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み言葉のいづみ

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聖霊を待ち望む祈り

2011-06-01
千代崎 備道

  この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を
  合わせ、祈りに専念していた。
 
使徒の働き 1章 14節
 
  ペンテコステとは聖霊が弟子の群れに降り、教会が始まった日です。正確には、聖霊なる神様
はすでに地上で働いておられ、旧約聖書にも現れておられ、またキリストの地上での生涯を支
えておられました。しかし、御子が天に昇られて見えなくなってから、聖霊による働きが顕著
に始められたのがペンテコステです。
  弟子たちはイエス様から聖霊の約束をいただいており、エルサレム(最後の晩餐の部屋?)
で、祈りつつその時を待ち望んでおりました。ある学者は、彼らは約十日間、悔い改めの祈り
をしたと言います。十字架以前は誰が偉いか争い合い、最後はイエス様を見捨てて逃げてしま
った。彼らはそれを徹底的に悔い改め、使徒の働きでは一致協力し、一番を争い合うこともな
くなり、迫害されても逃げなくなったのです。悔いた砕けた心に聖霊は降られ、素晴らしい働
きを始められたのです。教会の歴史の中でも、悔い改めの祈りからリバイバル(信仰復興)が
始まったことが度々ありました。今も、私たちが自分の罪を悔い改め、神様の前に謙るなら、聖霊は豊かに働いてくださいます。
  聖霊は、『使徒の働き』の時代のように、奇蹟を用いて働かれることもあれば、さまざまな
人を用いなさることもあります。聖霊の大切な働きの一つは、御声を語りかけてくださること
です。預言者エリヤが火や風の後で主の細き御声を聞いたように、私たちの人生に突然に引き
起こる出来事を通して語りかけたり、他の人の言葉や証しを通して訴えてくださることもあり
ます。ただ、人間の世界には罪があるため、全てのことが聖霊の声なのではありません。聖霊
は、聖書を通して私たちに確かな御声をかけられます。聖書の本当の著者は聖霊だからです。
  聖霊の御声を聞くには、心開いて、謙る思いが大切です。高慢や自己義認の心は頑なに自分
の考えに囚われて、細き御声を聞くことができないのです。重荷を主に委ね、自分を正しいと
せずに罪を悔い改め、また高慢にならずに弱さを認める。その時、聖霊は私たちの心を造りか
え、人生を新しくすることがお出来になるお方なのです。信仰生活に行き詰まったとき、いえ
順調だと思い込んで躓かないためにも、主の前に心を注いで、祈り続けましょう。

神の働かれる時

2011-05-01
千代崎 備道

サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
 
使徒の働き 8章 3~5節
 
  『使徒の働き』は最初の教会の歴史を描いています。聖霊による華々しい働きの拡大と同時に、反対者たちの
 
妨害も大きくなり、ついにステパノの殉教をきっかけに大迫害が起こり、せっかく成長して大きくなった群れは離
 
散してしまったのです。信仰をもって大胆に宣教をしたのに、なぜこんなことになってしまったのか。普通でした
 
らキリスト教の歴史はこのまま幕を引いていたかもしれません。しかし、キリストを信じて救われて間もない人々
 
は、散らされたにも関わらず、行く先々で福音を伝えていったのです。そしてユダヤ人が蔑んでいたサマリヤの
 
人々にも救いが伝えられたのでした。
 
  人間の目で見るならば挫折や危機と思えることでも、神様は御旨を行う機会となさいます。使徒の働きはイエ
 
ス様の宣教命令により始まりました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そ
 
して、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒一8)。
 
エルサレムに留まり続けていた教会は、迫害をきっかけに周辺のユダヤ地方のみならず、ユダヤ人なら福音を
 
伝えなかったかもしれないサマリヤ地方にも拡大し、さらに世界宣教の担い手となるサウロ(後のパウロ)まで用
 
意されていたのです。
 
  ある先生はクリスチャン人生をボクシングに譬えて、「クリスチャンはノックダウンされることはあっても、ノックア
 
ウトされることはない」と語られました。ノックダウンでさえも神が働かれるチャンスと成るのです。自分の計画が
 
頓挫したとき、それは神の計画が実現し、神の栄光が顕される時なのです。
 
  今年は「天幕を広げよう」と標語を掲げてスタートしましたが、大震災が起こり、日本中が前進を阻まれている
 
かのように見えます。しかし、主を信じる者にとっては決して行き詰まりではありません。人間の弱さや限界を超
 
えた神様の御心が成されることを祈る時なのです。教会の働きを神様が広げてくださることを信じて励みましょ
 
う。また、被災地の方々や、試練を味わっておられる方の上にも、この神様の恵みと助けが豊かにあるように祈
 
りましょう。

あなたはこれを信じるか

2011-04-01
千代崎 備道

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死ん
でも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じま
すか。」
 
(ヨハネ 11章 25~26節)
 
