み言葉のいづみ
光を約束する神
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の谷に住んでいた者たちの上に光が照った。
聖書は神様からの知恵を教えます。伝道者の書三章の「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」は、自然界の季節だけでなく、あらゆることに時があることを教えています。旧約聖書の歴史を読むと、イスラエルの民が偶像礼拝やこの世の富や武力に拠り頼むようになると、やがて国は衰退し、多くの人が苦難を味わいます。しかし、その苦しみをご覧になった神様は助けを送り、彼らを正しい道へと導かれます。こうして「闇の中を歩んでいた民」は、やがて「大きな光を」見るようになるのです。
冒頭の聖句はクリスマスによく開かれる預言で、イエス・キリストにおいて成就します。でも、それは、ローマ帝国の圧制下という暗い時代にイエス様が救い主として誕生し、異邦人の地と呼ばれて差別を受けていたガリラヤ地方で育ち活動されるということだけではありません。この神様はいつの時代の信仰者にも同じ言葉で励ましを語ってくださるのです。
コロナ禍という「やみ」の時代に私たちは置かれています。実際に感染された方々だけでなく、社会的経済的な影響で世界中に「やみ」は広まっています。でも、そのような闇の中を歩む私たちに神様は光を約束しておられるのです。それは辛いことがあれば嬉しいこともある、という一般論では無く、例え絶望しそうになっても、歴史の中で具体的な光を照らして御言葉の真実を示してくださった神様を信頼するなら、希望の光を見失うことは無い、という信仰なのです。
昨年、新型コロナウイルスが日本で影響を与え始めてから、もう一年が過ぎました。その頃はウイルスの実態が分からないための不安が大きく、マスクなどの物資不足があって、混乱もしました。今は以前よりも落ち着いてきていますが、もちろん油断をするのではなく、神様を信頼して希望を持って待ち望みましょう。

主を待ち望む者
千代崎備道
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(イザヤ四十章31節)
去年の教会標語は「聖徒は、みな祈ります」で、コロナ禍にあって祈る一年でした。今年、例え試練が続いたとしても、神様からの希望をしっかりと受け止めて歩んでまいりましょう。
イスラエルが南北に分裂し弱体化したため、北のイスラエル王国がアッスリヤによって滅ぼされた時代に、遺された南のユダ王国も不信仰の故に裁かれる日が必ず来る、と預言したのがイザヤです。ところが40章から、滅亡の先にある回復、すなわち裁きの後に救いが来るという希望が語られます。「希望的観測」のように現実の困難を見ない楽観主義は本当の希望ではありません。苦難や試練があっても、神様を信頼して将来の救いを希望を持って待つのが「主を待ち望む者」です。
この希望は御言葉に拠ります。神様の言葉を信じなくなったら、将来の希望も消え失せていきます。30節の「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる」を、口語訳聖書は「年若い者」と「壮年の者」と訳しています。一番力のある壮年も、将来がある若者も、倒れる時があるのです。健康に自信がある人が思わぬ病気や怪我を受けることもある。予想もしていなかった状況になり、さらに悪化して行く。そんな時に、「だから、もうダメだ」と言うのではなく、「しかし」と言って神様を信頼して立ち上がり、神様の御言葉の約束を信じるのです。そのとき、今までの力は失われても、神様からの新しい力が与えられるのです。
「希望」とは、何を期待するのでしょうか。それは「主を待ち望む」のです。何か良いことが自分に起こることを願うのではなく、神様ご自身を待つのが真の希望です。願っていた良いことが実現しても神様から見放されてしまうのでは希望はありません。願った通りにならなくても神様が共にいてくださり、私の味方となってくださるなら、大丈夫です。イザヤ書七章には「インマヌエル」(神我らと共に)と書かれています。それはキリストにおいて成就した預言です。神様ご自身が来てくださることが本当の救いなのです。
コロナ禍が始まって一年、忍耐にも疲れが出てきます。でも、私たちの希望の源泉であるお方、主イエス・キリストご自身こそ、無くならない希望だという、この御言葉の約束を何度も確認し、信仰を強められ、希望を持って歩む年としていただきましょう。
(元旦礼拝より)

祈りのゴール

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