本文へ移動

み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

キリストのからだを建て上げるため

2022-01-01
千代崎 備道  

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり・・・。  
(エペソ人への手紙四章12節)

「キリストのからだ」とは教会のことですが、教会を建て上げるとは建物の建築ではありません。今も生きておられるキリストの「からだ」としての働きを担っている教会に、神様に召された私たちがキリストを中心として集められ、一つとなって主なるキリストに仕える。それがキリストのからだなる教会を建て上げることです。
疲れた体と心は休むことで癒やされても、休んだままですと動く力まで衰えてしまいます。コロナ禍の疲れから癒やされるために、教会は何をしたら良いのでしょうか。教会は互いに仕え合うため、また宣教のために存在しています。仕え合うとは具体的には奉仕です。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」とは、キリストに仕えたいクリスチャンが御言葉によって信仰を整え、御心を学び、より良く仕えることで、キリストに仕える喜びがあります。昨年はできないことも、できたこともありました。退修会やコンサート、若者たちの新しい活動、また先輩の信徒たちがインターネットで集会を行いました。今年はさらにできることを探し、これまで以上に助け合いつつ神様に仕え、教会はますます成長するのです。
昨年は聖餐式も二回行いました。聖餐式は主の命令であり、十字架の意味を教えます。「キリスト、我がうちにありて生くるなり」と、キリストが私を通して働かれ、キリストと同じ生き方へと変えられる。最後の晩餐でイエス様は弟子たちの足を洗い、僕となって互いに仕えるように教えました。私たちも教会の中でも外でも、隣人に仕え、福音を伝えるのです。仕えるよりも人の上に立ちたいのは自己中心です。僕となって仕えるときに私たちは成長します。私たちが主に仕え、奉仕と宣教で互いに仕え合い、自分も教会も前進する。それがキリストのからだを建て上げることです。
現実の教会には不足があり、不満を覚えるでしょう。でも自分も足らない点があり、それを補い合うのが愛です。人の不足を裁くのではなく愛によって補うとき、人間の不足にキリストが働かれ、その愛がキリストのからだの各部分をつなぎます。昨年来、教会の交わりは大きな打撃を受けています。でも共に祈り、共に主に仕え、離れていてもお互いのために何かをして、前よりも強く結び合うのです。どんな試練も乗り越える力が与えられ、教会はさらに強められます。教会も一人一人も成長することを目指していきましょう。
(元旦礼拝説教より)

主の再臨を待ち望む

2021-12-01
千代崎 備道
 
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
(第一コリント十一章26節)
 
この御言葉は聖餐式のたびに読まれます。聖餐のパンと杯を受けた私たちは、主の死(十字架)を告げ知らせ、十字架の贖いによる救いを宣べ伝える使命があります。それをいつまで続けるのかというと、「主が来られるまで」、これは再臨のことです。教会が始まり、最初の弟子たちは再臨を待ち望みました。それは、主が天に昇られたとき、キリストが再び来られると告げられたからです(使徒一11)。イエス様ご自身も何度か世の終わりの再臨について語り、その日がいつであっても大丈夫なように心備えをするべきだ、と教えられました。弟子たちはすぐにでもイエス様にお会いしたい気持ちで再臨を待ち望み、心備えをしました。
時代が進み、迫害の厳しかった1~3世紀、殉教の危機に直面したクリスチャンたちも、主の再臨を心から願い、待ち望みました。しかし、迫害がなくなり、信仰の熱心さが失われると、再臨への待望も忘れ去られ、主を待ち望んで生きる生き方も失われるのでした。日本でも再臨の教えが強調される時もあれば軽んじられることもありました。でも、御言葉の通り、聖餐の恵みに与り、十字架の救いを確認しつつ歩む私たちは、再臨への希望を忘れてはいけないのです。
コロナ禍の時代に限らず、厳しい状況に置かれるとき、私たちは主の助けを願い求め、救ってくださる神様を待ち望みます。ただ、神様のご計画がありますから、ある助けはすぐに与えられ、あるいはすでに与えられ始めているかもしれませんが、ある試練については長い時間がかかるかもしれません。何年も祈りつつ待ち望む中で私たちは今すぐに解決が与えられることを願います。しかし、早すぎる解決がさらなる問題を引き起こすかもしれません。世界の悪がただちに無くなることを願うなら、悪を行っている人が神の裁きによって全て滅ぼされてしまいます。神様は一人でも多く救われることを願って、忍耐して待っておられる。ですから最終的な解決は主が再び来られるときなのです。そのときは涙も苦しみも無くなるからです。その日まで、私たちは御心に従って、十字架の救いをひとりでも多くの人に告げ知らせるのです。そして「主よ来たりませ」(黙示録二十二20口語訳)と祈るのです。その日が来るまで、私たちはこれからも主を待ち望み、助けを願い求めつつ、再臨の日を待ち続けるのです。

