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み言葉のいづみ

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栄光の日々

2014-02-01
  千代崎 備道

  ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たに
  されています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い栄光をもたらすから
 
  です。
 
 (第二コリント四章16~17節)
 
  変化を好もうと好まざろうと、必ず変化するものがあります。毎年、年齢は増えます。子どもの頃は嬉しいだ
 
けの誕生日を、大人になると複雑な思いで迎えるようになります。肉体の老化は、子どもの頃から始まる部分
 
もあると言われ、はっきりと自覚する時がきます。私は二十代の終わり頃、目尻の皺に気がついた時に、老化
 
が自分と無関係では無いことを知りました。老眼、腰痛、体力の衰え、誰もがいつかは通る、また通ってきた道
 
です。
 
  心身の衰えと並行し、様々な苦難も訪れます。子どもの頃に怖がっていたことは大人になると恐れなくなりま
 
すが、もっと厳しい現実に直面します。仕事や経済、健康、人間関係、苦悩の無い人はごく希でしょう。ところが
 
パウロは「軽い患難」と言います。彼ほどの患難に遭う人は多くはありません。迫害、盗賊、海難、飢えと寒さ、そして宣教と牧会の苦労。でも彼は天国で受ける栄誉の大きさを想う時、どれほどの苦労も「軽い」と受け止め
 
たのです。(日本語では「重い」栄光という言い方は一般的ではありませんが、ヘブル語では「栄光」の語源は
 
「重い」という語です。人から重んじられることが栄光だからです。)
 
  神が与えてくださる栄光は天国だけではありません。私たちの内側を造り変えて、天国に相応しい者に整えて
 
下さることも栄光の一端です。毎日の生活を通して、また日々御言葉が与えられることを通して、主の恵みに感
 
動し、心が励まされ、強められ、きよめられ、信仰が深められていく。「去年とは変わって来ましたね」と誰かに
 
言われる。奉仕や交わりが喜びとなった。こう言った一つ一つの事が、私たちの内側に神様が働いてくださった
 
証しです。キリストが私たちを通して、「人を新しく生まれ変わらせる」という新生の御業を行い、主の栄光を示し
 
てくださるのです。そうです、この私が主の栄光の器として用いていただいているのです。
 
  信仰生涯は、救われた最初だけが栄光なのでもなければ、また天国に行ってからの栄光だけなのでもありま
 
せん。栄光から栄光へと変えられて行く生涯なのです。苦難でさえも神様は用いてくださり、主の栄光を示すた
 
めに、万事を益としてくださるのです。

栄光へと変えられる

2014-01-01
千代崎 備道

   栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
 
 (第二コリント三章18節)
 
  聖書は私たちに、栄光に満ちた神様を顕しています。天地万物を創造され、歴史を計画し、世界を治めてお
 
られる主なる神です。神様の栄光はあまりにも偉大で、太陽の光のように、近づくことも出来ないほどです。と
 
ころが、その神様が、私たちをも栄光へと変えて下さるとは、驚くべきことではないでしょうか。今年は、皆様と
 
一緒に、栄光と変えられるということを学び、考え、体験させていただきたいと願っています。
 
  神様は人間を「神のかたち」として造られたと創世記は告げています。それは、神様の栄光を反映する存在
 
として生きるためです。クリスチャンは、キリストと似た者になることが目的であるとパウロは教えています。一
 
人一人に与えられている賜物や恵みが発揮されると、キリストの素晴らしさが私たちを通して表されるのです。
 
しかし、私たちが表すべき栄光は、必ずしも素晴らしいことや良いことばかりではありません。私たちは様々な
 
ことで悩んだり苦しんだりします。しかし、その苦難の中で神様に祈り、平安が与えられる。神様から時にかな
 
った恵みが与えられることに気がつき、感謝と賛美が生まれる。それは、クリスチャンだからこそ起こることです。
 
苦しみや悲しみの中でも、平安や感謝があふれ出たり、滲み出てくる。それはキリストが私たちと共にいてくださ
 
る証拠であり、主の栄光が私たちを通して示されているのです。これこそ、キリスト者の栄光です。
 
  もちろん、それが出来ないこともあります。自分はまだまだ未熟なクリスチャンだと、誰もが感じることがあるの
 
ではないでしょうか。しかし、聖霊なる神様が私たちの内にいてくださり、失敗しても忍耐をもって導いてくださ
 
り分からないことを時間をかけて、経験を通して教えてくださいます。そして、少しずつでも考え方が変えられ、信仰が成長し、いつの日か、イエス様の似姿へと一歩近づいている。私たちのような弱い存在を造り変えてくだ
 
