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み言葉のいづみ

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その場所で祈る

2020-09-01
千代崎 備道
 
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。--主の御告げ--それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
(エレミヤ書二十九章11~13節)
 
バビロンに連れて行かれた民に神様が預言者エレミヤを通して語られた言葉です。彼らはすぐにでも帰国できると楽観視し、そのために祈っていました。ところが神様は「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」(7節)と、バビロンのために祈るように命じるのです。それは彼らの帰国はすぐではなく七十年後だったからです。それを聞いた民はがっかりするかもしれない。それに対して神様が語られたのが冒頭の言葉です。神様の計画は神様がご存じで、それは平安を与え、将来と希望を与えるためだと言うのです。
私たちは長い「コロナ禍」の中にいます。いつ終わるのかはまだ分かりません。すぐかもしれないし、来年以降かもしれない。教会に来ることが難しい方々がどれほど寂しい思いをしておられるでしょう。でも、私たちはお互いのために祈ります。今いるその場所で神様の恵みがあるように。そして神様が私たちにも最善の計画をもって導いていてくださることを信じることができるように。
神様はどこにいても、そこで祈る民に、「わたしはあなたがたに聞こう」と約束し、神様を求めて祈るなら「わたしを見つける」と励ましておられるのです。教会に来て神様の恵みを知ることも素晴らしいですが、今置かれている場所にも神様が共におられることを見つけることも何と素晴らしいことでしょうか。家庭やホーム、あるいは病院にいて、自由な外出ができない人も、その場所が神様を知り、神様と交わりをする場所となるのです。だから私たちは御言葉を読み、祈るのです。
一日も早い終結を願うと共に、どのような状況になっても、一人一人がしっかりと信仰を持ち続け、遠く離れていても祈り合い、声を掛け合う神の家族であることを信じています。そして、全員が教会に集まる日が来たとき、心を尽くして主を礼拝し、力一杯賛美の声を上げる日を待ち望み、今日も「その場所で祈る」神の民でありましょう。

 

教会を立てあげる祈り

2020-08-01
千代崎 備道  
 
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
(コリント人への第二の手紙一章11節)
 
使徒パウロは一世紀の地中海世界を周り、各地に教会を立てあげました。パウロは一つの町に到着すると、最初はユダヤ人、そして異邦人たちにも福音を伝え、それを信じた人たちにさらに聖書を教えて信仰を確立していきました。パウロが次の町に向かった後は、彼らの中から指導者が立てられ、その人たちを中心にして、さらに聖書を学び、信仰が成長し、自分の周囲の人にも福音を証しするようになり、クリスチャンが増えていった。それが教会の成長です。
それはパウロだけの働きではありません。多くの協力者がいました。そして直接は伝道をすることが出来ない人たちも祈りによってパウロに協力していったのです。パウロを送り出したアンテオケ教会の祈り、パウロと仲間たちが各地の教会のために祈り、そしてどの教会でもパウロたちの働きのため祈りが続けられていき、その祈りに神様が応えてくださり、信じたクリスチャンたちの信仰が健全に成長できるように、御言葉を理解出来るように助けてくださったのです。教会は祈りにより立ち上げられるのです。
今も、多くの祈りが教会のために捧げられています。離れている信徒の方たちのために祈り、病床に伏している方たちのために祈り、苦悩の中にいる人たちのために祈っています。信徒が牧師のために祈り、信徒が牧師のために祈り、自分たちだけでなく他の教会のためにも祈りが捧げられています。聖書学院のために、修養生たちのために祈ってくださり、卒業した牧師たちにより各地に福音が広げられていく。そして、神様が祈りを聞いてくださり、素晴らしい御業がなされたことを知り、感謝を捧げるようになる。これが神様の計画です。
池の上教会でも祈りが捧げられています。今はインターネットを用いての祈祷会が行われ、参加できなかった人も一緒に祈ることができるようになりました。新型コロナのために出来ないことも多々ありますが、祈りを妨げることはできません。教会の集会に行くことができない時間を用いて、祈りの時を持ってくださる方が増えるなら、ますます祈りが強められて行きます。特伝やコンサート、ランチョンなどの形では伝道する事が難しいとしても、祈りが突破口となります。神様が働いてくださり教会が成長し、信仰が強められ、証しが広められるように、ご一緒に祈ろうではありませんか。

 

諦めずに祈り続ける

2020-07-01
千代崎 備道
 
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。 
 

(ルカの福音書十八章1節)

 

イエス様の教えられた譬え話とは、悪い裁判官に訴え続けるやもめの話でした。最後は裁判官も根負けして彼女の願いを取り上げてくれるのですが、この酷い裁判官が何の得にもならない彼女のために良いことをしようと思うまでには、よっぽどの回数、彼女は訴え続けたのだと思います。そして、何度、裁判官から辛辣(しんらつ)な言葉で追い返されたか。酷いことを言われて、くじけそうにもなったでしょう。半分諦め、でもまた気を取り直して訴えに行く。「絶えず祈りなさい」とは、そういうことです。もちろん神様は悪い裁判官ではありませんので祈りを聞いてくださいますが、その結果が出るまでは神様のご計画とお考えがありますので、時間がかかることはあります。その間、祈り続け、諦めない。途中で何度もくじけそうになり、諦めたくなるほどに辛いときもある。でも失望しないで祈り続けるのです。
どうせ祈りに応えてくださるなら、早くしてくださったら楽なのに、と思うかもしれません。でも、もし私たちに祈ること自体が必要であり、祈りを通して学ぶことや成長することがあるなら、神様は私たちを祈り続けるように導かれるのです。
私の好きな聖歌五五六番(新聖歌では歌詞が変わってしまいました)「祈りすれど手答えなく」という歌があります。
いのりすれど手答え無く、求むれど得ずして、重き心抱き続け、苦しむは誰ぞや。汝が持てるものを主の手に、ことごとく捧げしや。条件すれど降伏せば、勝ちうべし勝利を。
古い言葉なので若い方には分かりづらいかもしれません。でも祈っても手答えが無い。重い心で苦しみながら祈ることは、誰でも経験することがあるでしょう。それでも祈り続けるとき、神様が示されるのは、祈りを妨げているものが、他でもない、私の心の中にある。それは自己中心な願いかもしれない。神様の御心よりも自分を優先したい思いかもしれない。それを条件をつけないで神様に委ねるとき、神様は最善のことをしてくださる。諦めずに祈り続ける中で、神様は私たちの心を造り変え、状況を整え、何よりも神様のなさることを信頼する信仰を強めてくださるのです。
最初の譬え話で、おどろくべきことに、やもめは裁判官が必ず訴えを取り上げて、その結果、自分を苦しめている相手から守ってくれる、と信じていたのです。私たちは神様をもっと信頼して、祈り続けましょう。

