み言葉のいづみ
あなたは輝いています
2017-04-05
千代崎 備道
あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また曲がった邪悪な世代の中
にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の
光のして輝くためです。
(ピリピ二章15、16節)
先日は天体ショーで日本中が沸き立ちました。数十年ぶりの金環蝕が東京でも見ることが
できました。残念ながら金星蝕は雲のために見えませんでしたが。明けの明星とも言われる
明るい金星も、夜道を照らすことが出来る月も、太陽の光を反射して輝いています。その軌
道の正確さは、創造主の御手の巧みさを表します。輝くのは天体だけではありません。ある
方が山の木々を見て、「こんなに様々な種類の緑色があるなんて」と感嘆されました。確か
に、新緑と深い緑、淡い緑と濃い緑、一つの木でも葉によって色彩に違いがあり、太陽の光
を浴びて緑に輝いています。同じ日光が反射しているのですが、光の三原色の絶妙な配分に
より、どれほどの「色」が生まれることでしょう。神様は最高の芸術家です。
私たちも主の光を受けて輝く存在です。その輝き方は一人一人異なります。神の聖さを映
し出して、その人がいるだけで主のご臨在を感じさせる方がおられます。神の義のように、まっすぐな生き方を示された方がおられます。神の愛を反映して様々な愛の働きをしておら
れる方々は、数え切れないほどです。神様のご性格の一部が、様々な配分でその人の中に働
き、その人でなければ出すことのできない色合いで輝いているのです。
また、同じ人でも輝き方が段々と変わっていくのを見ることができます。自分の力で輝こ
うとしていた人が、主に委ねた穏やかな光となります。苦難の中で一事は輝きを失ったよう
に見えた方が、それでも主に信頼するようになったとき、小さい光ですが、磨かれた宝石の
ような輝きを放つようになります。みなさんは、神の作品であり、神の宝の民なのです。
イエス様が「あなたがたは世の光」と言われたのは、何年も修行して世の光となれ、とい
うことではなく、主を信じて救われたときから、すでに「光」としていただいたということ
です。それは、自分の光(栄誉)ではなく、救ってくださったお方の恵みの光が反射するか
らです。ですから「自分は大丈夫かしら」と心配は無用です。主からの光をたっぷりと受け
てください。主があなたの光を整えて、ご計画のままに素晴らしい作品に仕上げてくださる
のです。

主と共に前進する教会
2017-04-01
千代崎 備道
主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコの福音書一六章19~20節)
主イエス様の復活の後、やがてペンテコステの日が来て弟子たちは、まず復活の証人としてイエス様の復活を証ししました。まず復活そのものを信じないサドカイ派のユダヤ教徒たちが弟子たちを迫害しました。つぎにパリサイ派のユダヤ人たちが、復活されたイエスこそ旧約聖書に預言されたキリストであると主張する弟子たちを迫害します。さらに、パウロが異邦人宣教を進めていったとき、アテネの町で福音を語ったのに対し、ギリシャ人たちは復活の言葉を聞いたとたんに、耳をふさいでしまいました。
復活を伝えることはいつの時代、どの人に対しても、簡単ではありません。時にはそれが妨げとなることもあります。でも、私たちは復活された主イエス・キリストを伝えるのです。なぜならば、それが福音の中心であり、復活された主でなければ、罪の贖いもできないと信じているからです。
そして、キリストを信じるものたちが復活の主を伝えて行ったとき、その主ご自身も共に行って働いてくださり、イエスの御霊である聖霊が心のうちに働きかけて、信じられなかった人が信じる者と変えられていった。こうしてキリスト教は広まり、現代にまで及んでいるのです。
マルコの福音書もわざわざ、天に上られたイエス様が、弟子たちと一緒に働かれたと、最初は理解しがたい言い方をしていますが、しかし、事実、その通りになっていったのです。理屈ではなく事実なのです。ですから、今も生きておられる主を信じて福音を伝えるなら、今日でも主は共に働いてくださり、そうやって教会の働きは前進していくのです。
信じがたいようなことは言わないで、人々が気に入るような言葉を伝えても、それは人間の業であって、主の働きではありません。信じる人がなかなか起こされないような現実があっても、復活の主を信頼して、与えられた使命に忠実であるならば、私たちを用いてくださるのは主なのです。また、私自身も、理屈ではなく信仰によって復活の主を頼るとき、主がしるしをもって証ししてくださるのです。復活の主を信じ、また証ししましょう。
