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み言葉のいづみ

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遠く離れて祈る

2020-05-01
千代崎 備道
 
神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。  
 

(エゼキエル書十一章16節)

 

預言者エゼキエルが活動したのは、バビロン帝国によりエルサレム神殿が破壊され、生き残った人々はバビロンに捕囚となって連れて行かれた時代です。当時の人にとって礼拝とは神殿で犠牲の動物を捧げることでしたから、遠く離れたバビロンでは礼拝が出来ませんでした。でも彼らは聖書を学び祈ることで神様への礼拝を捧げていくようになります。これが神殿ではなく、会堂での礼拝となり、新約時代のユダヤ教、さらに後のキリスト教会にも引き継がれていくスタイルとなります。イスラエルにとっては、大きな時代の変換点でした。
今、私たちも世界の歴史において大きな転換点にいるのかもしれません。コロナ禍はいつか落ち着くときがくるでしょう。でも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ではなく、これを教訓として、将来の感染に備えることを覚えていかなければなりません。教会も、一緒に集まることができない時期が起こりうることを学びました。教会の歴史を学ぶとき、時代の状況に対応して礼拝のスタイルは変化してきました。これからも変化はあるでしょう。いえ、変化しないなら、それは生命力が弱くなり衰退してしまいます。個々人も同じ所に止まろうとするなら成長が出来ません。しかし、その変化は、信仰の本質を変えてしまうことではありません。
冒頭の御言葉は、遠いバビロンで祈りを捧げている人々に神様が語ってくださった言葉です。神殿で祈れない、動物を捧げることもできない、そんな自分たちの祈りを聞いていただけるか、不安になっていた信仰者たちに、神様は、ご自身が一緒におられることが神殿の本質であって、どこにいても共にいてくださる神様に祈ることができることを約束してくださったのです。
私たちは緊急事態と外出自粛という状況の中で、「しばらくの間」ですがインターネットと郵送による礼拝というスタイルを採用しました。これまでの教会堂での礼拝とは異なるために、不足や不便もあります。でも、離れていても主が一人一人と共にいてくださり、そのお方に賛美と祈りをささげ、神様からの御言葉に聞き従うことに変わりはありません。もちろん、教会に集まることを一切やめることはありません。でも、いつどのような時でも、困難な中でも神様が共にいてくださる恵みを忘れずに、信仰をもって歩んで行きましょう。

 

待ち望む祈り

2020-04-01
千代崎 備道
 
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。     
 

(ルカの福音書二章25節)

 

旧約聖書の時代と福音書の時代の間には、数百年の期間があり、「中間時代」と呼ばれています。この時代に世界の支配者はペルシャからギリシャ、そしてローマへと移り変わって行き、バビロン捕囚から帰ったイスラエルの民は時の支配者に翻弄されます。ある時は暴虐な王により宗教的な迫害を受け、多くの信仰者が殺されました。ユダヤ人と呼ばれるようになった彼らは、神様が預言者たちを通して約束された、イスラエルを救うメシア(救い主)が来ることを強く願うようになり、特に信仰深い人々は数百年の間、祈りつつ待ち望んだのです。その中にルカ二章に登場するシメオンや女預言者のアンナも含まれます。シメオンは祈りの中で聖霊が心に示してくださり、必ずキリストを見ることができると信じ、そして救い主としてお生まれになったイエス様にお目にかかることができました。その後、多くの人がイエス様と出会います。中には反対者もいましたが、救い主を待ち望んだ人たちは喜びに与ったのです。
今、世界はウイルスにより大変な状況に陥っています。戒厳令のような状態の国や町もあり、日本も自粛要請により普段とは大きく違う生活となった人が少なくありません。医療関係者を始めとした「最前線」で働いている方々は文字通り命の危険を感じながら過ごしています。老人ホームの高齢者は家族との面会も出来ずにおります。子供たちは友達と会って元気に遊ぶことも出来ません。いつ終わるか分からないような不安の中で辛い思いで生活をしている人にとって、今はまるで暗闇の時代です。
教会も同じです。池の上教会も、また多くの教会で集まることが出来ない状況が続いています。礼拝と交わりを愛する信仰者にとって、どれほどの心の苦しみとなっているでしょう。そのような中で信仰を失わず、必ず喜びの日が来ることを待ち望んで歩むために、私たちは祈ります。家族と自分の心と体が守られるように、周囲の人に対して愛を持って接することが出来るように、離れている兄弟姉妹のために、厳しい状況の中で働いている方々、特に医療に携わる方々のために、私たちは祈り続けます。「聖徒は、みな、あなたに祈ります」。聖霊は祈る人と共に働いてくださり、信仰と希望を増し加えてくださるお方です。必ず神様は喜びの日を迎えさせてくださることを信じて祈りましょう。

