み言葉のいづみ
開かれた門
2008-05-01
島津 吉成
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが
聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
(ヨハネ黙示録 4章1~4節)
また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の
幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネ黙示録 5章11~12節)
使徒ヨハネは、迫害によって流刑に処せられ、パトモス島に幽閉されていました。そのヨハネに、主は天を見上
げさせ、「一つの開いた門」を見せてくださいました。そこには、御座に着いておられる主イエスがおられ、御座の
回りには虹があり、多くの人々と御使いが主を賛美していました。幽閉の身であったヨハネにとって、この光景
は、雲の切れ間から太陽の光が差し込むように、明るい希望と励ましを与えたに違いありません。
20世紀の代表的な神学者の一人であるA・M・ハンターは、ヨハネ黙示録が私たちに伝える大切なメッセージ
の一つは、「真の楽天主義」であると言っています。人間が作り出す楽天主義は、最後には幻想に終わってしま
います。初めは希望に燃えていても、最後には失望で終わってしまうことが多いのです。しかし、主が与えてくだ
さる希望は失望に終わることはありません(ローマ5章5節)。主はヨハネに、主を信じる者の人生のゴールに何
が待っているのか、その光景を見せてくださったのです。天の御国は、すべてを治めていてくださる主イエスがお
られ、そこは虹のように美しく、力強い賛美に溢れていました。
私たちの人生のゴールは、この天の御国です。そして、この御国へと至る人生の旅路において、主はいつも共
にいて支え続けていてくださるのです。ですから、たとえどのような試練があったとしても大丈夫なのです。私たち
は、この主にあって、真の楽天主義に生きることができるのです。
天を見上げましょう。主は、私たちにも天の門を開いて、見るべきものを見せてくださいます。
あなたの道を主にゆだねよ
2008-04-01
島津 吉成
悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえて
くださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなた
のさばきを真昼のように輝かされる。
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
(詩篇37篇1~7a)
聖書は、「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え」と勧めています。人に対して腹を立て、ねたみを起
こすのではなく、いろいろと、ぐしゃぐしゃした問題がある「地」ではあるけれども、その「地」に住んで、神様が導
いてくださる「善」を行うこと、誠実に生きること、そのようにして、この「地」に「神の国」が造られていくように努
めること、ここに私たちの使命があります。
しかし、このように一所懸命、使命に生きようとするとき、気をつけなければいけないことは、燃え尽き症候群に
なってしまう危険があるということです。自分の力だけで、頑張っていると燃え尽きてしまいます。真面目な人ほ
ど、なりやすいのです。
ですから、聖書は「主に信頼して」善を行え、と勧めているのです。主は生きて、働いておられます。それなの
に、自分の力で神の国を造り上げることができると考えるのは、高慢なのです。また、自分の力で何とかしなけ
ればいけないと考えるのは、不信仰なのです。さらに、自分の考え通りに物事を進めようとするのは、自己中心
の罪なのです。主が、成し遂げてくださるのです。その主に信頼しましょう。私たちは、その主のしもべです。
ですから、「主の前に静まる」ときを持て、と聖書は命じています。自分の考えや働きが先行するのではなく、それらを止めて、まず聖書を読んで、主に聴くのです。主と呼吸を合わせるのです。共にいてくださる主、支え
導いてくださる主を思うのです。そこから、喜びと力が湧いてきます。これが、燃え尽き症候群にならない秘訣
です。高慢と不信仰と自己中心の罪から守られる秘訣です。一日に一度、このような「時」を持つ。ぜひ、実行
してみてください。
さあ、向こう岸へ渡ろう
2008-03-01
島津 吉成
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子
たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。
私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に
「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなに
こわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖
までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
(マルコ4章35~41節)
3月から4月へ。卒業、入学、進学、就職…、人生の様々な転機を迎える方々も多いことでしょう。このような
明確な出来事がなくても、私たちは、やはり何か心を新たにする、そんな思いでこの節目の時を迎えるのでは
ないでしょうか。
そして教会の暦では、この時期に受難週とイースター(復活祭)を迎えます。主イエスの十字架と復活の恵み
によって、闇が光へ、絶望が希望へ、嘆きが喜びへと変えられる、そのことを感謝するときを迎えるのです。