 

山を動かす祈り

2020-06-01
千代崎 備道
 
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 
 

(マルコの福音書十一章23~24節)

 

祈りについての教えの中で、最も力強い約束です。何でも、山を動かすほどのことでも、信じて祈るならそのとおりになるのです。もちろん、祈るたびに山が動くと社会が混乱しますから、何を願うかは大切です。また、欲望の赴くままに求めるなら、与えられた人は貪欲の罪により滅びに向かってしまいます。間違った求めは神様が愛をもって止めなさいます。何が神様の御心に適うかも問われます。コロナ禍により社会が混乱し、教会も苦しい状況に置かれています。私たちは今、何を祈り求めたら良いでしょうか。もちろん皆が守られるようにも祈りますが、では山を動かすほどの求めとはどんなことでしょうか。
多くの教会で密集して集まることができず、分散しての集会やインターネットの利用などの工夫をしていますが、親しい交わりが出来ずに寂しく感じる人も多いでしょう。以前の状態に戻ることを期待していますが、治療方法が確立していない今は、注意をしながら教会の働きをすすめなければなりません。多くの人に呼びかける伝道も困難です。もう教会は前進できないのでしょうか。
キリスト教の歴史を顧みるなら、1~3世紀の教会は、ユダヤ教から始まり異邦人世界に宣教が進む中で、どのように聖書の真理を伝えるか苦労しました。厳しい迫害と多くの異端に苦しめられる時代でしたが彼らは信じ続け、神学が発展してキリスト教の土台が確固たるものとなり、ヨーロッパ宣教が前進しました。中世には形骸化のためカトリック教会が行き詰まったときに宗教改革が始まり、信仰の刷新と世界宣教が進むようになりました。何時の時代も、キリスト教は行き詰まるたびに、活性化して、新しい働きが始まり、止まっていたのが前進するようになってきたのです。
今、私たちも行き詰まりがあるかもしれません。でも神様の御業は止まられることはありません。必ず新しい働きを始めてくださるのです。その働きのために祈りましょう。神様が祈りに答えて、大きな山を動かして、今までは伝道できなかった人にも救いが与えられるようになることを信じて、祈り求めようではありませんか。

 

遠く離れて祈る

2020-05-01
千代崎 備道
 
神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。  
 

(エゼキエル書十一章16節)

 

預言者エゼキエルが活動したのは、バビロン帝国によりエルサレム神殿が破壊され、生き残った人々はバビロンに捕囚となって連れて行かれた時代です。当時の人にとって礼拝とは神殿で犠牲の動物を捧げることでしたから、遠く離れたバビロンでは礼拝が出来ませんでした。でも彼らは聖書を学び祈ることで神様への礼拝を捧げていくようになります。これが神殿ではなく、会堂での礼拝となり、新約時代のユダヤ教、さらに後のキリスト教会にも引き継がれていくスタイルとなります。イスラエルにとっては、大きな時代の変換点でした。
今、私たちも世界の歴史において大きな転換点にいるのかもしれません。コロナ禍はいつか落ち着くときがくるでしょう。でも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ではなく、これを教訓として、将来の感染に備えることを覚えていかなければなりません。教会も、一緒に集まることができない時期が起こりうることを学びました。教会の歴史を学ぶとき、時代の状況に対応して礼拝のスタイルは変化してきました。これからも変化はあるでしょう。いえ、変化しないなら、それは生命力が弱くなり衰退してしまいます。個々人も同じ所に止まろうとするなら成長が出来ません。しかし、その変化は、信仰の本質を変えてしまうことではありません。
冒頭の御言葉は、遠いバビロンで祈りを捧げている人々に神様が語ってくださった言葉です。神殿で祈れない、動物を捧げることもできない、そんな自分たちの祈りを聞いていただけるか、不安になっていた信仰者たちに、神様は、ご自身が一緒におられることが神殿の本質であって、どこにいても共にいてくださる神様に祈ることができることを約束してくださったのです。
私たちは緊急事態と外出自粛という状況の中で、「しばらくの間」ですがインターネットと郵送による礼拝というスタイルを採用しました。これまでの教会堂での礼拝とは異なるために、不足や不便もあります。でも、離れていても主が一人一人と共にいてくださり、そのお方に賛美と祈りをささげ、神様からの御言葉に聞き従うことに変わりはありません。もちろん、教会に集まることを一切やめることはありません。でも、いつどのような時でも、困難な中でも神様が共にいてくださる恵みを忘れずに、信仰をもって歩んで行きましょう。

 

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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