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み言葉のいづみ

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共にゴールを目指して

2017-06-01
千代崎 備道
 
 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル人への手紙十二章1~2節)
 
教会成長を人数という面だけで見るならば、それは決して順調ではありません。キリストを信じて救われて教会員となる人が起こされて人数が増えることを私たちは祈り願っていますが、教会員となった方々がいつの日にか天に召されることは時期は分かりませんが必ずやってきます。ですから礼拝人数や教会員数は、増えることも減ることもあります。しかし、もし先に天国に行かれた方々の人数も含めてカウントするなら、これからも増え続けるはずです。
ギリシャ正教やロシア正教では、礼拝堂の中に昔の聖人たちの絵が飾られています。これは人間を拝むという偶像化ではなく、彼らも共に神様を礼拝している、という理解だと聞きました。池の上教会で毎年一月末に行われる召天者記念礼拝で召天された方々の写真を飾っているのと似ているかもしれません。天国に行かれた方々も、天において神様を礼拝している。私たちも共に礼拝をしているのです。
毎年、何人かの方が天に召され、寂しさを覚えます。でも、その方々も雲のように私たちを取り囲み、私たちの信仰のレースを見守っていてくださる。ちょうどマラソンや駅伝で、先に走り終えた選手たちが応援をしているかのようです。ですから私たちは励まされ、レースには苦しい時もありますが、神の家族が待っているゴールを目指すのです。
ヘブル人の手紙では、信仰の生涯をレースに例えて、信仰の歩み(走り)を妨げる罪から離れつつ、完成者であるキリストの似姿となることを目標として、前進するようにと勧めています。キリストから目を離さないならば、正しい方向に向かって進むことができて、走ってきたことが無駄になるような、コースから外れたレースにはなりません。しっかりとキリストを見つめ、信仰を堅く保って歩みましょう。すでに人生のレースをゴールされた方々の良き模範、それは何よりも最後まで信仰を守り通した姿です。その模範となる信仰の生き方を思い起こしつつ、これからも教会も、また一人一人も前進してまいりましょう。

私の身に起こったこと

2017-05-01
千代崎 備道
 
 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
 
(ピリピ人への手紙一章12節)
 
この手紙を書いたとき、彼は牢獄に閉じ込められていました。ピリピで経験したような(おそらく地下の)薄暗い獄屋ではなく、手紙を書いたり面会をする自由がある、軟禁状態でした。しかし、自分の行きたいところにはいけず、パウロの伝道活動はストップしていました。パウロ投獄の影響も出ていました。パウロを心配する人たちもいましたが、パウロの反対者は、ここぞとばかりパウロを非難し、犯罪でも犯したに違いないと、誹謗中傷をしました。それが、パウロの仲間たちをさらに悩ませたのです。
何一つ良いことは無い、と思われたかもしれない。でもパウロは喜んでいるのです(18節)。パウロが迫害を受けたのを知って、キリストも使徒たちも迫害されたのだから、福音を伝えていたからこそパウロも迫害を受けている、と確信を与えられて、ますます大胆に福音を伝える人たちがいました。またパウロの敵たちも、パウロが身動きできないうちに、自分たちこそがキリストを伝えてるんだ、と伝道しました。パウロのいた牢獄を番していた兵士たちの中にもパウロの証しを聞いてキリストを信じる者が与えられたのです。そして、パウロは獄中でも手紙を書いて諸教会を教え励まし、教会は前進していきました。全ては福音の前進に役立っているのです。
パウロの身に起こった出来事だけではありません。私たちの身に起こったこと、また教会に起きている出来事、その全ては福音の前進を妨げることはできません。一時的に、また一面だけを見るならば、行き詰まっているように見えても、長い目で見るなら神様がそれを用いて益としてくだいます。ですから、自分の身に起こったことで思い煩う必要はありません。むしろ、導いてくださる聖霊の働きを信頼し、御言葉により強められ、主の働きのために私のような小さな者さえも用いていただけることを感謝するのです。

主と共に前進する教会

2017-04-01
千代崎 備道
 
 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
 
(マルコの福音書一六章19~20節)
 
主イエス様の復活の後、やがてペンテコステの日が来て弟子たちは、まず復活の証人としてイエス様の復活を証ししました。まず復活そのものを信じないサドカイ派のユダヤ教徒たちが弟子たちを迫害しました。つぎにパリサイ派のユダヤ人たちが、復活されたイエスこそ旧約聖書に預言されたキリストであると主張する弟子たちを迫害します。さらに、パウロが異邦人宣教を進めていったとき、アテネの町で福音を語ったのに対し、ギリシャ人たちは復活の言葉を聞いたとたんに、耳をふさいでしまいました。
復活を伝えることはいつの時代、どの人に対しても、簡単ではありません。時にはそれが妨げとなることもあります。でも、私たちは復活された主イエス・キリストを伝えるのです。なぜならば、それが福音の中心であり、復活された主でなければ、罪の贖いもできないと信じているからです。
そして、キリストを信じるものたちが復活の主を伝えて行ったとき、その主ご自身も共に行って働いてくださり、イエスの御霊である聖霊が心のうちに働きかけて、信じられなかった人が信じる者と変えられていった。こうしてキリスト教は広まり、現代にまで及んでいるのです。
マルコの福音書もわざわざ、天に上られたイエス様が、弟子たちと一緒に働かれたと、最初は理解しがたい言い方をしていますが、しかし、事実、その通りになっていったのです。理屈ではなく事実なのです。ですから、今も生きておられる主を信じて福音を伝えるなら、今日でも主は共に働いてくださり、そうやって教会の働きは前進していくのです。
信じがたいようなことは言わないで、人々が気に入るような言葉を伝えても、それは人間の業であって、主の働きではありません。信じる人がなかなか起こされないような現実があっても、復活の主を信頼して、与えられた使命に忠実であるならば、私たちを用いてくださるのは主なのです。また、私自身も、理屈ではなく信仰によって復活の主を頼るとき、主がしるしをもって証ししてくださるのです。復活の主を信じ、また証ししましょう。