聖徒のための祈り

2020-03-01
千代崎 備道
 
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。      
 

(ローマ人への手紙一章7節)

 

『ローマ人への手紙』を始め、使徒パウロの書いた手紙のほとんど、そして他の使徒の書いた手紙でも、書き出しの部分には挨拶の言葉として、教会の人々の上に神からの恵みと平安を祈る言葉が含まれています。それは当時の手紙の習慣でもありましたが、聖書は単なる習慣だから形だけ書いているのではなく、この言葉が真実な祈りだったことを教えています。
手紙が書かれた起源1世紀後半にもいくらかの迫害がありましたし、パウロ自分も何回か命を落としそうになったことを語っています。この手紙が各地の教会に回し読みされ、やがて新約聖書の一部分となっていった2世紀から3世紀にかけては、教会はまさに大迫害の中に置かれていました。彼らにとって、これらの手紙から学んだ、恵みと平安を祈る祈りは、真剣な、そして彼らの信仰を励ました祈りだったことでしょう。
今年の初めには考えてもみなかった事態が日々進んでいます。新型コロナウイルスの感染の広まっている中で、病気自体の大変さと共に、国全体が、また世界各地でも、人々の心は不安でいっぱいになっていることも、状況を混乱させています。不安を抱く要素はいくつもあるでしょうし、その不安をさらに煽り立てる報道や情報が行き交い、中には混乱に乗ずる悪意もあります。ですから落ち着いて行動することが大切です。その一つは、祈りによる生活です。
私たちが祈るのは、単に自分の願いを実現するための手段ではありません。時には思ってもいなかった結果になるとしても、神様に委ねて信頼するとき、神様から「人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安」(ピリピ四7、口語訳)が与えられる恵みがあるのです。祈りは聖徒と神様を結びつける祝福の手段です。
迫害下のクリスチャンたちは、無事を祈っても、それでも殉教することがあったでしょう。でも、処刑される時でも彼らの平安は失われなかった。その姿が信仰の証となり、さらに多くの人たちがキリストを信じるようになったのです。これが神様からの平安です。今の私たちにも必要な恵みではないでしょうか。
牧師たちの祈りは今も変わりありません。池の上教会に連なる全ての方々、主の聖徒たちの上に、恵みと平安がありますように。

聖徒は、みな、祈ります

2020-02-01
千代崎 備道
 
咎が私を圧倒しています。
しかし、あなたは私たちのそむきの罪を赦してくださいます。      
 

(詩篇六五篇3節)

 

