み言葉のいづみ
主は私の光です
2012-01-01
千代崎 備道
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
( 詩篇27篇 1節 )
新しい年になり、教会の御言葉と標語も新しくなりました。「主は私の光です」と告白しつつ、この一年も歩ん
でまいりましょう。
この年が明るい一年であることを、誰もが求めています。去年、様々なことのために辛い時を過ごされた方は
もちろん幸いな年となることを願っておられるでしょう。家内安全商売繁盛のような御利益的な意味で「明るい
一年」を求める人も少なくないと思います。では、私たちはどのような意味で光を求めるのでしょうか。
詩篇27篇は、主に前半では神様を信頼する告白、後半では助けを求める祈りから成り立っています。「主は
私の光だ」との宣言は、主への絶対的な信頼の表明です。ところが、その信頼の告白の直後に、7節からは厳
しい状況の中で喘ぐように助けを求める祈りがなされているのです。一見、前半と後半が矛盾しているように思
えますが、信頼があるから祈ることが出来るのであり、このような祈りを土台として信仰の告白がなされている
のです。
後半の祈りの中に何度も「私」と「あなた」という言葉が何回も使われています。他の詩篇でもそうですが、日
本語訳では「しつこい」感じを避けるため、原文の意味を損ねない範囲で代名詞を省略することがあり、実際に
はもっと多くの「私」と「あなた」が用いられていることが少なくありません。ここに、この詩を書いた詩人と神様と
の強い繋がりがあります。「私」、「あなた」と何度も言うことが出来る親しい関係です。この信頼があるからこそ、前半の告白が生まれたのです。
私たちは「光」だけをもとめるのではなく、むしろ、光となってくださる「お方」を求めるのです。今年も礼拝を通
し、また御言葉と祈りを通して、神様との命に満ちた関係を築いていきましょう。そうするなら、一時的に光が見
えないことがあっても、暗い中でも手を引いてくださるお方を信頼することができるのです。このようなお方が
「私があなたの光となるのだよ」と語りかけてくださるとは、何という恵みでしょうか。私の救い主であり、心から
信頼している「主」が、御子をも惜しまずに与えてくださるほどに愛してくださった「私」にとって、どんな闇にも負
けることのない「光」となってくださる、と宣言していてくださるのです。
