み言葉のいづみ

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慕いあえぐ恵み

2026-07-01
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千代崎 備道  

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
(詩篇四十二篇1~2節)

夏の暑い日に、この御言葉を思い出します。イスラエルの夏は乾期で、日本と違い雨は降りません。普段から乾燥した地域では谷川の水も涸れてしまい、野生動物は水を求めて谷に降りても水が無いため、喘いで鳴き声を上げる。それが聞こえてくるような詩です。
酷暑の日本では、喉が渇くときには、もう身体は脱水し始めているそうです。我慢せずに、喉の渇きを感じなくても定期的に水分を補給するようにニュースでも言われています。気をつけてお過ごしください。特に高齢者は渇きや暑さを感じにくくなるようです。
それでも人間の身体に渇きを感じるように神様がしてくださったのは感謝なことです。渇きを感じる機能が無かったなら、大変なことになります。でも、霊的な渇きをどれほど感じているでしょうか。教会に来ないでいると、やがて何か物足りなさを感じるかもしれません。兄弟姉妹との交わりによる潤いが大切です。御言葉を読まないでいると、信仰が渇いてきて、殺伐とした心になります。神様の恵みの雨によって十分に潤される必要があります。それでも、渇きを感じても恵みから離れたままでいると、やがて渇きさえも感じないほどに渇いてしまうようになります。それは慣れたのではなく、危険信号です。地面が乾ききって堅くなってしまうと、水さえも染み込まなくなってしまいます。
生ける神を求めて喘ぐのは、神様が与えて下さったシグナルです。気が付いたなら恵みの水を求めることができるからです。本当は溢れるばかりに恵みが注がれるはずです。たっぷりと注いでいただけるように、神様に恵みを求めて祈りましょう。「いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」、それは今です。渇きを感じたとときだけでなく、恵みがこぼれ落ちて周りの人にもお裾分けできるくらいになれるように、もっと恵みを求めましょう。そうすれば証しするのを抑えきれないほどに恵まれます。神様が備えていてくださるからです。聖会に参加できなかった方も、現代はインターネットで視聴できます。もっと恵みの御言葉を求めましょう。毎週の聖日礼拝を守ることは、「脱水症」にならない最小限の秘訣です。生ける神を求めましょう。「求めよ、さらば与えられん」なのです。


毎日の恵み

2026-06-01
千代崎 備道  

私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
(ルカの福音書十一章3節)

毎年の大晦日、紅白歌合戦の後に「行く年来る年」という番組があります。そのパロディですが「行く半年来る半年」というラジオの深夜番組が6月末にありました。私の学生時代の話です。
教会によっては年末に「除夜祈祷会」と銘打って一年の感謝を証しし、新しい年のために祈る集会を行っています。でも感謝をするのは年に一度だけのことではありません。神様は私たちに毎日恵みを注いでおられるからです。『主の祈り』で「日用の糧を今日も与え賜え」と祈る私たちに主は応えてくださって、食事を始め、必要なものを毎日与えてくださるのではないでしょうか。でも、私たちはそれを当たり前のこと、自分の力で手に入れたものだと勘違いをしてしまい、神様が大人には働く力を与え、幼子には養う家族を与えてくださったことを忘れてしまい、恵みに気が付かなくなってしまいまうのです。
エレミヤ書の最後の部分に、南王国ユダが滅亡した時のことが記されています。多くの人々がバビロンに捕らえ移され捕囚となっていて、失望の日々を過ごしていました。ところがエホヤキンという王が獄屋につながれていたのですが、バビロンの王が彼を憐れんで、獄屋から出し、王と共に食事をする地位につけてくれたのです。「彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた」(エレミヤ五二・34)と記されています。エホヤキンはバビロンの王に感謝したでしょうが、この知らせを聞いたユダの民は、自分たちの苦しみもいつか終わりになる日が来ると希望を持ったのです。なぜなら、バビロンの王ではなく神様がエホヤキンを憐れんで助けてくださったと信じたからです。
私たちが神様から与えられた恵みに気が付かず、自分や誰かのおかげだと考えるなら、その人への感謝や自分の力を誇るだけのことです。でも、その小さな日々の恵みが神様からのものだと信じるとき、神様への感謝が生まれるだけでなく、その証しを聞いた人にも希望を与え、神様を信じる者へと変えられるように導かれるのです。
まず私たち自身が神様の恵みを見出しましょう。いいえ、神様は必ず与えておられるのですから、その恵みを数え上げましょう。「数えよ主の恵み」と賛美する者となりましょう。主の祈りを捧げるたびに、その祈りに日々応えてくださる神様に感謝し、そして、その恵みを証ししてまいりましょう。