主からの慰めを待ち望む

2021-11-01

千代崎 備道  

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。

(ルカの福音書二章25節)


この箇所はよくクリスマスの翌週に語られます。生まれたばかりのイエス様がエルサレムの神殿に連れて行かれたのは、律法に書かれている儀式を守るためでした。その神殿でシメオンに出会います。彼はイスラエルが慰められることを待ち望む人でした。イスラエルはバビロン捕囚以来、ペルシャ、ギリシア、ローマの各帝国に支配され、時には迫害を受けてきました。多くの人が犠牲となり、長い間の苦しみと悲しみは簡単には癒やされないほどです。ある人たちは征服者を軍事的な方法に追い出して独立を取り戻すことを目指しましたが、それで失われた人々が戻るわけでもなく、また力で解決するなら再び力で報復されます。ある人たちは宗教的な熱心さにより心の満足を求めましたが、努力はできても不完全な人間ですから、他者を批判することで自己満足をしていました。しかし、それらの間違った方法では本物の慰めとはなりません。
イスラエルの苦悩は、彼らが神様に背いて偶像礼拝の罪を犯すようになったからです。ですから、他国との関係が変わっても、神様との関係が正しい姿にならなければ、いつまでも慰めは無い。イスラエルの慰めを待ち望んでいたシメオンに、神様は救い主に会わせると約束されました。「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(26節)。その通りに、シメオンは幼子イエス様に見て言いました。「私の目はあなたの御救いを見たからです。・・・異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光です」(30~32節)。神様が救い主を送ってくださり、イスラエルを罪から救ってくださる。それだけでも大きな慰めですが、さらに異邦人にまで光が照らされる。シメオンは大きな慰めを感じたのでした。
神様が必ず救ってくださると信じて待ち望んでいたシメオンが慰めを受けたように、今、私たちも大きな苦難や、また一人一人が悲しみや苦しみを受けている中で、でも神様を信頼して慰めを待ち望むとき、神様は人間が考える以上の祝福を備えておられ、時が満ちたなら慰めを与えてくださるのです。この素晴らしい恵みは、次にキリストがおいでくださる再臨の時まで続いています。コロナ禍が収まり、また喜びを持って交わりを持ち、もっと多くの人たちにキリストの救いを伝えていくときが近づいています。希望を失わず、信仰をしっかりと握って、主を待ち望み続けましょう。

この神様に期待して待つ

2021-10-01

千代崎 備道  

神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。

(イザヤ書六四章4節)