  少しずつ被災地は復興に向けて歩み出し、日本全体でも様々な働きが再開しています。回復には時間が掛か
 
りますし、まだ避難所で困難な生活をしておられる方も多くおられます。行方不明の方も少なくありません。それ
 
でも、前にも目を向けて行こうとしておられる方々のために、私たちも出来ることをさせていただきましょう。
 
しかし、どれほど復興が進み、活気を取り戻したとしても、なお忘れることができないことがあります。愛する人
 
を失った悲しみと心の傷は、慰められ癒されたとしても、消えることは無いでしょう。そのことを思うとき、ただ神様
 
の憐れみを求めるのみです。
 
  冒頭の聖句はイエス様がラザロの死に際してマルタに言われた言葉です。この「死んでも生きる」「死ぬことが
 
ない」が、肉体的な生命のことだけではないことは明らかです。キリストを信じてクリスチャンとなっても死ぬとき
 
が来るのは事実ですが、永遠の命に生かされ天国に入れていただける、それも真実です。でも、それだけなの
 
ではありません。
 
  この章の後半でラザロは生き返ります。しかし、そうなる前に、弟を失った悲しみのただ中にいるマルタに、イ
 
エス様はこの言葉をかけられたのです。ラザロの復活を見たなら、信じるのは当然です(それでも信じなかった
 
人々もいましたが)。しかし、まだ何も起こっていない、現実は何も変わらない状況の中で、復活の信仰を持つよ
 
うにチャレンジをしておられるのです。口語訳聖書は「あなたはこれを信じるか」と訳しています(傍点は千代崎)。
 
  被災地の方々に、また愛する人を失った方々に、今すぐにこの御言葉を伝えるのは難しいかもしれません。し
 
かし、今、私たちが先に主の御言葉を信じ、どのような困難の中にいても復活の信仰を持って、希望を持って歩
 
み、愛の業に励むなら、やがて神様が祈りに応えてくださいます。
 
  今年も十字架と復活を記念する時を迎えました。罪人の私を救うために十字架につき、黄泉にまで下ってくだ
 
さった方が、死の時だけ私を見捨てるはずがありません。どんな苦難の中にいても共に歩んでくださり、復活の
 
希望を与えてくださるのです。

恐れるな

2011-03-01
千代崎 備道

あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」
 
イザヤ書 44篇 2節
 
  古今未曾有の大災害が東日本を襲いました。多くの方が亡くなり、行方不明となりました。被災者の方々は
 
避難生活を強いられています。余震がまだ続いています。原発の事故、停電と交通の混乱、燃料不足による
 
流通の混乱。その中でデマも飛び交います。
 
  私たちは被災者の方々のために祈り、また出来ることを通して愛の手を差し伸べていきたいと願っています。
 
同時に、私たち自身も多くのストレスで心が傷つき、今までとは違う毎日により疲れが溜まって来ます。自分
 
のためにも、主に助けを仰ぐことが必要です。
 
  誰もが恐れを抱きます。健康のこと、仕事のこと、家族のこと。それは今回のような大災害のときに限らず、程度の差があったとしても、いつでも誰もが不安を抱くことがあるのではないでしょうか。そのような私たちに、神様は「恐れるな」と言われます。
 
  旧約聖書の中に少なくとも39回、「恐れるな」と言う言葉が使われ、14回がイザヤ書に集中し、そのうち10回
 
が40章以降に出てきます。この部分は、やがて国が滅亡してバビロン帝国に捕囚として連れて行かれる人々
 
への預言です。戦争により国は荒廃し、多くの命が失われ、そして捕虜となって遠い地で苦難の生活をしなけれ
 
ばならない。その中で恐れを抱かない人がいるでしょうか。特に神を信じる人々は、神から見放されたのではな
 
いかと恐れたことでしょう。その人々に神様は「恐れるな」と何度も語りかけておられます。
 
  恐れなくて良い理由は何でしょうか。捕囚地から故郷に帰る時が来るから、神様の助けがあるから、だから恐
 
れないのか。それならば、また次の帝国が出現したとき、同じ恐れが生じるかもしれません。大切なのは、「わ
 
たし」と言われる神様です。「わたし」であるお方がどんな時にも共にいる。だから、恐れないで良いのです。この
 
お方が「あなた」と呼びかけておられる。だから心配しないでよいのです。そして、この神様は今も、私たちに「恐
 
れるな」と呼びかけておられます。信仰の目をもって神を見上げつつ、今日も歩んでまいりましょう。
 
  (註 「エシュルン」は申命記33章にも使われているイスラエルの別名で、日本のことを「やまと」と呼ぶような
 
古語です)

信仰を広げてくださる主

2011-02-01
千代崎 備道

しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
 
すると、彼女の娘はその時から直った。
 
マタイ 15章 27~28節
 
福音書の中でキリストはユダヤ人だけを相手にしているように見えることがあります。それは、旧約聖書で預言
 
された救い主はイスラエルに遣わされて十字架につけられるのであり、キリストの使命は十字架にかかって救い
 
の道を完成することだからです。異邦人を含む、全世界への宣教は教会に与えられた使命です(使徒1・8)。
 
しかし、時々、イエス様が溢れる愛の故に異邦人に手を差し伸べることがあります。この箇所では、苦しむ娘を
 
助けて欲しい異邦人の女性がイエス様のもとにやってきました。しかし、イエス様は、最初は彼女を無視し、次
 
には「異邦人は相手にしない」と拒絶します。それでも娘を救って欲しい一心で、彼女は願い続けます。
 
  「すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』と言わ
 
れた。」(26節)
 
  異邦人を犬扱いするとは、イエス様もユダヤ人至上主義なのでしょうか。しかし、彼女は「子犬でもおこぼれを
 
もらいます」と、諦めなかったのです。もし、この女性が、ユダヤ人は異邦人を相手にしないという当時の常識に
 
留まっていたら、奇跡はおきませんでした。この出来事はキリストの救いは民族の垣根を越えて、広げられてい
 
くことを示したのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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FAX.0422-33-0061
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