聖霊による証し

2026-05-01
千代崎 備道  

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒の働き一章8節)

およそ四十日間で復活の主と何度もあった弟子たちの心には、この復活という奇蹟を誰かに伝えたい思いと、まだ祭司長たちの迫害を恐れる思いがあったでしょう。気の早い弟子は、もうエルサレムの街中に、あるいはガリラヤの町々に出て行ってイエス様がキリストだと話したかったかもしれない。でもイエス様は待つように命じられ、まもなく聖霊が降り、その力を受けてからキリストの復活の証人となることを告げました。その言葉の通り、昇天からおよそ十日目の五旬節(ギリシャ語ではペンテコステ)の祭りの日に聖霊が弟子たちの上に降り、教会が誕生し、弟子たちによる宣教が始まり、そして数千数万の人たちがイエス様を救い主として信じたのです。
イエス様が弟子たちに聖霊を待つように命じられたのは、復活の証しは人間の力では無理があり、聖霊による助けが不可欠だからです。後に異邦人の使徒パウロがアテネの町で宣教しようとした時、彼は学問を修めた人ですので、アテネの知識人にも負けない知識によって復活の主を伝えようとしたのですが、僅かな人以外には受け入れられませんでした。人間の知恵や知識によっては伝えることも信じることも出来ず、ただ聖霊の働きが必要だったのです。
聖霊は私たちと神様とのコミュニケーションを助けてくださるお方です。御言葉を理解させてくださるのも、神への祈りの言葉を導いてくださるのも聖霊の助けによるのです。聖霊抜きでの人間同士のコミュニケーションは、誤解や思い込みで上手く通じないことがいくらでも起きてきます。人間の言葉は不十分であり、不完全・不適切です。自分勝手な考えかたや受け取り方が伝えることを妨げています。ましてや福音を伝えるのは、普段のコミュニケーション以上に難しい。ですから聖霊の助けがどうしても必要なのです。
弟子たちは約束の聖霊を天から受けるまで祈り続けました。以前は誰が一番かを争い合っていた彼らが、一つ心となって祈った。これまでのことを互いに悔い改めたことでしょう。そのとき、彼らのコミュニケーションを妨げていたものが取り除かれていったのです。私たちも、まず教会の兄弟姉妹とゆるし合い、祈り合い、神様に助けを願いましょう。どれだけ待つのかは神様がご存じですが、私たちの証しにより救いが広められるため、聖霊が助けてくださいます。祈り続けましょう。



新しい私たち

2026-04-01
千代崎 備道  

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(第二コリント五章17節)