教会の土台、私の土台

2017-03-01
千代崎 備道
 
 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
 
(第一コリント三章11節)
 
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ二章20節)
現代人にとっては建設における土台の重要性は常識でしょう。イエス様は大工の息子としての生活で土台の大切さを良くご存じで、建築に関する例え話をなさいました(ルカ六48など)。パウロも旧約聖書の研究をしてヨブ記(四19)などの知恵文学から土台の大切さを知っていました。教会にとって大切な土台はキリストです。二千年以上経ってもキリスト以外の救いを主張するものは異端として退けられます。
その救い主の到来を告げた預言者の権威により書かれたのが旧約聖書で、キリストの教えに従う使徒たちの権威により書かれたのが新約聖書です。そして両者のかなめ(「礎石」を新共同訳は「かなめ石」と訳しています)がキリストであるとは、旧約も新約もキリストを示すために書かれたのだから、読むときもキリストを知るために読む、ということであり、教会における聖書理解の原則です。
一人一人の信仰も、キリストが土台です。私を救ってくださったお方から目をそらすとき、この世のものに目が奪われたり、人との関係が躓きになります。私のために命を捨ててくださったお方よりも他のものを第一とするなら、主イエスとの命の結びつきが妨げられます。他の人を裁くとき、その人の罪も私の罪も、同じ十字架の血潮が贖っていてくださることが曖昧になり、罪赦された喜びが色褪せてしまいます。
毎年、春になると教会は十字架と復活を記念する時期となります。この季節だけでなく、礼拝では御言葉が語られるたびに、その焦点はキリストに向けられ、聖餐式のたびにキリストを心に迎えていることを確かめます。こうして、私たちは自らの信仰も、また教会全体も、土台であるキリストから離れていないか、何度も何度も確認するのです。
土台からズレたままで成長するなら、やがて倒れてしまいます。土台がしっかりしているなら、時間は掛かっても必ず成長し、前進し続けることができます。私の人生の土台であり、教会の土台また頭(かしら)であるキリストにしっかりと目を向けましょう。

困難を乗り越える教会

2017-02-01
千代崎 備道
 
 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
 
(使徒の働き八章3~4節)
 
最初の教会は、産み出された最初から多くの問題に囲まれていました。内側には不信仰や不一致、外側には迫害。でも、その困難を乗り越えて教会は前進していったのです。
子どもの成長も全てが順調ということはありません。子育てをする親は成長とともに服を新しくし、接し方も変えなければ成りません。子どもも幼稚園や学校に通うようになり、はじめての社会で人間関係で揉まれます。思春期になると、肉体の急激な成長は、時には成長痛を引き起こし、また肉体と心の成長のアンバランスに悩みます。でも、様々な困難を乗り越えてこそ、成長するのです。
教会の前進も、また信仰の成長も、必ず問題が起こりますし、また、その問題に取り組み、乗り越えることが出来るようになることが成長でもあります。時には予想できないことが起きて、不安や混乱を覚える時さえあるでしょう。でも、それも心と信仰が成長する機会です。
初代教会に起きた内的な問題の一つが、文化的な違いから起こった差別であったことを、使徒の働き六章1節は記しています。ヘブル語を話せるユダヤ人クリスチャンが、ヘブル語は話せずギリシャ語だけを話すユダヤ人クリスチャンを差別し、そのしわ寄せが弱い立場のやもめたちに及んだのです。教会にあってはならない問題ですが、十二弟子は裁くのでは無く、神様からの知恵を受けて、七人の役員が立てられ、教会は組織的にも成長したのです。
外的な問題は迫害です。サウロ(後のパウロ)が中心となって教会への大迫害が起こり、成長してきたエルサレム教会は離散してしまいます(八章)。しかし、その機会を神様は用いて、散らされた人たちによって福音はますます広められたのです。
どちらも最初から予想していなかったでしょうし、その問題が起こったときはどうなることかを案じたかもしれません。でも、神様が生きて働いておられるなら、どんな難しい問題も成長の機会となるのです。なぜなら、教会は神様のものだからです。聖霊が教会を産み出し、キリストが教会のかしらであるのです。私たちも、今も生きておられる神様を信頼し、聖霊の働きを認め、キリストに従って、教会と共に前進してまいりましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
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TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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