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み言葉のいづみ

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神が運んでくださる前進

2017-11-01
千代崎 備道
 
 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
(イザヤ書四十六章4節)
 
人間の働きには、始めがあり終わりがあります。始めたことを止めることもあります。もちろん、一人の生涯を越えて続く長い働きもあり、形を変えて続くこともあります。事を成し遂げて終わる達成感を味わうことも、形や担当者をかえてる不安を感じつつ次の人に委ねることもあります。やむを得ず途中で終わらなければならないときは、挫折を味わいます。しかし無理をして続けて周囲に迷惑を掛けるのなら、決断も必要です。いづれにしても、一つの終わりがあり、また新しい始まりが続きます。人の一生も同じです。
しかし神様は人では無い。神様の働きは永遠の世界にまで続くのです。特に人間を救う働きはそうです。人間としてのイエス様の生涯はクリスマスに始まりイースター(と昇天)で終わりますが、天の御座で今も働いておられ、私たちの内におられる聖霊を通していつも共にいてくださり、私の救いが途中で立ち消えることの無いように、導き続けてくださいます。洗礼式は卒業式ではなく入学式だと言われるように、クリスチャンとしての人生は天国にまで続き、主は最後まで見放さずに連れて行ってくださるのです。
イスラエルの歴史は、国家としてはバビロンにより滅亡しました。しかし、例え政治的には滅んでも神の民が生き続けたのは、神様が彼らを運び続けてくださったからです。エジプトで奴隷だったときも、紅海を渡り荒野を進んだときも、神様が彼らを運び、またバビロンに捕虜として連れて行かれ、また帰ってくるときも、神様が背負ってくださるのです。イスラエルの民は自力で歩けると勘違いをし、信仰と従順を疎かにしたために国は滅亡します。しかし、どんな時代になっても神様は彼らを運び、救ってくださるのです。
教会の働きも、人間が行うことには始まりも終わりもありますが、神様による宣教の働きは昔も今もこれからも続くのです。前進する教会とは神様のなさる働きであって、私たちはその一部に関わらせていただくのです。ですから、失敗したり挫折することがあっても、その経験を通して学び、さらに良い働きを進めるとき、神様はその全てを運んでくださるのです。私の人生も働きも、神様の御手の中にあり、神様の永遠の計画の中で用いられているのです。

見えない成長

2017-10-01
千代崎 備道
 
 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
(伝道者の書十一章1節)
 
『伝道者の書』という書名は、少し古い口語訳聖書では『伝道の書』となっていて、この書には伝道の秘訣が教えられているのか、と思って読みますと、内容は人生の空しさを教えていて、不思議に感じたことがあります。人生は空しい、もし神様を知らなければ。それがこの書の主張です。ですから最後の結論には「あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ」と書かれています。伝道とは無関係なように見えますが、そこには人生の知恵が背景となっていて、冒頭の御言葉は伝道とは何かを教えている聖句として有名です。
水の上にパンを投げるのは、無駄な行為です。しかし、長い目で見るならば、それはいつか良い結果を産むのです。同じ真理をイエス様は作物の生長に譬えています。人は種を蒔くが、どのように芽を出し、育つかは知らない。人手によらないで成長して実を結び、人が収穫する(マルコ四26~29より)。人間の知らないところで成長するのです。いくら伝道してもなかなか救われる人が起こされない、それはパンを水の上に投げるようです。しかし、心に蒔かれた御言葉の種がいつの日にか実を結び、救われて洗礼を受ける人が起こされるのです。
一人の人が受洗するまでには多くの人の祈りと労があります。牧師はその一部を知っています。その人のために祈っている家族もある部分を知っています。しかし、最初から最後まで、全部をご存じなのは神様だけです。途中を知らない人は、教会の伝道が進まないと感じているかもしれません。それは知らないだけで、神様の働きは見えなくても続いているのです。
一人だけでも、救いは主の働きであり、見えない部分が多いのですが、教会全体の成長はさらに複雑化です。ある人は前進し、他の人は停滞しているように見えます。成長のスピードも人によって違います。でも神様は確実に教会を前進させてくださいます。このお方を信頼して、自分の出来ること、特に祈りつつ証しをし、教会へ誘う。また、自分自身が取り残されないように、さらに恵みを求めて、御言葉を読んで祈り、信仰から信仰へと進みましょう。
今年度は枝教会が始まり、一時的に三鷹の教会では礼拝出席者が少し少なくなりました。でも、神様の目で見るならば、三鷹でも市川でも、神様の働きは進んでいるのです。

つまづいても前進する

2017-09-01
千代崎 備道
 
 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは船から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫びだし、「主よ。助けてください」と言った。
(マタイの福音書十四章29~30節)
 