預言者イザヤはエルサレムで神からの言葉を語りました。御言葉が語られても耳を貸そうとしない民に、彼は失望することもあったでしょうが、神様だけを信頼し、神様に従い続け、その結果、イスラエルが滅びるまで語り続けなければなりませんでした。イザヤの死後、やがて預言の通りにイスラエルはバビロンによって滅ぼされ、エルサレムの町も神殿も破壊されます。でもイザヤははるか先の時代に神様がエルサレムを立て直し、救ってくださることを神様に示され、その希望をイザヤ書の後半で語っています。今年の教会標語となったイザヤ書四十章31節は、その希望のメッセージの最初の方に書かれています。そして、冒頭の御言葉は、その希望のメッセージの最後に近い部分で語られた言葉です。
神に背き、警告の言葉にも心を頑なにして拒んだイスラエル。滅びるべくして滅んだ民が、完全に滅んでしまったあとで、再び立ち上がる。それは人間的には考えられないことです。他の何者にもできない。ただ神様にしかできないことだと語っています。「主を待ち望む」とは、天地万物を創造された全知全能の神様だからこそ可能のことを期待することです。人間の努力でできることなら、私たちは神様に期待を抱くこともないでしょう。でも、自分の力ではできない、誰も助けることができない、人間の無力さを痛感したとき、それでも不可能なことはないお方に信頼して、神の時を期待して待つ。それが「主を待ち望む」ことです。
一年半を超えるコロナ禍にあって、私たちは疲れ果てています。以前だったら自分の力でどうにかできると思っていたことが、できなくなっていることもあります。だからこそ、神様を信頼し、神様に期待する。この信仰を学ぶ機会でもあるのです。神様に目を向けざるを得ない状況の中で、御言葉を通して私たちの心に声をかけて、神様へと顔を向けるようにしてくださっているのです。誰とも会えない、なかなか話ができない。でも神様はいつでも私たちと会ってくださり、祈りに耳を傾け、見守っていてくださる。こんな素晴らしい神様が私たちにも声をかけて、待ち望むことを教えてくださっているのですから、どんな状況に置かれているとしても、なお、このお方に期待して祈り続けましょう。

三年目の収穫を待ち望む

2021-09-01

千代崎 備道  

 
あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
(イザヤ書三十七章30節)
 
ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ帝国がユダ王国を攻撃し、多くの町々が攻め落とされ、遺されたエルサレムも大軍に包囲される、という事件がありました。神様は預言者イザヤを遣わしてヒゼキヤを励まし、主を信頼するなら必ず救われることを預言し、冒頭の御言葉を語らせました。戦争のために農業が出来ず、収穫が無いことを心配する人々に、神様は刈り入れ損ねた落ち穂から生えたものを食べて生き延びることができると告げました。三年目には再び種を蒔いて収穫をし、またブドウ畑も実を結ぶようになるのです。
昨年と今年は、コロナ禍のために多くの教会は伝道活動を制限され、礼拝を守ることも困難でした。種蒔きが出来なければ収穫は望めません。低調だった教会成長はさらなる打撃を受けた。誰もがそう思うでしょう。ホーリネス教団も昨年延期となったユースジャム(全国青少年大会)をオンラインで開催しました。画面越しの難しさもあり、決心者も多いとは言えませんでした。特に献身者が多く起こされて牧師不足が解消されることを願っていましたが、期待通りにはなりませんでした。このまま、救われる人も牧師になる人も起こされないのでしょうか。
神様が御言葉の種を蒔かれると、「地は人手によらず実をならせる」(マルコ四28)と書かれているように、私たちの目には見えないところで芽を出し、何年かかっても成長し結実に向かいます。牧師が遣わされて一年目に受洗者が起こされるとしたら、それは以前からの働きの実でもあり、何より神様の御言葉が生きて働いたからです。去年も今年も、受洗者が起こされたのも、何年も前からの種蒔きや水遣りがあったからです。そして、この二年間も、たとえ目に見えるような形での伝道(特伝やコンサートなど)が出来なかったとしても、隠れたところで御言葉は蒔かれ続けています。
まだ来年のことを話すのは早すぎます。コロナ禍がどうなるかは分かりません。でも三年前からの落ち穂が結実し、三年目には「ぶどう畑を作って」とあるように、新しい働きも始めることを目指してまいりましょう。また、お一人お一人も、日々御言葉の恵みをいただいて、御霊の実をみのらせましょう。何より、収穫の主に期待し、待ち望みましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る