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み言葉のいづみ

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ペンテコステから始まったこと

2010-05-01
千代崎 備道

  五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹い
て来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が
現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてく
ださるとおりに、他国のことばで話しだした。
使徒の働き 2章1~4節
 
  五旬節とはギリシャ語ではペンテコステで、イースター(旧約聖書では過ぎ越し祭)から七週間後、五十日目
 
のことです。ユダヤ教では収穫期の終わりにあたって豊かな実りを感謝する時でした。その日に、弟子たちの
 
群れに聖霊が下られて、教会による宣教の働きが始まったので、キリスト教では教会の誕生日として、クリスマ
 
ス、イースターと並ぶ、大切な日とされてきました。
 
  それまでは捕らえられることを恐れて隠れていた弟子たちが、彼らの上に聖霊が下られて以来、大胆に語り
 
始めたのです。最初のペンテコステでは、特別なしるしをもって聖霊が下られました。それは様々な他国語で
 
語り始める、という奇跡で、それにより世界中の国々からやってきた巡礼者たちが自分の日常生活語で神の
 
救いを聞くことが出来ました(11節)。この日から、ただの人間の集まりだった弟子たちが、愛と力と聖さの満ち
 
る教会となったのです。
 
  同じ聖霊が、今、私たちにも臨んでおられます。イエス様を信じたとき、いえ、その前から聖霊は私たちを助け
 
ておられました。そして、聖霊の助けにより、私たちは祈ることができ、御言葉を理解することが出来ます。ま
 
た、様々な人が集う教会が、キリストの体として一体となるのも、聖霊の働きです。人間的な思惑ではなく、主
 
への愛と仕える思いで、私たちは一致することができるのです。また、この聖霊は、弟子たちに対してそうであ
 
ったように、私たちも証し人とします。言葉や行いによる証しや、教会にお誘いすることで、それによりキリストが
 
伝えられ、救われる人が起こされ、主の栄光が現されるのです。
 
  恐れや弱さを感じておられるなら、助け主である聖霊が私たちに、必要な力を注いでくださり、信仰を強め、祈
 
りに導いて下さいます。そして、証し人、また奉仕者として、主のために用いてくださるのです。御言葉を通して
 
語りかけてくださる聖霊の声に聞き従い、実り豊かなクリスチャンとしていただきましょう。

復活の主のビジョン

2010-04-01
千代崎 備道

  そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
  「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえ
り、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の
人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

ルカの福音書 24章45~48節
 
  復活の主を見た弟子たちは、最初は霊か幻を見たと思ったようです。しかし、手足に触
れ、会話をするうちに、主が事実よみがえられたことを受け入れるようになりました。その
弟子たちにイエス様は世界宣教のビジョンを伝えられたのです。
  幻や夢というのは、不確かなものと思われています。人間の思いは罪に支配され。自己中心なことを夢見るために、願ったとおりにはならないことが多いからです。しかし、神様の幻は違います。神様は考えたとおりに事を行い、語られたことが事実となっていく力を持ったお方だからです。世界が作られる前から人間の救いを計画され、その計画を言葉により実現させて来られたことを聖書は告げています。
  旧約聖書の預言が十字架や復活で成就したように、イエス様が弟子たちに残していかれた宣教の幻は、世界中に救いの恵みが伝えられることで実現していきました。そして、それは今も続いているのです。
  教会の幻は、教会の主であるイエス様のご計画の中に置かれています。イエス様の幻から外れて、自分勝手な願いをビジョンとして掲げるなら、それは水泡に帰します。救いがあらゆる人に宣べ伝えられる、という大きな幻の中で、私たちの教会も、また私たち一人一人も導かれているのです。自分の救いだけに留まるのではなく、家族の救い、周囲の人の救い、そして教会の働きを通してさらに多くの人が救われることを願い、夢に描き、祈る。そのとき主イエスの幻と私たちの幻とが一致するのです。
今年のイースターで二人の方が受洗の恵みに与られたことは、この幻の実現です。私たちは、
さらなる奇跡を願い、祈りましょう。神様がお一人お一人に与えておられる幻と祈りが、一つ
にまとまったとき、大きなビジョンとなり、それが教会の幻となるのです。一人だけで祈って
いると弱気になることもあります。心を合わせて、一緒に祈りましょう。

十字架を決して忘れない

2010-03-01
千代崎 備道

  私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生
 
きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神
 
の御子を信じる信仰によっているのです。
 
  私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味
 
です。
 
(ガラテヤ2章20節~21節)
 
