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み言葉のいづみ

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真実な神、真実な御言葉

2009-06-01
千代崎 備道
 
「まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である」
(詩篇33篇 4節)
 
  神様は真実で正しいお方ですから、その言葉も行いも真実です。人間の真実には限りが
あるため、無知の故に正しくないことを語ってしまったり、約束した言葉を破ってしまう
こともあります。しかし、神様の御言葉は真実であり、必ず実現に至ります。
  ダビデ王の時代から人々は主の真実を賛美してきました。しかし信仰はやがて名ばかりに
なり、イスラエルは堕落して、偽りの神々である偶像を礼拝するようになってしまいまし
た。神様は預言者たちを遣わして、御言葉を告げられ、間違った生き方を続けるなら国は滅
ぼされることを、しかし悔い改めるなら救いがあることをお語りになったのです。しかし、
彼らは御言葉に対して不誠実であり、ついにはアッスリヤやバビロンの手によって滅亡して
しまいました。それにもかかわらず神様はアブラハムとの契約の通りに、ダビデへの約束の
通りに、そして預言者たちを通して語られた言葉のとおりに、彼らを捕囚から救い出してく
ださったのです。帰還後に彼らは賛美しました。
(詩篇119篇は捕囚後の指導者エズラの作であると言われます)
  「あなたのみ言葉の全体は真理です」 (詩篇119篇 160節・口語訳)
  御言葉が真実であることは、時が経たないとわからないこともあります。約束の成就には神
の時があるからです。御言葉が実現するまでは、信じて待ち続ける忍耐が必要です。また不
  信仰のために痛みを受けることもあるかもしれません。しかし、その時が来たなら、振り返
ってみて「御言葉は真実でした」と賛美できるのです。
  神の言葉を信頼できない不信仰、御言葉に逆らう罪、それが私たちと神様とを隔てていま
す。でも、その罪をも赦し、不真実な者をも救ってくださる、それが神様の真実です。です
から、ヨハネは語っているのです。
  「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます」
 
(第1ヨハネ1章 9節)

甘い御言葉

2009-05-01
千代崎 備道
 
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
   主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
   蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

                          (詩篇19篇7~10節)
 
  私は辛いものが好きなのですが、美味しいキムチを食べますと、何とも言えない味わいを感じることがあり
 
ます。そんな時、「このキムチ、甘い」と言いますと、周りの方々に変な目で見られてしまいます。「聖書は、甘い」と言ったら、どう思われるでしょうか?
 
  敬虔なユダヤ教徒は、子供が言葉を覚え始めるとすぐに律法(聖書)を覚えさせたそうです。子供のころか
 
ら主の教えに従う人生を歩むためです。しかし難しい律法を覚えるのは、小さな子供には大変なことです。そ
 
こで、最初の日に甘い蜂蜜をなめさせて、神の言葉を学ぶことは「甘い」ことなのだと教えたそうです。
 
  聖書の味が分かるようになるためには、いくらかの忍耐も必要です。でも最初は美味しいところ(分かりやす
 
い言葉)だけをつまみ食いしても良いと思います。焼き魚を食べる時、なれない人は食べやすいところだけに
 
箸をつけます。慣れてきたら、骨の間にも美味しいところを見つけるようになります。大人になると、苦い部分
 
がとても美味しいことに気がつきます。歯が丈夫でしたら、から揚げにでもして骨ごといただけば、カルシウム
 
もたくさん摂れます。もちろん専門家(牧師)の調理した料理(説教)のほうが食べやすいかもしれませんが、週に一度ではなく、毎日、少しずつでも御言葉の栄養を摂ることが魂の健康のために大切です。
 
  体が疲れたとき、病気の時には、栄養をしっかりと摂ることが必要です。もし、あなたの心や信仰が疲れて
 
いるなら、ぜひ「心のご飯」をお腹一杯に召し上がってください。食べ過ぎても「メタボ」になる心配はありま
 
せんから。御言葉を味わうことがあなたの楽しみ、喜びとなりますように。「あなたのみことばは、私にとって
 
楽しみとなり、心の喜びとなりました」 (エレミヤ15章16節)

流れ出る命の水

2009-04-01
千代崎 備道
 
  川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい
 
実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
 
エゼキエル書四十七章十二節
  エゼキエルは捕囚時代の預言者です。神に従わず罪を犯して、イスラエルもユダも滅びました。バビロンに
 
捕虜として連れて行かれた人々は希望を失っていました。彼らの心は枯れ果てていたのです。神はエゼキエ
 
ルを遣わして御言葉を告げました。例えイスラエルが死んで骨になっても、神はそこから彼らを生かすことが
 
出来る(三十七章)。さらに神殿の基、すなわち神様のもとから命の水が流れ出て、彼らを潤し、実を豊かに
 
結ぶ民となることができる(四十七章)。これが神様の約束でした。
 
  この預言はイエス・キリストにおいて成就しました。イエス様は「わたしが与える水は、その人のうちで泉とな
 
り」(ヨハネ四・14)、また「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける
 
水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七・38)と言われました。父なる神様のもとから来られた御子こそ、この
 
