み言葉のいづみ
キリストにとっての栄光
2012-10-01
千代崎 備道
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まこと
に、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
(ヨハネの福音書十二章23~24節)
聖書を読んでいると、いかに自分の考えが神様の思いから離れているか、痛切に感じることがあります。
私たちの考える光とは、神様がおっしゃる光なのでしょうか。
イエス様の生涯のハイライトは、変貌山で光り輝く姿になられた時(ルカ九・29~31)でもなければ、最大の
奇蹟であるラザロの復活(ヨハネ十一・40)でもありません。イエス様がご自分の栄光と考えておられたのは、十字架でした。人間的な考え方によるなら、敗北であり挫折です。苦痛と恥辱の末の死です。どこにも輝く姿
はありません。しかし、罪に対する神の怒りを身に受け、全ての人を贖うことが出来るのは、神の御子にしか
できない働きです。神様の基準では、十字架こそ最高の栄誉であり、最も輝かしい時なのです。
人間には他者の罪を贖う働きは出来ませんが、キリストによる救いを証しし、宣べ伝えるために苦難を受け
ることはあります。後に弟子たちは迫害を受けた時に、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされた
ことを喜び」ました(使徒五・41)。困難でさえ、忍耐を通して品性が練られ、栄光の希望を望み見ることが出
来ると信じ、喜び輝く者にしていただけるのです(ローマ五・2~4)。
世の人は、地位や富、長寿や繁栄を願います。それも良い物でしょうが、それ以上に、万事を益とすること
により私たちを御子の似姿にまで造りかえてくださるお方を信じるとき、苦難や失敗、損失でさえも、キリスト
の苦しみの一端を経験させていただける恵みとなるのです。人間にとっては闇と思えることでも、神様にとっ
ては暗くは無いのです(詩篇一三九・12)。
今年、あなたはどのような光を示していただいたでしょうか。嬉しい経験をなさった方も、悲しいことを味わ
われた方もおられるでしょう。苦難の中で深い恵みを知ることが出来た方は幸いです。何よりも、どのような
状況にいるときでも、神様ご自身が共にいてくださるとき、そこに主の栄光が輝くのです。一粒の麦ですら失
うことを恐れるのではなく、主を信じて困難を味わうことの栄光を知らせていただきましょう。

神の光に導かれる生活
2012-09-01
千代崎 備道
「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。
あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって、それらが私を連れて行きますように。」
(詩篇四三篇3節)
海外旅行に行くと、日本の時刻と現地の時刻とが異なるために、体のリズムがおかしくなることがあります。
時差ぼけと言われる状態です。夜なのに眠れなかったり、昼間なのに眠くなったりします。そんな時に、朝早く
起きて太陽の光を浴びると良いと聞いたことがあります。強い光が目に入ることによって、体内時計が修正さ
れるのだそうです。この体内時計は一日二十四時間ではなく、二十五時間周期となっているらしくて、放って
置くと、日本にいる時でも実際の時間とずれてしまうのですが、朝の光を浴びることで毎日、補正されているよ
うです。
私たちの信仰生活でも、神様からの光を受けることが大切です。教会に来て間もないころは、この世の考え方
が心の中に強く残っているため、聖書の教える考え方とは異なる意見が強く出てきます。聖書を読んだり、説教
を聞いていても、ピンと来なかったり、「こう書かれているけれど、現実は違う」と思ったりします。しかし、神様の
御言葉が多く注がれていき、やがて、神様の御心とは反対の方向を向いていた自分の心に光が当てられ、自
分の中にある罪に気が付くようになります。その罪を悔い改めて、キリストを救い主として信じ受け入れた時、
聖霊が私たちの心に働いてくださり、新しい心が与えられ、新しい生き方が始まります。そのとき、考え方が根
