み言葉のいづみ
聖霊による証し
2026-05-01
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千代崎 備道
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒の働き一章8節)
およそ四十日間で復活の主と何度もあった弟子たちの心には、この復活という奇蹟を誰かに伝えたい思いと、まだ祭司長たちの迫害を恐れる思いがあったでしょう。気の早い弟子は、もうエルサレムの街中に、あるいはガリラヤの町々に出て行ってイエス様がキリストだと話したかったかもしれない。でもイエス様は待つように命じられ、まもなく聖霊が降り、その力を受けてからキリストの復活の証人となることを告げました。その言葉の通り、昇天からおよそ十日目の五旬節(ギリシャ語ではペンテコステ)の祭りの日に聖霊が弟子たちの上に降り、教会が誕生し、弟子たちによる宣教が始まり、そして数千数万の人たちがイエス様を救い主として信じたのです。
イエス様が弟子たちに聖霊を待つように命じられたのは、復活の証しは人間の力では無理があり、聖霊による助けが不可欠だからです。後に異邦人の使徒パウロがアテネの町で宣教しようとした時、彼は学問を修めた人ですので、アテネの知識人にも負けない知識によって復活の主を伝えようとしたのですが、僅かな人以外には受け入れられませんでした。人間の知恵や知識によっては伝えることも信じることも出来ず、ただ聖霊の働きが必要だったのです。
聖霊は私たちと神様とのコミュニケーションを助けてくださるお方です。御言葉を理解させてくださるのも、神への祈りの言葉を導いてくださるのも聖霊の助けによるのです。聖霊抜きでの人間同士のコミュニケーションは、誤解や思い込みで上手く通じないことがいくらでも起きてきます。人間の言葉は不十分であり、不完全・不適切です。自分勝手な考えかたや受け取り方が伝えることを妨げています。ましてや福音を伝えるのは、普段のコミュニケーション以上に難しい。ですから聖霊の助けがどうしても必要なのです。
弟子たちは約束の聖霊を天から受けるまで祈り続けました。以前は誰が一番かを争い合っていた彼らが、一つ心となって祈った。これまでのことを互いに悔い改めたことでしょう。そのとき、彼らのコミュニケーションを妨げていたものが取り除かれていったのです。私たちも、まず教会の兄弟姉妹とゆるし合い、祈り合い、神様に助けを願いましょう。どれだけ待つのかは神様がご存じですが、私たちの証しにより救いが広められるため、聖霊が助けてくださいます。祈り続けましょう。
新しい私たち
2026-04-01
千代崎 備道
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(第二コリント五章17節)
新年度となり、新入生、新社会人など、新しい歩みを始めた方も、そろそろ新しい生活に慣れてきたことでしょう。新しくなった喜びや元気な思いが、古くなって色あせて無くなっていくのではなく、さらに成長していっていただきたいと願っています。
さて、教会員の方々は、池の上教会あるいは他の教会で洗礼を受けて新しくクリスチャンとなった体験があることでしょう。この体験は古くなるのではなく、さらに新しくなると聖書は教えています。
洗礼とは何かということを説教で触れることがあります。その人がイエス・キリストを信じて救われたことを神と人の前で明らかにする意義もありますが、それだけなら違った形でも良いのかもしれません。聖書が洗礼(バプテスマ)を重んじているのは、その形そのものにも意味があるからです。池の上教会では滴礼というスタイルですが、元々は浸礼といって水の中に身体全体を沈めることをします。それは、水の中で一度「死に」、新しいいのちとなって立ち上がることで、キリストの復活の力による新しい人生が始まったことを表しているのです。それを会衆の前で明らかにするのが礼拝での洗礼式です。
クリスチャンとしての新しい人生は、イエス・キリストを救い主として信じた時から、すでに始まっています。私たちは新しいいのちに生きているのです。その新しさは、何年か経ったら古くなくなるようなものではありません。新しいいのちはこれからも成長し、豊かになっていく、永遠のいのちなのです。ただ、このいのちはキリストによるいのちです。キリストとつながっていないと栄養不足になって元気を失ってしまいます。教会に毎週通うこと、聖書を毎日読み、一日になんどでも祈ること。そのようにして神様に心を向け、恵みを注いでいただくとき、キリストが私たちのうちにおられることが分かるのです。
もし信仰が元気を失っていると感じたら、もう一度神様の前に進み出ましょう。離れて迷子になっているような気がしたら、神様に心を向け、キリストの名前によって祈りましょう。弱くなって消えかけていた新しいいのちの火が再び燃え上がるとき、周囲の人も気がつくように変えられます。溢れ出て輝くようなキリストによる新しいいのちの人生を歩みましょう。それが証しの生き方です。
