み言葉のいづみ
三年目の収穫を待ち望む
2021-09-01
千代崎 備道
あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
(イザヤ書三十七章30節)
ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ帝国がユダ王国を攻撃し、多くの町々が攻め落とされ、遺されたエルサレムも大軍に包囲される、という事件がありました。神様は預言者イザヤを遣わしてヒゼキヤを励まし、主を信頼するなら必ず救われることを預言し、冒頭の御言葉を語らせました。戦争のために農業が出来ず、収穫が無いことを心配する人々に、神様は刈り入れ損ねた落ち穂から生えたものを食べて生き延びることができると告げました。三年目には再び種を蒔いて収穫をし、またブドウ畑も実を結ぶようになるのです。
昨年と今年は、コロナ禍のために多くの教会は伝道活動を制限され、礼拝を守ることも困難でした。種蒔きが出来なければ収穫は望めません。低調だった教会成長はさらなる打撃を受けた。誰もがそう思うでしょう。ホーリネス教団も昨年延期となったユースジャム(全国青少年大会)をオンラインで開催しました。画面越しの難しさもあり、決心者も多いとは言えませんでした。特に献身者が多く起こされて牧師不足が解消されることを願っていましたが、期待通りにはなりませんでした。このまま、救われる人も牧師になる人も起こされないのでしょうか。
神様が御言葉の種を蒔かれると、「地は人手によらず実をならせる」(マルコ四28)と書かれているように、私たちの目には見えないところで芽を出し、何年かかっても成長し結実に向かいます。牧師が遣わされて一年目に受洗者が起こされるとしたら、それは以前からの働きの実でもあり、何より神様の御言葉が生きて働いたからです。去年も今年も、受洗者が起こされたのも、何年も前からの種蒔きや水遣りがあったからです。そして、この二年間も、たとえ目に見えるような形での伝道(特伝やコンサートなど)が出来なかったとしても、隠れたところで御言葉は蒔かれ続けています。
まだ来年のことを話すのは早すぎます。コロナ禍がどうなるかは分かりません。でも三年前からの落ち穂が結実し、三年目には「ぶどう畑を作って」とあるように、新しい働きも始めることを目指してまいりましょう。また、お一人お一人も、日々御言葉の恵みをいただいて、御霊の実をみのらせましょう。何より、収穫の主に期待し、待ち望みましょう。