命の水です。そして、それはイエス様を信じる者に与えられる永遠の命なのです。
 
  さらにヨハネは御子のことを「ことば」と呼び、この言葉にこそ命があると言います(ヨハネ一・1、4)。イエス
 
様の命の水は聖書の言葉を通して注がれます。ですから私たちは御言葉を読み、御言葉に聴くことを大切に
 
しています。それは、日々、御言葉の糧、命の水をいただくときに、私たちは潤され、豊かにされ、実を結ぶこ
 
とができるからです。
 
  この四月より島津先生に代わり、私、千代崎が巻頭言を書かせていただくことになりました。しかし、メッセ
 
ージの源泉はこれまでと同じ御言葉であり、その中心はイエス様です。今まで島津先生を通して神様が語り
 
かけてくださったように、これからもこの『いづみ』誌が用いられて、読んでくださる皆様の心を潤し、命に満た
 
し、さらに流れ出て、周囲の方にもその恵みが及ぶようにしてくださることを、心から願っております。

キリストがあがめられること

2009-03-01
島津 吉成

  それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じること
なく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリスト
があがめられることです。
  私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
 
ピリピ1章20~21節
  パウロがピリピ人への手紙を書いたとき、彼は迫害のために捕えられ、獄につながれて
いました。また、パウロの働きをねたみ、彼が捕えられていることを逆にチャンスと考え
て、党派心という不純な動機から伝道している人もいました。このように、パウロは厳し
い境遇の中に置かれていたのですが、「このことを私は喜んでいます」(1:18)と言って
います。どうして、そのようなことを言うことができたのでしょうか。
  それは、「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(1:12)
からでした。パウロは、獄中で、自分を見張っている兵士たちにも福音を伝えたのです。彼
は自分が捕えられなければ、福音を聞く機会のなかったであろう人々に福音を伝えることが
できたことを喜んでいるのです。また、彼が捕らえられたことによって、多くのキリスト者
が奮起して、投獄されているパウロに代わって、大胆に福音を伝えるようになりました。彼
は、このことを心から喜んでいます。さらに、党派心という不純な動機からであったとして
も、ともかくキリストが宣べ伝えられていることを彼は喜ぶと言うのです。
  このように、パウロの切なる願いは、自分がどうであるかということではなく、キリスト
あがめられ、福音が前進することだったのです。「あがめる」とは、「大きくする」という
意味です。私たちは、自分が大きくされれば喜ぶし、小さくされれば面白くないと思ってし
まう。しかしパウロは、自分がどう評価されるかということに、関心を持っていないので
す。彼の願いは唯一つ、自分の生き方を通して、キリストが大きくされることでした。
そして、そのような生き方は、父なる神のみがあがめられることを求め続けられた、まさに
キリストご自身の生き方でもありました。ただキリストがあがめられることを切に願う。
それを何よりの喜びとする。ここに、すべてのキリスト者の生き方があるのです。

見よ。わたしは新しいことをする

2009-02-01
島津 吉成

  先の事どもを思い出すな。
  昔の事どもを考えるな。
  見よ。わたしは新しい事をする。
  今、もうそれが起ころうとしている。
  あなたがたは、それを知らないのか。
  確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
  野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
  わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、
  わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
 
イザヤ 43章18~20節
 
  イスラエルの民は、宗教的にも、道徳的にも、政治的にも堕落してしまった結果、国は
滅び、多くの人々は、敵国バビロンに連れて行かれてしまいます。国は滅び、遠い異国で、奴隷の生活。彼らは将来に対して希望を持つことができず、失意と嘆きの中で、うなだれ
るだけでした。
 
  その彼らに、主は語られたのです。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考える
な。」「先の事ども」、「昔の事ども」とは、彼らの先祖がエジプトで奴隷であったとき、主が紅海を二つに裂いて、そこに道を造り、エジプトを脱出させてくださったときのこと
を指しています。彼らはそのこと思い出し、「私たちは大きな罪を犯してしまったため、あのような奇跡は、私たちの時代には再び起こらない」と言って、嘆いていたのです。
  しかし、主は言われるのです。「後ろばかり見ていてはならない。あなたがたの罪はわた
しが贖う。そして、あの出エジプトのときのように素晴らしい奇跡がこれから起こる。わた
しは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。だから、前を見てごらん。わた
しは荒野に道を、荒地に川を設ける」と。こう言われた主は、確かに荒野に道を設けてくだ
さいました。あの強大な帝国、バビロンを倒し、彼らが故郷に帰り、国を再建する道を開い
てくださったのです。
  あなたは、今、何を見ていますか。過去の栄光ですか。自らが犯してしまった失敗です
か。後ろではなく、前を見ましょう。そこには、ひとり子、主イエスを十字架につけてま
で、あなたの罪を贖い、あなたを限りない愛で愛し抜いていてくださる主がおられます。
その主はあなたの人生にも新しいことをしてくださいます。道のないところに、道を開い
てくださいます。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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