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み言葉のいづみ

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主を待ち望めるように

2021-03-01
千代崎 備道  

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
(第一コリント十章13節)


聖書は受難から復活までの三日間に弟子たちがどうしていたかを記しています。木曜日の深夜にゲツセマネの園でイエス様を見捨てて逃げてしまいましたが、金曜日には十字架と埋葬を目撃した弟子もいました。土曜日に関しては福音書は「戒めに従って、休んだ」(ルカ二十三章56節)としか記録していないのは、彼らにはもはや何かをする気力も無かったからでしょう。そして日曜日、女性たちは朝早く墓に行って天使から復活の知らせを聞き、マグダラのマリヤは復活の主に会いました。その日の夕方、弟子たちが恐れの中で集まっていたところにイエス様が現れて「平安あれ」と語られたのです。驚きつつも、彼らが喜んだのは言うまでもまりません。
これまで信頼し慕ってきた師が敵に捕らえられ十字架につけられてしまったとき、弟子たちは希望を失っていたでしょう。イエス様が十字架の予告と共に復活についても語られたのですが、それは信じがたいことでした。絶望と恐れの中に陥り、何らかの希望を持つことも不可能に近い彼らのために神様が用意してくださった「脱出の道」は三日間という短い時間でした。もし復活が一年後だったら、彼らは再び集まることも出来ずに解散していたでしょう。
私たちも様々な試練に遭うことがありますが、神様はその私たちに「待ち望みなさい」と命じるだけでなく、待ち望むことが出来るように助けてくださいます。ある人には試練の期間を縮めてくださるかもしれません。ある人には助けてくれる人を遣わしてくださり、また他の人には御言葉によって力づけてくださいます。具体的な方法はその人により、またその試練によって違いますが、必ず「脱出の道」が用意されているのです。
私たちの信じる神様は、御子を死者の中から復活させる力のあるお方です。例え、試練の中で絶望しそうになり、まるで魂が「死んだ」かのようになって信仰を失いそうになっても、その中から私たちを生き返らせて信仰のいのちに立ち上がらせてくださる。その力が、神様にはあるのです。ですから、どれだけ絶望的な状況でも、どれだけ自分の力も信仰も立ち上がれないほどに弱くなったとしても、この神様に私たちは期待をすることができるのです。「主を待ち望む者」となりましょう。

光を約束する神

2021-02-01
千代崎 備道

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の谷に住んでいた者たちの上に光が照った。
(イザヤ書九章2節)

 2月になると時々暖かい日があり、3月は暖かい日が何日も続くようになり、こうして春が近いことを私たちは実感します。古い文化では、1月が新春と呼ばれ、節分から季節が変わり、春はまだ名ばかりのように感じても、日照時間は確実に延び始めています。また自然を見るなら芽が出始め、花が咲き始める木もあります。こうして私たちは季節の変化を知ることができる知恵を持っています。
聖書は神様からの知恵を教えます。伝道者の書三章の「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」は、自然界の季節だけでなく、あらゆることに時があることを教えています。旧約聖書の歴史を読むと、イスラエルの民が偶像礼拝やこの世の富や武力に拠り頼むようになると、やがて国は衰退し、多くの人が苦難を味わいます。しかし、その苦しみをご覧になった神様は助けを送り、彼らを正しい道へと導かれます。こうして「闇の中を歩んでいた民」は、やがて「大きな光を」見るようになるのです。
冒頭の聖句はクリスマスによく開かれる預言で、イエス・キリストにおいて成就します。でも、それは、ローマ帝国の圧制下という暗い時代にイエス様が救い主として誕生し、異邦人の地と呼ばれて差別を受けていたガリラヤ地方で育ち活動されるということだけではありません。この神様はいつの時代の信仰者にも同じ言葉で励ましを語ってくださるのです。
コロナ禍という「やみ」の時代に私たちは置かれています。実際に感染された方々だけでなく、社会的経済的な影響で世界中に「やみ」は広まっています。でも、そのような闇の中を歩む私たちに神様は光を約束しておられるのです。それは辛いことがあれば嬉しいこともある、という一般論では無く、例え絶望しそうになっても、歴史の中で具体的な光を照らして御言葉の真実を示してくださった神様を信頼するなら、希望の光を見失うことは無い、という信仰なのです。
昨年、新型コロナウイルスが日本で影響を与え始めてから、もう一年が過ぎました。その頃はウイルスの実態が分からないための不安が大きく、マスクなどの物資不足があって、混乱もしました。今は以前よりも落ち着いてきていますが、もちろん油断をするのではなく、神様を信頼して希望を持って待ち望みましょう。

