本文へ移動

み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

救いの勇士による教育

2016-08-01
千代崎 備道
 
     ほむべきかな。わが岩である主。
 
   主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。
(詩篇百四十四篇1節)
 
  旧約聖書の時代は戦争が度々ありました。特に詩篇を多く作ったダビデは、若い頃から戦いに明け暮れる
 
毎日でした。彼の書いた詩の中にも戦いに関係する用語が多く使われています。今の私たちにはピンと来な
 
い表現かも知れませんが、当時の人にとっては、その意味するところは良く分かったことでしょう。
 
  冒頭の御言葉は、神様が戦争のために詩人(ダビデ)を鍛えるということを述べています。口語訳聖書では
 
「主は、いくさすることをわが手に教え、戦うことをわが指に教えられます」と訳しています。戦争の仕方を教
 
えるなんて、とんでもないこと、と考えるかもしれませんが、実際に戦いのただ中で生きなければならない戦
 
士にとって、戦い方は、それを知らずには生き延びることも出来ない、必要不可欠なことなのです。救いの勇
 
士である主は、人間が何も出来ない絶体絶命の時に不思議な御業を行って救ってくださるときもあります。紅
 
海でエジプト軍を打ち破ったときがそうです。しかし、人間が自分の力で勝利を戦い取るように導かれることも
 
あり、その場合は弱い者に戦い方を教えてくださるのです。
 
  私たちにとっての戦いは、血肉(人間)に対するものではない、とパウロは語っています(エペソ六・12)。罪
 
の世との戦い、悪魔に対する戦いです。しかし、私たちは罪の誘惑に弱い存在です。ですから、神様は私た
 
ちにも信仰による「戦い方」を教えてくださり、また自分の力に余る敵には助けを与えてくださる勇士なのです。
 
  神様は、戦いのモチーフを使うなら「勇士」と言い表すことが出来ます。もし教育というイメージで表現する
 
なら、最高の教師です。救われる前から私たちを教え導き、救われた後も天国に至るまで日々教え訓練して
 
くださいます。「ゆりかごから墓場まで」ではなく、死の先に至るまで教育してくださるのです。人生の戦いや試
 
練のときに助けてくださる勇士であり、また戦いに備えて普段から訓練し、戦い方を教えてくださるのです。
 
  御言葉により信仰を訓練された人は、小さな勇士となって、弱い人や若い人を助けることができます。私たち
 
も主に倣うものとなり、信仰の勇士として成長していきましょう。

いつ祈るのか?

2016-07-01
千代崎 備道
 

    主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
(イザヤ書五十五章6節)
 
  困った時の神頼み、と言いますが、問題がすっかりこじれてしまい、しかもいくつもの問題
が複雑に絡み合ってしまってからでは、解決までに時間も忍耐もさらに必要となることもあり
ます。そうなる前に神様に祈ることが必要なのではないでしょうか。
  旧約聖書のイスラエルは、国が誕生したときから、また王国になったときも、つねに問題を
抱えていました。ですから、いつでも神に立ち返って祈ることが必要でした。しかし、彼らは
頑固で、なかなか悔い改めようとせず、国はだんだんと傾いていきます。預言者イザヤが遣わ
されたのは、国の北半分が滅びてしまい、南も危機的な状況にあるときでした。それでも神様
は彼らを見捨てずに、預言者たちを通して語りかけたのです。「近くにおられるうちに、呼び
求めよ」とは、神様が遠くに行ってしまい、叫んでも聞こえない、ということではありません。
神様は遍在(全ての場所に存在できる)のお方であり、全知全能の神ですから、どんな遠くか
らでも祈りを聞くことがおできになります。ただ、人間のほうが、あまりに神様から離れてし
まうと、祈ることもままならなくなる場合があるのです。そうなる前に、今のうちに神に近づ
いて祈るように、イザヤは語ったのです。
  私たちは、これくらいのことは祈らないでも自分の力でできる、と考えがちです。しかし、思わぬ事が起こって「どうしようか」と困る前に、自分にはできると思う小さな事でも神様に
祈ることが大切です。私たちの身の回りには、家庭でも仕事でも、大小軽重様々なでき事があ
り、問題や課題があります。全力を尽くしてそれらに取り組むことは当然ですが、それととも
に真剣に神様に祈り、神様の近くにおらせていただける祝福があることを覚えましょう。
  私たちが祈る気持ちを持つときに、神様は豊かな恵みを注ごうと待っていてくださることを
知るのです。イザヤ書の最後の方に、こう書かれています。「彼らが呼ばないうちに、わたし
は答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(イザヤ六五24)。神様は手くすねを
引いて、私たちが祈ることを待っておられ、すぐにでもお応えになろうと計らっていてくださ
るお方です。困ってから、ではなく、いつでも祈りによって神様の側に近づきましょう。祈る
課題は、いつでも、いくらでもあるのですから。

