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み言葉のいづみ

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雨が降り日が照る

2018-06-01
千代崎 備道
 
 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
 
(ホセア書六章3節)
 
雨の季節には、洗濯物が乾かないから、足もとが濡れるから、と言って雨が降ると憂鬱になります。梅雨が終わって猛暑になると、熱い日差しを避けるようになり、駐車するときは日陰を好み、日焼けしないように対策をします。もう少し若かった頃は、海水浴に行って真っ黒になるのが夏の過ごし方だったのですが。
梅雨に降る雨も、真夏の日光も、どちらも作物のためには必要不可欠です。どちらかが欠けてしまえば不作となります。イスラエル地方では日差しが不足することはほとんどなく、雨が降るかが農業にも牧畜にも重要問題でしたから、雨が降ることを願う表現が多く使われています。(例外は箴言二十七・15に出てくる「雨漏り」の話と、そして大洪水をもたらす雨くらいでしょうか。)
雨が多すぎる、あるいは少なすぎる、と不平を言い、日光をありがたがったりするかと思えば、日差しを避けたりする。何と人間というのは身勝手なのでしょう。私たちは、自分の人生でも、少しでも思い通りにならないと、「なぜ、こんなことが自分に起こるのか」と嘆き怒ります。しかし、もし神様が私たちの人生を実り多いものにしようとお考えになるなら、必要な雨と日差しを、必要な時に、必要な量だけお与えになるでしょう。今は辛く苦しいと思う出来事さえ、神様の御手の内にあるなら、私たちの信仰を成長させ、御心に適った実を結ばせるために、無意味ではないのです。
旧約聖書に登場する人々は、それぞれが苦難の時を通ります。しかし聖書が告げているのは、その苦難こそが、その人が神様と出会い、普段では知り得なかった神の恵みを知る機会となることです。アブラハムとサラは跡継ぎがいない悩みの中で、またヨブは全財産と健康を失って苦しむ中で、神様の声を聞いたのです。冒頭のホセアの預言では、イスラエルの人々は神様に従わずに滅びに向かう中、神様の恵みを安易に求めるような稚拙な信仰でした。しかし彼らが国の滅亡を通して知ったのは、まことの神様に従うことだけが救いだという真理でした。彼らは確かに「主を知る」ようになるのです。ですから敗北も失敗も無駄にはならなかったのです。
雪も雨も太陽も喜ぶ子供のように、天の父なる神様を信頼して、どんな境遇でも豊かな実りとしてくださるお方に従いましょう。

豊かな実の収穫への期待

2018-05-01
千代崎 備道
 
 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。
(レビ記二十三章16節)
 
旧約聖書と新約聖書には、実に様々な結びつきがあります。イスラエルがエジプトから救い出された後に神様が定めた祭りについてレビ記などが記しています。救いを記念する過越の祭りから数えて五十日目、すなわち七週間後が、五旬節(七週の祭りとも言う)です。五十日目という意味のギリシャ語がペンテコステで、使徒の働きの第二章で聖霊が弟子たちに下られた日です。
レビ記では、五旬節は小麦の収穫祭の時期にあたり、それに先立つ大麦の収穫が始まるのが、ちょうど過越祭の頃です。過越から五旬節までの七週間は穀物の収穫期で、五旬節の説明の最後には貧しい者たちのために落ち穂を残しておくように命じられていることが、ルツ記の出来事の背景となっています。このルツ記は、後に五旬節の祭りの礼拝で朗読されるようになりました。そのような意味では、五旬節は結実の喜びに満ちた祭りです。
しかし、最初に神様がモーセに命じたときは、イスラエルの民はまだシナイ山のふもとにおり、収穫どころが草木も乏しい荒野の生活でした。その彼らに、五旬節を命じることで、将来の豊かな収穫の希望を与えたのです。
新約聖書の五旬節、すなわちペンテコステの出来事は、旧い契約での救いが過越祭から始まり、約束の地での収穫の喜びを約束する七週の祭りで救いが完成したように、過越祭のときにイエス様が十字架で救いの贖いを成就され、ペンテコステに聖霊が下ったことで救いの業が完成し、さらなる結実を約束しているのです。それは、農作物以上の恵みである、人の魂の救いという結実です。
イエス様が一粒の麦となって救いの種を蒔いてくださり、聖霊の雨が注がれて収穫への準備を神様がしてくださいました。後は神様が約束してくださった多くの実、すなわち多くの人の救いという収穫のために私たちは用いられるのです。これまでも池の上教会を通して多くの方々に御言葉の種、福音の種が手渡され、そこに聖霊が働いてくださるときに柔らかな土地の心となり、命の水が注がれ、ついに救いという実が結ばれ、さらにキリストに似る者となるための御霊の実(ガラテヤ書)が結ばれ続けていくのです。私たちはその収穫を主にささげる働き人となったのです。

