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み言葉のいづみ

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復活の主のビジョン

2010-04-01
千代崎 備道

  そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
  「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえ
り、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の
人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

ルカの福音書 24章45~48節
 
  復活の主を見た弟子たちは、最初は霊か幻を見たと思ったようです。しかし、手足に触
れ、会話をするうちに、主が事実よみがえられたことを受け入れるようになりました。その
弟子たちにイエス様は世界宣教のビジョンを伝えられたのです。
  幻や夢というのは、不確かなものと思われています。人間の思いは罪に支配され。自己中心なことを夢見るために、願ったとおりにはならないことが多いからです。しかし、神様の幻は違います。神様は考えたとおりに事を行い、語られたことが事実となっていく力を持ったお方だからです。世界が作られる前から人間の救いを計画され、その計画を言葉により実現させて来られたことを聖書は告げています。
  旧約聖書の預言が十字架や復活で成就したように、イエス様が弟子たちに残していかれた宣教の幻は、世界中に救いの恵みが伝えられることで実現していきました。そして、それは今も続いているのです。
  教会の幻は、教会の主であるイエス様のご計画の中に置かれています。イエス様の幻から外れて、自分勝手な願いをビジョンとして掲げるなら、それは水泡に帰します。救いがあらゆる人に宣べ伝えられる、という大きな幻の中で、私たちの教会も、また私たち一人一人も導かれているのです。自分の救いだけに留まるのではなく、家族の救い、周囲の人の救い、そして教会の働きを通してさらに多くの人が救われることを願い、夢に描き、祈る。そのとき主イエスの幻と私たちの幻とが一致するのです。
今年のイースターで二人の方が受洗の恵みに与られたことは、この幻の実現です。私たちは、
さらなる奇跡を願い、祈りましょう。神様がお一人お一人に与えておられる幻と祈りが、一つ
にまとまったとき、大きなビジョンとなり、それが教会の幻となるのです。一人だけで祈って
いると弱気になることもあります。心を合わせて、一緒に祈りましょう。

十字架を決して忘れない

2010-03-01
千代崎 備道

  私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生
 
きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神
 
の御子を信じる信仰によっているのです。
 
  私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味
 
です。
 
(ガラテヤ2章20節~21節)
 
  パウロはガラテヤのクリスチャンたちに、十字架による救いの大切さを必死で訴えています。彼らがそれを
 
  忘れかけていたからです。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり
 
示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」 (ガラテヤ3章1節)。
  パウロはガラテヤ地方に宣教したとき、何度も繰り返して十字架の話をしたのです。聞いていた人々は目の
前に十字架が見えるほどだったのでしょう。聞き飽きたと思う人がいたかもしれません。
  しかし、十字架を忘れた時、彼らは律法主義に陥りました。信仰による救いではなく、行いによる救いという
間違った教えに染まって行ったのです。もしパウロが彼らの目の前に描いた十字架の姿を覚えていたら、もしそ
の十字架でイエス様が命を賭けて救いの道を開いてくださったことを忘れていなかったら、間違った教えに惑わ
されることはなかったはずです。
  私たちは十字架の恵みを忘れてはいないでしょうか。私たちが救われたのは、良いことをしたとか自分が偉い
からではなく、徹頭徹尾、恵みによるのであり、十字架の贖いによるのです。十字架を目の前に見ていないと
き、不満や不信仰に陥ってしまいがちです。
  今年も十字架と復活を覚える季節となりました。またこの時季だけでなく、十字架のメッセージは毎週のよう
に語られます。それは、決して忘れてはならない大切なことだからです。 パウロのように、キリストとともに十
字架に死に、キリストの命に生きるために、今年も十字架の恵みを確認し、感謝しましょう。
  しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
 
(ガラテヤ6章14節)

幻を掲げつつ歩もう

2010-02-01
千代崎 備道

    どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。
 あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
 
(詩篇43章3節)
     幻がなければ、民はほしいままにふるまう。
     しかし律法を守る者は幸いである。
 
(箴言29章18節)
 