  パウロはガラテヤのクリスチャンたちに、十字架による救いの大切さを必死で訴えています。彼らがそれを
 
  忘れかけていたからです。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり
 
示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」 (ガラテヤ3章1節)。
  パウロはガラテヤ地方に宣教したとき、何度も繰り返して十字架の話をしたのです。聞いていた人々は目の
前に十字架が見えるほどだったのでしょう。聞き飽きたと思う人がいたかもしれません。
  しかし、十字架を忘れた時、彼らは律法主義に陥りました。信仰による救いではなく、行いによる救いという
間違った教えに染まって行ったのです。もしパウロが彼らの目の前に描いた十字架の姿を覚えていたら、もしそ
の十字架でイエス様が命を賭けて救いの道を開いてくださったことを忘れていなかったら、間違った教えに惑わ
されることはなかったはずです。
  私たちは十字架の恵みを忘れてはいないでしょうか。私たちが救われたのは、良いことをしたとか自分が偉い
からではなく、徹頭徹尾、恵みによるのであり、十字架の贖いによるのです。十字架を目の前に見ていないと
き、不満や不信仰に陥ってしまいがちです。
  今年も十字架と復活を覚える季節となりました。またこの時季だけでなく、十字架のメッセージは毎週のよう
に語られます。それは、決して忘れてはならない大切なことだからです。 パウロのように、キリストとともに十
字架に死に、キリストの命に生きるために、今年も十字架の恵みを確認し、感謝しましょう。
  しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
 
(ガラテヤ6章14節)

幻を掲げつつ歩もう

2010-02-01
千代崎 備道

    どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。
 あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
 
(詩篇43章3節)
     幻がなければ、民はほしいままにふるまう。
     しかし律法を守る者は幸いである。
 
(箴言29章18節)
 
  私は考え事をしながら歩くときは、気が付くと、たいてい下を見ながら歩いています。自分
の足下さえ見ていれば、躓くことはないからです。しかし、周りの様子を見ていないため、引
っ越して来て最初の頃は、間違った道に入ってしまうこともありました。また、自転車が遠く
から近づいてくることに気が付かないで、突然に目の前に現れて、びっくりするときがありま
す。しっかりと前を見ることを忘れると危ないです。進行方向を見ながら歩くなら、足取りも
ふらつきません。
  人生において、小さな失敗をしないために足下の問題だけを見て生きていると、生きる目的
を忘れてしまいます。高い目標を持たないと、成長のない生き方に満足しがちです。その目標
は、自分の願いではなく、神様の示してくださるものでなければなりません。神様が示してく
ださる光を見上げて歩むことが、天国への道だからです。それが神様からのビジョン(幻)で
す。
  箴言29章18節の言葉は、古い英訳では「幻無き民は滅びる」とされています(英欽定
訳)。神様からの幻を持たないと、人間は自分の好き勝手に歩みたがり、その結果、滅びの道
を進んでしまいます。また、足下だけに目を向けているなら、大切なことを忘れ、小さな問題
に思い煩ってしまいます。しかし、しっかりとした目標を持つなら、小さな問題や困難も乗り
越えることができます。
  一人一人の人生も、また教会の歴史も、神の言葉による幻(旧約聖書では幻や夢は預言と同
じ意味で使われます)をしっかりと掲げて歩むなら、ふらつくことは無くなります。幻を見上
げつつ、足下にも気を配りつつ、御心に沿った道を歩みましょう。
神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子
や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2章17節)

教会の幻を見よう

2010-01-01
千代崎 備道

    その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
    その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、たしの霊を注ぐ。
ヨエル書 2章28~29節
 
  預言者ヨエルは、御言葉に従わなかったイスラエル王国が、神のさばきとして敵国に攻めら
れて滅びることを預言しました。しかし、彼はさばきとともに、その後に来る救いの日を描き
ました。その日、すなわち救いの日が来たならば、捕囚により受けた傷が癒されるだけでな
く、神様が共にいて下さるようになる。その証拠として神の霊がすべての人に注がれる、と語
ったのが冒頭の聖句です。
  聖霊が注がれるとき、老若男女、誰もが幻をみるとヨエルは語りました。旧約聖書ではしば
しば、預言と幻を同じ意味で使います。夢も神様のご計画を知らせるために用いられました。
方法は様々ですが、御霊なる神は私たちに神様の御心を教えてくださるお方です。聖書を書か
せたのも聖霊です。だから私たちには聖書を用いて御心を示してくださいます。
  神様は私たちにも聖霊を与え、救ってくださいました。そして、神を信じる者たちを用い、さらに救いの御業を進められます。そのご計画を私たちに示し、正しい方向へと導いてくださ
る。それが神からの幻(ビジョン)です。この幻を見上げつつ教会の働きを進めていくとき、神様が私たちのうちに豊かに働いてくださるのです。
  今年は、池の上キリスト教会の創立五十周年です。過去を振り返って恵みに感謝すると共に、新しい50年
 
に向かってスタートする年としていただくために、神様が示してくださる方向性(ビジョン)を示していただきたい。
 
その願いを込めて、今年の教会標語を「教会の幻を見よう」といたしました。神様が山根可弌先生を用いて教会
 
を建てられたとき、誰が今日の姿を予想したでしょうか。でも、神様はさらに素晴らしい計画を立てておられま
 
す。教会の未来を夢見つつ、神からの幻を見せていただきましょう。また、一人一人にも神様はご計画を持っ
 
て導いておられます。その神様からの夢を見せていただき、希望を抱いて進みましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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