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み言葉のいづみ

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主は生きておられる

2015-01-01
  千代崎 備道

  彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます」
  その女はエリヤに行った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主の言葉
  が真実であることを知りました。」
列王記第一 十七章12節、24節
 
  今年の池の上教会の御言葉は「主は生きておられる」(詩篇十八篇46節)です。旧約聖書
に四十数回この表現が使われている中で最も有名なのは列王記第一の十八章で預言者エリヤ
が言った「私の仕えている万軍の主は生きておられます」という言葉で、池の上教会二十周
年記念誌のタイトルに用いられています。預言者エリヤは十七章で「私の仕えているイスラ
エルの神、主は生きておられる」と宣言して、さっそうと聖書の中に登場し、目覚ましい働
きを続けます。雨が降らなくなり、エリヤはツァレファテの町に行き、ひとりのやもめに出
会いました。彼女はイスラエルの預言者エリヤの力を噂で聞いており、「あなたの神」と、エリヤの神が力あるお方だと理解して、「主は生きておられます」と言ったのです。ところ
が、彼女は自分の息子が死から救われたとき、知識ではなく経験から、そして心の底から、主が生きておられること、エリヤがその神から遣わされた人であり、神の言葉が真実である
と「知りました」と告白したのです。
  「主は生きておられる」ことは、ある人には言うまでもない、当たり前のことかもしれま
せん。しかし、そのことを事実として、実感を込めて告白しているでしょうか。確かに主が
生きておられ、今も力をもって働いておられることを信じ、信頼し、そのお方に従っている
でしょうか。この年、お一人お一人が、「主は生きておられる」ことを自分の信仰として告
白する者としていただきましょう。
  エリヤが名も無いやもめの所に遣わされたのは、最初はエリヤが食物を得るためですが、
同時に彼女とその息子も養われていることに気が付きます。そして病死した息子が奇跡によ
って生き返ったとき、彼女はエリヤがこの日のために遣わされたことを知るのです。毎日の
ように「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」という奇跡を目の前にしても、本気
で「主は生きておられる」と思わなかった彼女に、神様はご自分が生きておられる神である
ことを知らせてくださったのです。同じ主は、今も生きておられるお方であり、私たちに御
言葉を語りかけておられます。私たちも「今、知りました」と証しする者にしていただこう
ではありませんか。

恵みとまことに満ちた主の栄光

2014-12-01
  千代崎 備道

   私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
  この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネの福音書一章14節)
 
  クリスマスの輝きは神の御子の栄光を表しており、罪の世にいる人々を救うために栄光の
お方が来てくださったことが「光はやみの中に輝いている」(ヨハネ一章5節)ということ
です。この栄光は恵みとまことに満ちています。
  恵みの栄光とは、人間の努力や修行ではなく、神が無代価で与えてくださる、恵みによる救
いです。自分で自分を栄光の姿にしようとしても出来ませんし、もし出来たとしたら、それは
神の栄光ではなく自分の栄光となり、神の前に高慢になってしまいます。私たちはただ御子を
信じて受け入れるだけで、神の子どもとなる特権をいただくのです(12節)。
  キリストを信じて救われた時に、罪を赦されるだけでなく、神の子供としていただくことが
最初の栄光であり、神の恵みです。さらにキリストの恵みの豊かさのゆえに、恵みは増し加え
られます(16節)。特権が与えられた者は、それに相応しい姿に変えられて行き、天国に行っ
たときに完成されるのです。それが「栄光から栄光に変えられていく」ことです。自分を見て
いると栄光に変えられるというのは本当なのかと心配になります。しかし、御言葉をもって約
束してくださったお方は真実なお方ですから、必ず成し遂げて下さる。それがまことの栄光、真実な栄光なのです。
  私たちが神の栄光を表す者となるということは、目標ではなく目的です。今年一年の「目標」
として栄光になることを考えるなら、どれだけ達成できたか疑問です。しかし、私たちの人生
の目的が神の栄光なのです。私たちの全てを通して神の栄光が示されるために、私たちは救わ
れたのです。失敗したことも、その失敗を通して神の憐れみが証しされるなら、失敗した私を
通して神の栄光が現されるのです。そして、私たちが失敗したままで終わるのではなく、失敗
を通して成長し、さらに恵みを求める者となるとき、私たちをそのようにしてくださったお方
がどれほど恵みと真実に満ちたお方かが証しされるのです。
  今年もクリスマスを迎え、この一年が終わり、新しい一年が近づいています。一年一年、
一歩ずつ、私たちは光り輝く天国に向かって歩み続け、栄光の主にお目にかかる者としていた
だきましょう。