  私は考え事をしながら歩くときは、気が付くと、たいてい下を見ながら歩いています。自分
の足下さえ見ていれば、躓くことはないからです。しかし、周りの様子を見ていないため、引
っ越して来て最初の頃は、間違った道に入ってしまうこともありました。また、自転車が遠く
から近づいてくることに気が付かないで、突然に目の前に現れて、びっくりするときがありま
す。しっかりと前を見ることを忘れると危ないです。進行方向を見ながら歩くなら、足取りも
ふらつきません。
  人生において、小さな失敗をしないために足下の問題だけを見て生きていると、生きる目的
を忘れてしまいます。高い目標を持たないと、成長のない生き方に満足しがちです。その目標
は、自分の願いではなく、神様の示してくださるものでなければなりません。神様が示してく
ださる光を見上げて歩むことが、天国への道だからです。それが神様からのビジョン(幻)で
す。
  箴言29章18節の言葉は、古い英訳では「幻無き民は滅びる」とされています(英欽定
訳)。神様からの幻を持たないと、人間は自分の好き勝手に歩みたがり、その結果、滅びの道
を進んでしまいます。また、足下だけに目を向けているなら、大切なことを忘れ、小さな問題
に思い煩ってしまいます。しかし、しっかりとした目標を持つなら、小さな問題や困難も乗り
越えることができます。
  一人一人の人生も、また教会の歴史も、神の言葉による幻(旧約聖書では幻や夢は預言と同
じ意味で使われます)をしっかりと掲げて歩むなら、ふらつくことは無くなります。幻を見上
げつつ、足下にも気を配りつつ、御心に沿った道を歩みましょう。
神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子
や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2章17節)

教会の幻を見よう

2010-01-01
千代崎 備道

    その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
    その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、たしの霊を注ぐ。
ヨエル書 2章28~29節
 
  預言者ヨエルは、御言葉に従わなかったイスラエル王国が、神のさばきとして敵国に攻めら
れて滅びることを預言しました。しかし、彼はさばきとともに、その後に来る救いの日を描き
ました。その日、すなわち救いの日が来たならば、捕囚により受けた傷が癒されるだけでな
く、神様が共にいて下さるようになる。その証拠として神の霊がすべての人に注がれる、と語
ったのが冒頭の聖句です。
  聖霊が注がれるとき、老若男女、誰もが幻をみるとヨエルは語りました。旧約聖書ではしば
しば、預言と幻を同じ意味で使います。夢も神様のご計画を知らせるために用いられました。
方法は様々ですが、御霊なる神は私たちに神様の御心を教えてくださるお方です。聖書を書か
せたのも聖霊です。だから私たちには聖書を用いて御心を示してくださいます。
  神様は私たちにも聖霊を与え、救ってくださいました。そして、神を信じる者たちを用い、さらに救いの御業を進められます。そのご計画を私たちに示し、正しい方向へと導いてくださ
る。それが神からの幻(ビジョン)です。この幻を見上げつつ教会の働きを進めていくとき、神様が私たちのうちに豊かに働いてくださるのです。
  今年は、池の上キリスト教会の創立五十周年です。過去を振り返って恵みに感謝すると共に、新しい50年
 
に向かってスタートする年としていただくために、神様が示してくださる方向性(ビジョン)を示していただきたい。
 
その願いを込めて、今年の教会標語を「教会の幻を見よう」といたしました。神様が山根可弌先生を用いて教会
 
を建てられたとき、誰が今日の姿を予想したでしょうか。でも、神様はさらに素晴らしい計画を立てておられま
 
す。教会の未来を夢見つつ、神からの幻を見せていただきましょう。また、一人一人にも神様はご計画を持っ
 
て導いておられます。その神様からの夢を見せていただき、希望を抱いて進みましょう。

人となられた御言葉

2009-12-01
千代崎 備道

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは
一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもと
から来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネ1章 1節~4節・14節)
 
  神様は御言葉により天地を創造され、御言葉により人との関係を築かれました。預言者たちに御言葉を伝え
 
させ、王を立て、歴史を導かれました。人々も神に真実な御言葉に信頼し、救いを経験し、信仰が養われまし
 
た。ついに、神様は「ことば」と呼ばれ、御子であるお方を世に遣わし、私たちの救い主とされたのです。それ
 
が、クリスマスです。
 
  マタイやルカがクリスマスの事実を報告したのに対し、ヨハネの福音書の冒頭は、クリスマスの深い意味を教
 
えています。
 
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えに
 
なった。」(12節) この尊い御言葉であるお方を王として心にお迎えするなら、私たちも神の家族としていただ
 
ける、なんという特権でしょうか。この恵みを知るならば、他の楽しいことや嬉しいことは霞んでしまうほどです。
 
最高の素晴らしい祝福を、あなたに。そして、あなたの周りの人々にもお伝えできますように。

  今年、池の上キリスト教会は、島津先生を通して神様が示してくださった御言葉(エレミヤ15章・16節)に基づ
 
き、『み言葉に聴き、喜びに生きる』という標語を掲げて進んでまいりました。み言葉に聴くことは、何よりイエ
 
ス・キリスト様を心に主としてお迎えすることから始まります。一年の終わりを迎え、またクリスマスの良い季節
 
に際し、もう一度、私たちの救い主であり、教会の主であるこのお方を仰ぎつつ、これからも聖書の言葉に親し
 
んでまいりましょう。そこに変わることの無い喜びがあるからです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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