救いの勇士の手は短くない

2016-06-01
千代崎 備道
 
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがた
の咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてく
 
ださらないようにしたのだ。
 
(イザヤ書59章1~2節)
 
  今年の教会標語であり教会の御言葉である「主は我が救いの勇士」(ゼパニヤ書3章17節)
に、私が初めて出会ったのは、高校生の頃でした。夏のバイブル・キャンプで、寄せ書きに書
くためにカッコいい御言葉は無いかと探していて、見つけました。深い意味などは分かりませ
んでしたが、何となく「良い言葉だな」と感じたことが記憶に残っています。
  その頃は、毎年、夏のキャンプには大勢の若者が押しかけ、百人以上のキャンパーが救いの
恵みに与りました。聖会でも何十人もの人たちが恵みを求めて「恵みの座」に出て行き、きよ
めの恵みを受けました。そこには、神様の救いの御手が確かに働いていることを、未熟な私で
も感じるほどでした。
  しかし、最近はそうではないように見えます。何故だろうか、と自問します。参加する若者
が減った。聖会出席者も「ベテラン」の信徒の割合が増え、キャンプもクリスチャン・ホーム
の子供たちが多くて、既に救われて洗礼も受けている。ですから、いまさら救いを求めたり、きよめを求める人が少なくなったのだろうか。いいえ、聖書は、人間の罪が神と人との関係を
閉ざしている、と告げます。私たちの不信仰や不従順、恵みを求めない頑なさ、さまざまな原
因は、私たちの中にあります。
  でも、どれほど人間の罪が多くて、神様は御顔を背け、祈りを拒んでいる、と思っても、「救
いの勇者」であるお方は、それでも私たちを救い、きよめ、成長させ、さらに救いの働きを私
たちを用いて押し進めてくださる力をお持ちなのです。
  神様と私の間で障害となっているものが示されたなら、それを悔い改め、その失敗や弱ささ
えも用いて、私の心を取り扱ってくださるように祈るなら、神様は必ず御手を伸ばしてくださ
るのです。
  今年も、夏には様々な行事が予定されています。池の上教会の退修会とJKのキャンプ、教
区のキャンプ、教団では箱根聖会とユース・ジャム。出席者が神様の豊かな恵みを受け、特に
救われ、献身する若者が多く起こされるように、是非、お祈りください。

主の勇士とされる

2016-05-01
千代崎 備道
 
主の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
(士師記六章12節)
 
  今年は5月第三日曜がペンテコステ、聖霊降臨日でした。『使徒の働き』第2章に描かれているように、聖霊
 
が弟子たちの群れに降られたことによりキリストの教会が誕生しました。それまでは祭司長たちの迫害を恐れ
 
て、戸を閉めて隠れていた弟子たちが、この時から、恐れずに命懸けで福音を伝える者となりました。弱い者が
 
強くされたのです。
 
旧約聖書の士師記では、国の危機を救うために、神様は人を選び士師(裁き司)として、国を正しく治めさせ、また外敵の攻撃から民を守らせました。ギデオンは、ミデアン人の攻撃を恐れて酒船の中で作業をするほどに
 
