み言葉のいづみ
遠く離れて祈る
(エゼキエル書十一章16節)
預言者エゼキエルが活動したのは、バビロン帝国によりエルサレム神殿が破壊され、生き残った人々はバビロンに捕囚となって連れて行かれた時代です。当時の人にとって礼拝とは神殿で犠牲の動物を捧げることでしたから、遠く離れたバビロンでは礼拝が出来ませんでした。でも彼らは聖書を学び祈ることで神様への礼拝を捧げていくようになります。これが神殿ではなく、会堂での礼拝となり、新約時代のユダヤ教、さらに後のキリスト教会にも引き継がれていくスタイルとなります。イスラエルにとっては、大きな時代の変換点でした。
今、私たちも世界の歴史において大きな転換点にいるのかもしれません。コロナ禍はいつか落ち着くときがくるでしょう。でも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ではなく、これを教訓として、将来の感染に備えることを覚えていかなければなりません。教会も、一緒に集まることができない時期が起こりうることを学びました。教会の歴史を学ぶとき、時代の状況に対応して礼拝のスタイルは変化してきました。これからも変化はあるでしょう。いえ、変化しないなら、それは生命力が弱くなり衰退してしまいます。個々人も同じ所に止まろうとするなら成長が出来ません。しかし、その変化は、信仰の本質を変えてしまうことではありません。
冒頭の御言葉は、遠いバビロンで祈りを捧げている人々に神様が語ってくださった言葉です。神殿で祈れない、動物を捧げることもできない、そんな自分たちの祈りを聞いていただけるか、不安になっていた信仰者たちに、神様は、ご自身が一緒におられることが神殿の本質であって、どこにいても共にいてくださる神様に祈ることができることを約束してくださったのです。
私たちは緊急事態と外出自粛という状況の中で、「しばらくの間」ですがインターネットと郵送による礼拝というスタイルを採用しました。これまでの教会堂での礼拝とは異なるために、不足や不便もあります。でも、離れていても主が一人一人と共にいてくださり、そのお方に賛美と祈りをささげ、神様からの御言葉に聞き従うことに変わりはありません。もちろん、教会に集まることを一切やめることはありません。でも、いつどのような時でも、困難な中でも神様が共にいてくださる恵みを忘れずに、信仰をもって歩んで行きましょう。
