み言葉のいづみ
見えないが働いている主の手
2024-08-01
千代崎 備道
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた。
(エステル記六章1節)
エステル記というのは旧約聖書の中でも一番の変わり種で、一度も神様の名前が出て来ません。礼拝や信仰に関する言葉も一切使われていないという徹底した書物です。見かけ上は神様が登場しないままにストーリーが進んで行くのですが、見る人が見れば、確かに主が生きて働いておられることが分かります。
時はペルシャ帝国が世界を支配していた時代、多くのユダヤ人がペルシャの支配下で生きていました。迫害が強い時期もあって宗教的なことを書かないようにしたのかもしれません。あるとき、ユダヤ人を憎む政治家によってユダヤ人虐殺計画が進められていました。それを知ったユダヤ人たちは「断食した」と書かれていますが、これはダイエットのためではなく、祈っていたことは明らかです。その祈りに神様が応えてくださり、御手を伸ばしてくださったのです。
「その夜」とは特別な時でした。この日に事が起きなければ大変なことになるかもしれないのが次の日でした。王様が眠れなくなった。誰にでも起きることです。どうしても眠れない王様は記録の書、つまり王宮日誌を持ってこさせます。一番面白くない書なので、読ませているうちに聞いている自分が眠くなると考えた。でも人間の計算通りになりません。眠れないままに日誌が読み進められていくうちに、一つの記録が読み上げられた。それが、この後で殺害計画を変えて解決する切っ掛けとなる出来事でした。もし、王様が眠れていたら、もし王様がこの書を選ばなかったなら、きっとユダヤ人は皆殺しになっていたでしょう。こんな小さな出来事を起こして、歴史の流れを動かしたのは、見えない神様の御手でした。
今も神様は目に見えないお方です。その神様のなさることも、信仰の目で見なければ、日常のありふれた出来事だったかもしれません。でも神様は普通の出来事、当たり前の生活の中にも御手を伸ばしておられます。超自然的な奇蹟ではなくても、小さな事を通して私たちの信仰を導き、人生を変えて行ってくださるのです。神の御手は不思議な手です。
私たちは自分に都合の良い、そして信仰抜きでも分かりやすい結果を求めて祈るかもしれません。でも神様にはご計画があり、タイミングがあり、小さな切っ掛けをも用いてくださることがおできになります。この神様の御手を信頼しましょう。
