み言葉のいづみ
闇を求めてしまうとき
2012-04-01
千代崎 備道
たとい私が、「おお、やみよ。私をおおえ。
私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく
夜は昼のように明るいのです。
(詩篇一三九篇11~12節)
春分を過ぎ、ますます日が延びてきました。自然界は春の光に輝いています。光が闇に
打ち勝つことを、昔の人々も日常生活の経験から良く知っていました。それなのに、何故、この詩人は闇に覆われることを願っているのでしょうか。
睡眠のためには闇も必要でしょうし、暗い季節と明るい季節が回り巡ることで、農作物も
自然の美しさも豊かなものとなります。その意味では闇も必要です。しかし、自分の人生に
おいて暗闇を願う人はいません。明るい日々が続くことを願います。しかし、私たちには、闇を願い、あるいは好む場合もあります。欲望や自己中心のために罪の中にとどまりたいと
願うとき、人は闇を好み、神からの光を拒みます。あるいは、自分の力では闇を解決出来な
いのに自己正当化しようとすると、他者を非難するか、自己憐に陥り、闇の中に安住するこ
とが心地良いかのように考えてしまいます。
「たとい」と断っていますから、本当には闇を求めていないとしても、闇の中で苦しみもが
く言葉は詩篇の中に少なくありません。まして、もし自らも闇を求めてしまうなら、そこから
抜け出すのは大変に困難と思えます。しかし、不可能なのではありません。神様ならば、どん
な闇も照らして明るくすることが出来るのです。
誰が見ても、闇のような人生を過ごす人がいます。「瞬きの詩人」と言われた故・水野源三
さんは、小学生のときに脳性麻痺となり、体も動かせず言葉も発することが出来なくなりまし
た。しかし、彼はイエス様と出会い、人生が変えられ、闇を光として頂いたのです。彼のよう
な特別な人だけが、光の主による救いを頂くのではありません。人知れず、心の中の闇に苦し
む人は少なくありません。でも、自ら目を瞑ってしまうのではなく、目を開き、上を見上げる
ならば、神はそこにいて、私の光となってくださるのです。闇の中で、光の主が分からなくなっ
ているときでも、実はいつも共にいてくださるお方がおられることを知るならば、そこはもう
闇ではないのです。
「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」
(詩篇一三九篇18節)

闇の中に輝く光
2012-03-01
千代崎 備道
わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです。
(ヨハネの福音書八章12節)
イエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマスですが、正確な誕生日は記録には残っていません。羊飼いたち
が野宿をしていたことから、寒い季節ではなかったという推察もあります。キリスト教が北欧に広まっていったと
きに、異教の祭りであった冬至祭が造りかえられ、今のように救い主の誕生を祝う日になったのだと言われて
います。冬至が選ばれた理由は、この頃から日が伸び始め、光が闇に打ち勝つようになるからです(ヨハネ一
5、9参照)。世の光であるお方の誕生を記念するのにもっとも相応しい日だと言えましょう。
闇は決して光に打ち勝つことはできません。ですから、どんな暗闇の世界であっても、小さな光があるならば、そこに平安が生まれ、希望を持つことが出来るのです。世の光であるキリストに従い、いつも主の光を見上げ
て歩むならば、主が足下を照らしてくださり、また、遠くのゴールを示してくださって、正しい方向に導いてくださ
るのです。
今は、闇のような時代かもしれません。社会的な不安があり、明日はどうなるか誰も分かりません。一人一人
も暗い心を持ちながら、行き先を知らずに彷徨っているかのようです。ある人はまがい物の光を刹那的に楽し
んで気を紛らわしますが、そのようなものは時間が経てばメッキがはげてきます。私たちは偽物に惑わされる
ことなく、本当の光であるお方を信じ、心の中で主に輝いていただく恵みを、何よりも大切にしましょう。
東日本大震災から一年が過ぎました。ある方々は勇気を持って復興へと歩みだしておられます。しかし、まだ
悲しみや不安の中で辛い時を過ごしている方々も少なくありません。誰にとっても、いつかは本物の光が必要な
時が来ます。その時まで教会は、また私たち一人一人は、主からの光をうけて、この世にあって光として歩む
使命を持っています。それは、暗闇の中で光を見出した救いと、心の闇に光を照らしていただいて新しい心にし
ていただく恵みを、自分自身が日々、新たに経験させていただくことで、証しとなって主に光を示すことができる
のです。今日も、御言葉の光をいただきつつ、主に従っていきましょう。

あなたの光を輝かせよ
2012-02-01
千代崎 備道
起きよ。光を放て。
あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
( イザヤ書 六十章 1~2節 )
聖地旅行でバスから風景を見ていたときに、日本ではあまり見かけない光景を見ました。それは、山の上にあ
る町です。丘ともいえるくらいの、それほど高い山ではありませんが、家々が麓から上の方に増え広がるので
はなく、山頂のほうから下に向かって広がっているのです。エルサレムもそうですが、敵からの防御のためな
のでしょうか。それを見ながら、「あなたがたは世界の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません」
(マタイ五・14)とのイエス様の言葉を思い出していました。
神様からの光に照らされたとき、その光は隠すことができずに、世の光として周囲を照らす。それが「世の光」
です。やみが世界を覆っていても、主の光が私たちを照らすとき、その光が私たちに反射して、私たちも世の
人々にキリストを指し示す、「世の光」としての働きをさせていただけるのです。
先月は二人の教会員を天に送りました。お二人とも、世の光として素晴らしい働きをなさった方です。主に
救っていただいた恵みを示して、良き証しを立ててくださいました。一人一人の輝き方には違いがあります。
ちょうど日の光がプリズムを通して七色に広がるように、主の光を受けた人は、それぞれの個性を通って、違ったかたち、異なる色で、主の栄光を映し出すのです。ですから、教会には様々な方がおられ、兄弟姉妹が
力を合わせるとき、美しい「神の作品」となるのです。
イザヤは、「起きよ。光を放て」と語りかけました。既に主の光が与えられ、私たちの上に主が輝いてくださるの
に、いつの間にか光を表すことを忘れてはいないでしょうか。証しや奉仕、賛美、お互いに愛を持って仕えること。
どんな形であっても、主から頂いた光を隠すのではなく、光を放つものとしていただきましょう。今、闇の中で悩ん
でいる方のためにも、頂いている恵みを分かち合って、主の光を知っていただけるように、さあ、起きあがって、光を表す者としていただきましょう。

