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み言葉のいづみ

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キリストのからだを結ぶ十字架

2022-03-01
千代崎 備道  

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エペソ人への手紙二章16節)

この御言葉の中で「両者」とはユダヤ人と異邦人のことです。旧約聖書の時代にはイスラエル人は自分たちだけが神の祝福に与ることができると思っていました。確かに神様はイスラエルを神の民とされましたが、その目的は彼らが世界中の人が神様の祝福を受けるための「祭司の国」となることでしたが、高慢と自己中心のためにユダヤ人は異邦人を見下していました。そんな彼らのことを周囲の異邦人も嫌がり、ユダヤ人と異邦人の間には敵意という隔ての壁があったのです。その壁を打ち砕き、両者を一つとするのは並大抵のことではありません。
この手紙が書かれた一世紀だけでなく、今も教会の中に隔てが生じることは度々あります。もともと私たちはそれぞれ違いがあります。好みや考え方、あらゆることで違いがあるのは当然です。また性格の違う人と「馬が合わない」のも普通です。しかし、それが隔てとなり、敵意にまでなってしまうのは、やはりそこに人間の罪があるからです。違いに目をとめて、自分は正しく相手は間違っていると考えるのは「自己義認」の罪です。相手を自分の思い通りにしたい、そうでなければ敵視する、というのは自己中心です。
お互いに、あるいは一方が我慢をしていても、続きません。本当の解決は十字架だと聖書は教えます。十字架は私たちに神様との和解をもたらします。神に背を向けていた罪を赦してくださり、神の子として受け入れてくださった。その神様の愛を知るなら、神様と敵対することはできなくなります。そのようにして私を受け入れてくださった神様が、我慢できないと思っている相手のことをも愛しておられ、イエス様が十字架の贖いで救ってくださった。その恵みを否定するなら、自分の救いも否定することになります。キリストの十字架が間に立っているとき、「両者」はキリストのからだ、すなわち教会の中で一つとしていただけるのです。
教会の交わりは、人間的な交わりだけですと、時には仲違いもおきるでしょう。十字架を中心とした交わりが聖徒の交わりとなるのです。キリストのからだである教会には様々な部分があり、違いがあります。それを結びつけるのは十字架に示された神の愛、キリストの恵みによる救いです。キリストのからだを建て上げるために、もう一度十字架に目を向けましょう。今は受難節です。

キリストのからだを建てる信仰

2022-02-01
千代崎 備道  

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 
(マタイの福音書十六章18節)

「教会」という言葉が新約聖書の中で初めて登場する箇所で、ペンテコステに教会が誕生する前からイエス様は教会を建てることを計画しておられたことが分かります。この岩が何かについては、カトリック教会ではペテロのことだと言われます。ペテロとは「石」を意味しますので、岩との関連性があるからです。でも、この直後にペテロはイエス様から「下がれ、サタン」と叱られてしまいます。プロテスタントでは、この岩とはペテロが告白した「あなたは生ける神の子キリストです」(16節)という信仰告白だと考えられています。
教会がその上に立てられるべき土台がイエス様を救い主だと信じる信仰告白にあるということは大切なことです。イエス様を信じる人がいなければ人数が多くても教会とはなりません。二人、また三人でもイエス様を信じて集まるなら、そこに教会が建てられます。私たちもイエス様の十字架によって救われ、イエス様を救い主として信じる信仰によって生きるとき、キリストのからだである教会が建てあげられていくのです。また、その信仰を告白し、語り伝えるなら、教会は広がっていきます。ペテロがイエス様の十字架を否定し、人間的な考えを優先したとき、「下がれ」と言われてしまった。教会はイエス様への信仰が第一なのです。
この御言葉で見落としてはいけないのは、「わたし」です。ここで「わたし」と言っているイエス様です。教会は「わたしの教会」、すなわちイエス・キリストの教会であって、人間のものではありません。キリストを頭(頭)とする、キリストのからだなのです。また、「わたし」が建てる、というのは、人間の力だけでは教会は立つことはできません。イエス様が共にいてくださり、イエス様に従って働くとき、イエス様が建ててくださるのです。
今年の池の上教会の標語は「キリストのからだを建て上げるために」です。教会とは何か、キリストのからだとはどのように働くのか、一つ一つ考えてまいります。まず、イエス様こそ私の、また私たちの救い主キリストであることを信じる信仰を確認しましょう。まだ世界は揺れ動いています。でも小さくてもイエス様を信頼するなら、ハデス(黄泉)の門という人間には打ち勝てない死の力にさえも打ち勝つ。それが教会だとイエス様は約束しておられるのです。