気が小さかった。しかし主に励まされて、敵の軍勢に反抗して立ち上がったのです。弱虫が勇士となったので
す。
 
  しかし、この勇士は、自分が強いから勇士なのではなく、「主が共におられる」からこそ、主の勝利に与ること
 
が出来るのです。最初、ギデオンは、自分には力が無いと心配し、勇士として召されることを、拒まないまでも、証拠としての奇蹟を求めました。召してくださった神様への信頼が無かったのです。しかし主は、そんな不信仰
 
なギデオンを見捨てず、彼の求めに応え、戦いを勝利に導いてくださり、ついに本物の勇士にしてくださったの
 
です。
 
  その神様が、聖霊を教会に遣わし、その教会の枝である弟子たち一人一人の上に炎のような様子で、ご自身
 
が下られたことを分からせてくださったのです。そして世界に福音を伝えよとのキリストの命令を実現できるよう
 
に、外国の言葉で語らせ、群衆の前でも、また祭司長たちの前でも、勇気をもって主の復活を語る者にしてくだ
 
さいました。こうして教会が始まり、やがて迫害の時代にも勇気をもって福音を世界に広めていったのです。
ペンテコステの日以来、聖霊は今も教会の内に働き、また私たち一人一人の心の内にあって導いておられま
 
す。ですから、私たちも主の働きに用いていただけるのです。それは、自分が勇士だからではありません。主が
 
勇士であって、主から離れては私たちは何一つできない。しかし、どこにいても、何をするときでも、主が共にい
 
てくださることを信じ、主の御名によって御心に従うなら、神様は私を主の勇士として、良き業に用いてくださるの
 
です。

昇天の主

2016-04-01
千代崎 備道
 
  「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。」
(ルカの福音書二十四章50~51節)
 
  主イエスは復活の後、弟子たちに何度も姿を見せて復活の事実を確信させ、四十日後に天に昇られた。
 
これをキリストの昇天と言います。主はご自分の力で天に昇られたので「昇天」と書き、人間は神様が召し
 
てくださったから天国に行けるので「召天」と書きます。天国では天使が大喜びで迎えるのでクリスチャン
 
の死を凱旋と呼びますが、御子が天に昇られたときは、天ではどれほどの歓声があったでしょうか。キリ
 
ストの昇天はとても大切なことなのです。
 
  主の昇天について聖書はどう描いているでしょうか。マタイの福音書は直接に昇天の出来事を記してい
 
ませんが、最後に「全世界に出て行け」と弟子たちに命じ、マルコはその命令に従った弟子たちと共に、目には見えなくても昇天された主が共に働いてくださったことを書いています。ルカは、昇天後、弟子たち
 
は復活の喜びに溢れていたことを述べ、見えなくても喜びは消えないことを教えています。ヨハネは「わた
 
しが来るのを」と、主の再来を仄めかし、『使徒の働き』では天使が弟子たちに、主は天に昇られたよ
 
うに再び天から降りてこられる、と預言します。「第五福音書」と呼ばれるヘブル人への手紙では、今キリス
 
トは父なる神の右に座し、大祭司として私たちのために取りなしをしていてくださる。だから大胆に祈り求め、御座に近づくことができる、と励ましてます。こうして聖書全体から学ぶと、主が天に昇られたことが私たち
 
にとってどれほど素晴らしいことであるかが分かってきます。
 
  今はイエス様を肉眼では見ることはできませんが、教会がキリストの体として主の働きを担っており、また
 
聖餐式で私たちはキリストの体と血潮を受け、私たちのうちにキリストがおられ、私たちもキリストの体の枝
 
であることを知ります。ですから、私たちが教会に結びつき、聖餐を受け続けるとき、キリストは具体的に私
 
たちの内にも働いていてくださるのです。私の力は弱くても、今も生きておられる主が力を与え、復活と昇天
 
の主を信じる信仰によって喜びに満たされ、再臨と天国の希望を持つことが出来るのです。
 
  救いの勇士なる主を味わうためにも、教会と結びつき、聖餐の恵みを大切にしましょう。このお方は、私た
 
ちが弱い時にこそ強く、どんなところからでも救ってくださる勇士なのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る