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み言葉のいづみ

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十字架と復活の主を賛美しよう

2025-04-01
千代崎 備道  

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
(ピリピ人への手紙二章6~11節)

この箇所は、一世紀の教会で賛美として用いられていたそうです。メロディは分かりませんが、クリスチャンたちが復活の主を心から賛美していたことを思わされます。前半は、キリストの謙遜と言われ、神の御子の身分を離れて人間の姿となり、父なる神の御心に従って十字架で死なれたことを述べています。後半は、その従順の故に父なる神は御子を死の底から引き上げ、世界中のものがキリストと父なる神を褒め称えることが予告されています。私たちもこの賛美に加わり、「イエスは主なり」と告白し、神を賛美しているのです。
もし、イエス様が単なる教師であり、素晴らしい教えを述べられただけならば、偉大な人物の一人としての栄誉は受けても、天地の全てのものから崇められるには至らなかったでしょうし、「地の下になるもののすべて」までが主イエスに膝をかがめて礼拝することはなかったのです。十字架と復活のキリストこそが賛美を受けるに相応しいお方なのです。
私たちの賛美も、物事が上手くいったから感謝と賛美を捧げるだけであるなら、苦難に陥ったときに賛美できなくなります。でも十字架の死からよみがえられたお方を信じるなら、どのようなどん底にいても、そこも主が共にいてくださる場所となり、主と共に復活の命に生きるようになるのです。私たちは決して行き詰まりません。もうダメだ、と人間には思えるときでも、キリストはそれを乗り越えられたお方です。罪と死に閉じ込められていた私たちを救うために主は十字架につかれ、よみがえってくださったのです。人生の最後には死が訪れますが、私たちは死に打ち勝ちたもうイエス様を信頼し、天国であらゆる者と共に神を褒め称えるときを待つのです。
ユダヤ人は土曜日を安息日として守りましたが、クリスチャンは復活を記念して日曜に礼拝するようになりました。イースターだけでなく、毎週、復活の主を崇め、心から賛美と礼拝を捧げましょう。

十字架の主を賛美しよう

2025-03-01
千代崎 備道  

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネの黙示録五章12節)

新聖歌の各ページの下には、その賛美のテーマが書かれています。「受難・レント」というテーマには十字架に関わる讃美歌が多く含まれていますし、それ以外のテーマでも十字架をモチーフとした讃美歌がたくさんあります。それくらい、賛美と十字架とは切り離せないのです。聖書の最後にある黙示録には天国の情景が描かれていて、世界中の民が神さまを礼拝し、賛美を捧げています。そこに「ほふられた子羊」が褒め称えられています。この子羊とはイエス・キリストのことです。イエス様は、神の御子であるから、当然、賛美を受けるに相応しいお方ですし、福音書に記されている、その教えと行いは、誰よりも素晴らしいお方だということができます。しかし、どれほど偉大な人物であったとして、人を罪から救うことはできません。人間的には立派で品行方正な人物でも、神さまの目から見るなら罪人ですから、自分の死によって他の人の罪の身代わりとなることはできないのです。救い主の働きは十字架と復活がなければ色あせてしまいます。
十字架の前夜、ゲツセマネの園で祈られたイエス様は「できるなら、この杯を取り除いて欲しい」と、十字架がどれほどの苦しみであるかを父なる神さまに訴えつつ、「しかし、あなたの御心通りにしてください」と十字架の道に従いました。偽りの証言によって有罪とされ、悪いことをしていないのに罰として鞭打たれ、裸にされて十字架に釘づけられた。そして父なる神さまから見放されるという苦しみを最後まで耐え忍んで、私たちが受けるべき罪の身代わり(贖い)となってくださった。こんなことは、他の誰にも出来ない、イエス様だけの働きです。この十字架によって救われた私たちが、十字架の故に主イエスを褒め称えるのは当然のことです。
世の中では成功した人を讃えます。力ある人、見栄えが良い人、権威や富を持っている人。でも、弟子たちに裏切られ、民衆から拒絶され、裸に剥かれ、血を流し、犯罪人の一人として処刑された人を褒め称えるのは、このお方によって救われた私たちだけができることです。十字架がどれほど有り難い恵みを私たちにもたらしたかを証しし、十字架の本当の価値を世に示す。それが私たちの賛美です。これからも十字架の主を心から、命の続く限り、そして天国に行っても、賛美し続けてまいりましょう。


信仰による賛美

2025-02-01
千代崎備道

こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

(歴代誌第二20章20~21節)


世にも奇妙な戦いでした。兵士よりも前に聖歌隊が進み、声高らかに「主に感謝せよ」と賛美の声を上げながら進んでいきます。敵にとっては格好の的です。しかし、賛美を受けておられる神が敵を打ち負かしてくださり、大勝利となったのでした。讃美歌を歌うことに特別な魔法があったのでしょうか。いいえ、この賛美は、神さまへの信頼の証しでした。その信頼、すなわち信仰に対して、神さまが応えてくださったのです。
ヨシャパテ王はダビデのように信仰深い人でした。ユダ王国にはびこっていた偶像礼拝をやめさせ、正しい信仰へと国民を導いた宗教改革者でした。失敗もありましたが、彼は再び信仰に立ち返り、国の危機には国民と一つになって神さまに祈ったのです。ですから、聖歌隊を先頭にするというのは人間の知恵や奇策ではなく、彼の信仰による決意でした。どんなことがあっても、神さまに信頼し、神さまを第一とする。この信仰が勝利につながったのです。
私たちにとっての賛美も、決して自分のためではありません。歌うのが好きだから、自分の気持ちが良くなるから。そうではなく、私よりも神さまが優先であり、神さまのお名前が崇められることを願っているのです。この信仰が生活に生かされるなら、どんな時にも神さまに従い、神さまを第一とする生き方。それは「神の国と神の義を第一に」と言われたイエス様の教えでもあるのです。
私たちの前には多くの問題や課題があります。何もしないわけではありません。ヨシャパテも全軍を整えて、押し寄せてくる侵略軍に備えました。でも、賛美を後回しにするのではなく、まず神さまを崇めたのです。私たちも主を賛美することから始めたいと思います。するべき努力は大切です。人間の出来る備えは行います。でも、それで十分ではなく、神さまを第一とする。この大切なことを忘れないために、賛美と祈りをもって神さまに心を向けるのです。そして生きて働いておられるお方を心から信頼しましょう。