キリストのからだを建て上げるため

2022-01-01
千代崎 備道  

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり・・・。  
(エペソ人への手紙四章12節)

「キリストのからだ」とは教会のことですが、教会を建て上げるとは建物の建築ではありません。今も生きておられるキリストの「からだ」としての働きを担っている教会に、神様に召された私たちがキリストを中心として集められ、一つとなって主なるキリストに仕える。それがキリストのからだなる教会を建て上げることです。
疲れた体と心は休むことで癒やされても、休んだままですと動く力まで衰えてしまいます。コロナ禍の疲れから癒やされるために、教会は何をしたら良いのでしょうか。教会は互いに仕え合うため、また宣教のために存在しています。仕え合うとは具体的には奉仕です。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」とは、キリストに仕えたいクリスチャンが御言葉によって信仰を整え、御心を学び、より良く仕えることで、キリストに仕える喜びがあります。昨年はできないことも、できたこともありました。退修会やコンサート、若者たちの新しい活動、また先輩の信徒たちがインターネットで集会を行いました。今年はさらにできることを探し、これまで以上に助け合いつつ神様に仕え、教会はますます成長するのです。
昨年は聖餐式も二回行いました。聖餐式は主の命令であり、十字架の意味を教えます。「キリスト、我がうちにありて生くるなり」と、キリストが私を通して働かれ、キリストと同じ生き方へと変えられる。最後の晩餐でイエス様は弟子たちの足を洗い、僕となって互いに仕えるように教えました。私たちも教会の中でも外でも、隣人に仕え、福音を伝えるのです。仕えるよりも人の上に立ちたいのは自己中心です。僕となって仕えるときに私たちは成長します。私たちが主に仕え、奉仕と宣教で互いに仕え合い、自分も教会も前進する。それがキリストのからだを建て上げることです。
現実の教会には不足があり、不満を覚えるでしょう。でも自分も足らない点があり、それを補い合うのが愛です。人の不足を裁くのではなく愛によって補うとき、人間の不足にキリストが働かれ、その愛がキリストのからだの各部分をつなぎます。昨年来、教会の交わりは大きな打撃を受けています。でも共に祈り、共に主に仕え、離れていてもお互いのために何かをして、前よりも強く結び合うのです。どんな試練も乗り越える力が与えられ、教会はさらに強められます。教会も一人一人も成長することを目指していきましょう。
(元旦礼拝説教より)

主の再臨を待ち望む

2021-12-01
千代崎 備道
 
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
(第一コリント十一章26節)
 
