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み言葉のいづみ

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私の教会、私たちの教会

2022-06-01
千代崎 備道  

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。   
(詩篇六五篇3節)

礼拝で信仰告白として読む「使徒信条」の冒頭は、原文では「我、信ず」と始まり、信じるのは「わたし」ですが、「我らの主、イエス・キリストを信ず」と、自分だけでなく教会全体にとってキリストが主であると告白しています。先に掲げた詩篇の言葉も、赦されるべきは「私の咎」であり、「私たちのそむきの罪」だと、個人の罪と共同体全体の罪とを結びつけています。
旧約聖書の時代は、神様はイスラエルを民族としてエジプトから救い出され、彼らを「神の民」として共同体を導いていかれますが、多くの人が偶像礼拝に染まってしまった時代には、「でも、私は主なる神様を信じます」と個人の信仰が重要なときがありました。新約時代になると、ユダヤ教や異教社会の中から一人一人がキリストを信じて救われるという個人の救いが原則となりますが、救われた者たちは「キリストのからだ」である教会を形成し、新しい「神の民」となっていきます。
欧米社会では、どちらかというと個人の信仰を重視してきたように思えます。教会も、気をつけませんと個人の寄せ集めになってしまう危険があります。日本などのアジア社会では共同体の力が強く、その中に生きている個人がキリストを信じようとするときに強い決断を必要とすることもあります。信じて救われてからは、新しい共同体である教会の中で、個人の信仰に立つよりも、「みんなが信じているから自分も大丈夫」と、共同体の中に埋没してしまわないように、しっかりと信じることを忘れてはいけないのです。
個人と共同体は、どちらも大切です。個人だけになると教会は個人主義に陥り、自分だけという自己中心に傾いてしまいます。反対に共同体を強調しすぎて、個人の心を押さえつけてしまうのは間違いです。両者のバランスが必要です。そのためには、教会のかしらであるキリストを中心とすることが大切なのです。もう一つは、他の人の信仰を受け止めあうことです。証しを通して、一人一人になされた神様の御業を崇めます。また誰かの罪を批判するのではなく、自分も同じ罪人であり、共に神様の前に心を合わせて祈り、赦しをいただくのです。こうして私たち一人一人がキリストの前で一つとなるとき、キリストのからだである教会は強められ、成長していくのです。今日も、お互いに信仰を励まし合い、また他の人の悩みのために祈りあいましょう。

キリストのからだに聖霊が注がれて

2022-05-01
千代崎 備道

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 
(創世記二章7節)

神様が人間を造られた様子を描いています。人間の物質としてのからだは、「土地のちり」から造られ、死んだら塵にもどると言われるように、儚く脆い存在です。その肉体に神様が息を吹き込まれたことによって「生きた」存在となったのです。神様のいのちの息と表現されているのは、人間の霊のことだとも言われます。ヘブル語の「霊」(ルーアハ)という言葉は、息や風と訳されることもあるからです。神が霊を与えてくださらなければ、人間は単なる物質であり、動物と大して変わらない生物にすぎません。「神のかたち」(一章27節)として造られたと言われる人間の特別な面は、この霊が与えられていることだと言われます。
キリストのからだと呼ばれる教会も、それと似ているのかもしれません。弟子たちが集まっているだけですと、それは生きた教会ではない。イースターの午後、弟子たちは集まって恐れていました。復活のイエス様が彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。イエス様が天に昇られた後、弟子たちは集まって祈っていましたが、そこに聖霊がくだられ、教会が誕生しました。それがペンテコステです。神の霊を受けなければ、、キリストのからだも生きていないのです。
私たちは、教会は建物ではないと教わりますが、建物はそこに集まるためのものです。現代はコロナ禍のために集まることが困難な時代ですが、迫害時代もクリスチャンは表だった建物ではなく、隠れて集まりました。今はインターネットも一つの集まる方法となっています。でも集まっただけでは足らないのです。私たちが聖霊に満たされる必要があります。祈りと御言葉のうちに聖霊が働いてくださいます。私たちが信仰をもって祈り、また聖書の言葉に聞き従うとき、そこに聖霊の働きが始まります。聖霊が生きて働かれるとき、人間の限界を超えて御業がなされます。インターネットでさえ、聖霊は用いることができるのです。離れていても、聖霊の助けをいただき、御言葉と祈りの交わりにより、私たちが霊的に一致するとき、それが生きた教会、キリストのからだとなるのです。
「キリストのからだを建て上げるため」、今日もお互いのために祈り合い、愛をもって仕え合いましょう。また同じ御言葉によって導かれ、キリストの御心に従う群れとなりましょう。そこに人知を超えた聖霊の働きがなされるからです。

復活によるキリストのからだ

2022-04-01
千代崎 備道  

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
(エペソ人への手紙一章20節)