本から変わり始めるのです。
しかし、クリスチャンになって間もない頃は、以前の考え方が残っており、また私たちが生きているこの世の
影響も日々受けていますから、知らないうちに旧い心に戻りかけてしまうことがあります。そのため、救いの喜
びが色あせてしまったり、御言葉の恵みを感じ取れなくなってしまうことがあるのです。そのような「黄信号」を
感じたときは、もう一度、御言葉の光を浴びることが必要です。
私たちは、毎日、神様から光をいただくのでなければ、簡単に迷いやすい者です。毎週の礼拝や週日の集会
で御言葉を学び、聖徒の交わりをすることで、豊かな恵みの光を受けることができます。毎日の聖書通読と祈り
によって、個人的にも細かい修正をしていただくのです。そうして、主の御心に沿った生き方へと導いていただき
ましょう。

涙と汗を見ておられる神
2012-08-01
千代崎 備道
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」
(詩篇百二十六篇5節)
八月は高校野球にオリンピック、テレビに釘付けの方もおられるかもしれません。応援し
ているチームの攻守に一喜一憂し、選手の動きを見て自分まで力が入ったり。しかし、どれ
ほど応援しても勝者と敗者がいるのもスポーツの世界です。優勝できるのは一校だけ、金メ
ダルも一つ。でも、途中で敗退したとしても、それまでの厳しい練習や訓練が背後にあるこ
とを想うならば、何位であっても、それは尊いのではないでしょうか。多くの汗と涙を流し
てきた選手たちに心から「良くやった」と言いたいものです。
イエス様の語られた有名な譬え話の中に「ぶどう園の労務者の譬え」があります。ぶどう
園の主人が日雇いの労働者を町の市場に集めに行きました。朝早く雇われて一日働いた人々
と、九時、十二時、三時、そして日没が迫る五時頃に雇われた人々、全員に等しい賃金が支
払われたのを見て、最初からの労務者たちが文句を言いました。『この最後の連中は一時間
しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼ける
ような暑さを辛抱したのです』(マタイ二十・12)。確かに、この世の原理では多く働いた
者が多くの報酬を得るのは当然です。しかし、この主人は神様を表し、神の国の原理によっ
て評価しているのです。それは、働きによる救いではなく、恵みによる救いです。
最初の労務者たちにとっての一日は、報酬のために「労苦と焼けるような暑さを辛抱」す
ることでした。最後に雇われた者たちにとっては、同じ暑さの中で、ぶどう園ではなく市場
で一日立ちつくし、もしかしたら今日は無収入となって家族を飢えさせるかもしれない心配
をし続けた一日でした。最初の労務者には、その心労は見えなかったでしょうが、自分たち
も偶々早く声を掛けられなかったなら、同じ苦しみを味わったいたはずだと想像できたはず
です。
神様は、私たちの行った働きだけでなく、神様さえも見ていないと思っていた悲しみや苦し
みも、全てご存じであり、私たちを憐れみ、恵みをもって救いを与えてくださったのです。そ
の人が流してきた汗と涙によって心を磨き、品性を練って高め(ローマ五3~4)、ついに
「御霊の実」(ガラテヤ五22~23)を実らせてくださるのです。涙と共に蒔くとき、喜びと共
に刈り取らせてくださるお方を信じてまいりましょう。

あなたのために義の太陽が昇る
2012-07-01
千代崎 備道
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしが
ある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
(マラキ四章2節)
暑い季節がやってきました。上前淳一郎氏の「読むクスリ」という本の中でこんな事を読
んだことがあります。
・・・・日本のある食品会社が、中近東で魚の缶詰を売ろうとしたが不人気だった。原因を調べ
・・・・日本のある食品会社が、中近東で魚の缶詰を売ろうとしたが不人気だった。原因を調べ
てみたら、会社のマークが太陽であることが問題だった。その地域では、太陽は灼熱をもた