主は私の光です
2012-01-01
千代崎 備道
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
( 詩篇27篇 1節 )
新しい年になり、教会の御言葉と標語も新しくなりました。「主は私の光です」と告白しつつ、この一年も歩ん
でまいりましょう。
この年が明るい一年であることを、誰もが求めています。去年、様々なことのために辛い時を過ごされた方は
もちろん幸いな年となることを願っておられるでしょう。家内安全商売繁盛のような御利益的な意味で「明るい
一年」を求める人も少なくないと思います。では、私たちはどのような意味で光を求めるのでしょうか。
詩篇27篇は、主に前半では神様を信頼する告白、後半では助けを求める祈りから成り立っています。「主は
私の光だ」との宣言は、主への絶対的な信頼の表明です。ところが、その信頼の告白の直後に、7節からは厳
しい状況の中で喘ぐように助けを求める祈りがなされているのです。一見、前半と後半が矛盾しているように思
えますが、信頼があるから祈ることが出来るのであり、このような祈りを土台として信仰の告白がなされている
のです。
後半の祈りの中に何度も「私」と「あなた」という言葉が何回も使われています。他の詩篇でもそうですが、日
本語訳では「しつこい」感じを避けるため、原文の意味を損ねない範囲で代名詞を省略することがあり、実際に
はもっと多くの「私」と「あなた」が用いられていることが少なくありません。ここに、この詩を書いた詩人と神様と
の強い繋がりがあります。「私」、「あなた」と何度も言うことが出来る親しい関係です。この信頼があるからこそ、前半の告白が生まれたのです。
私たちは「光」だけをもとめるのではなく、むしろ、光となってくださる「お方」を求めるのです。今年も礼拝を通
し、また御言葉と祈りを通して、神様との命に満ちた関係を築いていきましょう。そうするなら、一時的に光が見
えないことがあっても、暗い中でも手を引いてくださるお方を信頼することができるのです。このようなお方が
「私があなたの光となるのだよ」と語りかけてくださるとは、何という恵みでしょうか。私の救い主であり、心から
信頼している「主」が、御子をも惜しまずに与えてくださるほどに愛してくださった「私」にとって、どんな闇にも負
けることのない「光」となってくださる、と宣言していてくださるのです。

神様のなさったクリスマス
2011-12-01
千代崎 備道
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わし
たように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネの福音書 20章 21節)
クリスマスは、私たちにとっては、救い主が来てくださったことを祝う、感謝と喜びの日です。しかし、視点を
変えて神様の側から考えるならば、父なる神が子なる神であるキリストをこの世に遣わされた日です。一体、
どのような思いで遣わされたのでしょうか。
『ぶどう園の譬え』(ルカ20章9節など)では、農園の主人は結末を知らずに息子を遣わしたかのようです
が、父なる神様は、この世が遣わされた御子を拒み、ついには十字架につけることをご存じでした。旧約聖書
の預言は、メシア(救い主)が捨てられて苦しみを受けることを示しています(一例がイザヤ53章3節)。愛の
御父が御子を捨てることはなさらないはずなのに、敢えてこの世に送られたのです。
御子なるキリストは、神としての地位を捨ててでも、御父の命令に従い、罪の贖いとして十字架にかかる目的
で、人間となってこの世界に来てくださいました(ピリピ2章6~8節)。裏切られ、嘲られ、苦しめられることをご
存じで、誕生されたのです。
聖霊なる神の働きは人間の理解を超えていますが、マリヤが聖霊により身ごもること以上に、天地創造の主
である神が被造物である人間となることこそ、奇想天外な聖霊の業でした。歴史の中で一度も無かった、誰も
考えつかないことをしてくださいました。
クリスマス、それは三位一体の神様が、人間を救うために、敢えて常識を越えて行ってくださった御業だった
のです。もし神様が、ご自分の安逸やプライドのために行動されるお方でしたら、人間の救いのためにこのよ
うな方法はとられなかったことでしょう。
今年の初め、神様は私たちに、天幕を広げるように命じ、地境を広げることを祈るように教えられました。そ
れは、私たちだけが苦労を背負うためなのではありません。神様ご自身が、私たちを救うために、神と人間と
の境を越えて来てくださったお方なのです。主イエスが使徒たちを世界宣教に遣わすときも、彼らだけを行か
せたのではなく、主も共に行って働いてくださるのです(マルコ16章20節)。この一年だけでなく、これからも、神様の祝福の約束を信じ、信仰をもって天幕を広げ続け、一歩ずつ前進して行こうではありませんか。
