み言葉のいづみ
共に主を賛美しよう
2025-08-01
千代崎 備道
ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。
主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。
主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
(詩篇百四十八篇1~3節)
ハレルヤという言葉は、讃美歌の中でも、またクリスチャンの語る言葉の中でも用いられることがありますが、普段はその意味を意識していないかもしれません。このヘブル語は「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。文法的には命令形で、複数の相手に対して語られています。「あなたたちは主を賛美しなさい」ということです。詩篇の中には多くの賛美がありますが、「私」個人が賛美しているものもありますが、それも周りにいる人々に聞かせて、一緒に賛美するようになることを願っています。「私たち」と語られている詩篇も、ちょうど礼拝で司会者が会衆に呼びかけるように、一緒に賛美をしようと招いているのです。一人から始まった賛美も、最後は民全体に、さらに全世界の存在が神を褒め称えるように、と広がっていくのです。天使たちも、天体も、全てが神様の栄光を讃えるのです。
歌を歌うのも、ソロで歌うのも美しいですが、合唱で複数のパートに分かれ、男声女声、様々な個性ある声が一つに溶け合うのも素晴らしいものです。絵画も、単色の絵も芸術的ですが、多くの色が巧みに用いられる絵もあります。教会は様々な人が集まっています。一人一人の持ち味が生かされつつ、でも全体が力を合わせてキリストのためにと仕えるとき、それを神様が用いてくださり、素晴らしいハーモニーとしてくださるのです。
教会で賛美をするとき、奏楽のリードに沿いながら、他の人の声を聞いて合わせるのは、最初は難しいかもしれませんが、慣れてくると楽しくなってきます。すぐには出来なくても訓練のようにして一緒に賛美を捧げる。その時、教会はキリストにあって一つとなり始めます。それは礼拝賛美や聖歌隊だけのことではなく、教会のあらゆることが「共に」主が崇められるものなのです。
「ハレルヤ」と共に主を賛美する教会となりましょう。讃美歌を歌うときも、礼拝も奉仕も交わりも、全てが主の栄光が表される共同作業なのです。
どこにいてもどんな時も賛美しよう
2025-07-01
千代崎 備道
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
(イザヤ書三十八章18~19節)
夏は教会だけでなく、様々な場所で普段とは違う日時で集会が行われます。聖会やキャンプもそうです。また休暇で出かけた先で、大自然を観て主を賛美する機会もあるでしょう。神様は天地万物を造られたお方ですから、人間の作った場所に制限されることはなく、私たちも、どこにいても、またどんな時でも、主を賛美することができるのです。それは、困難な場所、悲しみの時でもそうなのです。
右の御言葉はヒゼキヤ王が作った祈りの詩です。彼は重病のため、預言者から死が近いことを宣告されます。ヒゼキヤが涙を流して祈ったとき、神様は彼に十五年間、寿命を延ばすと約束してくださったのです。その時のことを覚えつつ、彼はこの詩を記しました。
同じような詩が詩篇の中にもいくつか見出せます。それが共通して述べているのは、簡単に言えば、「死んでしまったら神様を賛美出来なくなる。死の世界では賛美ができない。だからまだ生かして欲しい」という訴えです。神の民が主を賛美することは、もっとも大切な使命の一つですから、賛美出来なくなることが無いように助けを願ったのは、当時の人たちの信仰でもありました。ただ、旧約時代は、まだイエス・キリストによる救いが無かった時代です。復活が無かったため、死んでしまったらもうオシマイだという理解しか無かったのです。でもイエス様が復活されたことで、死でさえも克服できないものではなくなったのです。私たちは死んだ後も、天国で永遠のいのちによって生きることができ、神様の前で賛美と礼拝をするのです。
でも、それは死んでからだけのことではありません。この復活の主を信じ、死も命も全てを治めておられる神様を信頼するとき、ヒゼキヤのように重病や死が迫っている状態でも、なお主を讃えることができるのです。苦しみの中で祈った祈りも詩篇には多く載せられていますが、その祈りもやがて信仰へと導かれ、最後は主を崇める賛美に変えられて行くのです。
今年も猛暑です。身体が弱ることもあるでしょう。でも、いついかなる時でも、どこにいても、主が共にいてくださいます。そのお方を見上げ、祈りと賛美を捧げるとき、自分の力では立ち上がることが出来なくても、主が支えてくださることを体験できるのです。
賛美できない時にも
2025-06-01
千代崎 備道
それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
(詩篇百三十七篇3~4節)
イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされ、人々は捕虜としてバビロンに連れて行かれ、迫害された時代の詩篇です。シオンとはエルサレムの別名で、バビロンの人々が余興として、彼らが倒した国の都で歌われていた歌を歌うように求めるのですが、それはイスラエル人にとって主への賛美の歌です。歌わないと酷い目に遭わされるのですが、そんな笑いものにされるために賛美歌を歌いたくはない。彼らは楽器を隠したり、忘れたと言って拒みたい。でも、本当は一時たりともエルサレムのことを忘れたりしない。心の中では主への賛美を歌いたい。でも、戦争に負けて捕虜にされたときに、連れて行くのに足手まといになる老人や幼子を敵に殺された。その恨みの言葉が口からでてきてしまう。そんな苦しみを歌ったこの詩篇は、聖書の中でも異色の存在です。
