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み言葉のいづみ

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感  謝

2008-09-01
島津 吉成
 
  「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
  それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは
むなしくなり、その無知な心は暗くなりました。…
  それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたから
です。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」
(ローマ 1章 20~21、25節)
 
 「感謝もせず」、ドキッとする言葉です。
  聖書で「罪」を意味する言葉の一つに「ハマルティア」という言葉があります。「的外れ」という意味です。
弓矢で的を狙って矢を射る。ところが、矢が的から外れて、とんでもないところに飛んで行ってしまう。この
ような的を外した生き方、つまり、神様が人に「こう生きてほしい」と願っている生き方(的)から大きく外れた
生き方をしている、聖書はそれを罪というのです。そして、その的外れの生き方の具体的な姿として、「感謝
もせず」ということがあげられているのです。
  私は、そんなに悪いことはしていない。まじめに、精一杯、生きている、そう思っている人は多いのではない
かと思います。しかし、あなたの生活に、もし、「感謝」がなければ、それは「的外れな生き方になっている」と、聖書は言うのです。
  あなたの持っている豊かな才能も、健康も、財産も、家族も、それは、すべてあなたが作り出したものですか。
もちろん、あなたが努力したからこそ、今、手にしているものもあるでしょう。でも、その努力する力も含めて、実は、すべては神様からのプレゼントなのです。このことに気づくとき、そこから感謝が生まれてきます。そして
この感謝は、私がいま手にしているものは、皆、神様が私に与えてくださったものなのだから、神様と隣人の
ためにそれを用いていこう、という生き方を生み出します。これこそ、「的を得た」生き方です。あなたが、もし、今、感謝を忘れていたなら、ぜひ、神様が与えてくださっているプレゼント(恵み)を数えてみてください。きっと、あなたの心に感謝が湧いてきます。

生ける望み

2008-08-01
島津 吉成
 
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大き
なあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たち
を新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
  また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださ
いました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように
用意されている救いをいただくのです。
ペテロ第1 1章3~5節
 
  「希望」は、私たちが生きていく上で、本当に大切なものです。でも、何としばしば、私たちは、この「希望」を失ってしまうことでしょう。
    野口雨情が作詞した童謡に「シャボン玉」という歌があります。
「シャボン玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた
シャボン玉消えた とばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた
風々吹くな シャボン玉飛ばそ」
  この歌は、野口雨情が、生まれて七日目に亡くなった長女を思って作った歌だそう
です。
そう思って読むと、「生まれてすぐに こわれて消えた」という歌詞に、雨情の、亡き
娘を思う、悲しい思いが込められているように感じられます。
  この雨情の思いに、私たちも共感するのではないでしょうか。私たちも、希望を持つ
のです。  期待を寄せるのです。しかし、まさに「シャボン玉」のように、それがはか
なく消えてしまう、そんな経験を誰もが持っているのではないでしょうか。
  そのような私たちに、聖書は語りかけているのです。神は、私たちが「生ける望み」を
持つようにしてくださった、と。はかなく消えてしまう望みではありません。たとえ死の
床にあっても、失われない望みです。主イエスが死をも打ち破って、よみがえられたのです。
その主イエスがどんなときにも私たちと共にいてくださり、私たちにもよみがえりのいのち
を与えてくださるのです。ですから私たちは、どのような苦難のときにも生き生きとした
希望をもって生きることができるのです。

信仰の生まれるところ

2008-07-01
島津 吉成
 
  さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
  それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
 
