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み言葉のいづみ

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神の国の犠牲と恵み

2023-11-01
千代崎 備道  

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」
(ルカの福音書十八章29~30節)

歴史を振り返るなら、世界のどこでも、およそ国の誕生にあたって苦難が無いことはないでしょう。独立しようとして周囲の国から攻撃されることもあります。また内部で反対する者たちから反抗されることもあります。戦争になることも少なくありません。そこには多くの犠牲者があり、困難に対面する者は数知れません。たとえ、その国が正義によって打ち立てられる場合でも、苦しみがないことはあり得ないのです。多くの犠牲が支払われたのです。
神の国が建て上げられるために、多くの人の犠牲がありました。誰よりも、イエス・キリストご自身が十字架の苦しみを受けられました。御国の福音を伝えた使徒たちも殉教しました。多くのクリスチャンが迫害を受けました。また、世界に福音を伝えるために困難を味わった宣教師がどれほどいたでしょう。今、私たちは、多くの人たちの苦難の結果として祝福に与っているのです。
では、私たちには何の困難も無いのでしょうか。この世の流れに身を任せて、当たり障りの無い道もあるかもしれません。しかし、神様の御心に従って歩むときには罪の世との軋轢(あつれき)が生じます。そして、その困難との戦いで犠牲を払うこともあります。
しかしイエス様は弟子たちに、その犠牲は決して無駄では無く、この世でも多くの恵みが与えられ、天国では永遠の命が約束されていると教えました。ルカの福音書の記事では、家や、家族を捨てると書かれていますが、マタイの福音書十九章29節では、「あるいは畑を捨てた者は」と、財産の全てが含まれています。一昔前は日本でもクリスチャンになるときに親から勘当された人もいます。友人関係も整理することもあるでしょう。仕事にも影響するかもしれません。でも、失うものよりも与えられるものははるかに勝っているのです。神の国はそれほどに価値のあるものです。
もし地上で幾ばくかのものを手にしたとしても、それを思いがけないことで手放すかもしれませんし、何よりも天国を失うことを考えるなら、目に見えるものに固執することは得策ではありません。神様が私たちを救うために御子を与えてくださったことを思うなら、私たちも喜んで神様のために犠牲を払うことが出来るのです。

神の国は神のもの

2023-10-01
千代崎 備道  

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。 
(第一歴代誌二十九章11節)

神の国は、神様が王です。王の思いのままに国は建てられ。治められます。神様は御国を建て上げるために人間を用いなさいますが、人間が建てるのではありません。人間の思い通りではなく、神様の御心が最優先です。何が正しいかを決めるのも義なる王です。
人間はいつも自分の国を欲します。自分の思い通りになると考えるからです。でも実際には、人間の国は思ったとおりになりません。その原因は人間の無知であり、王なる神様に背くからです。本当の幸いは、神が王となってくださることです。ですから私たちは祈ります。「御国が来ますように」と。
今、世界は混乱に満ちています。数年に及ぶ病魔の影響、各地で戦争と戦争のうわさがあります。人間が思い通りにしたいと願って、政治を行い、商売を行い、最善を尽くしたつもりでも、問題が押し寄せてきます。それが人間の国々です。私たちは祈ります。「主よ、来たりませ」と。
一番の問題の原因は、私自身です。他者の言葉にも、神様の御言葉に対してさえ、耳を傾けるのが遅く、自分の考えが正しいと思い込む。その自分中心な姿勢は、人間関係を混乱させ、神様との関係がよどんでしまいます。私たちは祈らなければなりません、「主よ、私は罪人です。お赦しください。主よ、あなたが王となってください」と。
今年は「神の国とその義を第一に求めよ」との御言葉を教会の標語として歩んでまいりました。神の国は一朝一夕でできるものではありませんが、私たちの姿勢は今すぐにでも変える決断ができます。冒頭の聖句はダビデの語った祈りの言葉です。国に平和をもたらし、王座を固くしたダビデですが、神様こそが彼の国の王であると認め、そのお方にすべての栄光をお返しした祈りです。この国は、そのすべての栄光も、主よ、あなたのものです、とダビデは告白しています。私たちは国王ではありませんが、自分の身の回りでは王になって思い通りにしたい、と考えます。何でも「私のもの」にしたいのです。でも、神様に「あなたのものです」と捧げるときに、神様が一番良い形へと作り変え、成長させ、完成に導いてくださるのです。神の国を求め、すべてを神様に明け渡しましょう。

神の国の喜びと楽しみ

2023-09-01
千代崎 備道  

ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。
シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。
(詩篇一四九篇1~2節)

 イスラエルは、エジプトから救い出していただいた建国の頃は王がいない国でした。それは「神こそが王である」という信仰があったからです。やがて。他の国々には王がいるのを見て、うらやましくなった民が王を求めるようになり、サウルが王となり、さらにダビデが王となりました。しかし、人間の王は自分の上には神が王として君臨していると信じて御言葉に従うなら、その王は良い王となりますが、神に従わず自分の意思と欲に従う悪い王により国は滅亡してしまいました。
 神様はかつてダビデに、彼の子孫が王座に着くと約束されましたが、その時も、もし子孫が神の言葉に背くなら国は倒れると警告され、その通りにアッシリヤやバビロンによってイスラエルは滅んでしまったのです。 捕囚として連れて行かれた民は、自分たちの罪に気がつき、やがて預言の通りにエルサレムに帰って神殿を再建した民は、「主こそが王である」と、喜びをもって賛美をするようになったことが、詩篇の後半に示されています。
 詩篇の最後は「ハレルヤ詩篇」と呼ばれる五つの詩が全体の結論となっていますが、人々は「ハレルヤ」(主を褒め称えよ、の意)と神様を賛美した。その賛美は喜びに満ちていました。彼らが神を王として従うとき、神様は彼らを喜ばせ、楽しませてくださったことが、冒頭の詩篇のメッセージです。シオンとはエルサレムの別名です。やがて時代が変わり、イエス・キリストがロバの子に乗る平和の王としてエルサレムに入城されたとき、イエス様を信じて従う人々は喜びの余り「ホサナ」(主よ、お救いください、の意)と主を賛美しました。
 私たちがイエス様を心の王としてお迎えするとき、私たちの心に聖霊が喜びを与えてくださいます。そして、その王のもとで王の言葉に従って歩む民は、楽しみさえも味わうのです。その楽しさは快楽や自己中心ではなく、主を愛し敬い、また主にある兄弟姉妹と一つとなって体験できる楽しみです。教会には、また一人一人も、苦難を通ります。それでも主を信じて従い、神の家族と心を合わせて苦境を乗り切る。それは、簡単で楽な喜びではなく、厳しさを通り抜けたからこそ味わうことができる喜びであり楽しさなのです。