このような「転機」を自分自身のこととして迎えるためには、ただ黙って時の流れに身を任せるというよりも、
やはり「決断する」という意思の働きが必要だと思います。
主イエスは、弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。そのとき、時刻はすでに「夕方」でした。
もう、湖に舟を漕ぎ出すような時間ではなかったのです。しかし弟子たちは、文句も言わずに舟を出しました。
途中で、激しい突風に襲われるという出来事が起きます。しかし、主イエスはその嵐の中でも眠っておられる。
主イエスの心は平安そのものだったのです。主イエスは嵐におびえ、うろたえる弟子たちを諭し、風をしかりつ
けて、嵐を静めてくださいました。こうして向こう岸に着くと、そこには、なんと主イエスの救いを必要としている人
との出会いが待っていたのです。
「さあ、向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉を聞いて、舟を出す。これが意思の決断です。主イエスが指
し示す向こう岸には、素晴らしい出来事が待っているのです。たとえ途中で嵐が襲ってきても、主イエスが共に
いてくださるのですから、大丈夫。さあ、私たちも、信仰の一歩を踏み出しましょう。
神のみこころに添った悲しみと世の悲しみ
2008-02-01
島津 吉成
あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間
であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しん
だからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもた
らします。
ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことで
しょう。
コリント第2 7章8~11節
コリントの教会は、正しい信仰のあり方から外れ、また教会員の中にまで罪が入り込んでいる、という状態に
陥っていました。そのことで心を痛めた使徒パウロは、コリントの教会に宛てて手紙を書きます。それが、コリン
ト人への第一の手紙です。しかし、この手紙だけでは、コリントの教会の人々は正しい信仰に立ち戻ることがで
きなかったようです。そこで、パウロは、現在は失われている「悲しみの手紙」と呼ばれる手紙を書きました。
この手紙を読んだコリントの教会の人々は、ようやく自分たちの間違いに気づき、罪を悔い改め、正しい信仰
生活に戻ることができたようです。その知らせを聞いたパウロは、心から喜び、もう一通の手紙を書きました。
それが、コリント人への第二の手紙と呼ばれている、この手紙です。
その中でパウロは、「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」ということを言っています。「世の悲しみ」
とは、いわゆる「後悔」ということです。後悔は後ろ向きです。どんなに後悔しても、そこには救いはありません。
だから、死をもたらすのです。それに対して、「神のみこころに添った悲しみ」とは、「悔い改め」のことです。悔い
改めは、「向きを変える」という意味です。犯した過ちを悔いたあと、向きを変えて、十字架を見上げるのです。
そこには、罪の贖いがあり、赦しがあります。ですから人は、十字架の恵みによって赦された者として、再び立
ち上がることができるのです。
もう一度、やり直すことができる。年齢を問わず、状況を問わず、どんな人であっても。ここに、主イエスが与え
てくださった救いの恵みがあるのです。
キリストのことばを、豊かに住まわせ
2008-01-01
島津 吉成
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と
賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3章16節)
私たちの教会は、新年にあたってコロサイ3章16節のみ言葉を標語のみ言葉としていただき、新しい年の
歩みをスタートしました。今年、私たちは、第一に、聖書通読に励み、キリストのことばを豊かに住まわせるこ
と、第二に、「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあるように、み言葉の恵みを分かち合う交わりを深め
ること、第三に、感謝にあふれて神を賛美する生活を造っていくこと、この三つのことに励んで行きたいと願っ
ています。
ところで、これら三つのことは、それぞれが独立したことではなく、互いに関連し合っているものだと思いま
す。そして、その中心にあるのは、「み言葉に聴く」ということです。旧約聖書の歴代誌に、ヨシャパテ王の時
代に敵の大軍が押し寄せてきたときのことが記されています。この危機的状況の中で、ひとりの人に神の言
葉が臨みました。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。…あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなた
がたとともにいる」(Ⅱ歴代20:15~17)。これを聞いた人々は、みな、主の前にひれ伏して主を礼拝し、大声
で主を賛美しました。翌朝、聖歌隊が先頭に立って、賛美の声をあげると、主がそこにみわざを行ってくださり、彼らは奇跡的な勝利を収めることができたのです。
私たちも、とても感謝するどころではない、という状況に置かれることがあります。しかし、そこで聖書を通して
神の言葉を聴くのです。そのとき、人間の思いを超えた主のみ旨を知ります。そこから、感謝と賛美が生れてく
るのです。