本文へ移動

み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

困難を乗り越える教会

2017-02-01
千代崎 備道
 
 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
 
(使徒の働き八章3~4節)
 
最初の教会は、産み出された最初から多くの問題に囲まれていました。内側には不信仰や不一致、外側には迫害。でも、その困難を乗り越えて教会は前進していったのです。
子どもの成長も全てが順調ということはありません。子育てをする親は成長とともに服を新しくし、接し方も変えなければ成りません。子どもも幼稚園や学校に通うようになり、はじめての社会で人間関係で揉まれます。思春期になると、肉体の急激な成長は、時には成長痛を引き起こし、また肉体と心の成長のアンバランスに悩みます。でも、様々な困難を乗り越えてこそ、成長するのです。
教会の前進も、また信仰の成長も、必ず問題が起こりますし、また、その問題に取り組み、乗り越えることが出来るようになることが成長でもあります。時には予想できないことが起きて、不安や混乱を覚える時さえあるでしょう。でも、それも心と信仰が成長する機会です。
初代教会に起きた内的な問題の一つが、文化的な違いから起こった差別であったことを、使徒の働き六章1節は記しています。ヘブル語を話せるユダヤ人クリスチャンが、ヘブル語は話せずギリシャ語だけを話すユダヤ人クリスチャンを差別し、そのしわ寄せが弱い立場のやもめたちに及んだのです。教会にあってはならない問題ですが、十二弟子は裁くのでは無く、神様からの知恵を受けて、七人の役員が立てられ、教会は組織的にも成長したのです。
外的な問題は迫害です。サウロ(後のパウロ)が中心となって教会への大迫害が起こり、成長してきたエルサレム教会は離散してしまいます(八章)。しかし、その機会を神様は用いて、散らされた人たちによって福音はますます広められたのです。
どちらも最初から予想していなかったでしょうし、その問題が起こったときはどうなることかを案じたかもしれません。でも、神様が生きて働いておられるなら、どんな難しい問題も成長の機会となるのです。なぜなら、教会は神様のものだからです。聖霊が教会を産み出し、キリストが教会のかしらであるのです。私たちも、今も生きておられる神様を信頼し、聖霊の働きを認め、キリストに従って、教会と共に前進してまいりましょう。

前進する教会、前進する私たち

2017-01-01
千代崎 備道
 
 こうして教会は、……全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けた…。
 
(使徒の働き九章31節)
 
今年は主に押し出され、導かれて、前進する教会、そして一人一人の歩みにおいても前進する信仰者でありましょう。
子どもの頃、雪が降りますと、雪が積もった空き地にまだ誰の足跡もついていないのを見ると、一番乗りで足を踏み入れて、なんだか征服でもしたような快感を感じたことはないでしょうか。初めの一歩は心躍る冒険への一歩です。真っ暗な部屋や夜中の荒野に足を踏み入れるのは、勇気が必要な初めの一歩です。長旅や山道で疲れて休憩したとき、また長い道のりへと踏み出すのは決意がいります。
最初の教会の歴史が、使徒の働きに描かれています。その第一歩は聖霊が力強く背中を押して踏み出したものです。その後は、順調に前進する日々もあれば、迫害や問題により足踏みする時もありましたが、必ず聖霊は前に導いてくださいました。
池の上教会の歴史もそうです。山根可弌先生の背中を聖霊が後押しされ、主イエスが前に立って導かれ、教会が歩み始めました。苦難の時もありましたが、聖霊は日々、山根先生を初めとする先生方を、そして一人一人の信徒の方々を励まし、教え導き、今日まで前進して来ました。そして、聖霊の働きは今も続いています。
前に進むのが困難な時は、人間は後ろ向きになりやすい。また現状維持のほうが前進よりも楽に見えて立ち止まってしまうこともあります。しかし、やがて人間の思いではなく、聖霊が教会を導き、私たちは教会の主であり頭(かしら)であるイエス様の御心に従って、また前進を始めるのです。
一人一人の信仰生涯にも同じ事です。後ろ向きになったり、現状で満足するときは、信仰が停滞し衰えているときですが、私たちの心を宮としてくださる聖霊がそれでは喜ばれません。必ず背中を押し、手を引いて、立ち上がらせ、前に進み出すようにされるのです。あるときはそっと囁いて前進する思いを与え、また躊躇(ためら)っているときは力を込めて後押しし、それでも頑なになっているなら、その場所には居ることが出来ないように強いられるのです。
私たちは前進します。天国に向かって、キリストの似姿となる目標に向かって、一歩ずつ、助けられつつ、前進する信仰を持たせていただこうではありませんか。

遣わされた救いの勇士

2016-12-01
千代崎 備道
 
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
(ヨハネ第一の手紙四章10節)
 
