み言葉のいづみ
命の限り主を賛美しよう
2025-01-01
千代崎 備道
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。
(詩篇一〇四篇33節)
私たちはなぜ賛美をするのでしょうか。讃美歌を歌うのが好きだから、という方もおられるでしょう。まだクリスチャンでない人でもキリスト教を愛してくださることを主も喜んでおられます。救われた恵みに感謝して神様を褒め称える方もおられます。旧約聖書の詩篇には多くの祈りと賛美が含まれていますが、苦難の中での祈りは最後に賛美の誓いと呼ばれる、祈りが聞かれて助けられたなら神様を褒め称えます、との誓いで祈りを閉じているものがあります。また賛美の中にも神様がしてくださった救いの御業を感謝して賛美を捧げている詩が少なくありません。
しかし、詩篇の賛美の中には、何か良いことをしてもらったからではなく、何も無くても、神様が神様だから賛美を捧げているものがあります。詩篇104篇もその一つで、神様が天地創造の主であるから、褒め称えているのです。
賛美とは偉大なお方を讃えることで、時には音楽を用い、時には絵画などの芸術を用い、その賞賛の思いを表すことです。私たちが讃美歌を歌うときに、その賛美が向けられている神様を心から崇めて、神様の御業を言い表して、心の底から讃えるなら、私たちも詩篇の賛美を生み出した旧約時代の信仰者たちと同じ、賛美者なのです。
今年の教会標語は「命の限り主を賛美しよう」です。生きている限り、何歳になっても幼子たちの賛美のように、心からの感謝と喜びをもって神様に賛美を捧げましょう。命の限りを尽くし、私たちの力を尽くし、思いを尽くして、主を崇めましょう。それは、救われたから、助けていただいたから、感謝による賛美でも良いでしょう。でも、何も無くても、神様が私たちの神となってくださった、天の父となってくださった、ですから無条件で主を賛美するのです。
最初は賛美が分からない人でも、救いの恵みに与り、感謝を献げ、敬愛の思いを込めて主を崇めるようになることを、神様は喜んでくださいますが、まだ何も恵みをいただいていないのに、心から主を賛美する者を、神様はさらに喜んでくださるのではないでしょうか。主を崇め、信頼するなら、それ以外のことは、全て「添えて」与えられます。今年は、まず主を讃えて進んで参りましょう。
主の御手は伸ばされ続ける
2024-12-01
千代崎 備道
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。
(詩篇百三十九篇9~10節)
世界のどこに行っても、そこで神の御手が導いていてくださることを、この詩篇は驚きを込めて詠っています。遠いバビロンに捕囚とされた民はこの詩に慰められたでしょう。現代はインターネットの時代で、世界中どこででもつながることが出来ますが、神様は旧約聖書の時代から既に全世界に御手を伸ばしておられるお方です。
クリスマスに良く語られる「インマヌエル」とは、「神が我らと共におられる」という意味ですが、イザヤ書七章で預言者イザヤがアハズ王に告げた言葉です。アハズは偶像を拝む不信仰な王でしたが、神自らしるしを与えるから信じなさい、と迫られました。そのしるしがインマヌエルです。ところがアハズはなおも神様の言葉に背き、イスラエルの民も神様に従いません。そこで神の怒りの手がイスラエルに伸ばされた、とイザヤ書は続けています。神の怒りの手がくだされ、北王国は滅亡し、南王国も壊滅状態になりますが、それでも彼らは悔い改めない。そこで怒りの御手は何度も伸ばされます。でも、最後に神の御手は彼らを救うために伸ばされる。その遣わされた御手こそが御子イエス・キリストです。
イスラエルにだけ伸ばされたのではなく、神の救いの御手は全世界に広められました。イエス様の弟子たちが世界中に出て行って福音を宣べ伝えたのです。今も御手は伸ばされ続けています。私たちにも救いの御手が伸ばされ、また私たちをも用いて主は救いを広めておられるのです。でも私たちは道具のように使われるのではありません。主を証しする私たちにも主の恵みの御手が伸ばされ続け、御業を行ってくださるのです。たとえ遠く離れていても、苦しみの中に深く沈んでいても、そこにも主の御手は伸ばされ、主の御手が私たちを導いていてくださるのです。
まもなく二〇二四年が終わり、新しい年が始まります。これからも主の御手は伸ばされていきます。人間はもうダメだと諦めそうになることもあります。でも御子をも遣わし、聖霊をも注いでくださった神様は、私たちを諦めたりはしません。どこにいても、どんな状態でも、主の御手が私を導き、力強い主の右の手が私を捕らえて放さないのです。この御手に信頼するなら「主は私たちと共におられる」、インマヌエルの主であるイエス様が共に住んでくださるのです。来年も主を信頼しましょう。