この御言葉は聖餐式のたびに読まれます。聖餐のパンと杯を受けた私たちは、主の死(十字架)を告げ知らせ、十字架の贖いによる救いを宣べ伝える使命があります。それをいつまで続けるのかというと、「主が来られるまで」、これは再臨のことです。教会が始まり、最初の弟子たちは再臨を待ち望みました。それは、主が天に昇られたとき、キリストが再び来られると告げられたからです(使徒一11)。イエス様ご自身も何度か世の終わりの再臨について語り、その日がいつであっても大丈夫なように心備えをするべきだ、と教えられました。弟子たちはすぐにでもイエス様にお会いしたい気持ちで再臨を待ち望み、心備えをしました。
時代が進み、迫害の厳しかった1~3世紀、殉教の危機に直面したクリスチャンたちも、主の再臨を心から願い、待ち望みました。しかし、迫害がなくなり、信仰の熱心さが失われると、再臨への待望も忘れ去られ、主を待ち望んで生きる生き方も失われるのでした。日本でも再臨の教えが強調される時もあれば軽んじられることもありました。でも、御言葉の通り、聖餐の恵みに与り、十字架の救いを確認しつつ歩む私たちは、再臨への希望を忘れてはいけないのです。
コロナ禍の時代に限らず、厳しい状況に置かれるとき、私たちは主の助けを願い求め、救ってくださる神様を待ち望みます。ただ、神様のご計画がありますから、ある助けはすぐに与えられ、あるいはすでに与えられ始めているかもしれませんが、ある試練については長い時間がかかるかもしれません。何年も祈りつつ待ち望む中で私たちは今すぐに解決が与えられることを願います。しかし、早すぎる解決がさらなる問題を引き起こすかもしれません。世界の悪がただちに無くなることを願うなら、悪を行っている人が神の裁きによって全て滅ぼされてしまいます。神様は一人でも多く救われることを願って、忍耐して待っておられる。ですから最終的な解決は主が再び来られるときなのです。そのときは涙も苦しみも無くなるからです。その日まで、私たちは御心に従って、十字架の救いをひとりでも多くの人に告げ知らせるのです。そして「主よ来たりませ」(黙示録二十二20口語訳)と祈るのです。その日が来るまで、私たちはこれからも主を待ち望み、助けを願い求めつつ、再臨の日を待ち続けるのです。

主からの慰めを待ち望む

2021-11-01

千代崎 備道  

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。

(ルカの福音書二章25節)


この箇所はよくクリスマスの翌週に語られます。生まれたばかりのイエス様がエルサレムの神殿に連れて行かれたのは、律法に書かれている儀式を守るためでした。その神殿でシメオンに出会います。彼はイスラエルが慰められることを待ち望む人でした。イスラエルはバビロン捕囚以来、ペルシャ、ギリシア、ローマの各帝国に支配され、時には迫害を受けてきました。多くの人が犠牲となり、長い間の苦しみと悲しみは簡単には癒やされないほどです。ある人たちは征服者を軍事的な方法に追い出して独立を取り戻すことを目指しましたが、それで失われた人々が戻るわけでもなく、また力で解決するなら再び力で報復されます。ある人たちは宗教的な熱心さにより心の満足を求めましたが、努力はできても不完全な人間ですから、他者を批判することで自己満足をしていました。しかし、それらの間違った方法では本物の慰めとはなりません。
イスラエルの苦悩は、彼らが神様に背いて偶像礼拝の罪を犯すようになったからです。ですから、他国との関係が変わっても、神様との関係が正しい姿にならなければ、いつまでも慰めは無い。イスラエルの慰めを待ち望んでいたシメオンに、神様は救い主に会わせると約束されました。「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(26節)。その通りに、シメオンは幼子イエス様に見て言いました。「私の目はあなたの御救いを見たからです。・・・異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光です」(30~32節)。神様が救い主を送ってくださり、イスラエルを罪から救ってくださる。それだけでも大きな慰めですが、さらに異邦人にまで光が照らされる。シメオンは大きな慰めを感じたのでした。
神様が必ず救ってくださると信じて待ち望んでいたシメオンが慰めを受けたように、今、私たちも大きな苦難や、また一人一人が悲しみや苦しみを受けている中で、でも神様を信頼して慰めを待ち望むとき、神様は人間が考える以上の祝福を備えておられ、時が満ちたなら慰めを与えてくださるのです。この素晴らしい恵みは、次にキリストがおいでくださる再臨の時まで続いています。コロナ禍が収まり、また喜びを持って交わりを持ち、もっと多くの人たちにキリストの救いを伝えていくときが近づいています。希望を失わず、信仰をしっかりと握って、主を待ち望み続けましょう。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
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FAX.0422-33-0061
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