さることがお出来になる。それが神様が行ってくださる栄光の働きです。
 
  最初から栄光に満ちたクリスチャンはいません。だからこそ、神様は私たちを栄光へと造り変えて、神様の栄
 
光を現したいとお考えなのです。栄光など私には無理だと思っている人をこそ、神様は求めておられるのです。

絶えず祈りなさい

2013-12-01
千代崎 備道

      聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
   ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
(ローマ人への手紙十章11~12節)
 
   イスラエルの民は、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマ帝国の支配下で、救い主を待ち望むように
 
なり信仰深い人々は神の約束を信じて祈り続けていました。その一人、シメオンという人がルカの福音書2章
 
に登場します。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの
 
慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決
 
して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」(ルカ二章25~26節)。数百年にわたる彼らの祈りを神は決し
 
て忘れず、ついに神の時が来て、救い主を遣わしてくださった。それがクリスマスです。
 
   旧約聖書にはペルシャ時代までのことは書かれていますが、その後のギリシャ帝国に治められていた時代
 
は、当時の文書から様子をうかがい知ることが出来ます。迫害や戦争があり、信仰者たちにとって厳しい時代
 
でした。預言者も現れず、神からの新しい言葉を聞くことは絶えていました。しかし、彼らには既に完成した旧約
 
聖書が与えられており、祈りにより神に繋がることができたのです。
 
   彼らの祈りは、苦しめられていたイスラエルの救いであり、彼らの期待はダビデのような王、モーセのような
 
預言者が再び遣わされることでした。しかし、神は、ご自身の御子を人間として誕生させ、イスラエルのみなら
 
ず、全世界の人々に救いを与えるために、十字架にまで至らせてくださったのです。それは、彼らの希望を遙
 
かに超える、神様のご計画でした。
 
今年の教会の標語は「祈りにより主に近づこう」でした。祈りは、時には長く、忍耐が必要なこともあります。
 
一つのことが終わっても、また新たな課題が与えられ、祈りは決して絶えることはありません。それは、それ
 
ほどに神様は私たちが祈ることを待っておられ、祈りを通して神様に近づくことを願っておられるからです。な
 
ぜならば、本当の解決、本当の救いは、願いが叶えられること以上に、この神様が私たちと共にいてくださる
 
ことだからです。神様のほうが、私たちを近づけたいと願っておられるのです。ですから、私たちも信仰をもって
 
祈り続けようではありませんか。

絶えることのない祈り

2013-11-01
千代崎 備道

   絶えず祈りなさい。
(テサロニケ人への手紙第一・五章17節)
 