勇士とは、遣わされたなら、どんな危険な戦地にも恐れずに向かいます。父なる神が御子を救いの勇士としてこの世に遣わされたのがクリスマスです。
旧約聖書に預言されている通りメシヤがどのような扱いを受けるかを、御子はご存じでした。彼の民であるはずのイスラエルの人々は、彼を拒みます。それでもイエス様は人々を愛し、罪人の友となり、病人を癒やし、神の恵みを教えました。しかし、熱狂していた群衆の心はやがて離れ、心血注いで育てた弟子たちは裏切って逃げました。最後に勇士を待っていたのは処刑場の十字架です。しかし、裁判の場でも恐れずに立ち続け、十字架につけられても人々を救うことを忘れず、父なる神に祈られたのです、「父よ、彼らをおゆるしください」と。
この勇士を遣わされた父なる神は、忠実な彼を決して見捨てたりはしません。十字架の死に至るまで御旨に従い通した勇士は、最後は死という敵に打ち破られたかに見えました。しかし、神は勇士を死から甦らせ、罪と死に対して勝利を与えられたのです。そして、このお方を救い主として信じる私たちにも、罪の赦しと天国の希望を与えて、勝利を分かち与えてくださるのです。
この救いの勇士であるイエス・キリストは、さらに奥地へと赴きます。それは私たちの心の中です。弟子たちと共に過ごされたお方は、今度は信じた私たちの心の中に住んでくださいます。でも、私たちはこのお方を私の主としてお迎えしているでしょうか。
『私の心は私の王国だ。私は自分の好き勝手に考え、やりたいことを願い求めるぞ。私は決して間違っていない。悪いのは全て他の者たちだ。』
キリストが心の中に来てくださっても、私たちは彼を心の片隅に押し込め、都合が良いときだけ利用し、主人として従うことは拒絶する。それが私たちの本音なのではないでしょうか。
でも救いの勇士は、それでもひるむこと無く、私たちを愛し、教え、癒やし、語りかけ続けてくださるのです。
このお方を私の勇士として、心の王となっていただくなら、私の心を造り変え、内なる人を新しくしてくださるのです。

傷ついた勇者

2016-11-01
千代崎 備道
 
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 
(イザヤ五十三章4~5節)

サムソンの時代から軍事国家ペリシテに苦しめられてきたイスラエルを救うためにサウル王が選ばれ、敵を排斥して独立を目指す戦争を率いた。でもサウルは道半ばで倒れ、ペリシテとの激戦で戦死した。彼の死を嘆いたダビデは弔いの歌を作った。「勇士は倒れた」と(第二サムエル一・19)。サウルの遺志を継いだダビデは、圧迫していた周辺国を倒し、平和をもたらした。しかし彼は誘惑に負け、罪との戦いに倒れ、国はやがて王位継承の混乱に陥り、ついには分裂に向かっていった。ダビデの子孫として、罪との戦いに挑んだナザレのイエスは、権力者たちの嫉みに遇い、反対者たちは彼が神を冒涜する罪を犯したと主張し、ついに殺してしまう・・・。
戦いに強い勇士でさえ、いつか倒れる時が来ます。救いの勇士であるイエス様も、敵に捕らえられ、むち打たれ、傷つけられ、最後には死んでしまいました。しかし、主が傷つけられたその痛みは、私たちの罪のためであり、その傷は私たちを罪の病から癒やすためであることを、キリスト誕生の数百年前に預言者イザヤが語っています。
強い勇士であるイエス様は、祭司長たちとの戦いに力で勝つこともできましたが、それでは私たちを救うことができない。そこで自ら(無実なのに)罰を受け、苦しみを受けてくださった。それは私たちを救うためだったのです。その痛みに耐える強さを持っておられる勇士だったから、このお方だからこそ、天の父に見捨てられ、罪人たちからも侮辱され、喉が渇くほどに血を流しても、なお私たちの赦しを祈って、罪の身代わり(贖い)を成し遂げることができたのではないでしょうか。誰よりも強いお方だから、十字架による救いを成し遂げることができたのです。
アドベント(待降節)は、旧約聖書の民が長年、救い主を待ち望んだ忍耐を覚え、私たちのためにこの世に来てくださったお方の苦しみを覚える時です。肉体をとられた神の御子が私の罪のためにその体全部で苦しみを受けてくださったことを思い、このお方に心からの感謝と賛美を捧げましょう。

恐れるなと命じる主

2016-10-01
千代崎 備道
 
 あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。
 
(Ⅱ歴代誌二十章17節 口語訳)

「恐れるな」「恐れてはならない」。この言葉は聖書全体に何度も繰り返されています。神様が私たちに「恐れるな」と命じられるのは、私たちには恐れがあるからです。自分の力ではどうすることもできないとき、私たちは恐れます。最初は自分でできると思い、自信を持っていたのが、不測の事態が起こり、考えていた計画が崩れるとき、不安と恐れを感じます。人間が全知全能であって未来のことも確実に予測でき、何事にも対処できる力があるなら、恐れる必要はありません。しかし、人間は神ではない。ですから、誰でも恐れることがあり得るのです。これまでは大丈夫だったから、という空元気は、すぐに消え失せるのです。
この人間に対し、神様は「恐れるな」と語ります。恐れは自然に湧き上がる感情ですから、恐れるなと言われても、つい恐れが心の奥に湧き上がってきます。ですから、神様は恐れるなと言う不可能なことを命令しているのはなく、恐れを持ってしまったときに、共におられる神を認め、神はどんな困難でも、どれほど多くて強い敵がいても、神様ならば勝利することができる、私たちの救いの勇士だと信じて、恐れを乗り越える平安と信頼を持つようにと招いておられるのです。
第二歴代誌二十章では、ヨシャパテという信仰深い王様の時代に、近隣の国々が連合して攻めてきた。ヨシャパテ王が神に助けを祈った時、神様は「恐れるな」と語られただけでなく、神ご自身が戦うと約束されたのです。次の日、ヨシャパテと民は出陣し、神様を賛美して行進しました。すると彼らが戦う前に神様が敵軍に働きかけ、敵は分裂して同士討ちを始めたのでした。こうしてヨシャパテ王は神様による勝利を目撃し、その勝利に与らせていただいたのです。
恐れるな、と命じられる神様は、私たちと共におられるだけでなく、ご自身が困難と闘う決意を持っておられるのです。私たちが自分の力に頼るのではなく、神様の主権を認め、従うならば、恐れる必要は無いのです。神様は勝利の主であり、戦いに猛き勇士だからです。
心の中に恐れや不安がありますか? 困難な問題や敵がありますか? 「恐れるな」と言われる主を信じましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る