復活を伝えることはいつの時代、どの人に対しても、簡単ではありません。時にはそれが妨げとなることもあります。でも、私たちは復活された主イエス・キリストを伝えるのです。なぜならば、それが福音の中心であり、復活された主でなければ、罪の贖いもできないと信じているからです。
そして、キリストを信じるものたちが復活の主を伝えて行ったとき、その主ご自身も共に行って働いてくださり、イエスの御霊である聖霊が心のうちに働きかけて、信じられなかった人が信じる者と変えられていった。こうしてキリスト教は広まり、現代にまで及んでいるのです。
マルコの福音書もわざわざ、天に上られたイエス様が、弟子たちと一緒に働かれたと、最初は理解しがたい言い方をしていますが、しかし、事実、その通りになっていったのです。理屈ではなく事実なのです。ですから、今も生きておられる主を信じて福音を伝えるなら、今日でも主は共に働いてくださり、そうやって教会の働きは前進していくのです。
信じがたいようなことは言わないで、人々が気に入るような言葉を伝えても、それは人間の業であって、主の働きではありません。信じる人がなかなか起こされないような現実があっても、復活の主を信頼して、与えられた使命に忠実であるならば、私たちを用いてくださるのは主なのです。また、私自身も、理屈ではなく信仰によって復活の主を頼るとき、主がしるしをもって証ししてくださるのです。復活の主を信じ、また証ししましょう。

教会の土台、私の土台
2017-03-01
千代崎 備道
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
(第一コリント三章11節)
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ二章20節)
現代人にとっては建設における土台の重要性は常識でしょう。イエス様は大工の息子としての生活で土台の大切さを良くご存じで、建築に関する例え話をなさいました(ルカ六48など)。パウロも旧約聖書の研究をしてヨブ記(四19)などの知恵文学から土台の大切さを知っていました。教会にとって大切な土台はキリストです。二千年以上経ってもキリスト以外の救いを主張するものは異端として退けられます。
その救い主の到来を告げた預言者の権威により書かれたのが旧約聖書で、キリストの教えに従う使徒たちの権威により書かれたのが新約聖書です。そして両者のかなめ(「礎石」を新共同訳は「かなめ石」と訳しています)がキリストであるとは、旧約も新約もキリストを示すために書かれたのだから、読むときもキリストを知るために読む、ということであり、教会における聖書理解の原則です。
一人一人の信仰も、キリストが土台です。私を救ってくださったお方から目をそらすとき、この世のものに目が奪われたり、人との関係が躓きになります。私のために命を捨ててくださったお方よりも他のものを第一とするなら、主イエスとの命の結びつきが妨げられます。他の人を裁くとき、その人の罪も私の罪も、同じ十字架の血潮が贖っていてくださることが曖昧になり、罪赦された喜びが色褪せてしまいます。
毎年、春になると教会は十字架と復活を記念する時期となります。この季節だけでなく、礼拝では御言葉が語られるたびに、その焦点はキリストに向けられ、聖餐式のたびにキリストを心に迎えていることを確かめます。こうして、私たちは自らの信仰も、また教会全体も、土台であるキリストから離れていないか、何度も何度も確認するのです。
土台からズレたままで成長するなら、やがて倒れてしまいます。土台がしっかりしているなら、時間は掛かっても必ず成長し、前進し続けることができます。私の人生の土台であり、教会の土台また頭(かしら)であるキリストにしっかりと目を向けましょう。
現代人にとっては建設における土台の重要性は常識でしょう。イエス様は大工の息子としての生活で土台の大切さを良くご存じで、建築に関する例え話をなさいました(ルカ六48など)。パウロも旧約聖書の研究をしてヨブ記(四19)などの知恵文学から土台の大切さを知っていました。教会にとって大切な土台はキリストです。二千年以上経ってもキリスト以外の救いを主張するものは異端として退けられます。
その救い主の到来を告げた預言者の権威により書かれたのが旧約聖書で、キリストの教えに従う使徒たちの権威により書かれたのが新約聖書です。そして両者のかなめ(「礎石」を新共同訳は「かなめ石」と訳しています)がキリストであるとは、旧約も新約もキリストを示すために書かれたのだから、読むときもキリストを知るために読む、ということであり、教会における聖書理解の原則です。
