本文へ移動

み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

信仰の生まれるところ

2008-07-01
島津 吉成
 
  さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
  それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
 
マルコ15章33~39節
 
  聖書に登場する一人の人物を通して、信仰への一歩を踏み出すために、何が大切なのかを考えてみましょう
 
  主イエスの十字架刑を指揮していたと思われるローマ軍の百人隊長が、主イエスを信じる信仰へと導かれました。彼は、主イエスが素晴らしい奇跡を行うのを見て、信じたのではありませんでした。彼が目にした主イエスというお方は、なんとも惨めな、一人の男にしか過ぎませんでした。主イエスは、十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、聞きようによっては泣き言にしか聞こえない言葉を口にするのです。
  ところが、主イエスが息を引き取られたとたん、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。罪のために人間は神の前に出ることができなかったのです。その象徴が神殿の幕でした。神と人間とを隔てていた罪が、主イエスの十字架によって贖われ、除かれたのです。ですから、神と人間との間を隔てていた幕が二つに裂けて、人間は、罪を赦された者として神の前に立つ道が開かれたのです。
  百人隊長は、惨めな十字架、それこそがすべての人の罪を背負って、すべての人に代わって苦しんでくださった神の子の姿であることを悟りました。どうして、彼はそのことを悟ることができたのでしょうか。それは、彼が十字架につけられた主イエスの「正面に立っていた」からです。それが彼を、「主イエスこそ神の子、救い主」と信じる信仰へと導いたのです。鍵は、十字架の正面に立つことです。信仰は、ここから始まります。

ただ、小犬でも

2008-06-01
津 吉成
 
  しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
  すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
  しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
  そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっばです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

マタイ15章25~28節
 
ひとりの女性が、主イエスのところに来て、必死になって頼みました。自分の娘が悪霊に取りつかれて、苦しんでいるというのです。「何とか、助けてほしい」、それが彼女の願いでした。ところが主イエスは、その女性を「小犬」と呼びます。「自分は神から選ばれたイスラエルの民のところに遣わされているので、小犬のような異邦人(ユダヤ人以外の民族)に与えるパンはない」と言われるのです。愛に富んだ主イエスの言葉とは思えない、冷たい言葉です。
  しかし彼女は、その主イエスの言葉にもひるみませんでした。彼女は、「主よ。そのとおりです」と言って、自分が小犬のような存在であることを認めるのです。そして、その上で、「食卓から落ちるパンくず」でもよいから、私に憐れみをかけてほしいと願うのです。それを聞いた主イエスは、感心して言われます。「ああ、あなたの信仰はりっばです。その願いどおりになるように」。
  何という謙遜さでしょう。普通の人であれば、「私は、愚かな者で」と自分では言っていても、人から言われると、ムカッとくるものです。でも彼女は、「そのとおりです」と言い切るのです。これは、道徳的な「謙遜さ」という次元を超えているように思います。神の前に、自分は本当に取るに足りない存在、という自覚が言わせた言葉ではないかと思います。それを、主イエスは、「りっばな信仰」と言ってくださったのです。私たちは、神が祈りを聞いてくださる、ということに慣れっこになっていないでしょうか。これは、当たり前のことではないのです。大きな憐れみなのです。「小犬」の祈りをも、神は聞いてくださる。ここから、感謝と喜びが生まれてきます。

開かれた門

2008-05-01
島津 吉成
 
  その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが
聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
  たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
(ヨハネ黙示録 4章1~4節)
 
  また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の
幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネ黙示録 5章11~12節)
 
  使徒ヨハネは、迫害によって流刑に処せられ、パトモス島に幽閉されていました。そのヨハネに、主は天を見上
げさせ、「一つの開いた門」を見せてくださいました。そこには、御座に着いておられる主イエスがおられ、御座の
回りには虹があり、多くの人々と御使いが主を賛美していました。幽閉の身であったヨハネにとって、この光景
は、雲の切れ間から太陽の光が差し込むように、明るい希望と励ましを与えたに違いありません。
  20世紀の代表的な神学者の一人であるA・M・ハンターは、ヨハネ黙示録が私たちに伝える大切なメッセージ
の一つは、「真の楽天主義」であると言っています。人間が作り出す楽天主義は、最後には幻想に終わってしま
います。初めは希望に燃えていても、最後には失望で終わってしまうことが多いのです。しかし、主が与えてくだ
さる希望は失望に終わることはありません(ローマ5章5節)。主はヨハネに、主を信じる者の人生のゴールに何
が待っているのか、その光景を見せてくださったのです。天の御国は、すべてを治めていてくださる主イエスがお
られ、そこは虹のように美しく、力強い賛美に溢れていました。
  私たちの人生のゴールは、この天の御国です。そして、この御国へと至る人生の旅路において、主はいつも共
にいて支え続けていてくださるのです。ですから、たとえどのような試練があったとしても大丈夫なのです。私たち
は、この主にあって、真の楽天主義に生きることができるのです。
  天を見上げましょう。主は、私たちにも天の門を開いて、見るべきものを見せてくださいます。

