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み言葉のいづみ

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主の御手は伸ばされ続ける

2024-12-01

千代崎 備道  

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

(詩篇百三十九篇9~10節)


世界のどこに行っても、そこで神の御手が導いていてくださることを、この詩篇は驚きを込めて詠っています。遠いバビロンに捕囚とされた民はこの詩に慰められたでしょう。現代はインターネットの時代で、世界中どこででもつながることが出来ますが、神様は旧約聖書の時代から既に全世界に御手を伸ばしておられるお方です。
クリスマスに良く語られる「インマヌエル」とは、「神が我らと共におられる」という意味ですが、イザヤ書七章で預言者イザヤがアハズ王に告げた言葉です。アハズは偶像を拝む不信仰な王でしたが、神自らしるしを与えるから信じなさい、と迫られました。そのしるしがインマヌエルです。ところがアハズはなおも神様の言葉に背き、イスラエルの民も神様に従いません。そこで神の怒りの手がイスラエルに伸ばされた、とイザヤ書は続けています。神の怒りの手がくだされ、北王国は滅亡し、南王国も壊滅状態になりますが、それでも彼らは悔い改めない。そこで怒りの御手は何度も伸ばされます。でも、最後に神の御手は彼らを救うために伸ばされる。その遣わされた御手こそが御子イエス・キリストです。
イスラエルにだけ伸ばされたのではなく、神の救いの御手は全世界に広められました。イエス様の弟子たちが世界中に出て行って福音を宣べ伝えたのです。今も御手は伸ばされ続けています。私たちにも救いの御手が伸ばされ、また私たちをも用いて主は救いを広めておられるのです。でも私たちは道具のように使われるのではありません。主を証しする私たちにも主の恵みの御手が伸ばされ続け、御業を行ってくださるのです。たとえ遠く離れていても、苦しみの中に深く沈んでいても、そこにも主の御手は伸ばされ、主の御手が私たちを導いていてくださるのです。
まもなく二〇二四年が終わり、新しい年が始まります。これからも主の御手は伸ばされていきます。人間はもうダメだと諦めそうになることもあります。でも御子をも遣わし、聖霊をも注いでくださった神様は、私たちを諦めたりはしません。どこにいても、どんな状態でも、主の御手が私を導き、力強い主の右の手が私を捕らえて放さないのです。この御手に信頼するなら「主は私たちと共におられる」、インマヌエルの主であるイエス様が共に住んでくださるのです。来年も主を信頼しましょう。

主の手を妨げてはならない

2024-11-01

千代崎 備道  

そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。

(マタイの福音書十九章13節・口語訳)


池の上教会では「子ども祝福」と称して、月に一度、子どもたちの頭に牧師が手を置いて神様の祝福を祈ります。それはイエス様が子どもたちを祝福したことに倣って行われていることです。
新約聖書の時代にも人々は教師や祭司のような宗教的指導者のところに子どもを連れてきて、神様からの祝福を祈ってもらっていたのでしょう。イエス様も神の国を教える教師と見られていたので、人々は子どもたちを連れてきました。でもイエス様の毎日は大変に忙しいものでしたから、弟子たちはイエス様を患わせないようにと、彼らをたしなめて近づけようとしませんでした。しかし、イエス様はその弟子たちを叱ったのです。「邪魔をしないで、わたしのところに来させなさい」。そして言われました、「天の御国はこのような者たちの国なのです」。
 神の国は子どもたち、そして子どものように素直に御言葉を受け入れる者が入れていただけるのだと教えられました。子どもたちは自分ではイエス様のところに行けないかもしれません。両親や大人たちに連れられて行くのです。そんな小さな存在に、イエス様は手を差し伸べ、近づけてくださったのです。主の手は子どもたちに伸ばされたのです。
 ところが、その主の手を妨げたのは誰でしょうか。他でもない、主の弟子たちでした。十二使徒を初めとする数百人、あるいはそれ以上の弟子たちがいました。後に弟子たちはクリスチャンと呼ばれるようになります。クリスチャンが主の手を妨げてしまったのです。そこには多忙で、時には疲れることもあったイエス様を守りたかったという思いやりがあったのかもしれません。もしかすると、自分たちこそキリストの側にいることが許されているという特権意識が働いたのかもしれません。動機が何であっても、彼らのしたことはキリストの御心に反することでした。
 私たちも、自分の考えで主の手を妨げてしまってはいけません。もしイエス様が救おうと考えて御手を伸ばしているなら、その働きを妨げるのではなく、お手伝いをするべきです。たとえ、自分の考えが正しいと思っても、イエス様のお考えに従うのです。そうすれば、主の手はますます豊かに広く伸ばされ、多くの人が祝福に与るようになるからです。

