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み言葉のいづみ

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実を結ぶ希望を持とう

2018-04-01
千代崎 備道
 
 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
(ローマ書五章3~5節抜粋)
 
有名な聖句ですが、ただ単に、「忍耐していれば良い事がある」とか、「苦労すれば人間が成長する」という道徳訓なのではなく、信仰による救いが前提であることは文脈から明らかです。繰り返されている「生み出す」という言葉が示しているように、信仰が実を結ぶためには産みの苦しみが伴います。しかし、その苦しみは失望ではなく、希望に繋がっている、とパウロは告げています。
私たちが救いの恵みをいただいたとき、それはゴールではなく、その救いから始まって実を結ぶに至ります。その実とは、第一に、周囲の人の救いです。「あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六章31節)との約束の御言葉を信じて祈り続けますが、家族や友人が救いに導かれるまでに長い年月が必要なことがあります。また教会が伝道をして救われる人が起こされるまでに、どれほど多くの祈りと犠牲があるかは、伝道活動に携わった人なら誰もが知っています。しかし、その苦労も、神様がいつか必ず結実させてくださると信じるとき、忍耐が生まれ、希望が生み出されていきます。
もう一つの実は、「御霊の実」とも呼ばれる、私たちの内側が変えられて、キリストに似た者とされていくことです。これも時間がかかるだけでなく、苦悩を伴います。いくら努力をしても、なお自分の内側に醜さや愚かさを見いだしたとき、絶望的に感じます。それでも導いてくださる主を信じ、祈りつつ、御言葉を読みつつ、日々前進していくとき、その自分の祈りと、また周囲の友の祈りが積み重ねられ、神のことばが心に働きかけ、品性が練られていくのです。
時には、伝道のために苦悩することが自分の信仰の成長という結実に至ったり、また自分の内側に結ばれた御霊の実を見て、家族が救いを求めるようになったりもします。この二種類の結実は別々ではなく、どちらも神様が結ばせてくださる実なのです。
このことを知っているとき、たとえ家族伝道がなかなか進まなかったり、信仰の成長の遅さに嫌気がさしても、神様が希望を与えてくださり、「この希望は失望には終わることはありません」。必ず結実に至るのです。季節は春から初夏に向かい、葉が生い茂り、花が咲き、その先には結実があると信じ、たとえ患難があっても、希望を抱いて働き続ける者こそ、結実の喜びを味わうのです。

一粒の麦の死による豊かな実

2018-03-01
千代崎 備道
 
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
(ヨハネの福音書十二章24節)
 
この有名な御言葉は、受難週に語られたことを想う時、イエス様はご自分が十字架で死なれることをご存じで、この言葉を語られたことが分かります。弟子たちは、そのことは分からないまでも、この言葉が強く印象に残っていたことでしょう。
イエス様が捕らえられ、十字架で死なれたとき、弟子たちにとっては、それは衝撃であり、大切な師を失った悲しみで心は一杯だったでしょう。しかし、復活を目撃し、十字架が多くの人の救いのためであったことを理解したとき、この御言葉が真実であることを悟ったのです。やがて、その使徒たちも殉教する時がきます。使徒たちによってイエス・キリストの救いに与った人たちにとって、先生を失うことはどれほどの衝撃だったでしょう。しかし、その損失はもっと多くの実を結ぶことになり、さらに救いが広められていったのです。この御言葉は、今も真理です。
先日の教団年会では、聖別派遣式が行われ、いくつかの教会は牧師の転任があり、またこの年会で引退される牧師もいました。その前日には昨年度に天に召された先生方の記念会も行われ、寂しさの中で、その先生方が成された尊い働きを思い、その志を皆が引き継ぎました。それまでの指導者を失った教会は、それがどのような事情であれ、大きな喪失を味わいます。しかし、十字架につかれたキリストが教会の主であることを信じるなら、いつか必ず、失った以上の豊かな実が一人一人の心に結ばれるのです。
池の上キリスト教会も、昨年度、何人もの聖徒を天に送りました。また様々な別れがあり、寂しさもあります。でも、十字架の主を信じるとき、決して失うだけで終わることは無い。必ず、その麦は豊かな収穫の喜びへと繋がっているという希望を持つことができるのです。ですから、私たちも先達の信仰を引き継ぎ、さらに豊かな実が結ばれることを信じて、前進して行きましょう。
今月の最後の週は受難週です。一週間、聖書を通してイエス様の足跡をたどり、私たちを救うために十字架に進み行かれたキリストの愛を味わいましょう。そして、一粒の麦の死が豊かな実をもたらすとの信仰をしっかりと受け継ぎましょう。四月の一日は、イースターです。豊かな収穫の初穂としての復活を祝うのです。

実を結ぶまでの時間

2018-02-01
千代崎 備道
 
 番人は答えて言った。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」
(ルカの福音書十三章8節)
 