主を待ち望む者

2021-01-01

千代崎備道


しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

(イザヤ四十章31節)

 

去年の教会標語は「聖徒は、みな祈ります」で、コロナ禍にあって祈る一年でした。今年、例え試練が続いたとしても、神様からの希望をしっかりと受け止めて歩んでまいりましょう。

イスラエルが南北に分裂し弱体化したため、北のイスラエル王国がアッスリヤによって滅ぼされた時代に、遺された南のユダ王国も不信仰の故に裁かれる日が必ず来る、と預言したのがイザヤです。ところが40章から、滅亡の先にある回復、すなわち裁きの後に救いが来るという希望が語られます。「希望的観測」のように現実の困難を見ない楽観主義は本当の希望ではありません。苦難や試練があっても、神様を信頼して将来の救いを希望を持って待つのが「主を待ち望む者」です。

この希望は御言葉に拠ります。神様の言葉を信じなくなったら、将来の希望も消え失せていきます。30節の「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる」を、口語訳聖書は「年若い者」と「壮年の者」と訳しています。一番力のある壮年も、将来がある若者も、倒れる時があるのです。健康に自信がある人が思わぬ病気や怪我を受けることもある。予想もしていなかった状況になり、さらに悪化して行く。そんな時に、「だから、もうダメだ」と言うのではなく、「しかし」と言って神様を信頼して立ち上がり、神様の御言葉の約束を信じるのです。そのとき、今までの力は失われても、神様からの新しい力が与えられるのです。

「希望」とは、何を期待するのでしょうか。それは「主を待ち望む」のです。何か良いことが自分に起こることを願うのではなく、神様ご自身を待つのが真の希望です。願っていた良いことが実現しても神様から見放されてしまうのでは希望はありません。願った通りにならなくても神様が共にいてくださり、私の味方となってくださるなら、大丈夫です。イザヤ書七章には「インマヌエル」(神我らと共に)と書かれています。それはキリストにおいて成就した預言です。神様ご自身が来てくださることが本当の救いなのです。

コロナ禍が始まって一年、忍耐にも疲れが出てきます。でも、私たちの希望の源泉であるお方、主イエス・キリストご自身こそ、無くならない希望だという、この御言葉の約束を何度も確認し、信仰を強められ、希望を持って歩む年としていただきましょう。

(元旦礼拝より)

祈りのゴール

2020-12-01
千代崎 備道  
 
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
(ルカの福音書一章38節)
 
