み言葉のいづみ

RSS(別ウィンドウで開きます) 

恵みを味わって証ししよう

2026-02-01
千代崎 備道  

あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。(新改訳第三版)
あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知ったはずである。(口語訳)
(ペテロ第一の手紙二章3節)

宣教は教会の第一の使命です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ二八19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ十六15)、「あなたがたは、これらのこと(十字架と復活)の証人です」(ルカ二四48)とイエス様が命令されたからです。命令なさったのは、それが困難だからです。一世紀の教会はキリストを証ししたために迫害されました。今でも、キリストを伝えようとしても、なかなか受け入れてもらえません。特に家族や近い人ほど難しいかもしれません。でも、私たちの主が命じられたことに、私たちは従おうとするのです。
確かに伝道や証しは簡単ではないでしょう。でも、同時に簡単なことでもあります。それは、私たちが恵みを知ったからです。神の慈しみ、つまり神の恵みによって私たちは救われました。また何度も困難を乗り越えることが出来たのも神様の憐れみがあったからです。誰もが一度ならず、恵みを体験してきました。その恵みを、私たちは証しするのです。
ペテロは「味わう」という表現を使って、恵みを食べ物に例えています。食べてみて美味しいと感じたなら、他の人にも勧めることができます。難しい言葉で説明できなくても、グルメ評論家でない素人でも、美味しかったと伝えることができ、また、良いお店なら人を誘うことが出来ます。
しかし、美味しさを味わっていなければ、伝えるのは困難です。味わうにはどうしたら良いでしょう。スルメのように何度も噛みしめないと味わえないものもあります。最初は空腹のためか、味わわずに呑み込んでも、何度かすると落ち着いて味を確かめることもできます。誰かが説明してくれたのを聞いて素材や作り方が分かってくると、また違った味わいを楽しむことができるかもしれません。
私たちは受けた恵みを、何度も噛みしめるように思い起こし、また聖書を通してその深い意味を知って驚き、そして何度も何度も恵みを体験し、それを数え上げるとき、これまで以上に恵みの素晴らしさに感動するのです。その時、証しは喜びとなり、自然と心の中から生まれてきます。



神の恵みを伝えよう

2026-01-01
千代崎 備道  

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」
そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。 
 (ルカ8章39節)

悪霊に憑りつかれ人生が破綻していた男性は、周囲からも恐れられ疎外されていました。その彼がイエス様と出会い、人生が変えられたのです。私たちも、悪霊ではありませんが、罪のために心が乱れ、神との関係も人との関係も損なわれていたところから、イエス様によって救っていただき、人生が変えられたのです。神様が与えてくださった救いの恵みがどれほど大きなことだったかを知れば知るほど、私たちは神様に感謝と賛美を捧げるのです。でも、それだけで良いのでしょうか。
イエス様はこの男性に、まず家族に話して聞かせるように命じました。でも彼は家族だけではなく、町中の人たちにイエス様がしてくださった恵みを証ししたのです。聞いた人たちはイエス様の力を恐れて追い出しましたが、彼の証しを聞いた人々の中から、やがてイエス様を信じる人々が起きていったことでしょう。神の恵みを、受けた自分だけでとどめるのではなく、それを証しするとき、恵みへの感謝は何倍にも広がっていきます。それを聞いた人たちも、神様をあがめ、また悩んでいる人は他の人の証しを聞いて励まされ、信仰から信仰へと前進していくのです。
今年の教会のテーマは証しと伝道です。難しいことを話すのではなく、まず自分が受けた恵み、自分の体験を伝えるのです。それを聞いた人がすぐに同じ信仰を持つようになるかは分かりません。その人それぞれに「神の時」があり、それまでは忍耐をもって祈りつつ待ち続けなければなりません。でも伝えなければ、いつになっても変わりません。家族や友人、一番知って欲しい人、一緒に天国に行きたい人、神様が引き合わせてくださった人。誰かに神様の恵みを伝えましょう。
一人だけでは難しいと感じるなら、兄弟姉妹にも手伝ってもらいます。信仰の友と一緒に祈り、また誘ってきてくれた人を紹介して、新しいつながりを持ってもらいます。また最初から未信者に伝えるよりも、まず教会の仲間に語るなら理解してもらいやすいでしょう。礼拝や集会後の交わりのときに少しでも良いので、受けた恵みを話してみましょう。(いづみに寄稿するのも、伝えることを整理できる機会です。)

賛美は永遠に

2025-12-01
千代崎 備道  

とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。
(詩篇七十二篇19節)
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
(ヨハネの黙示録五章13節)

詩篇は五巻に分けられ、各巻の最期には頌栄と呼ばれる賛美の言葉が書かれています。その一つ、七十二篇の最後には、神の栄光が全地に満ちわたるようにと賛美の祈りがなされています。その栄光は「とこしえに」と言われている通り、聖書の一番最後の書であるヨハネの黙示録には天上での賛美が記されています。神様が使徒ヨハネに幻の中で見せてくださった世の終わりの情景は恐ろしくもありますが、最後には天から都が降りてくる。これは天国を描いています。天では世界中のあらゆる存在が主を褒め称えているのです。「御座にすわる方」とは父なる神様のことであり、「小羊」とは十字架で贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストのことです。
私たちも天国に行ったなら、そこで神様を心から賛美し、救い主の御名を褒め称えるのです。死も涙も無いと書かれている天国は永遠の世界です。その永遠とは単に長い時間が続くということではなく、いつまでも主と共におらせていただける世界です。退屈することなどありません。喜びと感謝に満ちあふれ、主を賛美しないではいられない。賛美は永遠に続くのです。
今、私たちはこの世にあって限られた時間を生きており、悩みや苦しみが多く、悲しみも無くなりません。そんな私たちが、イエス様の御救いに与り、兄弟姉妹と共に主を賛美するとき、この世にあっても天国の生活に触れることができるのです。永遠の時間と比べるなら、苦難は一時です。永遠のいのちの本番は天国に行ってからです。今は、その準備の時ですが、神様は私たちに賛美という手段を与えてくださり、永遠の神様に心を向け、天国の希望を持てるようにしてくださるのです。ですから、今年だけでなく、これからも、一生の間、主を賛美し続けましょう。そのとき、私たちも神様を仰ぎ見ながら生きる、永遠のいのちを味わう者とされるからです。