一人一人の信仰も、キリストが土台です。私を救ってくださったお方から目をそらすとき、この世のものに目が奪われたり、人との関係が躓きになります。私のために命を捨ててくださったお方よりも他のものを第一とするなら、主イエスとの命の結びつきが妨げられます。他の人を裁くとき、その人の罪も私の罪も、同じ十字架の血潮が贖っていてくださることが曖昧になり、罪赦された喜びが色褪せてしまいます。
毎年、春になると教会は十字架と復活を記念する時期となります。この季節だけでなく、礼拝では御言葉が語られるたびに、その焦点はキリストに向けられ、聖餐式のたびにキリストを心に迎えていることを確かめます。こうして、私たちは自らの信仰も、また教会全体も、土台であるキリストから離れていないか、何度も何度も確認するのです。
土台からズレたままで成長するなら、やがて倒れてしまいます。土台がしっかりしているなら、時間は掛かっても必ず成長し、前進し続けることができます。私の人生の土台であり、教会の土台また頭(かしら)であるキリストにしっかりと目を向けましょう。

困難を乗り越える教会
2017-02-01
千代崎 備道
サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
(使徒の働き八章3~4節)
最初の教会は、産み出された最初から多くの問題に囲まれていました。内側には不信仰や不一致、外側には迫害。でも、その困難を乗り越えて教会は前進していったのです。
子どもの成長も全てが順調ということはありません。子育てをする親は成長とともに服を新しくし、接し方も変えなければ成りません。子どもも幼稚園や学校に通うようになり、はじめての社会で人間関係で揉まれます。思春期になると、肉体の急激な成長は、時には成長痛を引き起こし、また肉体と心の成長のアンバランスに悩みます。でも、様々な困難を乗り越えてこそ、成長するのです。
教会の前進も、また信仰の成長も、必ず問題が起こりますし、また、その問題に取り組み、乗り越えることが出来るようになることが成長でもあります。時には予想できないことが起きて、不安や混乱を覚える時さえあるでしょう。でも、それも心と信仰が成長する機会です。
初代教会に起きた内的な問題の一つが、文化的な違いから起こった差別であったことを、使徒の働き六章1節は記しています。ヘブル語を話せるユダヤ人クリスチャンが、ヘブル語は話せずギリシャ語だけを話すユダヤ人クリスチャンを差別し、そのしわ寄せが弱い立場のやもめたちに及んだのです。教会にあってはならない問題ですが、十二弟子は裁くのでは無く、神様からの知恵を受けて、七人の役員が立てられ、教会は組織的にも成長したのです。
外的な問題は迫害です。サウロ(後のパウロ)が中心となって教会への大迫害が起こり、成長してきたエルサレム教会は離散してしまいます(八章)。しかし、その機会を神様は用いて、散らされた人たちによって福音はますます広められたのです。
どちらも最初から予想していなかったでしょうし、その問題が起こったときはどうなることかを案じたかもしれません。でも、神様が生きて働いておられるなら、どんな難しい問題も成長の機会となるのです。なぜなら、教会は神様のものだからです。聖霊が教会を産み出し、キリストが教会のかしらであるのです。私たちも、今も生きておられる神様を信頼し、聖霊の働きを認め、キリストに従って、教会と共に前進してまいりましょう。
子どもの成長も全てが順調ということはありません。子育てをする親は成長とともに服を新しくし、接し方も変えなければ成りません。子どもも幼稚園や学校に通うようになり、はじめての社会で人間関係で揉まれます。思春期になると、肉体の急激な成長は、時には成長痛を引き起こし、また肉体と心の成長のアンバランスに悩みます。でも、様々な困難を乗り越えてこそ、成長するのです。
教会の前進も、また信仰の成長も、必ず問題が起こりますし、また、その問題に取り組み、乗り越えることが出来るようになることが成長でもあります。時には予想できないことが起きて、不安や混乱を覚える時さえあるでしょう。でも、それも心と信仰が成長する機会です。
初代教会に起きた内的な問題の一つが、文化的な違いから起こった差別であったことを、使徒の働き六章1節は記しています。ヘブル語を話せるユダヤ人クリスチャンが、ヘブル語は話せずギリシャ語だけを話すユダヤ人クリスチャンを差別し、そのしわ寄せが弱い立場のやもめたちに及んだのです。教会にあってはならない問題ですが、十二弟子は裁くのでは無く、神様からの知恵を受けて、七人の役員が立てられ、教会は組織的にも成長したのです。
外的な問題は迫害です。サウロ(後のパウロ)が中心となって教会への大迫害が起こり、成長してきたエルサレム教会は離散してしまいます(八章)。しかし、その機会を神様は用いて、散らされた人たちによって福音はますます広められたのです。
