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み言葉のいづみ

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み言葉に聴き、喜びに生きる

2009-01-01
島津 吉成

  私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私に
とって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
                                                              エレミヤ 15章16節
 
今年、私たちの教会はエレミヤ15章16節、「あなたのみことばは、私にとって楽しみ
となり、心の喜びとなりました」を標語のみ言葉として掲げ、「み言葉に聴き、喜びに生き
る」を今年のテーマとして歩んで行きたいと願っています。
  エレミヤが預言者として立てられた時代は、イスラエルの国が堕落し、ついにバビロンに
滅ぼされるというたいへん厳しい時代でした。エレミヤは、罪に染まり、堕落しきった民に
神の言葉を語りますが、誰も聞こうとしません。それどころか、エレミヤを激しく迫害する
のです。
  そのような厳しい状況の中で、エレミヤが語っているのが上記の言葉です。「み言葉を食
べる」とは、み言葉をよく噛み締めて、味わって、信じ受け入れるということです。そのと
き、平安、慰め、喜び、勇気が与えられるのです。こうしてエレミヤは、困難な状況の中で
再び預言者として立つ力が与えられたのです。ですから彼は、「あなたのみことばは、私に
とって楽しみとなり、心の喜びとなりました」と言ったのです。私たちも、エレミヤのよう
にみ言葉を食べましょう。喜びに生きる生活がそこから始まります。
  伝道者の書5章18~20節に、「労苦のうちに、しあわせを見つけ」、「自分の労苦を
喜ぶ」というみ言葉があります。労苦が過ぎ去ったら喜ぶ、というのではないのです。労苦
の最中に喜ぶ、というのです。どうして、そのような生き方ができるのでしょうか。エレミ
ヤのように、み言葉に聴き、み言葉を食べる、ここに鍵があると思います。日々、み言葉を
食べる。そこから、新しい力が与えられます。またこの務めは主が私に託してくださった務
めだ、という使命感が与えられます。さらに、主がともにいて助けてくださる、という信仰
が与えられます。こうして、喜んでその務めに向かうことができるようになるのです。「こ
ういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるから
だ」(伝道5:20)。何という幸いな人生でしょう。み言葉に聴き、喜びに生きる生活が、ここ
にあります。

ここに愛がある

2008-12-01
島津 吉成
 
  愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな
 
神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 
  神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 
  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての
 
御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべき
です。
 
(ヨハネ第1 4章7~11節)
 
  今年も、クリスマスの季節となりました。クリスマスと言えば、「赤」ですね。赤く色づいたポインセチアが
 
クリスマスの雰囲気を演出しています。
 
  なぜ、クリスマスの色が赤なのでしょうか。それは、主イエス・キリストが十字架の上で流された「血」を表
 
しているからです。
 
  神のひとり子であった主イエスは、すべての人を救う救い主として、クリスマスの夜、家畜小屋で人となって
 
お生まれくださいました。そして、33年のご生涯の最後に、すべての人の罪を代わりに負って、十字架に
 
かかってくださいました。一度も罪を犯したことのない主イエスが、すべての人の罪の身代わりとなって死んで
 
くださったのです。
 
  主イエスの両手と両足は、荒削りの木に釘で打ち付けられました。肉が裂け、血が流れました。すべての人
 
を救うために、これほどの犠牲を払ってくださった救い主の姿をすぐ近くで目撃した弟子のヨハネは、「ここに愛
 
がある」と言いました。神に背き、自分勝手な生活をしていた私たちです。それにもかかわらず、その私たちを
 
見捨てず、しかも、神のひとり子の十字架の死という大きな犠牲を払ってまで救おうとしてくださる神様。そのこ
 
とがわかるとき、私たちも、「どんなに神様が私のことを愛してくださっているか」ということに気づくのです。
 
  赤、それは主イエスの十字架による罪の赦しのしるし、そして、神の愛のしるしです。赤いローソク、赤いリボ
 
ン。クリスマスの赤を目にするとき、神の深い愛を思いましょう。

五つのパンと二匹の魚

2008-11-01
島津 吉成
 
イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこか
らパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」…ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取
るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに
言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々
では、それが何になりましょう。」イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かっ
た。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚
も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
 
(ヨハネ 6章5~11節)
 