実を結ぶ希望を持とう

2018-04-01
千代崎 備道
 
 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
(ローマ書五章3~5節抜粋)
 
有名な聖句ですが、ただ単に、「忍耐していれば良い事がある」とか、「苦労すれば人間が成長する」という道徳訓なのではなく、信仰による救いが前提であることは文脈から明らかです。繰り返されている「生み出す」という言葉が示しているように、信仰が実を結ぶためには産みの苦しみが伴います。しかし、その苦しみは失望ではなく、希望に繋がっている、とパウロは告げています。
私たちが救いの恵みをいただいたとき、それはゴールではなく、その救いから始まって実を結ぶに至ります。その実とは、第一に、周囲の人の救いです。「あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六章31節)との約束の御言葉を信じて祈り続けますが、家族や友人が救いに導かれるまでに長い年月が必要なことがあります。また教会が伝道をして救われる人が起こされるまでに、どれほど多くの祈りと犠牲があるかは、伝道活動に携わった人なら誰もが知っています。しかし、その苦労も、神様がいつか必ず結実させてくださると信じるとき、忍耐が生まれ、希望が生み出されていきます。
もう一つの実は、「御霊の実」とも呼ばれる、私たちの内側が変えられて、キリストに似た者とされていくことです。これも時間がかかるだけでなく、苦悩を伴います。いくら努力をしても、なお自分の内側に醜さや愚かさを見いだしたとき、絶望的に感じます。それでも導いてくださる主を信じ、祈りつつ、御言葉を読みつつ、日々前進していくとき、その自分の祈りと、また周囲の友の祈りが積み重ねられ、神のことばが心に働きかけ、品性が練られていくのです。
時には、伝道のために苦悩することが自分の信仰の成長という結実に至ったり、また自分の内側に結ばれた御霊の実を見て、家族が救いを求めるようになったりもします。この二種類の結実は別々ではなく、どちらも神様が結ばせてくださる実なのです。
このことを知っているとき、たとえ家族伝道がなかなか進まなかったり、信仰の成長の遅さに嫌気がさしても、神様が希望を与えてくださり、「この希望は失望には終わることはありません」。必ず結実に至るのです。季節は春から初夏に向かい、葉が生い茂り、花が咲き、その先には結実があると信じ、たとえ患難があっても、希望を抱いて働き続ける者こそ、結実の喜びを味わうのです。

一粒の麦の死による豊かな実

2018-03-01
千代崎 備道
 
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
(ヨハネの福音書十二章24節)
 