あなたの道を主にゆだねよ

2008-04-01
島津 吉成
 
  悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
  主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえて
くださる。
  あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなた
のさばきを真昼のように輝かされる。
  主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
                                                       (詩篇37篇1~7a)
 
  聖書は、「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え」と勧めています。人に対して腹を立て、ねたみを起
こすのではなく、いろいろと、ぐしゃぐしゃした問題がある「地」ではあるけれども、その「地」に住んで、神様が導
いてくださる「善」を行うこと、誠実に生きること、そのようにして、この「地」に「神の国」が造られていくように努
めること、ここに私たちの使命があります。
  しかし、このように一所懸命、使命に生きようとするとき、気をつけなければいけないことは、燃え尽き症候群に
なってしまう危険があるということです。自分の力だけで、頑張っていると燃え尽きてしまいます。真面目な人ほ
ど、なりやすいのです。
ですから、聖書は「主に信頼して」善を行え、と勧めているのです。主は生きて、働いておられます。それなの
に、自分の力で神の国を造り上げることができると考えるのは、高慢なのです。また、自分の力で何とかしなけ
ればいけないと考えるのは、不信仰なのです。さらに、自分の考え通りに物事を進めようとするのは、自己中心
の罪なのです。主が、成し遂げてくださるのです。その主に信頼しましょう。私たちは、その主のしもべです。
  ですから、「主の前に静まる」ときを持て、と聖書は命じています。自分の考えや働きが先行するのではなく、それらを止めて、まず聖書を読んで、主に聴くのです。主と呼吸を合わせるのです。共にいてくださる主、支え
導いてくださる主を思うのです。そこから、喜びと力が湧いてきます。これが、燃え尽き症候群にならない秘訣
です。高慢と不信仰と自己中心の罪から守られる秘訣です。一日に一度、このような「時」を持つ。ぜひ、実行
してみてください。

さあ、向こう岸へ渡ろう

2008-03-01
島津 吉成

  さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子
たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
  ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。
私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に
「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなに
こわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖
までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
(マルコ4章35~41節)
 
  3月から4月へ。卒業、入学、進学、就職…、人生の様々な転機を迎える方々も多いことでしょう。このような
明確な出来事がなくても、私たちは、やはり何か心を新たにする、そんな思いでこの節目の時を迎えるのでは
ないでしょうか。
  そして教会の暦では、この時期に受難週とイースター(復活祭)を迎えます。主イエスの十字架と復活の恵み
によって、闇が光へ、絶望が希望へ、嘆きが喜びへと変えられる、そのことを感謝するときを迎えるのです。
  このような「転機」を自分自身のこととして迎えるためには、ただ黙って時の流れに身を任せるというよりも、
やはり「決断する」という意思の働きが必要だと思います。
  主イエスは、弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。そのとき、時刻はすでに「夕方」でした。
もう、湖に舟を漕ぎ出すような時間ではなかったのです。しかし弟子たちは、文句も言わずに舟を出しました。
途中で、激しい突風に襲われるという出来事が起きます。しかし、主イエスはその嵐の中でも眠っておられる。
主イエスの心は平安そのものだったのです。主イエスは嵐におびえ、うろたえる弟子たちを諭し、風をしかりつ
けて、嵐を静めてくださいました。こうして向こう岸に着くと、そこには、なんと主イエスの救いを必要としている人
との出会いが待っていたのです。
  「さあ、向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉を聞いて、舟を出す。これが意思の決断です。主イエスが指
し示す向こう岸には、素晴らしい出来事が待っているのです。たとえ途中で嵐が襲ってきても、主イエスが共に
いてくださるのですから、大丈夫。さあ、私たちも、信仰の一歩を踏み出しましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る