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み言葉のいづみ

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信仰を広げてくださる主

2011-02-01
千代崎 備道

しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
 
すると、彼女の娘はその時から直った。
 
マタイ 15章 27~28節
 
福音書の中でキリストはユダヤ人だけを相手にしているように見えることがあります。それは、旧約聖書で預言
 
された救い主はイスラエルに遣わされて十字架につけられるのであり、キリストの使命は十字架にかかって救い
 
の道を完成することだからです。異邦人を含む、全世界への宣教は教会に与えられた使命です(使徒1・8)。
 
しかし、時々、イエス様が溢れる愛の故に異邦人に手を差し伸べることがあります。この箇所では、苦しむ娘を
 
助けて欲しい異邦人の女性がイエス様のもとにやってきました。しかし、イエス様は、最初は彼女を無視し、次
 
には「異邦人は相手にしない」と拒絶します。それでも娘を救って欲しい一心で、彼女は願い続けます。
 
  「すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』と言わ
 
れた。」(26節)
 
  異邦人を犬扱いするとは、イエス様もユダヤ人至上主義なのでしょうか。しかし、彼女は「子犬でもおこぼれを
 
もらいます」と、諦めなかったのです。もし、この女性が、ユダヤ人は異邦人を相手にしないという当時の常識に
 
留まっていたら、奇跡はおきませんでした。この出来事はキリストの救いは民族の垣根を越えて、広げられてい
 
くことを示したのです。

天幕を広げよう

2011-01-01
千代崎 備道

私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわい
から遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願った
ことをかなえられた。
 
  第1歴代誌 4章 9~10節

あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄の
くいを強固にせよ。
 
イザヤ書 54章 2節
  「祝福する」という言葉は、普通は神から人に対して使われ、同じ動詞を人から神に対して
使うときは「誉め讃える」という意味になります。祝福するのは神様の業です。祭司の祝福も
神様が源です。
  「地境と広げよう、天幕を広げよう」と聞くと、つい私は「では何をしたら良いだろうか」
と考え始めてしまいます。具体的な行動は必要であり大切ですが、それに終始してしまうと、神様の助けや恵みに目が向かなくなり、神様の祝福をいただいていることに気が付かず、神様
に感謝して誉め称えることも忘れます。人間の力で何かを始める前に、まず神様の助けと守り
を願い、祝福を求めることが祈りです。最初に祈るならば、祝福に目が向けられて感謝と賛美
が生まれ、そのような心には、ますます祝福が注がれるのです。
  そして、どうせ祈るならば、大胆に祈りましょう。祈る相手は、祝福の源である神様だから
です。「あれをください、こうしてください」と実際的な祈りをすることも良いですが、人間
の考えをはるかに越えることがお出来になるお方に「大いに祝福してください」と祈り、期待
をするなら、神様も頼られ甲斐があります。さらに、自分のためだけではなく、周りの人のた
め、神様の働きのためにも、大きな祝福を求めるなら、神様はその祈りを喜んで、褒めてくだ
さるのではないでしょうか。

  神様に期待をして祈り、祝福をいただくなら、与えられた全てのことが感謝となり、喜びに
溢れる人生となります(第1テサロニケ5章16~18)。そして、感謝は主を誉め讃える賛
美となり、神の栄光が現されます。信仰をもって大胆に祈る。まず、祈りの天幕を広げましょ
う。そうすれば、神様が祝福を大きくし、地境を広げてくださるのです。池の上教会の51年
目、新しい歴史の上に、また信仰生涯をおくる一人一人の上に、大いなる祝福があります。

幼子の幻

2010-12-01
千代崎 備道

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
(イザヤ書 9章 6節)
 