神の国の偉大な者

2023-08-01
千代崎 備道  

女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。 
(マタイの福音書十一章11節)

「女から生まれた者」とは、アダムとエバという特例を除けば、全人類を指します。イエス様ご自身がバプテスマのヨハネの偉大さを証ししているのです。しかし天国に入った者は全員が彼よりも偉大だというのは驚くべきことです。決して矛盾を語られたのではありません。「出ませんでした」と過去形で語っておられますから、ヨハネ以降の人物は別なのかもしれませんが、もう一つは、人間的な方法で生まれた者、パウロならば「肉から生まれた者」と言うでしょう。それに対して、天国に入るのは「水と霊から生まれた者」(ヨハネ三・5)だとイエス様はニコデモに教えられました。人間の努力や才能ではなく、神様の恵みによって救われることを信じるときに、聖霊が働いてくださり、洗礼を受けるのです。
バプテスマのヨハネの偉大さは、彼のところに多くの人たちが集まって悔い改めのバプテスマを受けたことや、彼の死後も影響を受けた人たちが多くいたことを聖書は記し、『使徒の働き』に登場するアポロもその一人でした。では、天国に入る者の「偉大さ」とは何でしょうか。ヨハネの素晴らしい点は、イエス様のことを、「私にはその人の足のひもを解く値打ちもない」と語り、「彼は栄え、私は衰える」と言ったことです。イエス様をキリストと認め、自分よりも上のお方だと証言できるのは、謙虚さがなければなりません。
神様は高慢な者を退けるお方ですから、ヨハネが人々の評価を受けておごり高ぶっていたら滅ぼされたでしょうが、彼はイエス様の前に謙ることができました。私たちも自分や他者の評価を求めたり高ぶったりする罪を悔い改め、自分の罪を赦すために十字架についてくださったキリストを信じるとき、私たちの心は自己の罪を認める「砕かれた魂」となるのです。その点では、十字架以前に殺され、罪の悔い改めをできなかったヨハネよりも心を低くすることができた。ですから「彼より偉大」だとイエス様は語られたのです。
教会は天国の「ひな形」です。自分の罪を認め、キリストの前に謙り、自分の力ではなく、ただイエス様の恵みにすがって十字架を信じることが最も賞賛されます。素直な幼子は大人よりも純粋に自分の小さな罪を認め、イエス様を信頼する点で天国に相応しい、とイエス様は教えられました。大人も幼子のような素直な信仰を持ちたいと思います。

神の国の王は?

2023-07-01
千代崎 備道  

国々の中で言え。
「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」
天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
(詩篇九十六篇10、11節)

旧約聖書の中では「神の国」という言い方は、ある意味、当たり前のことです。イスラエルは神の民と呼ばれています。詩篇では93篇から99篇までに「主は王」というテーマが繰り返されています。
日本語の翻訳を比べてみますと、新改訳は「主は王である」と訳していますが、口語訳聖書や、一番新しい聖書協会共同訳では「主は王となられた」と訳しています。「王となった」というのは、それまでは王ではなかったのか、という屁理屈を言う人がいるかもしれません。むしろ、神様の「御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます」(詩篇九十三・2)とも書かれているように、天地を造られたお方は、それよりも前から王であり、世界の所有者でしたし、天地が滅んだ後も、新しい天と地を支配される永遠の王です。このお方が世界を正しく治めてくださるとき、世界に生きるものは全て祝福された存在となります。
問題は人間です。最初の人が神様の御言葉に背いたときからずっと、人間は自分が王であると考え、神様の御心に背いて、自分の思い通りに生きてきました。その結果、神様との関係は悪くなり、人間同士も争い合い、苦しめ合ってきました。そして、自然界をも思い通りにしようとして破壊してきたのです。神様は、人間が悔い改めるまで、人間の自主性に委ねて見守っておられ、しかし救いを求める人には手を差し伸べてくださいました。どれほど人間が王のように振る舞って過ちを犯しても、神様はまことの王として私たちを導こうと御言葉を語っておられるのです。
私たちは、キリストの十字架によって救っていただいたときから、キリストのもの、キリストの弟子となりました。でも、自分の思い通りにしたいという自己中心の罪があって、だから揺るがない人生どころか、悩みつつ、自他を苦しめつつ歩んでいます。しかし、詩人は語ります、「主は王である」と。私たちが神様こそが王であると求め、このお方の前にひれ伏し、従う決心をするとき、主が私の王となってくださり、私たちの人生を造り変えてくださるのです。
あなたの人生の王は誰でしょうか。主が王です、と告白するとき、神様が王として私たちを救い、導き、神の民としてくださるのです。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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