神の栄光への招き

2014-11-01
千代崎 備道

  主の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。
 
   なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。

(エゼキエル 四十三章4~5節)
 
  エゼキエルはユダ王国が滅亡してバビロン捕囚に連れて行かれた時代の預言者です。前半は神の審きと
してエルサレムが破壊されることが告げられます。その理由は、神に背いて罪を犯し続ける人々を見捨てて、栄光の神が神殿から離れたからです。神の栄光無しには、どれほど煌きらびやかに見えても、神の家は空し
 
いものです。後半は、エルサレム崩壊後に、やがて神がイスラエルを救ってくださり、エルサレムも回復される
 
ことが預言され、その締めくくりとして、新しい神殿の姿をエゼキエルは幻のうちに見せられます。
 
  四十章から始まる長い部分は、幻の神殿の描写で、読んでいても退屈なところです。そこに描かれている神
 
殿は、案内役の天使と響き渡る神の声を別にすれば、まるで誰もいないかのように感じます。神の栄光が満ち
 
あふれる神殿は、人っ子ひとりいないのです。それは、今は罪のために捕囚地で辱めを受けている人々に、彼
 
らが神を信じ、罪を悔い改めて立ち帰るなら、神は素晴らしい場所を用意して待っていて下さることを示してい
 
るのです。神様は人々を、その栄光に輝く場所へと招いておられるのです。
 
  イエス様が弟子たちのために用意される天国の住まいも、素晴らしい場所に違いありません(ヨハネ十四章
 
2節)。でも、私たちがそこに入るのでなければ、その輝く場所を見ることも味わうこともできません。それは、この人生が終わった後のことだけではありません。神様は、今、この世において私たちが生かされている人生
 
においても、私たちをご自分の栄光を現す生涯を送るようにと招いておられます。それを求めて経験するかは、私たち次第なのです。
 
  聖徒と呼ばれる信仰の先達を思うとき、あの方たちのような、光り輝くクリスチャンとなれるだろうかと自問し
 
ます。私には出来ないように感じます。でも、誰も、自分には出来ると思っていなかったでしょう。ただ、神様の
 
御声に従い、約束の御言葉を信じて生きたのです。そのとき、神様が用意してくださった生涯を歩むことができ
 
たのです。そして、本人も気がついたとき、なんと、ここに栄光の神様が一緒にいてくださった、と驚くのではない
 
でしょうか。神様は私たちの心の宮にも入ってくださり、内側から栄光を輝かせたいと待っておられるのです。あ
 
なたの人生を主に委ねましょう。

種蒔きから収穫へ

2014-10-01
千代崎 備道

   神の国は、人が地に種を蒔くようなものです。
(マルコの福音書 四章26節)
 