今年は教会の標語として「聖徒は、みな、あなたに祈ります」(詩篇三十二篇6節)を掲げ、『いづみ』でも祈りについて書かせていただきました。祈ることは、今年で終わりではなく、これからも続けるべき、大切なことです。聖書の中にも祈りを教えたり命じたりする御言葉が多くあります。クリスチャンにとって一生が祈りであり、最後までできる奉仕は祈りです。神様とのいのちの通った交わりは祈りと御言葉であり、それは天国にまで続いています。
個々の祈りは、どこまで続けたら良いのでしょうか。神様が祈りを聞き入れてくださり、願っていたことが実現するまで、でしょうか。求めていたものが与えられた感謝の祈りが最後でしょうか。
冒頭の御言葉は、昨年の教会の標語でもありますが、マリヤが天使に語ったことばです。神様からの言葉への応答ですから、これも祈りの言葉です。マリヤは信仰深い女性でしたから、普段から祈っていたでしょう。特にこの頃はヨセフと婚約中であり、結婚に関して祈り続けていたはずです。幸せな結婚生活、良い夫婦関係など、祈りの課題が挙げられます。でも神様からの応答は、彼女が全く予期していないことでした。結婚する前に身ごもること、しかも聖霊により神の子と呼ばれる赤ちゃんを産むこと。とても簡単に受け入れられることではありません。でもマリヤは「御言葉どおりに」と祈りました。
この言葉について『虹色の落ち穂』(千代崎秀雄著)で、「水の入ったビンを逆さにすると、ゴボッゴボッと、つっかえながら水が出てくる」ようだったろう、と書かれています。スラスラではなく、やっとの思いで祈ったのです。それは、自分の願いや思いよりも神様の御心を最優先にすることであり、そのために自分を犠牲にしても御言葉に従う祈りでした。イエス様がゲツセマネで祈った祈りと同じです。
私たちの祈りも、願いが叶うことが最終目的ではありません。神様の御心が実現すること、そのためには自分の願ってきた祈りでさえも明け渡して、神様の言葉に従う信仰となること。それは私もキリストと同じ思いとなることです。お一人お一人の祈りはこれからも続きます。それは自分の願いをどこまでも押し通すためではなく、何時の日か、神様の御心に沿う者となるまで続くのです。「みこころが地にもなりますように。」

祈りの場所に進み行く

2020-11-01
千代崎 備道
 
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。
咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
(詩篇六十五篇2~3節)
 
すべての肉なる者、それは全ての人です。肉は単に肉体のことを指すだけでなく、人間の弱さも意味します。その弱さ故に罪を犯してしまう。しかし神様はその罪を赦してくださる、と3節は語ります。ですから、全ての人は御前に進み出て祈るのです。祈りを聞いてくださるお方のところに。そのお方はどんな祈りでも耳を傾けてくださる。だから安心して祈ることができるのです。
長く祈った経験があるでしょうか。私は子供の頃、当時は新年聖会は聖書学院で行われ、二泊三日の泊まりがけでした。聖会中、一つの部屋が祈祷室とされ、二十四時間祈ることができました。洗礼を受けた小学六年生だったと思います。自分もクリスチャンになったのだから祈ってみようと思い、祈祷室で祈り始めた。憶えている限りの祈祷課題を端から祈り、もうこれ以上祈ることが思いつかなくなって、時間を見たらまだ30分も経っていない。大人のクリスチャンはよくあんなに長く祈れるものだと感心した記憶があります。欧米の有名なクリスチャンの逸話ですが、毎日祈りの時間が合って、家の召使いに「これから一時間祈るから、時間が来たら教えて欲しい」と頼みました。召使いが一時間たって部屋に行くとご主人はまだ祈っていて、その雰囲気があまりにも聖かったので、彼はもう一時間経ってから声をかけた。するとご主人は、「もう一時間経ったのか。時間が過ぎるのは早いな」。
今でも私は長く祈るのは苦手かもしれません。でも時間の問題ではありません。神様に祈るときが自分にとってどんな時でしょうか。義務や習慣で、早く終わって欲しいのか、それとも、もっと祈っていたいような、神様との大切な一時なのか。たとえ短い時間しか祈りの時間が取れなくても、神様との交わりが豊かな一時であるようにと願います。神様は私たちが祈るために身許に進み行くことを待っておられるからです。
今、コロナ禍にあって友人と過ごす時間が減ったかもしれません。反対に、テレワークなどで家族と過ごす時間が増えた人もいるでしょう。生活のスタイルや時間の配分が変わってきています。その中で神様との一時を大切にできたなら幸いです。今日も神様のところに参りましょう。神様は私たちの祈りを聞いてくださるお方だからです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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