気がつかなかったでしょう。今日も神様は私たちに語りかけ、闇の中を歩む者に御言葉の光を約束してくださるのです。

神を信頼する希望

2021-04-01
千代崎 備道  
 
ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」
そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。
(創世記五十章24~25節)
 
ヨセフが臨終前に一族に遺した言葉は、いつの日にかエジプトを出て約束の地に帰る日が来るという希望です。でもこの約束が果たされるのは約四百年後でした。その時までイスラエルの子孫はどのような思いで待ち望んだでしょうか。特にヨセフの死後、王朝が変わり奴隷とされた人々は、この救いの日を待ち望むことが出来たでしょうか。神様はアブラハムに約束をしましたが(創世記十四章13節)、まだ聖書が作られていなかった時代ですから、民族の中に言い伝えられていただけでした。奴隷の苦しみしか見えないイスラエルの民にとって、現実からかけ離れた口伝による希望など、楽観的に信じることは難しかったでしょう。しかし彼らにとって目に見える証拠が、ミイラとなって保存されたヨセフの遺体でした。これが遺されたのは、神様の約束を信じたヨセフの信仰があったからです。
神様を信じて待ち望むのは簡単ではありません。簡単なことなら信仰が無くても予想して待てば良いことです。私たちは信仰によって神様に期待をします。その信仰は何が保証するのでしょうか。それは第一に神様の言葉です。私たちは聖書によって御心を確かめることができます。聖書の無かった時代の人たちのために神様は目に見える証拠を与えてくださいましたが、今は聖書だけでも神様を信じることが出来るはずです。でも、信仰の弱い私たちのために、見て分かる助けを神様が与えてくださることもあります。でも、最後は神様の言葉を信じ、そして神様ご自身を信頼する信仰へと成長させていただくことが大切です。
新型コロナによる厳しい事態が一年以上続いています。多くの制限があり、希望を失いそうになる人もいるでしょう。でも私たちは神様に期待をします。今は、ワクチンに期待をすることや、いつか特効薬が出来ることを期待する人もいるかもしれません。でも目に見える何かではなく、日々与えられる御言葉に励まされながら、神様を信頼して待ち望む信仰を養う。それが今の私たちに与えられた課題です。

主を待ち望めるように

2021-03-01
千代崎 備道  

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
(第一コリント十章13節)


聖書は受難から復活までの三日間に弟子たちがどうしていたかを記しています。木曜日の深夜にゲツセマネの園でイエス様を見捨てて逃げてしまいましたが、金曜日には十字架と埋葬を目撃した弟子もいました。土曜日に関しては福音書は「戒めに従って、休んだ」(ルカ二十三章56節)としか記録していないのは、彼らにはもはや何かをする気力も無かったからでしょう。そして日曜日、女性たちは朝早く墓に行って天使から復活の知らせを聞き、マグダラのマリヤは復活の主に会いました。その日の夕方、弟子たちが恐れの中で集まっていたところにイエス様が現れて「平安あれ」と語られたのです。驚きつつも、彼らが喜んだのは言うまでもまりません。
これまで信頼し慕ってきた師が敵に捕らえられ十字架につけられてしまったとき、弟子たちは希望を失っていたでしょう。イエス様が十字架の予告と共に復活についても語られたのですが、それは信じがたいことでした。絶望と恐れの中に陥り、何らかの希望を持つことも不可能に近い彼らのために神様が用意してくださった「脱出の道」は三日間という短い時間でした。もし復活が一年後だったら、彼らは再び集まることも出来ずに解散していたでしょう。
私たちも様々な試練に遭うことがありますが、神様はその私たちに「待ち望みなさい」と命じるだけでなく、待ち望むことが出来るように助けてくださいます。ある人には試練の期間を縮めてくださるかもしれません。ある人には助けてくれる人を遣わしてくださり、また他の人には御言葉によって力づけてくださいます。具体的な方法はその人により、またその試練によって違いますが、必ず「脱出の道」が用意されているのです。
私たちの信じる神様は、御子を死者の中から復活させる力のあるお方です。例え、試練の中で絶望しそうになり、まるで魂が「死んだ」かのようになって信仰を失いそうになっても、その中から私たちを生き返らせて信仰のいのちに立ち上がらせてくださる。その力が、神様にはあるのです。ですから、どれだけ絶望的な状況でも、どれだけ自分の力も信仰も立ち上がれないほどに弱くなったとしても、この神様に私たちは期待をすることができるのです。「主を待ち望む者」となりましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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