   収穫の秋です。春に蒔かれたものが、夏に生長し、秋に実を結ぶ。そのプロセスの一つ一つ
は不思議に満ちています。どのように育つのかは人は知らない、とキリストは語りました(マ
ルコ四27)。現代の科学では植物の生長のメカニズムは、その多くが解明されましたが、なお
分からないことがあるので学者たちは探求を進めており、創造の神の知恵がどれほど深いかを
覚えます。確かに「成長させてくださるのは神なのです」(第一コリント三7)。また、神の
御業の偉大さと共に、農業に携わる方々の苦労も覚えます。夏の暑いときに、水をやり雑草を
抜き、虫や病気から守る。それは簡単には書けないほど大変なことでしょう。しかし、どれほ
ど人間が力を尽くしても、なお災害のために思い通りの収穫とはならないこともあります。人
間の努力と神様の御業を考えると、収穫がどれほど素晴らしい恵みであるかを知ります。
   このプロセスの中でどうしても必要なことがあります。それは、種を蒔くことと、実ったも
のを収穫することです。種が無ければ実りもありませんし、実っても刈り取らなければ得るこ
とができません。その働きは人間に委ねられています。私たちの信仰のためにも、神様は種を
与え、成長させ、実りを与えてくださいます。しかし、種を蒔かなければ、始まりません。
   すでに御言葉の種をたくさん受けておられますね。その御言葉を実行し、生活の中に実践し
ようとするとき、種は芽を出します。聞くだけでは、いつか種は失われます(マルコ四15から
17)。実行に移すとき、不思議なように神様が働いてくださって、芽を出し根を張り伸びてい
くのです。まだ種が足らないという方は、もっと種を求めるのも良いでしょう。神様の恵みも
御言葉も、無尽蔵に与えられます。でも、どこかで自ら進み出ることが大切です。救いを求め、あるいは、きよめを願い、成長を目指すのでしたら、信じます、従います、と決断するのです。
そのとき、神様は助けを備え、水を注ぐ人を与え、太陽の光で照らし、成長を促してください
ます。
   成長への一歩を歩み出すなら、もうすでに収穫への不思議な働きは始まっているのです。
それが、「栄光から栄光」の「栄光から」の部分です。あなたも栄光への一歩を踏み出し
ませんか。それ無しに栄光の収穫はあり得ないからです。

輝く人生をあなたに

2014-09-01
   千代崎 備道

   しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。
(箴言十六章31節)
   若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。
(箴言二十章29節)
 
   私たちが天国に行ったときには、栄光のからだに変えていただけることを知っています。でも、地上での人生
 
は失敗や罪のために、とてもではありませんが、自分の人生に栄光があるとは思えないかもしれません。しか
 
し、聖書は私たちに「栄光から栄光に変えられる」と語っています。今すぐに、とは言えないとしても、やがて輝
 
くような人生となることを願います。
 
   上にあげた二つの聖句は「しらが」について語っています。もちろん、頭髪の話では無く、年長者のシンボルと
 
しての「しらが」です(ですから、白髪とは違う状態になっても心配はありません)。旧約聖書は高齢者への尊敬
 
を繰り返して命じています。特に正しい人生を送った人が模範として敬われるのは御心にかなったことです。そ
 
の尊敬は最初からあるのではなく、長い時間をかけて培われていくものです。若いときは自分の力に頼り、自分
 
で栄光を得ようとします。しかし、人生の苦難を経験し、謙遜を学び、神からの知恵を学び、神の恵み深さを味わ
 
い知ったとき、その人が醸し出すものは、若い人には太刀打ちできない、重みのある言動となっていくのです。
 
旧約聖書の言葉であるヘブル語では、「栄光」という言葉の語源は「重い」という言葉です。
 
   力や明るさに溢れる若者の賛美も主の栄光を現します。信仰の人生を歩んでこられた方々の祈りも主の栄光
 
を述べています。若者にも年長者にも大切なことは、主を畏れ、主の言葉に従うことであり、それが人生の知恵
 
であることを箴言は教えています。それが、栄光から栄光へと進む生き方だからです。もちろん、そのような生き
 
方は簡単ではないかも知れません。しかし、主に従う生活は、自分の力だけで出来るのではなく、主を信頼する
 
信仰による毎日の結実です。ですから、次の御言葉を忘れないようにしましょう。
 
   「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じ
 
ようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼ
 
う。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ書四十六章3節後半から4節)。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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