   イエス様は「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」、一つの
譬え話をされました。ある町に悪い裁判官がいたが、毎日のように助けを求めて来る一人のや
もめに手を焼いて、ついに彼女を救う裁判を行った。神様は悪い裁判官ではないし、人間の裁
判官以上のお方だから、祈り求め続ける者を放っておかれることはない。だから、私たちも諦
めずに祈り続けるべきなのです(ルカ十八章1~8節)。
   詩篇十三篇の冒頭には、「いつまで」という語が四回繰り返されています。それは、いつま
で続くか分からない苦しみの中にいたからです。でも、この詩人は決して諦めず、祈り続けま
した。
   旧約聖書のイスラエルは、自らの罪のために滅亡し、人々はバビロンに捕囚となりました。
彼らには国も、また神様を礼拝し祈るための神殿も、もうありません。でも彼らは祈り続けま
した。祈りの内容は以前とは変わりました。捕囚前は、自分勝手な祈りでした。しかし、捕囚
に行ってからは、彼らは国が滅びたのが自分たちの罪の故であることを認め、神様に悔い改め
たのです。そして、神がこの民を憐れんでくださるように祈ったのです。
   祈る内容や言葉は変わります。なかなか祈りが聞かれない、それでも祈ろうとしたとき、神
様の御心に沿った祈りへと変えられて行き、祈りを支える信仰も成長していくのです。神様は
そのことをご存じで、「絶えず祈りなさい」と命じておられるのです。
   「絶えず」とは、途中で完全に離れてしまうことが無い、という意味の言葉が使われていま
す。長い間祈っても応えられないと、祈りから一時的に離れてしまうことはあるでしょう。
でも、もう一度、神様の前に戻り、再び祈り始めるのです。その時、なぜ祈りが聞かれないの
か、神様に問いかけつつ、御言葉を求めつつ祈ります。そして、自分の内側の罪を示され、神
様への不信仰に気がつかされ、神様の御心が自分の願いと違うところにあることを教えられる
のです。その時、神様に服従し、全てを委ねて祈るとき、祈りが変えられて行くのです。です
から、祈りを途中でやめてはいけないのです。
   絶えることなく祈り続けた人は、主の慈しみも絶えることが無い(詩篇百十八篇1節、口語
訳)と知るところにまで導いていただけるのです。ですから、諦めて祈りの座から離れてしま
うのではなく、絶えず祈り続ける者となろうではありませんか。

いつ祈るのか?

2013-10-01
千代崎 備道

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
(イザヤ書五十五章6節)
 
 
   困った時の神頼み、と言いますが、問題がすっかりこじれてしまい、しかもいくつもの問題が複雑に絡み合って
 
しまってからでは、解決までに時間も忍耐もさらに必要となることもあります。そうなる前に神様に祈ることが必
 
要なのではないでしょうか。
 
   旧約聖書のイスラエルは、国が誕生したときから、また王国になったときも、つねに問題を抱えていました。で
 
すから、いつでも神に立ち返って祈ることが必要でした。しかし、彼らは頑固で、なかなか悔い改めようとせず、国はだんだんと傾いていきます。預言者イザヤが遣わされたのは、国の北半分が滅びてしまい、南も危機的な
 
状況にあるときでした。それでも神様は彼らを見捨てずに、預言者たちを通して語りかけたのです。「近くにおら
 
れるうちに、呼び求めよ」とは、神様が遠くに行ってしまい、叫んでも聞こえない、ということではありません。神
 
様は遍在(全ての場所に存在できる)のお方であり、全知全能の神ですから、どんな遠くからでも祈りを聞くこ
 
とがお出来になります。ただ、人間のほうが、あまりに神様から離れてしまうと、祈ることもままならなくなる場合
 
があるのです。そうなる前に、今のうちに神に近づいて祈るように、イザヤは語ったのです。
 
   私たちは、これくらいのことは祈らないでも自分の力で出来る、と考えがちです。しかし、思わぬ事が起こって
 
「どうしようか」と困る前に、自分には出来ると思う小さな事でも神様に祈ることが大切です。私たちの身の回り
 
には、家庭でも仕事でも、大小軽重様々な出来事があり、問題や課題があります。全力を尽くしてそれらに取り
 
組むことは当然ですが、それとともに真剣に神様に祈り、神様の近くにおらせていただける祝福があることを覚
 
えましょう。
 
   私たちが祈る気持ちを持つときに、神様は豊かな恵みを注ごうと待っていてくださることを知るのです。イザヤ
 
書の最後の方に、こう書かれています。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(イザヤ六五24)。神様は手ぐすねを引いて、私たちが祈ることを待っておられ、すぐにでもお応え
 
になろうと計らっていてくださるお方です。困ってから、ではなく、いつでも祈りによって神様の側に近づきましょ
 
う。祈る課題は、いつでも、いくらでもあるのですから。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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