どちらも最初から予想していなかったでしょうし、その問題が起こったときはどうなることかを案じたかもしれません。でも、神様が生きて働いておられるなら、どんな難しい問題も成長の機会となるのです。なぜなら、教会は神様のものだからです。聖霊が教会を産み出し、キリストが教会のかしらであるのです。私たちも、今も生きておられる神様を信頼し、聖霊の働きを認め、キリストに従って、教会と共に前進してまいりましょう。

前進する教会、前進する私たち
2017-01-01
千代崎 備道
こうして教会は、……全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けた…。
(使徒の働き九章31節)
今年は主に押し出され、導かれて、前進する教会、そして一人一人の歩みにおいても前進する信仰者でありましょう。
子どもの頃、雪が降りますと、雪が積もった空き地にまだ誰の足跡もついていないのを見ると、一番乗りで足を踏み入れて、なんだか征服でもしたような快感を感じたことはないでしょうか。初めの一歩は心躍る冒険への一歩です。真っ暗な部屋や夜中の荒野に足を踏み入れるのは、勇気が必要な初めの一歩です。長旅や山道で疲れて休憩したとき、また長い道のりへと踏み出すのは決意がいります。
最初の教会の歴史が、使徒の働きに描かれています。その第一歩は聖霊が力強く背中を押して踏み出したものです。その後は、順調に前進する日々もあれば、迫害や問題により足踏みする時もありましたが、必ず聖霊は前に導いてくださいました。
池の上教会の歴史もそうです。山根可弌先生の背中を聖霊が後押しされ、主イエスが前に立って導かれ、教会が歩み始めました。苦難の時もありましたが、聖霊は日々、山根先生を初めとする先生方を、そして一人一人の信徒の方々を励まし、教え導き、今日まで前進して来ました。そして、聖霊の働きは今も続いています。
前に進むのが困難な時は、人間は後ろ向きになりやすい。また現状維持のほうが前進よりも楽に見えて立ち止まってしまうこともあります。しかし、やがて人間の思いではなく、聖霊が教会を導き、私たちは教会の主であり頭(かしら)であるイエス様の御心に従って、また前進を始めるのです。
一人一人の信仰生涯にも同じ事です。後ろ向きになったり、現状で満足するときは、信仰が停滞し衰えているときですが、私たちの心を宮としてくださる聖霊がそれでは喜ばれません。必ず背中を押し、手を引いて、立ち上がらせ、前に進み出すようにされるのです。あるときはそっと囁いて前進する思いを与え、また躊躇(ためら)っているときは力を込めて後押しし、それでも頑なになっているなら、その場所には居ることが出来ないように強いられるのです。
私たちは前進します。天国に向かって、キリストの似姿となる目標に向かって、一歩ずつ、助けられつつ、前進する信仰を持たせていただこうではありませんか。
子どもの頃、雪が降りますと、雪が積もった空き地にまだ誰の足跡もついていないのを見ると、一番乗りで足を踏み入れて、なんだか征服でもしたような快感を感じたことはないでしょうか。初めの一歩は心躍る冒険への一歩です。真っ暗な部屋や夜中の荒野に足を踏み入れるのは、勇気が必要な初めの一歩です。長旅や山道で疲れて休憩したとき、また長い道のりへと踏み出すのは決意がいります。
最初の教会の歴史が、使徒の働きに描かれています。その第一歩は聖霊が力強く背中を押して踏み出したものです。その後は、順調に前進する日々もあれば、迫害や問題により足踏みする時もありましたが、必ず聖霊は前に導いてくださいました。
池の上教会の歴史もそうです。山根可弌先生の背中を聖霊が後押しされ、主イエスが前に立って導かれ、教会が歩み始めました。苦難の時もありましたが、聖霊は日々、山根先生を初めとする先生方を、そして一人一人の信徒の方々を励まし、教え導き、今日まで前進して来ました。そして、聖霊の働きは今も続いています。
前に進むのが困難な時は、人間は後ろ向きになりやすい。また現状維持のほうが前進よりも楽に見えて立ち止まってしまうこともあります。しかし、やがて人間の思いではなく、聖霊が教会を導き、私たちは教会の主であり頭(かしら)であるイエス様の御心に従って、また前進を始めるのです。
一人一人の信仰生涯にも同じ事です。後ろ向きになったり、現状で満足するときは、信仰が停滞し衰えているときですが、私たちの心を宮としてくださる聖霊がそれでは喜ばれません。必ず背中を押し、手を引いて、立ち上がらせ、前に進み出すようにされるのです。あるときはそっと囁いて前進する思いを与え、また躊躇(ためら)っているときは力を込めて後押しし、それでも頑なになっているなら、その場所には居ることが出来ないように強いられるのです。
私たちは前進します。天国に向かって、キリストの似姿となる目標に向かって、一歩ずつ、助けられつつ、前進する信仰を持たせていただこうではありませんか。