  イザヤ書は原文ですと「イザヤの幻」というタイトルで始まり、イザヤ書全体が預言としての幻なのです。
 
罪の故にバビロン捕囚が確定したユダ王国の民に対して、捕囚の苦難の向こう側に救いがあることを告げた
 
のが預言者イザヤでした。そのイザヤの膨大なメッセージの中で「幼子」は大切な役割を担っています。7章の
 
インマヌエル預言から十一章へと進む中のクライマックスが九章六節で、クリスマスによく開かれる御言葉です。
 
やがて幼子が生まれ、その子は主権を担う王となって人々を救う、という預言です。
 
  聖書では「名」は実質を意味し、幼子の名はその子がどんな存在となるかを示しています。「不思議な助言者」
 
として悩む人々に適切な言葉を与え、「力ある神」として奇跡を行う。「永遠の父」とはいつまでも頼りになるお
 
方、「平和の君」は世界に、そして神と人との間に平和を与えるお方です。そんな偉大な働きを小さく弱い幼子
 
がするようになるとは、誰が想像できるでしょうか。それこそ誰も信じることの出来ない、不思議な幻なのです。
 
  神様の幻は人間の理解を超えていて、信じがたいこともあります。しかし、やがて御言葉が成就したとき、幻
 
は事実となるのです。私たちに与えられる幻も、今すぐには理解しにくいですし、それがいつ成就するかも分
 
かりません。しかし、信仰を持って待ち望みつつ、前進して行くならば、神様が栄光を示してくださるのです。
 
イザヤの預言を信じ、救い主を真剣に待ち望んでいたシメオンは、幼子に出会ったときに主を賛美しました。
 
(ルカ2・25~35)。
 
  今年、私たちの教会では幼子が多くなってきました。子供たちの元気な姿を見るとき、これは神様の恵みだと
 
感じます。この子供たちが教会に繋がることを願い、ジョイフルキッズの時間を変更し礼拝と並行して行うように
 
なりました。礼拝に出られなくなるスタッフのために九時からの礼拝が始められましたが、それは二回の礼拝と
 
なることで今までの倍の人数が教会に集えることを意味します。子供たちの成長も楽しみですが、この子供たち
 
が大人になる頃、どのように幻が成就していくか、楽しみではありませんか。

神を知る時

2010-11-01
千代崎 備道
 
やめよ。わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。

詩篇46篇 10節
 
  聖書の神様は「啓示の神」である、と言われます。啓示とは隠されていたことが明らかにされ
ることです。人間には知り得ないことを神様のほうから知らせてくださるときに、初めて神様
のことが分かるのです。哲学とは「フィロソフィー」の訳語で、「知を愛する」ことです。で
すから知恵や知識がないと哲学は難しいものです。キリスト教信仰は哲学や学問ではありませ
ん。どれだけ知識を増やしても、なお分からないところがありますが、神様から教えていただ
いたときに、なるほど、と納得できるのです。
  聖書の幻とは、人間の予想や理解を超えたことを神様が示してくださるものです。啓示の神
だからこそ、お出来になることです。ところが私たちは、自分の知識や経験に頼ろうとし、自
分の力だけで将来を考えようとする傾向があります。しかし、人生は思い通りには行きませ
ん。行き詰まって初めて、神様に頼ったり、文句をつけたりします。そのとき、神様は「私の
言葉に耳を傾け、私が示すことに目を向けなさい。そうすれば分かるから」とおっしゃるので
す。
  詩篇46篇は、ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ軍に包囲された時のこと(Ⅱ列王18~19
章)が背景にあるのではないかと言われます。大軍が押し寄せてきたとき、人間的な方法で町
を守ろうとして右往左往しやすいものです。しかし、万策尽きて、ただ神様の前に座して祈っ
たとき、神様は御力を示し、敵軍を倒してくださったのでした。文語訳聖書では「汝ら、静ま
りて、我の神たるを知れ」と訳されています。不信仰になって慌てふためくのではなく、全て
のことを一時止めて、神様の前に静まるときに、神様がどのようなお方かを知るのです。それ
は、単なる頭だけの知識ではなく、体験に基づく、体で知る知識なのです。このような「神を
知る」経験こそ、私たちの信仰が揺るぐことのないものとなるために必要なのだと神様はご存
じなので、「やめよ、静まれ」とおっしゃるのです。
  秋から年末は教会にとって一番忙しい時期で、私たちの教会も様々な集会が目白押しです。
仕事も勉強も忙しい時期です。しかし、忙しさの中で慌ただしく時を過ごしてしまうのではな
く、毎週の礼拝で、また日々の祈りの中で、もう一度静まって、御言葉に耳を傾けましょう。
そのとき、神様が語りかけてくださるからです。

神を知る時

2010-10-01
千代崎 備道
 
やめよ。わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。

詩篇46篇 10節
 
  聖書の神様は「啓示の神」である、と言われます。啓示とは隠されていたことが明らかにされ
ることです。人間には知り得ないことを神様のほうから知らせてくださるときに、初めて神様
のことが分かるのです。哲学とは「フィロソフィー」の訳語で、「知を愛する」ことです。で
すから知恵や知識がないと哲学は難しいものです。キリスト教信仰は哲学や学問ではありませ
ん。どれだけ知識を増やしても、なお分からないところがありますが、神様から教えていただ
いたときに、なるほど、と納得できるのです。
  聖書の幻とは、人間の予想や理解を超えたことを神様が示してくださるものです。啓示の神
だからこそ、お出来になることです。ところが私たちは、自分の知識や経験に頼ろうとし、自
分の力だけで将来を考えようとする傾向があります。しかし、人生は思い通りには行きませ
ん。行き詰まって初めて、神様に頼ったり、文句をつけたりします。そのとき、神様は「私の
言葉に耳を傾け、私が示すことに目を向けなさい。そうすれば分かるから」とおっしゃるので
す。
  詩篇46篇は、ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ軍に包囲された時のこと(Ⅱ列王18~19
章)が背景にあるのではないかと言われます。大軍が押し寄せてきたとき、人間的な方法で町
を守ろうとして右往左往しやすいものです。しかし、万策尽きて、ただ神様の前に座して祈っ
たとき、神様は御力を示し、敵軍を倒してくださったのでした。文語訳聖書では「汝ら、静ま
りて、我の神たるを知れ」と訳されています。不信仰になって慌てふためくのではなく、全て
のことを一時止めて、神様の前に静まるときに、神様がどのようなお方かを知るのです。それ
は、単なる頭だけの知識ではなく、体験に基づく、体で知る知識なのです。このような「神を
知る」経験こそ、私たちの信仰が揺るぐことのないものとなるために必要なのだと神様はご存
じなので、「やめよ、静まれ」とおっしゃるのです。
  秋から年末は教会にとって一番忙しい時期で、私たちの教会も様々な集会が目白押しです。
仕事も勉強も忙しい時期です。しかし、忙しさの中で慌ただしく時を過ごしてしまうのではな
く、毎週の礼拝で、また日々の祈りの中で、もう一度静まって、御言葉に耳を傾けましょう。
そのとき、神様が語りかけてくださるからです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
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TEL.0422-33-0018
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