ペテロという弟子は十二弟子のリーダーと自負しているが、失敗を何度もして、時にはイエス様に叱られることもあります。でも、どこか憎めない人物です。この時は一晩中嵐の湖で沈みそうな舟を必死で漕いでいたときに、水の上を歩いて近づくイエス様を見て、弟子たちは幽霊かと思い怯えていました。ペテロも同じだったでしょう。でもイエス様が「わたしだ。恐れることはない」と言われたとき、多分、ペテロは他の弟子とは違うところを見せようとしたかもしれない。イエス様に自分も水の上を歩けるように頼んだのです。まだ嵐は止んでいません。舟から水の上に足を下ろして一歩踏み出すときは勇気が必要だったでしょう。でも、彼は何歩か前進したのです。でも、得意になったためか、あるいは聖書が告げるように、ふと波風を見たためか、イエス様から目を離したときに彼は沈みかけてしまったのです。
どうして自分は水の上を歩こうだなんて考えてしまったのだろう。他の弟子たちと一緒に舟の上で待っていたら失敗もしなくて済んだのに。イエス様から「信仰の薄い者よ」と言われなかったのに。でも足を水の上に踏み出さなかったなら知ることが出来なかったこともあるのです。水の上を歩く体験は、神の御子であるイエス様を別にすれば、ペテロだけが味わえたことです。そして、沈みかけて叫んだときに自分を掴んでくださったイエス様の御手の力強さも。
私たちが前進をしなければ、いつも同じところに留まっていれば、失敗も恐れも無かったかもしれません。でも、前進をしなければ神様の御手を知ることも出来ないのです。神様を知らないで安逸の中にいる(でも本当は滅びに向かっているのかもしれませんが)のと、困難はあっても神様をもっと知ることが出来るのと、どちらが永遠の祝福に向かっているのでしょうか。
教会も、現状維持や仲間内だけの安楽を求めるなら、やがて衰退し、命を失っていきます。失敗や躓きがあっても、その時こそ神様に真剣に祈り求め、そして神様の御業を見せていただくチャンスなのです。ですから、教会はこれからも前進して行きます。私たちは主イエス様と共に歩み続けるのです。

前を進まれる神

2017-08-01
千代崎 備道
 
 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
(出エジプト記十三章21節)
 
イスラエルの民を導くために、神様は昼は雲の柱、夜は火の柱の内におられ、民の前を歩まれました。エジプト軍の追撃という危機的な状況の時は雲の柱は民の後ろに移って軍隊から彼らを守ってくださいました。雲の柱が前進する時は民はそれに従って前進し、雲の柱が留まる時は民はそこに宿営します。こうして荒野の旅の間、神様がイスラエルの前を歩まれたのです。
この雲の柱は、単なる道しるべや先導役なのではなく、神様が共に歩んでくださることを表しています。ですから雲の柱を見るならば、神様がそこにおられることが分かるはずですし、またエジプトから救い出してくださり、約束の地にまで導いてくださる神様のご計画を信頼することも出来るはずです。それなのに人々は何度も神様に背き、時には偶像礼拝を行ったのは、驚くべき不信仰です。恐らく彼らは、雲の柱を見ても慣れっこになってしまい、神の臨在を感じなくなってしまったのでしょう。
私たちの生涯にも神様は様々な姿で「雲の柱」となって導いていてくださいます。時には誰かを通して導きを示し、時には御言葉によって道を示し、時には色々な出来事を用いて間違った道であることを教えたり、正しい道を進む信仰を強めてくださいます。ところが、その導きに鈍感になるなら、すぐに自分の思いが優先し、自分の力で道を切り開いていると誤解し、御心に沿わない道を進むようになってしまいます。ついには信仰が停滞し、荒野をさまようようになるかもしれません。しかし神様は荒野の四十年の間もイスラエルを見捨てず、彼らの旅路を導いてくださったのです。人々が不信仰に陥っても、神様は前進し続けてくださった。ですから、彼らは約束の地にたどり着くことができました。私たちのためにも神様は前におられ道を進んでいてくださるのです。自分の進むべき道が見えないとき、神様に心を向け、細き御声に耳を傾け、これまでの道を守ってくださった神様を信頼するなら、神様が共におられ、私たちはこのお方に従うべきことに気が付かされます。
人間には一歩先のこと、明日のことも分からないのです。自分でこれが確実な道だと思っても事態は急変します。でも変わらずに導いてくださる神様を仰ぎ、信仰を持って一歩ずつ前進しましょう。

前進できない時に

2017-07-01
千代崎 備道
 
 なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
(出エジプト記十四章15~16節)
 
私たちはこの結末を知っていますが、この時の人々はまさか海が分かれて歩けるようになるとは夢にも思っていませんでした。ですから彼らには絶望的な状況しか見えていませんでした。目の前は海で、もう一歩も前には進めない。後ろからはエジプト軍が迫ってきている。逃げ場が無いと思った彼らは、神に向かって叫び、モーセに文句を言いました。その時、神様が語ってくださったのです。
教会は何度も絶体絶命のような危機を通ってきました。最初の教会は大迫害のためにエルサレム教会は壊滅状態になりました。教会の指導者であった十二弟子のうち、主要な三人(ペテロとヤコブとヨハネ)の一人であるヤコブが殉教し、ペテロも捕らえられました(使徒の働き十二章)。パウロは何度死にかけたか分かりません(第二コリント十一章23節以降)。しかし、そのたびに神様の御業がなされ、クリスチャンたちは教会が人間の思いを遥かに越えた神の力によって導かれていることを知って、神の栄光を仰ぎました。
初代教会の歴史だけでなく、旧約聖書に描かれている神の民の歴史を見ていてもそうですが、危機的な状況は神の働きがなされる時でもあります。平穏無事な時代は、神の働きを見いだすのが難しい(もちろん、良く読むと、いつの時代にも神は生きて働いています)ばかりか、堕落や腐敗が始まり、いつのまにか危機に陥っていくことが少なくないのです。教会も、順調に進んでいるときは、気をつけなければ油断したり高慢になったりしやすい。でも、危機に陥ると、必死で神様に祈ってすがり、そして神様は祈りに応えて、御業を行って栄光を表してくださるのです。
一番気をつけなければならないのは、危機に陥っている、あるいは陥りかけているのに、問題から目を背け、自分さえ無事ならば良いという間違った平安と満足で良しとしてしまうことです。教会にある問題、いいえ、他人事ではなく自分自身の内側にある問題にしっかりと御言葉の光を当てていただき、悔い改め、そして神様への信仰に立ち帰りましょう。そうするならば、絶体絶命のピンチでさえ、神様はチャンスとして用いて、私たちの信仰をさらに成長させてくださるのです。前進が出来ないとき、神様を見上げましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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