心が燃えるとき
2026-03-01
千代崎 備道
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカの福音書二十四章32節)
イースターの日の午後、エルサレムからエマオ村へと向かっていた二人の弟子がいました。一人の名はクレオパ、もう一人の名前は聖書に記されていません。敬愛する先生が悲惨な死に方をしたことを嘆きながら歩いていた二人に復活の主が話しかけられましたが、二人は彼が誰であるか気がつきません。その人から、聖書全体から救い主の受難と栄光に関する預言を教えられ、二人は不思議な思いが湧き上がり、宿に入り、食卓について、その人がパンを割く様子を見て、それがイエス様だと気がつきました。その時、イエス様の姿は見えなくなりましたが、復活の主と出会ったことが分かった二人は、心が熱くなり、エルサレムに走って戻り、弟子たちにその知らせを伝えたのです。
復活を信じる前から、この二人の心は燃え始めていました。私たちの信仰が完全なものでなくても、御言葉によって心が熱くなることがあります。単なる古典文学ではなく、聖書の言葉が自分の心に語られている事を知り始めたとき、自分の心の中に光が照らされ、時には罪が示され、時には希望が与えられ、神の愛を知らされたときがそうです。そして、その思いが、全てキリストにつながっていることに目が開かれたとき、私たちはこのお方を信じ始めているのです。イエス様こそ、私を救ってくださるお方だ。その思いは、最初は小さな炎かもしれません。時には消えそうになるかもしれない。でも、一度ついた火は、消えかけても、また燃え始めます。私たちが伝えていきたいのは、この小さな炎です。
クリスマスにキャンドルサービスを行います。今は火事や火傷にならないように電気の光を使いますが、昔は蝋燭を使いました。小さな炎でも、次の人に渡すと、その人の蝋燭にも火がつきます。小さな光ですが、集まると会堂全体をほの明るくします。私たちの証しも巨大な炎や爆発的な火でなくても良いのです。私が体験した、小さな心の炎。心が熱くなったり、暖かくなった。それがイエス様と結びつくとき、証しとなります。
神様から与えられた愛や喜び、感謝や平安。小さな火を証ししましょう。暗闇の中にいる人に手渡されるなら、それが希望の光になります。悲しむ人に慰めを、孤独な人に優しさを、どんな人にも必要なキリストによる救いを伝えていきましょう。
恵みを味わって証ししよう
2026-02-01
千代崎 備道
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。(新改訳第三版)
あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知ったはずである。(口語訳)
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。(新改訳第三版)
あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知ったはずである。(口語訳)
(ペテロ第一の手紙二章3節)
宣教は教会の第一の使命です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ二八19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ十六15)、「あなたがたは、これらのこと(十字架と復活)の証人です」(ルカ二四48)とイエス様が命令されたからです。命令なさったのは、それが困難だからです。一世紀の教会はキリストを証ししたために迫害されました。今でも、キリストを伝えようとしても、なかなか受け入れてもらえません。特に家族や近い人ほど難しいかもしれません。でも、私たちの主が命じられたことに、私たちは従おうとするのです。
確かに伝道や証しは簡単ではないでしょう。でも、同時に簡単なことでもあります。それは、私たちが恵みを知ったからです。神の慈しみ、つまり神の恵みによって私たちは救われました。また何度も困難を乗り越えることが出来たのも神様の憐れみがあったからです。誰もが一度ならず、恵みを体験してきました。その恵みを、私たちは証しするのです。
ペテロは「味わう」という表現を使って、恵みを食べ物に例えています。食べてみて美味しいと感じたなら、他の人にも勧めることができます。難しい言葉で説明できなくても、グルメ評論家でない素人でも、美味しかったと伝えることができ、また、良いお店なら人を誘うことが出来ます。
しかし、美味しさを味わっていなければ、伝えるのは困難です。味わうにはどうしたら良いでしょう。スルメのように何度も噛みしめないと味わえないものもあります。最初は空腹のためか、味わわずに呑み込んでも、何度かすると落ち着いて味を確かめることもできます。誰かが説明してくれたのを聞いて素材や作り方が分かってくると、また違った味わいを楽しむことができるかもしれません。
