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み言葉のいづみ

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実を見つけ出す目

2018-10-01
千代崎 備道
 
 わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。
 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。
 
(雅歌二章2~3節)
 
受難週にイエス様が実の無い無花果(イチジク)の木を枯らしなさった出来事(マタイ二十一章19節など)を読むと、自分が実を結べないとイエス様から叱られるような気がして、不安を覚えることがあります。何年もの間、受洗者が起こされないと、牧師は自分が悪いのではと責任を感じます。でも、実を結ぶのは神様の働きですから、人間の業ではないとも思うのですが。
冒頭に引用した雅歌は、表面的には男女の恋愛を謳った詩で、これだけ読むと意味が分からない、難解な書ですが、歴代の教会は、これはキリストと教会との愛の関係を表すものとして受け入れてきました。登場する娘が教会(これはギリシャ語では「教会」は女性名詞だからです)で、男がキリスト、と考えても良いのですが、男から女、女から男への愛のどちらも、キリストの私たちへの愛と、私たちのキリストへの愛を教えています。
シュラムの女と呼ばれる娘も、彼女を愛する男も、相手が群衆の中に紛れていても、必ず見つけることが出来る、と言います。愛する人は、ゆりの花、林檎の実のように、目立つのです。私たちも愛する人や家族を、どんな人混みの中でも見つけることが出来ます。それは、愛があるからです。
神様は私たちを愛の目をもって見ておられます。それは聖書のあらゆる所で教えられている真理です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ四十三章)。ですから、私を見つけられないことも無いし、私たちが結ぶ実をも必ず見つけてくださるのです。自分では何の結実も無い、と失望していても、神様の目は希望を持って見ておられるのです。
有名な「愛の章」(第一コリント十三章)に「愛は寛容であり」から始まり「すべての我慢(他の訳では忍び)、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」で終わるくだりがあります。私たちも忍耐をもって祈り続け、寛容に受け入れ、神の時が来て豊かな実を結ばれることを信じるのです。求道中の方々のため、家族友人のため、祈り続け、受け入れ続けることも、愛の働きであり、結実に至る道なのです。

結実の陰にある御業

2018-09-01
千代崎 備道
 
 神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。
 
(マルコの福音書四章26~29節)
 
技術が発展して、数ヶ月分の映像を編集して数分間に縮めて見せれば、芽が出てニョキニョキと成長して実を結ぶまでを見ることができます。穂の中を断面図で見せて、実が大きくなる様子を描くことも可能です。でも、どうしてそうなるのかは分かりません。学生時代に、光合成により空気と水から炭水化物が合成されるサイクルを学び感動しましたが、どうして植物がそのように働いているかは分かりません。科学は昔より多くの知識を与えてくれますが、さらに多くの疑問が出てきます。そうやって科学技術は発展するものだからです。結局のところ、私は子供時代と変わらず、いつのまにか植物が生長して、花が咲き、実がなるのを不思議に感じるのです。それでも、実がなると、その果実を味わうことができます。もし、成長のプロセスを知らなければ、食物は工場で出来たとしても違いは分かりません。でも、多くの人の努力や労があり、誰よりも、その背後におられる神様が実を結ばせてくださったことを知るなら、感謝して食べることができます。
私たちは仕事などが上手くいくと、その結果だけを享受したり、その過程の一部だけを知って人間の働きを誇ったりもしますが、背後で働いておられる方を忘れることがあります。それは教会でも、また信仰者の生活でも、同じ事が起こりえます。
「神の国は」とイエス様は譬え話を始めておられます。教会が成長し、私たち一人一人が畑の麦にように成長していきます。一人の人が教会に導かれ、何人もの方がその人と関わりを持ち、やがてその人がイエス様を信じて救われ、さらに成長して神様の働きをするようになる。その全てにおいて、人間だけでなく、神様の働きが見えないところにあるのです。ですから、今は、まだ実が結ばれていない段階でも、見えない部分で神様の助けがあり、一歩一歩進んでいることを信じて、祈りながら結実を待ち望みたいと思います。やがて結実し、収穫の時が来た時、神様に感謝を捧げましょう。

夏の果物から収穫の秋へ

2018-08-01
千代崎 備道
 
 主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏の果物です」と言うと、主は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。」
 
(アモス書八章2節)
 
暑い夏に水分と糖分を与えてくれる果物は良いイメージを感じさせます。ところが神様は、北王国イスラエルの滅亡を預言者に告げるのです。旧約聖書には数多くの「だじゃれ」(正確には「語呂合わせ」)が使われています。ヘブル語では夏の果物は「カイツ」、終わりは「ケーツ」です。預言者が「カイツ」と言うと神様は「ケーツ」と告げたのです。近い時期に南ユダ王国に遣わされた預言者イザヤは、イスラエルの象徴であるぶどうの木を題材に、神様がぶどうの木を植えて甘いぶどうを期待したのに酸っぱいぶどうを結んだ民に、神様の裁きの言葉を伝えています。「主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血」(イザヤ五章7節)。ここにも「公正」(ヘブル語でミシュパト)と「流血」(ミスパハ)が似た発音で駄洒落となっています。
一所懸命に努力をしたら良い結果になるかと言うと、そうならないことがあります。何かが間違っていたためです。学生時代に「一夜漬け」の勉強をしたことがあるでしょうか。最近の研究では睡眠によって記憶が定着すると言われますが、徹夜で暗記したことが思い出せなかったり、寝不足で集中力を失って、良い結果に結びつかないこともあります。時間を掛けて書いたレポートが良くない評価を受けるかもしれません。学生だけでなく、仕事や人間関係でも、良い結実を期待したのに、悪い結果となってしまうことがあります。
イエス様は、ご自身をぶどうの木に譬え、私たちはその枝であって、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ一五章4節)と教えました。自己中心や不信仰のままでは、悪い実を実らせてしまうのが人間なのです。しかし、その罪から救ってくださるキリストと繋がって生きるとき、主が良い実を実らせてくださるのです。
預言者アモスは滅亡を語っただけではなく、神の審きによりイスラエルは精錬されて、再び豊かな収穫を実らせる救いの日をも預言しています(九章)。失敗や挫折さえも神様は用いて、私たちをきよめ、成長させ、何よりもキリストとさらに堅く結びつく者とされ、収穫の恵みへと進ませてくださるのです。
 