主イエスの前には、男だけで五千人、女性や子供たちも数えたらいったい何人になるのでしょうか、ともかく大ぜいの人々がいました。主イエスは彼らを空腹のままで帰らせたくないと思われます。しかし、弟子のピリポは、「彼らが少しずつ食べるだけのパンを買うにしても、二百デナリでは足りません」と答え
ます。ピリポは、まず、お金の計算をして、「それは無理だ」と言ったのです。
次に、アンデレが一つの情報を持ってきます。それは、少年が五つのパンと二匹の魚を持っているとい
うのです。おそらく、一人の少年が、主イエスと弟子たちとの会話を聞いて、自分のお弁当を差し出したの
でしょう。でも、アンデレは「しかし」と言葉を続けます。「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何に
なりましょう。」当然の結論です。お腹をすかせた五千人以上の人々を前にして、五つのパンと二匹の魚
では、どうにもなりません。私たちも、しばしば、このアンデレと同じようにつぶやきます。「今、私に与えら
れているもの、それはあまりにも粗末なものだ。直面している課題を前にして、これがいったい、何になる
だろうか。」
けれども、主イエスは、この五つのパンと二匹の魚を少年の手から受け取られます。そして、感謝をささ
げられたのです。そののち、そのパンと魚を裂いて弟子たちに渡されました。それを弟子たちが配ると、な
んと、人々は十分に食べることができ、余ったパン切れで十二のかごが一杯になったのです。この奇跡は
2千年前の昔話ではありません。五つのパンと二匹の魚を用いてくださった主イエスが、今も、私たちと共
にいてくださるのです。今、あなたの手にある五つのパンと二匹の魚を、まず感謝しましょう。そこから、奇跡
が始まるのです。

起きて、床を取り上げて、歩きなさい

2008-10-01
島津 吉成
 
  さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、5つの回廊が
ついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
  そこに、38年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう
長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がか
き回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて
行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 すると、その人はすぐに
直って、床を取り上げて歩き出した。
 
(ヨハネ 5章2~9節)
  主イエスは、38年もの間、病気で伏せっている人に向かって、「よくなりたいか」と聞かれました。病人
がよくなりたいと思うのは当然だと思いますが、なぜ、主イエスは、あえてこのようなことを聞かれたので
しょうか。それは、この病気の人の心の中にある「思い」を聞き出すためだったようです。
  彼は、主イエスの問いかけに促されて、自分のことを誰も助けてくれないという寂しさ、人々に先を越され、取り残されていく辛さ、もう直らないのではないかというあきらめ、そのような思いを語りだします。さらに彼
の中には、38年間も病気でしたので、よくなりたいという思いと共に、もし直ったら、これからの生活がどう
なるのかという、生活が変わることへの不安な気持ちもあったように感じられます。
  このような、彼の心の中に積もりに積もっていた思いを、主イエスはじっと聞いてくださいました。口を開くこ
とは、心を開くことに通じます。主イエスに自分の思いを話すことによって、彼の固く閉じていた心が開かれて
いったのです。その彼の心に、主イエスは語りかけてくださいました。「起きて、床を取り上げて、歩きなさい。」
ここで「床」と訳されている言葉は「(粗末な)わらぶとん」という意味です。主イエスは言われたのです。「あな
たの心の中にある、あきらめや不安、そのような『わらぶとん』にしがみついていないで、それを取り上げて、さあ、起きて、歩きなさい。」
  彼は、この主イエスの言葉を信じて立ち上がってみました。すると、立てたのです。主イエスのみ言葉には、人を立ち上がらせる力があるのです。主イエスは、今も、このようなお方として、私たちと共にいてくださいます。

感  謝

2008-09-01
島津 吉成
 
  「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
  それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは
むなしくなり、その無知な心は暗くなりました。…
  それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたから
です。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
(ローマ 1章 20~21、25節)
 
 「感謝もせず」、ドキッとする言葉です。
  聖書で「罪」を意味する言葉の一つに「ハマルティア」という言葉があります。「的外れ」という意味です。
弓矢で的を狙って矢を射る。ところが、矢が的から外れて、とんでもないところに飛んで行ってしまう。この
ような的を外した生き方、つまり、神様が人に「こう生きてほしい」と願っている生き方(的)から大きく外れた
生き方をしている、聖書はそれを罪というのです。そして、その的外れの生き方の具体的な姿として、「感謝
もせず」ということがあげられているのです。
  私は、そんなに悪いことはしていない。まじめに、精一杯、生きている、そう思っている人は多いのではない
かと思います。しかし、あなたの生活に、もし、「感謝」がなければ、それは「的外れな生き方になっている」と、聖書は言うのです。
  あなたの持っている豊かな才能も、健康も、財産も、家族も、それは、すべてあなたが作り出したものですか。
もちろん、あなたが努力したからこそ、今、手にしているものもあるでしょう。でも、その努力する力も含めて、実は、すべては神様からのプレゼントなのです。このことに気づくとき、そこから感謝が生まれてきます。そして
この感謝は、私がいま手にしているものは、皆、神様が私に与えてくださったものなのだから、神様と隣人の
ためにそれを用いていこう、という生き方を生み出します。これこそ、「的を得た」生き方です。あなたが、もし、今、感謝を忘れていたなら、ぜひ、神様が与えてくださっているプレゼント(恵み)を数えてみてください。きっと、あなたの心に感謝が湧いてきます。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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