私たちは受けた恵みを、何度も噛みしめるように思い起こし、また聖書を通してその深い意味を知って驚き、そして何度も何度も恵みを体験し、それを数え上げるとき、これまで以上に恵みの素晴らしさに感動するのです。その時、証しは喜びとなり、自然と心の中から生まれてきます。
宣教は教会の第一の使命です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ二八19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ十六15)、「あなたがたは、これらのこと(十字架と復活)の証人です」(ルカ二四48)とイエス様が命令されたからです。命令なさったのは、それが困難だからです。一世紀の教会はキリストを証ししたために迫害されました。今でも、キリストを伝えようとしても、なかなか受け入れてもらえません。特に家族や近い人ほど難しいかもしれません。でも、私たちの主が命じられたことに、私たちは従おうとするのです。
確かに伝道や証しは簡単ではないでしょう。でも、同時に簡単なことでもあります。それは、私たちが恵みを知ったからです。神の慈しみ、つまり神の恵みによって私たちは救われました。また何度も困難を乗り越えることが出来たのも神様の憐れみがあったからです。誰もが一度ならず、恵みを体験してきました。その恵みを、私たちは証しするのです。
ペテロは「味わう」という表現を使って、恵みを食べ物に例えています。食べてみて美味しいと感じたなら、他の人にも勧めることができます。難しい言葉で説明できなくても、グルメ評論家でない素人でも、美味しかったと伝えることができ、また、良いお店なら人を誘うことが出来ます。
しかし、美味しさを味わっていなければ、伝えるのは困難です。味わうにはどうしたら良いでしょう。スルメのように何度も噛みしめないと味わえないものもあります。最初は空腹のためか、味わわずに呑み込んでも、何度かすると落ち着いて味を確かめることもできます。誰かが説明してくれたのを聞いて素材や作り方が分かってくると、また違った味わいを楽しむことができるかもしれません。
私たちは受けた恵みを、何度も噛みしめるように思い起こし、また聖書を通してその深い意味を知って驚き、そして何度も何度も恵みを体験し、それを数え上げるとき、これまで以上に恵みの素晴らしさに感動するのです。その時、証しは喜びとなり、自然と心の中から生まれてきます。
神の恵みを伝えよう
2026-01-01
千代崎 備道
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」
そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」
そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。
(ルカ8章39節)
悪霊に憑りつかれ人生が破綻していた男性は、周囲からも恐れられ疎外されていました。その彼がイエス様と出会い、人生が変えられたのです。私たちも、悪霊ではありませんが、罪のために心が乱れ、神との関係も人との関係も損なわれていたところから、イエス様によって救っていただき、人生が変えられたのです。神様が与えてくださった救いの恵みがどれほど大きなことだったかを知れば知るほど、私たちは神様に感謝と賛美を捧げるのです。でも、それだけで良いのでしょうか。
イエス様はこの男性に、まず家族に話して聞かせるように命じました。でも彼は家族だけではなく、町中の人たちにイエス様がしてくださった恵みを証ししたのです。聞いた人たちはイエス様の力を恐れて追い出しましたが、彼の証しを聞いた人々の中から、やがてイエス様を信じる人々が起きていったことでしょう。神の恵みを、受けた自分だけでとどめるのではなく、それを証しするとき、恵みへの感謝は何倍にも広がっていきます。それを聞いた人たちも、神様をあがめ、また悩んでいる人は他の人の証しを聞いて励まされ、信仰から信仰へと前進していくのです。
今年の教会のテーマは証しと伝道です。難しいことを話すのではなく、まず自分が受けた恵み、自分の体験を伝えるのです。それを聞いた人がすぐに同じ信仰を持つようになるかは分かりません。その人それぞれに「神の時」があり、それまでは忍耐をもって祈りつつ待ち続けなければなりません。でも伝えなければ、いつになっても変わりません。家族や友人、一番知って欲しい人、一緒に天国に行きたい人、神様が引き合わせてくださった人。誰かに神様の恵みを伝えましょう。
一人だけでは難しいと感じるなら、兄弟姉妹にも手伝ってもらいます。信仰の友と一緒に祈り、また誘ってきてくれた人を紹介して、新しいつながりを持ってもらいます。また最初から未信者に伝えるよりも、まず教会の仲間に語るなら理解してもらいやすいでしょう。礼拝や集会後の交わりのときに少しでも良いので、受けた恵みを話してみましょう。(いづみに寄稿するのも、伝えることを整理できる機会です。)