「教会はキリストのからだである」ということは今年の教会の標語でもあるエペソ書四章に教えられていますが、一章の最後にも書かれています。それは最初からそうだったのではなく、キリストの復活と召天が背後にあることを、この一章20節は教えています。復活前は、人間となられたイエス様の肉体はいつもイエス様とともにありました。しかし復活されたイエス様のお体は、これまでとは異なった面があったのです。遠く離れていた場所に一瞬で移動でき、鍵で閉ざされた部屋の中に突然に出現された。見た目は以前と変わりませんし、手に釘痕もあります。でも新しい体、復活のからだとなられたのです。
さらにイエス様は天に引き上げられました。今度は肉眼では見えなくなりましたが、代わりとして来てくださった聖霊が教会に下られ、一人一人の心に宿ってくださり、聖霊を通じてイエス様が心の中にいてくださるのです。聖霊が教会の中に豊かに働かれることで、かしらであるキリストが教会を導いてくださり、教会はキリストのからだとしての役目を果たすことができるのです。
復活と昇天、そして聖霊降臨という大きな御業があったからこそ、教会はキリストのからだとなることができたのです。私たちが自分の力でキリストにふさわしい姿となり、御心に忠実な働きをして、キリストのからだなる教会が建てあげられるのではなく、人間の働きも聖霊の助けをいただいて、キリストご自身が働いてくださり、教会が建てあげられていくのです。
どうしたら、私たちは教会を建て上げることができるか。それは、この神様の全能の力を信頼し、キリストに従うことです。かしらであるキリストのお考えを無視して、自分の思いのままにするなら、いつのまにか神様の働きを妨げるかもしれません。神様まかせで自分は傍観者になるなら、建て上げられていくキリストのからだからも離れてしまいます。聖霊が語りかけてくださるままに、御言葉に示されることに従い、喜んでキリストの僕として仕えていくとき、キリストのからだは成長していくのです。今年は、キリストのために、神の栄光のために、心から神様に従うしもべとなりましょう。神様はそんな私たちを嬉しく思い、豊かに祝福して用いてくださるのです。

キリストのからだを結ぶ十字架

2022-03-01
千代崎 備道  

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エペソ人への手紙二章16節)

この御言葉の中で「両者」とはユダヤ人と異邦人のことです。旧約聖書の時代にはイスラエル人は自分たちだけが神の祝福に与ることができると思っていました。確かに神様はイスラエルを神の民とされましたが、その目的は彼らが世界中の人が神様の祝福を受けるための「祭司の国」となることでしたが、高慢と自己中心のためにユダヤ人は異邦人を見下していました。そんな彼らのことを周囲の異邦人も嫌がり、ユダヤ人と異邦人の間には敵意という隔ての壁があったのです。その壁を打ち砕き、両者を一つとするのは並大抵のことではありません。
この手紙が書かれた一世紀だけでなく、今も教会の中に隔てが生じることは度々あります。もともと私たちはそれぞれ違いがあります。好みや考え方、あらゆることで違いがあるのは当然です。また性格の違う人と「馬が合わない」のも普通です。しかし、それが隔てとなり、敵意にまでなってしまうのは、やはりそこに人間の罪があるからです。違いに目をとめて、自分は正しく相手は間違っていると考えるのは「自己義認」の罪です。相手を自分の思い通りにしたい、そうでなければ敵視する、というのは自己中心です。
お互いに、あるいは一方が我慢をしていても、続きません。本当の解決は十字架だと聖書は教えます。十字架は私たちに神様との和解をもたらします。神に背を向けていた罪を赦してくださり、神の子として受け入れてくださった。その神様の愛を知るなら、神様と敵対することはできなくなります。そのようにして私を受け入れてくださった神様が、我慢できないと思っている相手のことをも愛しておられ、イエス様が十字架の贖いで救ってくださった。その恵みを否定するなら、自分の救いも否定することになります。キリストの十字架が間に立っているとき、「両者」はキリストのからだ、すなわち教会の中で一つとしていただけるのです。
教会の交わりは、人間的な交わりだけですと、時には仲違いもおきるでしょう。十字架を中心とした交わりが聖徒の交わりとなるのです。キリストのからだである教会には様々な部分があり、違いがあります。それを結びつけるのは十字架に示された神の愛、キリストの恵みによる救いです。キリストのからだを建て上げるために、もう一度十字架に目を向けましょう。今は受難節です。

キリストのからだを建てる信仰

2022-02-01
千代崎 備道  

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 
(マタイの福音書十六章18節)

「教会」という言葉が新約聖書の中で初めて登場する箇所で、ペンテコステに教会が誕生する前からイエス様は教会を建てることを計画しておられたことが分かります。この岩が何かについては、カトリック教会ではペテロのことだと言われます。ペテロとは「石」を意味しますので、岩との関連性があるからです。でも、この直後にペテロはイエス様から「下がれ、サタン」と叱られてしまいます。プロテスタントでは、この岩とはペテロが告白した「あなたは生ける神の子キリストです」(16節)という信仰告白だと考えられています。
教会がその上に立てられるべき土台がイエス様を救い主だと信じる信仰告白にあるということは大切なことです。イエス様を信じる人がいなければ人数が多くても教会とはなりません。二人、また三人でもイエス様を信じて集まるなら、そこに教会が建てられます。私たちもイエス様の十字架によって救われ、イエス様を救い主として信じる信仰によって生きるとき、キリストのからだである教会が建てあげられていくのです。また、その信仰を告白し、語り伝えるなら、教会は広がっていきます。ペテロがイエス様の十字架を否定し、人間的な考えを優先したとき、「下がれ」と言われてしまった。教会はイエス様への信仰が第一なのです。
この御言葉で見落としてはいけないのは、「わたし」です。ここで「わたし」と言っているイエス様です。教会は「わたしの教会」、すなわちイエス・キリストの教会であって、人間のものではありません。キリストを頭(頭)とする、キリストのからだなのです。また、「わたし」が建てる、というのは、人間の力だけでは教会は立つことはできません。イエス様が共にいてくださり、イエス様に従って働くとき、イエス様が建ててくださるのです。
今年の池の上教会の標語は「キリストのからだを建て上げるために」です。教会とは何か、キリストのからだとはどのように働くのか、一つ一つ考えてまいります。まず、イエス様こそ私の、また私たちの救い主キリストであることを信じる信仰を確認しましょう。まだ世界は揺れ動いています。でも小さくてもイエス様を信頼するなら、ハデス(黄泉)の門という人間には打ち勝てない死の力にさえも打ち勝つ。それが教会だとイエス様は約束しておられるのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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