み言葉のいづみ
神を知る時
2010-10-01
千代崎 備道
やめよ。わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。
詩篇46篇 10節
聖書の神様は「啓示の神」である、と言われます。啓示とは隠されていたことが明らかにされ
ることです。人間には知り得ないことを神様のほうから知らせてくださるときに、初めて神様
のことが分かるのです。哲学とは「フィロソフィー」の訳語で、「知を愛する」ことです。で
すから知恵や知識がないと哲学は難しいものです。キリスト教信仰は哲学や学問ではありませ
ん。どれだけ知識を増やしても、なお分からないところがありますが、神様から教えていただ
いたときに、なるほど、と納得できるのです。
聖書の幻とは、人間の予想や理解を超えたことを神様が示してくださるものです。啓示の神
だからこそ、お出来になることです。ところが私たちは、自分の知識や経験に頼ろうとし、自
分の力だけで将来を考えようとする傾向があります。しかし、人生は思い通りには行きませ
ん。行き詰まって初めて、神様に頼ったり、文句をつけたりします。そのとき、神様は「私の
言葉に耳を傾け、私が示すことに目を向けなさい。そうすれば分かるから」とおっしゃるので
す。
詩篇46篇は、ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ軍に包囲された時のこと(Ⅱ列王18~19
章)が背景にあるのではないかと言われます。大軍が押し寄せてきたとき、人間的な方法で町
を守ろうとして右往左往しやすいものです。しかし、万策尽きて、ただ神様の前に座して祈っ
たとき、神様は御力を示し、敵軍を倒してくださったのでした。文語訳聖書では「汝ら、静ま
りて、我の神たるを知れ」と訳されています。不信仰になって慌てふためくのではなく、全て
のことを一時止めて、神様の前に静まるときに、神様がどのようなお方かを知るのです。それ
は、単なる頭だけの知識ではなく、体験に基づく、体で知る知識なのです。このような「神を
知る」経験こそ、私たちの信仰が揺るぐことのないものとなるために必要なのだと神様はご存
じなので、「やめよ、静まれ」とおっしゃるのです。
秋から年末は教会にとって一番忙しい時期で、私たちの教会も様々な集会が目白押しです。
仕事も勉強も忙しい時期です。しかし、忙しさの中で慌ただしく時を過ごしてしまうのではな
く、毎週の礼拝で、また日々の祈りの中で、もう一度静まって、御言葉に耳を傾けましょう。
そのとき、神様が語りかけてくださるからです。
キリストを目指して走る
2010-09-01
千代崎 備道
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。
第1コリント 9章 26節
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして
一心に走っているのです。
ピリピ 3 章 14節
暑さの厳しかった長い夏もようやく出口が見えてきました。暑さの中で辛い訓練に耐えてきた運動選手は
秋の試合で良い結果を出すでしょう。厳しい日差しの中で水をやり手入れをしてきた作物は実りの時を迎え
ます。私たちの信仰生活でも、夏に受けた御言葉の恵みが結実の秋へとつながっていきます。収穫を目指
して、日々歩み続けましょう。
何事にもゴールがあります。決勝点を知らず、目標を持たないで走ることは、苦痛であるばかりでなく、良い
結果を出すことはできません。信仰者のゴールと目標は、天国であり、キリストです。キリストを愛し、キリスト
と共に生きるとき、キリストに似たものにされて行きます。そして、私たちを通してキリストの救いが宣べ伝えら
れ、キリストの愛の業が進められ、キリストの栄光が現されていくのです。
長距離を走るとき、ゴールを知っていても、それは遠くにあって見えないものです。ですから、小さな目標が
必要です。あの角まで、次の補給所まで、何キロ地点まで。そのような目標を目指しながら走るとき、やがて
ゴールが視野に入って来ます。信仰生活でも、聖書通読、礼拝厳守といったことは、それ自体が最終目標で
はありませんが、それを目指すことで、一歩ずつゴールへと向かうことができます。その小さな目標がキリスト
と結びついているとき、闇雲な走りではなく、確実に正しい方向に進むことができます。御言葉を通してキリスト
の愛に触れ、礼拝と通してキリストの御心に従う。私たちの生活のあらゆる場面がキリストとつながっているの
です。
教会の秋は行事が目白押しです。コンサートやランチョンによってお誘いした方々にキリストを知っていただ
き、特伝を通してキリストを信じていただけますように、クリスマスにはキリストの誕生を祝う喜びを共に味わえ
ますように。そしてキリストの栄光を現す教会として用いていただけますように、祈ってまいりましょう。
幻に従った歩み
2010-08-01
千代崎 備道
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ
マタイによる福音書1章24節
旧約聖書のヨセフ(創世記三十七章)と新約聖書のヨセフの共通点は、どちらも夢を見た
ことです。新約のヨセフは夢の中で天使の御告げを聞き、神の命令に従ってマリヤを妻に迎
え、異教の地エジプトに逃げ、また命を狙っている人々のいたイスラエルの地に戻りました。
創世記のヨセフは、牢獄の中で失望していたときに他の者の夢を解き明かし、パロを夢を解
き明かして国を救い、そして、子どものころに見た夢の通りに、父母や兄弟たち、そしてエ
ジプト中の人々から尊敬を受ける人になりました。
二人の夢は決して「バラ色」ではありません。身ごもったマリヤを妻に迎えることは、周囲
の批判も受けることでした。エジプト移住も簡単なことではありません。創世記37章の夢
も、簡単に信じられることではなく、むしろ、その夢の故に十数年間の苦難が始まります。
しかし、二人とも神様に従い続け、一方は国民の、他方は全世界の救いの御業に貢献できた
のです。
現代に生きる私たちは、文字通りの夢や幻だけでなく、聖書の言葉を通して、祈りや様々な