主の手が短いのではない

2024-10-01

千代崎 備道  

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

(イザヤ書五十九章1、2節)


神の助けを願っても与えられないでいると、神様が自分を見放して手を伸ばしてくださらないのか、あるいは、この問題に関しては神様も手が短くて救うことが出来ないのか、と考えてしまいます。
神様の御手が伸ばされないのには理由があるでしょう。ある場合は、神の時が来ていないからです。今はその時ではなく、最善の時があるのを神様はご存じです。あるいは、私たちの求めることが御心とは違っていて最善の結果とはならないのなら、神様は違う形で祈りに応えてくださるでしょう。もしかしたら、私たちの成長に必要な訓練であるなら、直ぐには手を伸ばされないでしょう。でも、逃れの道も用意していてくださいます。
しかし、もっと深刻なケースがある。それは罪の問題です。イザヤが語ります、イスラエルの民が助けを求めても主の手が伸ばされないのは彼らの罪が原因だ、と。イスラエルは何度も神様に背いて罪を犯してきました。その結果、彼らが災いに遭う。するとそれまで真剣に神を求めて来なかったのに都合の良い助けだけを求めて祈る。それでも憐れみの神は何回も彼らを苦難から救ってくださったのですが、このようなことを繰り返しているなら、彼らは本当に罪に染まって、信仰も形だけの御利益信仰となってしまう。そこで、神様は彼らに裁きを下し、彼らが心から悔い改めて立ち返るのを待っている。ですから、彼らの咎の故に祈りに応えないのです。
では、本当に神様は罪の問題には手を伸ばすことが出来ないのでしょうか。いいや、「主の手は短かかろうか」。神様は右の手、すなわち最も力強い「手」を伸ばしてくださった。それが御子を遣わしたことです。十字架により人間を罪から救ってくださったのです。
今、私たちのためには、主の手は十分に伸ばされています。すでに十字架の贖いは完成しました。聖霊が私たちの心に使わされています。教会が救いの場として与えられました。ただ、私たちが自分から心を開かないのなら、神様は無理矢理に私たちを変えようとはなさいません。神様との間を仕切っている罪があるなら、私たちの側から罪を告白し、主からの救いを祈りましょう。そのとき、主の手は私の心の底にまで伸ばされ、罪を赦し、汚れをきよめ、私たちを造り変えてくださるのです。

祈りに応える主の手

2024-09-01

千代崎 備道  

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

(マルコの福音書一章41節)