命の限り主を賛美しよう

2025-01-01

千代崎 備道  

私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。

(詩篇一〇四篇33節)


私たちはなぜ賛美をするのでしょうか。讃美歌を歌うのが好きだから、という方もおられるでしょう。まだクリスチャンでない人でもキリスト教を愛してくださることを主も喜んでおられます。救われた恵みに感謝して神様を褒め称える方もおられます。旧約聖書の詩篇には多くの祈りと賛美が含まれていますが、苦難の中での祈りは最後に賛美の誓いと呼ばれる、祈りが聞かれて助けられたなら神様を褒め称えます、との誓いで祈りを閉じているものがあります。また賛美の中にも神様がしてくださった救いの御業を感謝して賛美を捧げている詩が少なくありません。
しかし、詩篇の賛美の中には、何か良いことをしてもらったからではなく、何も無くても、神様が神様だから賛美を捧げているものがあります。詩篇104篇もその一つで、神様が天地創造の主であるから、褒め称えているのです。
賛美とは偉大なお方を讃えることで、時には音楽を用い、時には絵画などの芸術を用い、その賞賛の思いを表すことです。私たちが讃美歌を歌うときに、その賛美が向けられている神様を心から崇めて、神様の御業を言い表して、心の底から讃えるなら、私たちも詩篇の賛美を生み出した旧約時代の信仰者たちと同じ、賛美者なのです。
今年の教会標語は「命の限り主を賛美しよう」です。生きている限り、何歳になっても幼子たちの賛美のように、心からの感謝と喜びをもって神様に賛美を捧げましょう。命の限りを尽くし、私たちの力を尽くし、思いを尽くして、主を崇めましょう。それは、救われたから、助けていただいたから、感謝による賛美でも良いでしょう。でも、何も無くても、神様が私たちの神となってくださった、天の父となってくださった、ですから無条件で主を賛美するのです。
最初は賛美が分からない人でも、救いの恵みに与り、感謝を献げ、敬愛の思いを込めて主を崇めるようになることを、神様は喜んでくださいますが、まだ何も恵みをいただいていないのに、心から主を賛美する者を、神様はさらに喜んでくださるのではないでしょうか。主を崇め、信頼するなら、それ以外のことは、全て「添えて」与えられます。今年は、まず主を讃えて進んで参りましょう。

主の御手は伸ばされ続ける

2024-12-01

千代崎 備道  

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

(詩篇百三十九篇9~10節)


世界のどこに行っても、そこで神の御手が導いていてくださることを、この詩篇は驚きを込めて詠っています。遠いバビロンに捕囚とされた民はこの詩に慰められたでしょう。現代はインターネットの時代で、世界中どこででもつながることが出来ますが、神様は旧約聖書の時代から既に全世界に御手を伸ばしておられるお方です。
クリスマスに良く語られる「インマヌエル」とは、「神が我らと共におられる」という意味ですが、イザヤ書七章で預言者イザヤがアハズ王に告げた言葉です。アハズは偶像を拝む不信仰な王でしたが、神自らしるしを与えるから信じなさい、と迫られました。そのしるしがインマヌエルです。ところがアハズはなおも神様の言葉に背き、イスラエルの民も神様に従いません。そこで神の怒りの手がイスラエルに伸ばされた、とイザヤ書は続けています。神の怒りの手がくだされ、北王国は滅亡し、南王国も壊滅状態になりますが、それでも彼らは悔い改めない。そこで怒りの御手は何度も伸ばされます。でも、最後に神の御手は彼らを救うために伸ばされる。その遣わされた御手こそが御子イエス・キリストです。
イスラエルにだけ伸ばされたのではなく、神の救いの御手は全世界に広められました。イエス様の弟子たちが世界中に出て行って福音を宣べ伝えたのです。今も御手は伸ばされ続けています。私たちにも救いの御手が伸ばされ、また私たちをも用いて主は救いを広めておられるのです。でも私たちは道具のように使われるのではありません。主を証しする私たちにも主の恵みの御手が伸ばされ続け、御業を行ってくださるのです。たとえ遠く離れていても、苦しみの中に深く沈んでいても、そこにも主の御手は伸ばされ、主の御手が私たちを導いていてくださるのです。
まもなく二〇二四年が終わり、新しい年が始まります。これからも主の御手は伸ばされていきます。人間はもうダメだと諦めそうになることもあります。でも御子をも遣わし、聖霊をも注いでくださった神様は、私たちを諦めたりはしません。どこにいても、どんな状態でも、主の御手が私を導き、力強い主の右の手が私を捕らえて放さないのです。この御手に信頼するなら「主は私たちと共におられる」、インマヌエルの主であるイエス様が共に住んでくださるのです。来年も主を信頼しましょう。

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宗教法人日本ホーリネス教団
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