マルコ15章33~39節
 
  聖書に登場する一人の人物を通して、信仰への一歩を踏み出すために、何が大切なのかを考えてみましょう
 
  主イエスの十字架刑を指揮していたと思われるローマ軍の百人隊長が、主イエスを信じる信仰へと導かれました。彼は、主イエスが素晴らしい奇跡を行うのを見て、信じたのではありませんでした。彼が目にした主イエスというお方は、なんとも惨めな、一人の男にしか過ぎませんでした。主イエスは、十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、聞きようによっては泣き言にしか聞こえない言葉を口にするのです。
  ところが、主イエスが息を引き取られたとたん、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。罪のために人間は神の前に出ることができなかったのです。その象徴が神殿の幕でした。神と人間とを隔てていた罪が、主イエスの十字架によって贖われ、除かれたのです。ですから、神と人間との間を隔てていた幕が二つに裂けて、人間は、罪を赦された者として神の前に立つ道が開かれたのです。
  百人隊長は、惨めな十字架、それこそがすべての人の罪を背負って、すべての人に代わって苦しんでくださった神の子の姿であることを悟りました。どうして、彼はそのことを悟ることができたのでしょうか。それは、彼が十字架につけられた主イエスの「正面に立っていた」からです。それが彼を、「主イエスこそ神の子、救い主」と信じる信仰へと導いたのです。鍵は、十字架の正面に立つことです。信仰は、ここから始まります。

ただ、小犬でも

2008-06-01
津 吉成
 
  しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
  すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
  しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
  そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっばです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

マタイ15章25~28節
 
ひとりの女性が、主イエスのところに来て、必死になって頼みました。自分の娘が悪霊に取りつかれて、苦しんでいるというのです。「何とか、助けてほしい」、それが彼女の願いでした。ところが主イエスは、その女性を「小犬」と呼びます。「自分は神から選ばれたイスラエルの民のところに遣わされているので、小犬のような異邦人(ユダヤ人以外の民族)に与えるパンはない」と言われるのです。愛に富んだ主イエスの言葉とは思えない、冷たい言葉です。
  しかし彼女は、その主イエスの言葉にもひるみませんでした。彼女は、「主よ。そのとおりです」と言って、自分が小犬のような存在であることを認めるのです。そして、その上で、「食卓から落ちるパンくず」でもよいから、私に憐れみをかけてほしいと願うのです。それを聞いた主イエスは、感心して言われます。「ああ、あなたの信仰はりっばです。その願いどおりになるように」。
  何という謙遜さでしょう。普通の人であれば、「私は、愚かな者で」と自分では言っていても、人から言われると、ムカッとくるものです。でも彼女は、「そのとおりです」と言い切るのです。これは、道徳的な「謙遜さ」という次元を超えているように思います。神の前に、自分は本当に取るに足りない存在、という自覚が言わせた言葉ではないかと思います。それを、主イエスは、「りっばな信仰」と言ってくださったのです。私たちは、神が祈りを聞いてくださる、ということに慣れっこになっていないでしょうか。これは、当たり前のことではないのです。大きな憐れみなのです。「小犬」の祈りをも、神は聞いてくださる。ここから、感謝と喜びが生まれてきます。

開かれた門

2008-05-01
島津 吉成
 
  その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが
聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
  たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
(ヨハネ黙示録 4章1~4節)
 
  また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の
幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネ黙示録 5章11~12節)
 
  使徒ヨハネは、迫害によって流刑に処せられ、パトモス島に幽閉されていました。そのヨハネに、主は天を見上
げさせ、「一つの開いた門」を見せてくださいました。そこには、御座に着いておられる主イエスがおられ、御座の
回りには虹があり、多くの人々と御使いが主を賛美していました。幽閉の身であったヨハネにとって、この光景
は、雲の切れ間から太陽の光が差し込むように、明るい希望と励ましを与えたに違いありません。
  20世紀の代表的な神学者の一人であるA・M・ハンターは、ヨハネ黙示録が私たちに伝える大切なメッセージ
の一つは、「真の楽天主義」であると言っています。人間が作り出す楽天主義は、最後には幻想に終わってしま
います。初めは希望に燃えていても、最後には失望で終わってしまうことが多いのです。しかし、主が与えてくだ
さる希望は失望に終わることはありません(ローマ5章5節)。主はヨハネに、主を信じる者の人生のゴールに何
が待っているのか、その光景を見せてくださったのです。天の御国は、すべてを治めていてくださる主イエスがお
られ、そこは虹のように美しく、力強い賛美に溢れていました。
  私たちの人生のゴールは、この天の御国です。そして、この御国へと至る人生の旅路において、主はいつも共
にいて支え続けていてくださるのです。ですから、たとえどのような試練があったとしても大丈夫なのです。私たち
は、この主にあって、真の楽天主義に生きることができるのです。
  天を見上げましょう。主は、私たちにも天の門を開いて、見るべきものを見せてくださいます。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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