新年度となり、新入生、新社会人など、新しい歩みを始めた方も、そろそろ新しい生活に慣れてきたことでしょう。新しくなった喜びや元気な思いが、古くなって色あせて無くなっていくのではなく、さらに成長していっていただきたいと願っています。
さて、教会員の方々は、池の上教会あるいは他の教会で洗礼を受けて新しくクリスチャンとなった体験があることでしょう。この体験は古くなるのではなく、さらに新しくなると聖書は教えています。
洗礼とは何かということを説教で触れることがあります。その人がイエス・キリストを信じて救われたことを神と人の前で明らかにする意義もありますが、それだけなら違った形でも良いのかもしれません。聖書が洗礼(バプテスマ)を重んじているのは、その形そのものにも意味があるからです。池の上教会では滴礼というスタイルですが、元々は浸礼といって水の中に身体全体を沈めることをします。それは、水の中で一度「死に」、新しいいのちとなって立ち上がることで、キリストの復活の力による新しい人生が始まったことを表しているのです。それを会衆の前で明らかにするのが礼拝での洗礼式です。
クリスチャンとしての新しい人生は、イエス・キリストを救い主として信じた時から、すでに始まっています。私たちは新しいいのちに生きているのです。その新しさは、何年か経ったら古くなくなるようなものではありません。新しいいのちはこれからも成長し、豊かになっていく、永遠のいのちなのです。ただ、このいのちはキリストによるいのちです。キリストとつながっていないと栄養不足になって元気を失ってしまいます。教会に毎週通うこと、聖書を毎日読み、一日になんどでも祈ること。そのようにして神様に心を向け、恵みを注いでいただくとき、キリストが私たちのうちにおられることが分かるのです。
もし信仰が元気を失っていると感じたら、もう一度神様の前に進み出ましょう。離れて迷子になっているような気がしたら、神様に心を向け、キリストの名前によって祈りましょう。弱くなって消えかけていた新しいいのちの火が再び燃え上がるとき、周囲の人も気がつくように変えられます。溢れ出て輝くようなキリストによる新しいいのちの人生を歩みましょう。それが証しの生き方です。



心が燃えるとき

2026-03-01
千代崎 備道

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカの福音書二十四章32節)

イースターの日の午後、エルサレムからエマオ村へと向かっていた二人の弟子がいました。一人の名はクレオパ、もう一人の名前は聖書に記されていません。敬愛する先生が悲惨な死に方をしたことを嘆きながら歩いていた二人に復活の主が話しかけられましたが、二人は彼が誰であるか気がつきません。その人から、聖書全体から救い主の受難と栄光に関する預言を教えられ、二人は不思議な思いが湧き上がり、宿に入り、食卓について、その人がパンを割く様子を見て、それがイエス様だと気がつきました。その時、イエス様の姿は見えなくなりましたが、復活の主と出会ったことが分かった二人は、心が熱くなり、エルサレムに走って戻り、弟子たちにその知らせを伝えたのです。
復活を信じる前から、この二人の心は燃え始めていました。私たちの信仰が完全なものでなくても、御言葉によって心が熱くなることがあります。単なる古典文学ではなく、聖書の言葉が自分の心に語られている事を知り始めたとき、自分の心の中に光が照らされ、時には罪が示され、時には希望が与えられ、神の愛を知らされたときがそうです。そして、その思いが、全てキリストにつながっていることに目が開かれたとき、私たちはこのお方を信じ始めているのです。イエス様こそ、私を救ってくださるお方だ。その思いは、最初は小さな炎かもしれません。時には消えそうになるかもしれない。でも、一度ついた火は、消えかけても、また燃え始めます。私たちが伝えていきたいのは、この小さな炎です。
クリスマスにキャンドルサービスを行います。今は火事や火傷にならないように電気の光を使いますが、昔は蝋燭を使いました。小さな炎でも、次の人に渡すと、その人の蝋燭にも火がつきます。小さな光ですが、集まると会堂全体をほの明るくします。私たちの証しも巨大な炎や爆発的な火でなくても良いのです。私が体験した、小さな心の炎。心が熱くなったり、暖かくなった。それがイエス様と結びつくとき、証しとなります。
神様から与えられた愛や喜び、感謝や平安。小さな火を証ししましょう。暗闇の中にいる人に手渡されるなら、それが希望の光になります。悲しむ人に慰めを、孤独な人に優しさを、どんな人にも必要なキリストによる救いを伝えていきましょう。



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