イエス様が病人を癒されるとき、言葉だけで癒すこともおできになりますが、手を差しのばして触れてくださることもあります。一人の病人がイエス様に癒しを求めて進み出ました。彼の病は、当時は宗教的な汚れだと人々が考えていたため、彼に近づこうとする人は少なく、あえて触れようとする人はいませんでした。でもイエス様は彼を深く憐れみ、彼に触った上で、病気を癒し、人々が汚れだと言っていた彼の体をきよくしてくださったのです。
神様は手を伸ばされるとき、それは裁きのためであったり、救いのためであったりします。また、いつ手を伸ばしてくださるかは、神様が決めることです。ですから人間の思い通りにはなりません。でも、神様は人間に「祈れ」と命じておられます。私たちが祈る時に、神様は人間を憐れんでくださり、手を伸ばしてくださるからです。他には頼ることが出来ない。ただ神様だけを信頼して、助けを求めている姿に、神様は深い憐れみを覚えておられる。そのことを神の御子であるイエス様は私たちに示してくださったのです。
「神の手は短かろうか」、いいえ、決して短いはずがない。きっと手を伸ばして私たちを救ってくださる。私たちは、そう信じています。でも、それはただ待っているのではありません。神様の手が伸ばされるときを待ち望み、祈るのです。直ぐに応答があるかは分かりません。長く待つこともあるでしょう。そのことを通して、忍耐が養われ、神様への信頼が強められます。また、願った通りの結果ではなく、違った形で神様の御業がなされるかもしれません。その時は、神様の正しさが自分の考えよりも正しいことを学び、義なる神様を信頼するようになります。祈らないで結果だけを受け取るのでは信仰は成長しません。ですから神様は祈ることを命じておられるのです。
神の御手は、私の心の中にある「汚れ」、つまり罪にまで伸ばされます。隠しておきたかった心の奥にある罪、気がついていなかった心の汚れに気がつかされるのは嬉しくありません。でも、主の手が伸ばされ、そこに触れてくださるなら、その心をきよめてくださる。それが主の御心なのです。私たちが聖書を読み、また祈るとき、神様との生きた交わりを通して、神の御手が私たちにも伸ばされるのです。ですから、神様の助けが必要な存在であることを認め、主に祈り求めてまいりましょう。

見えないが働いている主の手

2024-08-01

千代崎 備道  

その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた。

(エステル記六章1節)


エステル記というのは旧約聖書の中でも一番の変わり種で、一度も神様の名前が出て来ません。礼拝や信仰に関する言葉も一切使われていないという徹底した書物です。見かけ上は神様が登場しないままにストーリーが進んで行くのですが、見る人が見れば、確かに主が生きて働いておられることが分かります。
時はペルシャ帝国が世界を支配していた時代、多くのユダヤ人がペルシャの支配下で生きていました。迫害が強い時期もあって宗教的なことを書かないようにしたのかもしれません。あるとき、ユダヤ人を憎む政治家によってユダヤ人虐殺計画が進められていました。それを知ったユダヤ人たちは「断食した」と書かれていますが、これはダイエットのためではなく、祈っていたことは明らかです。その祈りに神様が応えてくださり、御手を伸ばしてくださったのです。
「その夜」とは特別な時でした。この日に事が起きなければ大変なことになるかもしれないのが次の日でした。王様が眠れなくなった。誰にでも起きることです。どうしても眠れない王様は記録の書、つまり王宮日誌を持ってこさせます。一番面白くない書なので、読ませているうちに聞いている自分が眠くなると考えた。でも人間の計算通りになりません。眠れないままに日誌が読み進められていくうちに、一つの記録が読み上げられた。それが、この後で殺害計画を変えて解決する切っ掛けとなる出来事でした。もし、王様が眠れていたら、もし王様がこの書を選ばなかったなら、きっとユダヤ人は皆殺しになっていたでしょう。こんな小さな出来事を起こして、歴史の流れを動かしたのは、見えない神様の御手でした。
今も神様は目に見えないお方です。その神様のなさることも、信仰の目で見なければ、日常のありふれた出来事だったかもしれません。でも神様は普通の出来事、当たり前の生活の中にも御手を伸ばしておられます。超自然的な奇蹟ではなくても、小さな事を通して私たちの信仰を導き、人生を変えて行ってくださるのです。神の御手は不思議な手です。
私たちは自分に都合の良い、そして信仰抜きでも分かりやすい結果を求めて祈るかもしれません。でも神様にはご計画があり、タイミングがあり、小さな切っ掛けをも用いてくださることがおできになります。この神様の御手を信頼しましょう。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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