導きの中で神様の御言葉をいただきます。その命令は、自分の計画や願いとは異なるでしょ
う。試練を伴うこともあります。それでも主の言葉に従い、神からの幻を目標に掲げつつ歩む
なら、神様が御言葉を実現してくださるのです。
教会は、聖霊によって誕生し(使徒2章)、聖霊に導かれて歩みます。どのように私たちに御心を示すかは神
の霊のなさることです。大切なことは、その命令に従うか、です。御言葉に従って歩む道には、苦難もあります。
しかし、教会は、迫害を受けつつも成長しました。結果だけ見るならば、御言葉に従うことは、最善の結果に繋
がっています。
しかし、それより以前は、不安を覚えることもあります。でも、幻や御言葉を与えられるお方自身は、私たちには
見えないはるか先まで知った上で、今の私に必要な、また信仰の成長を促す導きを与えてくださるのです。です
から、夢を語られるお方を信頼し、夢に向かって前進しましょう。神様からの幻が成就するとき、従った者を通し
て主の栄光が現されるのです。
神の目には見えている
2010-07-01
千代崎 備道
神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲して
いた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだか
ら」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるよ
うにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦
車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
Ⅱ列王6章15~17節
預言者の家は敵軍に囲まれていましたが、信仰の目で見ていたエリシャは、必ず神が守って
くださると信じ、恐れませんでした。信仰によって考えられない若者は恐れましたが、神様は
彼の心の目を開いて、神の目には何が見えているかを教えてくださいました。彼らを守ってい
る者は敵軍よりも多かったのです。
私たちは自分の目だけで物事を判断する傾向がありますが、人間は知識も経験も不完全なも
のですから、間違った見通しを立ててしまいます。しかし、全知全能の神様は、人間的にはど
れほど不利な状況でも、不可能に思えることでも、神様の目には有利であり可能なこととして
見えているのです。信仰の目とは、その神様からの御言葉を信じ、神様を信頼して判断するこ
とです。
パウロは救われた人々が、今はどうであれ、やがてどのようになっていくか、信仰をもって
見ていました。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじ
め定められたからです」(ローマ8・29)。問題だらけだったコリント教会に対しても、
「私たちはみな、・・・栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」
(第2コリント3・18)と期待をしています。彼はガラテヤの人々の成長を願い、どれほど
の苦労も厭わないと告白しています。「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は
再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4・19)。
私たち一人一人が、これからどのように成長し、変わっていくのか、神様の目には見えています。だから、愛
を注ぎ、聖霊を与えてくださるのです。また教会がどのように主の栄光を現していくのか、楽しみにしていてくだ
さいます。私たちは自分の限られた考えで、限界を定めてしまうのではなく、主の見ておられる姿を幻に描きつ
つ、前進して行きましょう。
神の言葉による幻
2010-06-01
千代崎 備道
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
詩篇119・130
み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。
(同・口語訳)
聖書の中で「愚かな者」とは、頭が悪いということではなく、神を恐れない者のことです。
知恵の始まりは神を恐れること(箴言1・7)だからです。そして、神からの知恵は、御言葉
を通して与えられる、と詩篇は教えています。では、どのようにしたら知恵が与えられるので
しょうか。
聖書を読んでいて、分かっているつもりだったのに、他の時にもう一度読むと、以前には気
が付かなかったことを教えられることがあります。前回に読んだときは分かっていなかったの
だろうか、と思わされることがよくあります。神の言葉は人間の能力によって理解できるので
はなく、神様が理解させてくださって初めて「ああ、そうだったのか」と分かることが出来る
のです。それが「御言葉が開ける」体験です。それまでは自分の経験や常識、知識といったも
ので聖書の言葉を判断してきました。ところが、神様が御言葉の光を与えてくださるときは、
今までは考えてもみなかった真理を示されるのです。それが「知恵」であり「悟り」なので
す。それは、頭の「目」では見えなかったものが、信仰の「目」で見えるようになった、とい
うことです。それは幻を見るようなものです。
幻とは、人間の理解の積み重ねによる未来の予測ではなく、神様が与えてくださる新しい展
望です。信仰生涯も教会も、神様が導いてくださるとき、それまでは想像もしていなかった新
しい世界に向かって前進することができます。御言葉によって目が開かれ、昨日までとは違う
見方で物事を見るようになること、それが御言葉による幻です。
ルターは「義人は信仰によって生きる」(ローマ1・17)との御言葉により、宗教改革を
始めました。パウロは体の悩みを訴えて祈っていたとき、「わたしの恵みは、あなたに十分で
ある」(Ⅱコリント12・9)との御言葉により、それまで重荷だったことが神の恵みとなっ
たのです。それまでの考えにとらわれるのではなく、御言葉に基づいて考え、行動する。それ
が主にある新しい人生であり、主の働きを進める教会なのです。御言葉が光を放ち、新しい幻
を示していただきましょう。