主の手を妨げてはならない
2024-11-01
千代崎 備道
そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
(マタイの福音書十九章13節・口語訳)
池の上教会では「子ども祝福」と称して、月に一度、子どもたちの頭に牧師が手を置いて神様の祝福を祈ります。それはイエス様が子どもたちを祝福したことに倣って行われていることです。
新約聖書の時代にも人々は教師や祭司のような宗教的指導者のところに子どもを連れてきて、神様からの祝福を祈ってもらっていたのでしょう。イエス様も神の国を教える教師と見られていたので、人々は子どもたちを連れてきました。でもイエス様の毎日は大変に忙しいものでしたから、弟子たちはイエス様を患わせないようにと、彼らをたしなめて近づけようとしませんでした。しかし、イエス様はその弟子たちを叱ったのです。「邪魔をしないで、わたしのところに来させなさい」。そして言われました、「天の御国はこのような者たちの国なのです」。
神の国は子どもたち、そして子どものように素直に御言葉を受け入れる者が入れていただけるのだと教えられました。子どもたちは自分ではイエス様のところに行けないかもしれません。両親や大人たちに連れられて行くのです。そんな小さな存在に、イエス様は手を差し伸べ、近づけてくださったのです。主の手は子どもたちに伸ばされたのです。
ところが、その主の手を妨げたのは誰でしょうか。他でもない、主の弟子たちでした。十二使徒を初めとする数百人、あるいはそれ以上の弟子たちがいました。後に弟子たちはクリスチャンと呼ばれるようになります。クリスチャンが主の手を妨げてしまったのです。そこには多忙で、時には疲れることもあったイエス様を守りたかったという思いやりがあったのかもしれません。もしかすると、自分たちこそキリストの側にいることが許されているという特権意識が働いたのかもしれません。動機が何であっても、彼らのしたことはキリストの御心に反することでした。
私たちも、自分の考えで主の手を妨げてしまってはいけません。もしイエス様が救おうと考えて御手を伸ばしているなら、その働きを妨げるのではなく、お手伝いをするべきです。たとえ、自分の考えが正しいと思っても、イエス様のお考えに従うのです。そうすれば、主の手はますます豊かに広く伸ばされ、多くの人が祝福に与るようになるからです。
主の手が短いのではない
2024-10-01
千代崎 備道
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ書五十九章1、2節)
神の助けを願っても与えられないでいると、神様が自分を見放して手を伸ばしてくださらないのか、あるいは、この問題に関しては神様も手が短くて救うことが出来ないのか、と考えてしまいます。
神様の御手が伸ばされないのには理由があるでしょう。ある場合は、神の時が来ていないからです。今はその時ではなく、最善の時があるのを神様はご存じです。あるいは、私たちの求めることが御心とは違っていて最善の結果とはならないのなら、神様は違う形で祈りに応えてくださるでしょう。もしかしたら、私たちの成長に必要な訓練であるなら、直ぐには手を伸ばされないでしょう。でも、逃れの道も用意していてくださいます。
しかし、もっと深刻なケースがある。それは罪の問題です。イザヤが語ります、イスラエルの民が助けを求めても主の手が伸ばされないのは彼らの罪が原因だ、と。イスラエルは何度も神様に背いて罪を犯してきました。その結果、彼らが災いに遭う。するとそれまで真剣に神を求めて来なかったのに都合の良い助けだけを求めて祈る。それでも憐れみの神は何回も彼らを苦難から救ってくださったのですが、このようなことを繰り返しているなら、彼らは本当に罪に染まって、信仰も形だけの御利益信仰となってしまう。そこで、神様は彼らに裁きを下し、彼らが心から悔い改めて立ち返るのを待っている。ですから、彼らの咎の故に祈りに応えないのです。
では、本当に神様は罪の問題には手を伸ばすことが出来ないのでしょうか。いいや、「主の手は短かかろうか」。神様は右の手、すなわち最も力強い「手」を伸ばしてくださった。それが御子を遣わしたことです。十字架により人間を罪から救ってくださったのです。
今、私たちのためには、主の手は十分に伸ばされています。すでに十字架の贖いは完成しました。聖霊が私たちの心に使わされています。教会が救いの場として与えられました。ただ、私たちが自分から心を開かないのなら、神様は無理矢理に私たちを変えようとはなさいません。神様との間を仕切っている罪があるなら、私たちの側から罪を告白し、主からの救いを祈りましょう。そのとき、主の手は私の心の底にまで伸ばされ、罪を赦し、汚れをきよめ、私たちを造り変えてくださるのです。
祈りに応える主の手
2024-09-01