実が結ばれないときにも信じる

2018-07-01

千代崎 備道

 

 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 

(マルコの福音書十一章13節)

 

実の季節ではないのに、実が見つからないイチジクの木を呪って枯らしてしまうイエス様を不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。イエス様が求めておられたのは「初なりのイチジク」だと言われます。実りの季節の前に、実のようなものが出来て、人々はそれを探し求めるそうです。「私の好きな初なりのいちじくの実」(ミカ七・1)との神様の言葉もあります。
「初なりの実」の派生語に、「初穂」や「初子」というヘブル語があります。畑の初穂はまず神様に捧げます。また羊や山羊の母親が産む最初の子供は神様のものとして捧げます。最初の小羊を捧げてしまって、もし次が生まれなかったら、と心配になります。しかし、たくさん生まれて最後に余ったものを捧げるのではなく、神様がさらに与えてくださると信頼して、一番最初に感謝を捧げる。それが初子や初物の献げ物です。神様が好まれるのは、珍しい初物ではなく、神様への信頼です。
イチジクとぶどうは、どちらもイスラエルを象徴します。十字架の直前に、イエス様はエルサレムの人々が信仰を持つことを期待しました。何も実がないなら、今後も実を結ばない木は切り倒されてしまいます。それは、数十年後にローマ軍によるエルサレム陥落で成就します。でもイエス様はエルサレムの滅亡を望んでおらず、将来の豊かな結実を証しする初なりの実を実らせて欲しかった。この出来事はイエス様のエルサレムに対する警告であり、戒めでした。
私たちは実を結ぶことが難しいときに、焦ったり、失望して自分を裁いてしまいがちです。イエス様は、この枯れたイチジクの木のようになるなと戒めてくださるだけなのではありません。忍耐して待ち続け、必要な肥料を与えてくださるお方です(ルカ一八・8、二月号参照)。でもその恵みに甘んじて、自ら実を結ぶことを願わなくなってはいけないとも語っておられるのです。種を蒔き、成長し、結実するには時間と忍耐も必要です。なかなか「初なり」が無いと失望しそうになります。でも芽が出て、葉が茂るなら、収穫は遠くはありません。ちゃんと「初なり」があることを見いだし、小さなことでも神様に感謝し、信頼しましょう。

雨が降り日が照る

2018-06-01
千代崎 備道
 
 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
 
(ホセア書六章3節)
 
雨の季節には、洗濯物が乾かないから、足もとが濡れるから、と言って雨が降ると憂鬱になります。梅雨が終わって猛暑になると、熱い日差しを避けるようになり、駐車するときは日陰を好み、日焼けしないように対策をします。もう少し若かった頃は、海水浴に行って真っ黒になるのが夏の過ごし方だったのですが。
梅雨に降る雨も、真夏の日光も、どちらも作物のためには必要不可欠です。どちらかが欠けてしまえば不作となります。イスラエル地方では日差しが不足することはほとんどなく、雨が降るかが農業にも牧畜にも重要問題でしたから、雨が降ることを願う表現が多く使われています。(例外は箴言二十七・15に出てくる「雨漏り」の話と、そして大洪水をもたらす雨くらいでしょうか。)
雨が多すぎる、あるいは少なすぎる、と不平を言い、日光をありがたがったりするかと思えば、日差しを避けたりする。何と人間というのは身勝手なのでしょう。私たちは、自分の人生でも、少しでも思い通りにならないと、「なぜ、こんなことが自分に起こるのか」と嘆き怒ります。しかし、もし神様が私たちの人生を実り多いものにしようとお考えになるなら、必要な雨と日差しを、必要な時に、必要な量だけお与えになるでしょう。今は辛く苦しいと思う出来事さえ、神様の御手の内にあるなら、私たちの信仰を成長させ、御心に適った実を結ばせるために、無意味ではないのです。
旧約聖書に登場する人々は、それぞれが苦難の時を通ります。しかし聖書が告げているのは、その苦難こそが、その人が神様と出会い、普段では知り得なかった神の恵みを知る機会となることです。アブラハムとサラは跡継ぎがいない悩みの中で、またヨブは全財産と健康を失って苦しむ中で、神様の声を聞いたのです。冒頭のホセアの預言では、イスラエルの人々は神様に従わずに滅びに向かう中、神様の恵みを安易に求めるような稚拙な信仰でした。しかし彼らが国の滅亡を通して知ったのは、まことの神様に従うことだけが救いだという真理でした。彼らは確かに「主を知る」ようになるのです。ですから敗北も失敗も無駄にはならなかったのです。
雪も雨も太陽も喜ぶ子供のように、天の父なる神様を信頼して、どんな境遇でも豊かな実りとしてくださるお方に従いましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
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