旧約時代の信仰者の賛美に併せて、そして新約時代の教会の信仰にならい、天国に向かいつつ賛美をささげてまいりましょう。「しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。」
(詩篇百十五篇18節)

苦しみの日に賛美が生まれる

2025-11-01
千代崎 備道

彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。
しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。
それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。
(詩篇五十九篇15~16節)

詩篇には旧約聖書時代の信仰者たちの祈りと賛美が載せられています。祈りとは苦しみの時に神様に祈ったもの、賛美は神様が救ってくださったときに歌ったものです。時には、一つの詩の中で苦しみの祈りが賛美に変えられることがあります。私は苦しい、「しかし」私は主を賛美します、と祈りが賛美に変えられるときは「しかし」という切り替えがあります。
右の詩篇五十九篇も苦しみを示す言葉が続きます。自分を苦しめる者たちを野犬になぞらえて語っています。そのような悪者たちに囲まれているときに、この詩人は神様が自分を助けてくださるお方であり、ちょうど戦争の時に砦に逃げ込んで助かるように、神様に祈って平安を得たのです。神様が自分の心にとって逃げ場、あるいは隠れ家となってくださることを詩人たちは体験します。この信仰を持つようになったとき、まだ苦難は続き、暗闇の中におかれていても、必ず夜明けが来て主の救いが明らかになるときが来るという希望を持つようになるのです。この信仰を詩人たちは賛美として神様に歌って信仰を告白し、また後世の信仰者たちのためにこのような賛美が集められ書き残されたのです。
時代は数千年の違いがあり、文化や社会も異なります。でも神様は変わることの無いお方であり、全世界の王ですから、今、私たちが苦難のただ中に置かれていても、この神様を信じるなら、私たちの心にも救いが与えられ、賛美が生まれて来るのです。
まだ、自分は苦難のただ中で、賛美することなど出来ない、という方は、教会で一緒に賛美しましょう。讃美歌を歌うときに、神様が心の中に語り掛けてくださり、心が内側から変えられるからです。讃美歌の背後にある御言葉が聖霊によって語られて、力を与えてくださるのです。詩篇だけでなく聖書全体で使われている「ハレルヤ」とは、「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。この呼びかけに応答して主を賛美する者になりましょう。そのとき、私も主の力を体験し、主の恵みを味わい、喜びつつ感謝と賛美を献げるようにしていただけるのです。



生も死も主が崇められる

2025-10-01
千代崎 備道

それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
(ピリピ書一章20節)

使徒パウロの切なる願いは、どんな時にも福音を大胆に語り伝えることですが、その目的はキリストが崇められることでした。彼にとって生きることも死ぬことも、すべてが主への賛美なのです。
旧約聖書の時代は復活のことがよく分からなかったため、信仰者たちの願いは、生きて主を賛美することでした。キリストの十字架と復活により新しい時代となり、死んだ後も天国で主を賛美するようになることが新約聖書全体で教えられています。そのような希望とは反対に、一世紀の教会は迫害を受け、多くのクリスチャンが殉教しました。その痛みと苦しみの中で主イエスを崇めたのが『使徒の働き』七章のステパノの殉教です。パウロも、何回も命の危険がありましたが、主の御名が崇められることを願い、宣教を続けたのでした。
今、私たちは当時のような迫害はありません。(ただし、国によってはそれと同じくらいの迫害を受けているクリスチャンもいます。)それでも死は避けられません。いつかは地上の人生が終わる時が来ます。命の限り主を賛美するとは、その命が終わる時まで、そして永遠の命によって天国で生きる時にも、主を賛美し、主の御名が崇められることを願うことなのです。
ここ数年、何人もの兄弟姉妹が天国に召されました。礼拝堂の空席を見ると、かつてそこに座っていた方たちのことを思い起こします。それらの兄弟姉妹は、お元気なときには教会で主に仕えて奉仕をなさり、礼拝堂で賛美を捧げておられました。教会に通うことができなくなっても主を崇め続け、そして息を引き取り、ご葬儀のときにも、その方を思い起こして賛美が主に捧げられたのです。また教会に来たことがなかったご遺族までもがキリスト教式の葬儀に参列され、聖書の御言葉を聞き、亡くなった方の証しを知ったのです。大胆に救いが語られ、主の栄光が表されたのでした。
パウロが語ったことは決して私たちと無関係なことではありません。世の終わりには迫害の時代が来ると預言されています。また一人一人の人生は確実に終わる時が来ます。でも、どんな場合にも、そして私たちの生きるときも死ぬときも、主の御名が崇められることを祈り願いましょう。

最初12345
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
TOPへ戻る