あるぶどう園の所有者が、その片隅にイチジクの木を植えました。しかしイチジクの木が三年待っても実を結ばないのを見た主人は、ぶどう園の番人に切り倒すように命じます。しかし番人は「あと一年待ってください」と頼むのです。
一月にこの箇所から礼拝説教をしたのですが、この譬え話を読むと、神様は実を結ばない者を滅ぼしてしまう、恐ろしいお方のように感じます。でも、もし本当にそうならば、一言も言わないで滅ぼすはずです。エレミヤ書に出てくる陶器師は、気に入らない作品は即座につぶして新しい作品を作り出します。でも、この主人は、三年待ち、さらに一年待って、実りを期待しているのです。この譬え話も、背後には悔い改めて実を結ぶ者となって欲しいという神様の憐れみの思いがあるのです。むしろ、番人であるイエス様が「あと一年」と言って取りなしておられることが恵みです。
なかなか実を結ばないと思うことがありますが、何年かかるのでしょう。「桃栗三年、柿八年」と言うように、作物も種類によって結実までの時間は異なります。焦る必要はありませんが、無為無策でいるのも良いのでしょうか。結実に向けて一歩でも前進したいと思うのです。
実を結ぶまでの期間は忍耐の時です。でも、番人であるイエス様に目を向けるならば、手を入れ、肥料を与え、水を注いでいてくださいます。実を結ぶまでの期間は、イエス様に手と声を掛けていただき、交わりを持ち、恵みの水を何度も何度も注いでいただく時でもあるのです。ですから、信仰と希望を持って待ち望み、また主の御心に従って、私も少しでもお役に立ちたいと願います。
寒い冬は結実が望めない季節なのかと言えば、種類によっては冬や春に収穫がある作物もあります。また、リンゴの木のように、冬の寒さがあるからこそ、甘い実を結ぶ木もあります。実を結べないと感じる時期が、人生にも、また教会にもあるでしょう。でも、収穫の主であるお方を信頼し、御言葉によって信仰が成長するなら、厳しい季節も希望を持つことができ、また、そのような時だからこそ知ることが出来る幸いもあるのです。成長させ、実らせてくださる神様を信頼し、働きに励みましょう。
 

豊かな実を結ぶ信仰

2018-01-01
千代崎 備道
 
 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(ヨハネの福音書十五章8節)
 
誰でも実を結びたいと願います。仕事をしている人は良い結果を求め、学生は勉強の成果として良い成績を目指します。実り豊かな人生であることを願います。農業をする人は、豊かな収穫があることを期待して種蒔きから始め、水を注ぎ、手入れをして、収穫期に向けて努力を重ねます。不作を願ったり、失敗を求める人はいません。しかし、必ず実を結べるのかと言えば、作物は天候次第です。日照時間や水が不足したり、病気や虫の害もあれば、台風などの災害もあります。旧約聖書の舞台となった古代中近東では干ばつも多く、また収穫期になると敵軍が襲ってきて作物を奪うこともありました。だからこそ、良い収穫となることを切実に願ったのです。
人生における結実、仕事や学業における結実も大切ですが、どれほどの収穫であってもいつかは無くなるものです。しかし、聖書が私たちに教えている結実は、永遠にまで繋がる実です。クリスチャン(キリストの弟子)として期待されている実を結び、その実が天国にまで残る実です。どのような実があり、それはどうしたら結ぶことが出来るのか、今年はご一緒に考え学んでまいりましょう。
イエス様がヨハネ十五章でぶどうの木の譬えを用いて教えられたのは、私たちを含め弟子たちが実を結ぶことを期待してです。この話をされた後、まもなく捕らえられて十字架につけられます。その時、弟子たちは逃げ出してしまうこともイエス様はご存じでした。でも、彼らがいつか豊かな実を結ぶときが来ることを信じ、それだからぶどうの木であるキリストから離れないようにと語られたのです。同じ期待と信頼を、私たちもイエス様から受けているのです。
私たちは、クリスチャンとしての実を結ぶことを期待しているでしょうか。そのためなら努力を惜しまないで、結実を目指しているでしょうか。必要なのは信仰です。自分の力では実を結べないような悪天候でも、様々な試練が襲ってきても、それら全てを用いて良い実を結ばせてくださる天の父を信頼します。また、失敗だらけの私たちを赦し、愛してくださり、取りなしてくださる救い主を信じます。
結実の時期や、結ぶ実の種類は神様がご存じです。私たちは信仰を持って、結実を目指す一年といたしましょう。
 
 

ひたすらに前進する

2017-12-01
 
千代崎 備道
 
 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。       (ピリピ書三章13~14節)     
 
クリスマスもイースターも、二千年前の出来事ですが、今でも私たちはそれを祝っています。今年はルターの宗教改革から五百年目であり、教会の歴史を振り返る機会でした。でも、私たちは後ろを見続けるのではなく、前進し続けるのです。
パウロほどの偉大なクリスチャンでも、「自分はすでに捕らえた」、すなわち、もうこれで完成したから、これ以上の前進は必要無い、とは考えませんでした。むしろ、誰よりも成熟した信仰であったからこそ、自分の足らなさも認めることができて、ますます恵みを求め、キリストを目指して前進していったのです。私たちは、パウロほどの信仰ではないからこそ、パウロの後を追って、いいえ、イエス様を目指して前進していかなければなりません。
私たち個人の信仰も、生涯、前に向かって進むように導かれています。成長は若者だけではなく、ベテランの信仰者もさらに円熟を目指すのです。でも、前進を妨げるものがあります。苦難でしょうか。いいえ、困難さえも成長の役に立つことを私たちは経験からも、また御言葉(「患難が忍耐を生み出し、・・・」、ローマ書五章3~4節)からも学んでいます。罪でしょうか。確かに罪は私たちをキリストから引き離そうとしますが、自分が罪を認めて悔い改めるなら、赦しの恵みに与って、それも成長へと導かれるのです。もし、前進をストップさせているものがあるとするなら、それは自分自身です。成長の大切さを知りながらも、それを求めようとしないなら、神様の導きでさえ拒んでしまいます。自分には成長できないと決めつけてしまうなら、頑なになって恵みが心にしみこみません。過去の挫折や失敗がどうであれ、それに囚われずに、ただ私たちの目標であるキリストを目指して一心に進み続けましょう。
自分の過去ではなく、二千年前の出来事を思い出すなら、この私を救うために神の御子がこの世においでくださり、十字架にまで進み続け、私の罪を贖い、新しい命を与えてくださった恵みを確認できます。その新しい命をいただいた人生を、天国に至るまで前進していきましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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