らす恐ろしい存在というイメージがあったので、敬遠されたようだ。…
北欧の人々は、長い冬の間の短い日照時間を補うかのように、夏の間は寸暇を惜しんで日光
浴をするそうです。同じ太陽なのですが、地域や文化によってイメージが正反対なのですね。
ある人にとっては恐ろしい存在であり、ある人にとっては恵み深いお方です。それは神様
が変わったのではなく、人間の側の態度が原因です。神様を愛し敬い、神様のなさることに
間違いはないと信頼するなら、どんな状況にあっても神様は恵みの光を注いでくださると受
けとめることが出来ます。神様に背を向けるような生き方をしていると、神様の光に照らさ
れることは恐ろしいと感じます。
預言者マラキを通して神様は、「義の太陽」が昇る時が近いことを告げられました。その
光と熱は、高慢な罪人にとっては焼き尽くす裁きの炎となりますが、主を畏れ敬う人々には
病を癒す光となるのです。私たちはどちらの光を受ける者でしょうか。もし、自分に罪があ
ることに気がついているとき、光の前に出ることは恐怖です。そのため、神様に近づくこと
を控えてしまいたくなるかもしれません。聖書の言葉が心に迫ってきて、自分の問題をずば
り指摘されるのを恐れて、神様との距離を取ってしまいたくなることもあります。しかし、それでも神様に救いを求めて近づいていくとき、神様は私たちの罪を癒してくださるのです。
自分は悪くない、と高慢になったり、神様を愛するよりも罪の状態の中に留まることを愛
するとき、神様の光は裁きとなります。でも、神様は私たちを滅ぼすのではなく、御言葉の
光を用いて、心の中を照らしてくださるのです。それは、私たちが悔い改めて、神様の光に
よって救われるためです。神様の光から遠ざかるのではなく、光に向かって進んでいきまし
ょう。そのとき、神様が進むべき道を示してくださり、あなたの義の太陽となってくださる
のです。

命の光を持っていますか
2012-05-01
千代崎 備道
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ一章4~5節)
牧師として何人もの方を天にお送りするなかで、お一人お一人の人生と、その終わりに関
して考えます。クリスチャンの召天は、全員が同じなのではありませんが、それぞれの方の
信仰から教わることが沢山あります。ある方に「あなたは天国に行ける確信がありますか」
と問いかける時を神様が備えてくださいました。その方は、苦しい中にも、しっかりと
「はい」と返事をなさいました。平安に満ちた姿は、既に天国の勝利に輝いていました。
信仰を持っていても、自分の人生が終わりを迎えるということを考えるのは、決して容易
いことではありません。しかし、誰にも、必ずその時はやってきます。まだキリストの救い
を知らない方にとっては、それは『縁起でも無い』ことかもしれません。しかし、私たちに
とって死は最後ではなく、天国への入り口でもあります。そのことを、知識として知ってい
るだけでなく、心で確信し、口で告白し、証しを立てることは、難しいかもしれませんが、大切なことなのではないでしょうか。どうしたら、そのような確信を持てるのでしょうか。
それは、「私はよみがえりであり、命です」とおっしゃるイエス・キリストを心のうちに
お迎えすることによります。主イエス様が、私の罪を全て贖ってくださり、私たちにはもう
神様との間に妨げとなるものは無いのです。そして、このお方は、死にも打ち勝たれたお方
ですから、私たちが死ぬ時にも共にいてくださり、必ず私を天国にまで連れて行ってくださ
り、私のうちに始めてくださった救いを完成してくださる真実なお方なのです。
有名な詩篇二十三篇に「死の陰」と訳されている言葉があります。原語では「深い闇」と
いう言葉なのですが、その闇が死を連想させるほど恐ろしいので、「死の陰の谷」と言われ
るのです。人が闇を恐れるのは、死を恐れるからです。しかし、命であり光であるお方が共
にいてくださるなら、心配や不安があっても、恐れる必要は無くなるのです。
私たちを脅かすのは死だけではありません。もし、あなたが恐れや闇の中におられるなら、心にキリストを
お迎えし、いつも主として仰ぎ信頼しましょう。