詩篇は旧約時代の信仰者たちの祈りと賛美です。いろいろな時代に、様々な状況の中で、それでも神様に向かって祈った彼らの祈りは、いつの時代の信仰者にも励ましを与え、信仰を教えてきました。今年の教会のテーマは祈りです。詩篇から祈りについて学ぶことで私たちの信仰も成長します。(詩篇百五十篇を一度に学ぶのは大変ですから、何回かに分けて礼拝で学んでいく予定です。)
詩篇を詳しく調べると、「私」と「私たち」が登場します。前者は個人の祈り、後者は会衆(信仰者たちの群れ、現在の教会の起源)の祈りです。個人で祈るときは、人の評価など気にしません。心の中にある思いを隠さずに神に語り、気になっていることを全て祈り尽くして、神様から平安をいただいて心が落ち着くまで祈ることができます。礼拝での司会者や献金当番の方の祈りのように、会衆の中で祈るとき、みんなの代表として祈るのですから、個人的なことよりも多くの人が理解出来る内容の祈りとなります。祈りの最後に「アーメン」と言うのは、「その通りです」という意味ですから、何を祈っているか理解出来ないような祈りでは誰も「アーメン」と言えません。また礼拝などの集会ではプログラムが決まっているので、時間にも配慮して手短に祈ります。
しかし、個人的な祈りと教会での祈りが、かけ離れたものになるなら、人前では格好をつける祈りとなりがちですし、一人のときは自分勝手な祈りになってしまいます。先にあげた詩篇六五篇3節では「私」と「私たち」が混在します。一人で祈っているときも、主にある兄弟姉妹のことを思い起こし、みんなのためにも祈ります。「咎」と「そむき」はどちらも罪のひとつです。他者の間違いを責めるのではなく、自分も神様の前には罪人であることを覚えて、相手と自分のために神様に赦しを願うのが大切なとりなしの祈りです。そのような祈りを神様は喜んでくださり、必ず赦しへと導いてくださいます。
今年は「みな」で祈りましょう。一人で祈るときも、他の方々のことを思い出して祈る。また教会で一緒に祈り、お互いのために祈り合う。それが聖徒の交わりです。心をひとつにして祈るなら、神様は必ず聞いていてくださると聖書は約束しています。よく祈る教会、またクリスチャンとなりましょう。
 

祈りを大切にする聖徒

2020-01-01
千代崎 備道
 
聖徒は、みな、あなたに祈ります。      
 

(詩篇三十二篇6節前半)

 

祈ることはクリスチャンにとって大切なことだ、ということは誰もが知っているでしょう。でも、それを実践しているかは、どうでしょうか。分かっていてもできない。忙しいから、苦手だから、など様々な理由もあります。そのような私たちの現実をご存じなので、神様は聖書の中で、「祈りなさい」と命じておられるのでしょう。
勉強でも仕事でも健康管理でも、私たちは大切だと理解はしていても、実際にそれを行うのは難しいものです。でも、それが切実に必要であるなら、困難でもそれをやりとげようとするのではないでしょうか。私たちは、祈りが必要なのでしょうか。現実には、祈らないでも物事は進んでいきます。祈る必要を感じないのです。でも、確かに勉強をしなくても試験を受けることはできます。簡単なテストなら授業を聞いているだけで大体は答えられます。しかし、難しい試験の場合は、そうも行きません。大丈夫と思っていたのに、思わぬ問題が出て、結果を見てから、「ああ、もっと勉強しておけば良かった」と思うのです。私たちの姿はどうでしょうか。大抵のことはどうにかなっています。自分の努力で乗り切ることができます。しかし、考えてもいなかったような事態に陥ったとき、初めて何かが足らなかったことに気がつくのです。
「聖徒」という言葉は「恵み」という意味が背景にあります。神様の恵みを受けて、その慈愛に応答する人が「聖徒」なのです。新共同訳聖書では「あなたの恵みに生きる人」と意訳していますが、とても味わい深いと思います。聖徒は神様の恵みによって救われたことを知っています。自分の力では自分を救うことはできないと痛感するほどに、罪に対して、苦難に対して、自分の弱さを実感したことがあります。だから、例え小さなことであっても、自分の力でできると思い上がるのでは無く、まず神様に祈り、神様の主権とご慈愛を確認してから、神様が与えてくださる力に応じ、また神様が備えてくださる助けを感謝しながら、託された働きに忠実に勤めるのです。
今年は、祈ることを大切にしてまいりましょう。それは、何をするにもどこにいても、神様がそこにおられることを認め、神様に従って正しい道を歩むことだからです。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」と箴言(三6)に教えられていることを実践するのが祈りです。祈りによって歩む一年としてまいりましょう。
 

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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