私たちも賛美が出来ないときがあります。4月から6月、何人もの方を天に送り、悲しみに打ちひしがれたこともありました。個人的には病気で伏したこともあり、その間は教会員の方々が牧師の不在をカバーしてくださり、大変に忙しい三ヶ月でした。こんな大変なときに賛美なんて歌えるのでしょうか。もし賛美が私たちにとって楽しみを求めることであるのなら、歌えないのは当然です。
この詩篇も讃美歌というよりも苦難の中で嘆いている祈りに分類されます。苦しいときには祈るのも精一杯で、口からは苦い言葉が出てくることもあるでしょう。でも神さまは私たちのそのような辛さや悲しさを受け入れてくださるお方だからこそ、この詩篇が聖書の中に残されているのです。もっとも暗い詩篇と言われますが、その祈りが突き抜けていったとき、詩篇の最後は「ハレルヤ」という天国の賛美に向かいます。讃美歌を歌えないときは、その気持ちをそのまま祈るなら、その心にも神さまは語りかけ、導いてくださるのです。
新聖歌などの讃美歌集には、明るい歌も静かな歌もあり、悲しみの中での平安を歌った祈りの賛美もあります。きっと、どれかの讃美歌が、その時の私たちの心に響いてくるでしょう。教会でも沢山の讃美の歌に触れていただき、人生の様々な時に、その心を慰め励まし、あるいは感謝を献げる賛美に出会ってください。
賛美の上におられる主を信じる
2025-05-01
千代崎 備道
そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。
主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。
そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。
主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。
(出エジプト記十五章1~2節)
エジプトから救い出され、紅海を歩いて渡り、そして追い迫るエジプト軍が海で滅んだのを見たイスラエルは、モーセが作ったこの賛美を共に歌いました。この十五章の詩は「海の歌」と呼ばれ、旧約聖書最古の讃美歌と言われます。それまでも重要なことを詩の形で述べることはありましたが、神を褒め称えた最初の歌であり、後の時代に作られた詩篇の原型にもなった、大切な賛美です。
この賛美が作られたのは、エジプト軍からの救いという出来事を心に記憶するためです。ただ感動しただけなら、時が来ると忘れてしまいます。出来事を引き起こされた神さまを崇め、神がどのようなお方かが心に刻みつけられるとき、次の困難が来たときにも、この神さまに祈って助けを求めることができます。
残念ながら、イスラエルの民は、この救いの出来事だけに目が向いてしまっていたようで、この直ぐ後で神さまに不平を鳴らし、神さまを試みようとしたことが記されています。彼らにとって、賛美が信仰に結びつかず、ただの感動体験から生まれた歌に過ぎなかったからです。創世記2章のアダムも「骨の骨、肉の肉」と感動の歌を歌いましたが、次の章で「この女が悪い」と言わんばかりに妻を批判しました。ただ感動をしただけで、造り主なる神さまを褒め称える信仰に至らなかったのかもしれません。
時には強い感情から賛美が出ることもあります。感謝の賛美、喜びの賛美、また悲しみの中で祈る賛美。様々な賛美の歌が新聖歌などの讃美歌集にも載っています。その賛美の歌詞に目を留めましょう。その詩が教えている、神の素晴らしさ、キリストの救いの恵み、また昔の信仰者たちの神への信頼。賛美の背後には神さまの栄光が隠されています。賛美自体も心を喜ばせ、あるいは平安を与えてくれますが、神ご自身に心が向けられるとき、それが私たちの信仰となります。
良いことがあったときは、神さまに感謝をし、賛美を捧げましょう。辛いときは祈りを捧げ、主からの平安をいただいて主を崇めましょう。そして賛美を受けてくださる主を信頼しましょう。
十字架と復活の主を賛美しよう
2025-04-01
千代崎 備道
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
(ピリピ人への手紙二章6~11節)
この箇所は、一世紀の教会で賛美として用いられていたそうです。メロディは分かりませんが、クリスチャンたちが復活の主を心から賛美していたことを思わされます。前半は、キリストの謙遜と言われ、神の御子の身分を離れて人間の姿となり、父なる神の御心に従って十字架で死なれたことを述べています。後半は、その従順の故に父なる神は御子を死の底から引き上げ、世界中のものがキリストと父なる神を褒め称えることが予告されています。私たちもこの賛美に加わり、「イエスは主なり」と告白し、神を賛美しているのです。
もし、イエス様が単なる教師であり、素晴らしい教えを述べられただけならば、偉大な人物の一人としての栄誉は受けても、天地の全てのものから崇められるには至らなかったでしょうし、「地の下になるもののすべて」までが主イエスに膝をかがめて礼拝することはなかったのです。十字架と復活のキリストこそが賛美を受けるに相応しいお方なのです。
私たちの賛美も、物事が上手くいったから感謝と賛美を捧げるだけであるなら、苦難に陥ったときに賛美できなくなります。でも十字架の死からよみがえられたお方を信じるなら、どのようなどん底にいても、そこも主が共にいてくださる場所となり、主と共に復活の命に生きるようになるのです。私たちは決して行き詰まりません。もうダメだ、と人間には思えるときでも、キリストはそれを乗り越えられたお方です。罪と死に閉じ込められていた私たちを救うために主は十字架につかれ、よみがえってくださったのです。人生の最後には死が訪れますが、私たちは死に打ち勝ちたもうイエス様を信頼し、天国であらゆる者と共に神を褒め称えるときを待つのです。
ユダヤ人は土曜日を安息日として守りましたが、クリスチャンは復活を記念して日曜に礼拝するようになりました。イースターだけでなく、毎週、復活の主を崇め、心から賛美と礼拝を捧げましょう。