この有名な御言葉は、受難週に語られたことを想う時、イエス様はご自分が十字架で死なれることをご存じで、この言葉を語られたことが分かります。弟子たちは、そのことは分からないまでも、この言葉が強く印象に残っていたことでしょう。
イエス様が捕らえられ、十字架で死なれたとき、弟子たちにとっては、それは衝撃であり、大切な師を失った悲しみで心は一杯だったでしょう。しかし、復活を目撃し、十字架が多くの人の救いのためであったことを理解したとき、この御言葉が真実であることを悟ったのです。やがて、その使徒たちも殉教する時がきます。使徒たちによってイエス・キリストの救いに与った人たちにとって、先生を失うことはどれほどの衝撃だったでしょう。しかし、その損失はもっと多くの実を結ぶことになり、さらに救いが広められていったのです。この御言葉は、今も真理です。
先日の教団年会では、聖別派遣式が行われ、いくつかの教会は牧師の転任があり、またこの年会で引退される牧師もいました。その前日には昨年度に天に召された先生方の記念会も行われ、寂しさの中で、その先生方が成された尊い働きを思い、その志を皆が引き継ぎました。それまでの指導者を失った教会は、それがどのような事情であれ、大きな喪失を味わいます。しかし、十字架につかれたキリストが教会の主であることを信じるなら、いつか必ず、失った以上の豊かな実が一人一人の心に結ばれるのです。
池の上キリスト教会も、昨年度、何人もの聖徒を天に送りました。また様々な別れがあり、寂しさもあります。でも、十字架の主を信じるとき、決して失うだけで終わることは無い。必ず、その麦は豊かな収穫の喜びへと繋がっているという希望を持つことができるのです。ですから、私たちも先達の信仰を引き継ぎ、さらに豊かな実が結ばれることを信じて、前進して行きましょう。
今月の最後の週は受難週です。一週間、聖書を通してイエス様の足跡をたどり、私たちを救うために十字架に進み行かれたキリストの愛を味わいましょう。そして、一粒の麦の死が豊かな実をもたらすとの信仰をしっかりと受け継ぎましょう。四月の一日は、イースターです。豊かな収穫の初穂としての復活を祝うのです。

実を結ぶまでの時間

2018-02-01
千代崎 備道
 
 番人は答えて言った。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」
(ルカの福音書十三章8節)
 
あるぶどう園の所有者が、その片隅にイチジクの木を植えました。しかしイチジクの木が三年待っても実を結ばないのを見た主人は、ぶどう園の番人に切り倒すように命じます。しかし番人は「あと一年待ってください」と頼むのです。
一月にこの箇所から礼拝説教をしたのですが、この譬え話を読むと、神様は実を結ばない者を滅ぼしてしまう、恐ろしいお方のように感じます。でも、もし本当にそうならば、一言も言わないで滅ぼすはずです。エレミヤ書に出てくる陶器師は、気に入らない作品は即座につぶして新しい作品を作り出します。でも、この主人は、三年待ち、さらに一年待って、実りを期待しているのです。この譬え話も、背後には悔い改めて実を結ぶ者となって欲しいという神様の憐れみの思いがあるのです。むしろ、番人であるイエス様が「あと一年」と言って取りなしておられることが恵みです。
なかなか実を結ばないと思うことがありますが、何年かかるのでしょう。「桃栗三年、柿八年」と言うように、作物も種類によって結実までの時間は異なります。焦る必要はありませんが、無為無策でいるのも良いのでしょうか。結実に向けて一歩でも前進したいと思うのです。
実を結ぶまでの期間は忍耐の時です。でも、番人であるイエス様に目を向けるならば、手を入れ、肥料を与え、水を注いでいてくださいます。実を結ぶまでの期間は、イエス様に手と声を掛けていただき、交わりを持ち、恵みの水を何度も何度も注いでいただく時でもあるのです。ですから、信仰と希望を持って待ち望み、また主の御心に従って、私も少しでもお役に立ちたいと願います。
寒い冬は結実が望めない季節なのかと言えば、種類によっては冬や春に収穫がある作物もあります。また、リンゴの木のように、冬の寒さがあるからこそ、甘い実を結ぶ木もあります。実を結べないと感じる時期が、人生にも、また教会にもあるでしょう。でも、収穫の主であるお方を信頼し、御言葉によって信仰が成長するなら、厳しい季節も希望を持つことができ、また、そのような時だからこそ知ることが出来る幸いもあるのです。成長させ、実らせてくださる神様を信頼し、働きに励みましょう。
 
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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