み言葉のいづみ
苦しみの日に賛美が生まれる
2025-11-01
千代崎 備道
彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。
しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。
それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。
彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。
しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。
それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。
(詩篇五十九篇15~16節)
詩篇には旧約聖書時代の信仰者たちの祈りと賛美が載せられています。祈りとは苦しみの時に神様に祈ったもの、賛美は神様が救ってくださったときに歌ったものです。時には、一つの詩の中で苦しみの祈りが賛美に変えられることがあります。私は苦しい、「しかし」私は主を賛美します、と祈りが賛美に変えられるときは「しかし」という切り替えがあります。
右の詩篇五十九篇も苦しみを示す言葉が続きます。自分を苦しめる者たちを野犬になぞらえて語っています。そのような悪者たちに囲まれているときに、この詩人は神様が自分を助けてくださるお方であり、ちょうど戦争の時に砦に逃げ込んで助かるように、神様に祈って平安を得たのです。神様が自分の心にとって逃げ場、あるいは隠れ家となってくださることを詩人たちは体験します。この信仰を持つようになったとき、まだ苦難は続き、暗闇の中におかれていても、必ず夜明けが来て主の救いが明らかになるときが来るという希望を持つようになるのです。この信仰を詩人たちは賛美として神様に歌って信仰を告白し、また後世の信仰者たちのためにこのような賛美が集められ書き残されたのです。
時代は数千年の違いがあり、文化や社会も異なります。でも神様は変わることの無いお方であり、全世界の王ですから、今、私たちが苦難のただ中に置かれていても、この神様を信じるなら、私たちの心にも救いが与えられ、賛美が生まれて来るのです。
まだ、自分は苦難のただ中で、賛美することなど出来ない、という方は、教会で一緒に賛美しましょう。讃美歌を歌うときに、神様が心の中に語り掛けてくださり、心が内側から変えられるからです。讃美歌の背後にある御言葉が聖霊によって語られて、力を与えてくださるのです。詩篇だけでなく聖書全体で使われている「ハレルヤ」とは、「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。この呼びかけに応答して主を賛美する者になりましょう。そのとき、私も主の力を体験し、主の恵みを味わい、喜びつつ感謝と賛美を献げるようにしていただけるのです。
右の詩篇五十九篇も苦しみを示す言葉が続きます。自分を苦しめる者たちを野犬になぞらえて語っています。そのような悪者たちに囲まれているときに、この詩人は神様が自分を助けてくださるお方であり、ちょうど戦争の時に砦に逃げ込んで助かるように、神様に祈って平安を得たのです。神様が自分の心にとって逃げ場、あるいは隠れ家となってくださることを詩人たちは体験します。この信仰を持つようになったとき、まだ苦難は続き、暗闇の中におかれていても、必ず夜明けが来て主の救いが明らかになるときが来るという希望を持つようになるのです。この信仰を詩人たちは賛美として神様に歌って信仰を告白し、また後世の信仰者たちのためにこのような賛美が集められ書き残されたのです。
時代は数千年の違いがあり、文化や社会も異なります。でも神様は変わることの無いお方であり、全世界の王ですから、今、私たちが苦難のただ中に置かれていても、この神様を信じるなら、私たちの心にも救いが与えられ、賛美が生まれて来るのです。
まだ、自分は苦難のただ中で、賛美することなど出来ない、という方は、教会で一緒に賛美しましょう。讃美歌を歌うときに、神様が心の中に語り掛けてくださり、心が内側から変えられるからです。讃美歌の背後にある御言葉が聖霊によって語られて、力を与えてくださるのです。詩篇だけでなく聖書全体で使われている「ハレルヤ」とは、「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。この呼びかけに応答して主を賛美する者になりましょう。そのとき、私も主の力を体験し、主の恵みを味わい、喜びつつ感謝と賛美を献げるようにしていただけるのです。
生も死も主が崇められる
2025-10-01
千代崎 備道
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
(ピリピ書一章20節)
使徒パウロの切なる願いは、どんな時にも福音を大胆に語り伝えることですが、その目的はキリストが崇められることでした。彼にとって生きることも死ぬことも、すべてが主への賛美なのです。
旧約聖書の時代は復活のことがよく分からなかったため、信仰者たちの願いは、生きて主を賛美することでした。キリストの十字架と復活により新しい時代となり、死んだ後も天国で主を賛美するようになることが新約聖書全体で教えられています。そのような希望とは反対に、一世紀の教会は迫害を受け、多くのクリスチャンが殉教しました。その痛みと苦しみの中で主イエスを崇めたのが『使徒の働き』七章のステパノの殉教です。パウロも、何回も命の危険がありましたが、主の御名が崇められることを願い、宣教を続けたのでした。
今、私たちは当時のような迫害はありません。(ただし、国によってはそれと同じくらいの迫害を受けているクリスチャンもいます。)それでも死は避けられません。いつかは地上の人生が終わる時が来ます。命の限り主を賛美するとは、その命が終わる時まで、そして永遠の命によって天国で生きる時にも、主を賛美し、主の御名が崇められることを願うことなのです。
ここ数年、何人もの兄弟姉妹が天国に召されました。礼拝堂の空席を見ると、かつてそこに座っていた方たちのことを思い起こします。それらの兄弟姉妹は、お元気なときには教会で主に仕えて奉仕をなさり、礼拝堂で賛美を捧げておられました。教会に通うことができなくなっても主を崇め続け、そして息を引き取り、ご葬儀のときにも、その方を思い起こして賛美が主に捧げられたのです。また教会に来たことがなかったご遺族までもがキリスト教式の葬儀に参列され、聖書の御言葉を聞き、亡くなった方の証しを知ったのです。大胆に救いが語られ、主の栄光が表されたのでした。
パウロが語ったことは決して私たちと無関係なことではありません。世の終わりには迫害の時代が来ると預言されています。また一人一人の人生は確実に終わる時が来ます。でも、どんな場合にも、そして私たちの生きるときも死ぬときも、主の御名が崇められることを祈り願いましょう。
賛美は私たちのために
2025-09-01
千代崎 備道
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
(創世記一章27節)
人間は自分が中心であり、世界も自分のためにあるかのように考えてしまうことがあります。聖書は、この世界は神様が造られたものであって、人間も神様のお考えの中で造られた存在だと教えています。その私たちが存在する目的は、造ってくださったお方の素晴らしさを表すことです。美術品が芸術家の才能や努力を示しているように、大自然は創造主なる神様の偉大さを映し出している神の作品です。その作品の中でも最高のもの、いいえ、神様ご自身を反映する「神のかたち」として造られたのが人間です。ですから、私たちの全存在をかけて神様の素晴らしさを示すとき、私たちは造られた目的を果たすことが出来るのです。
しかし、私たちは神様の素晴らしさを表すどころか、造ってくださったお方にとって恥となるような生き方をしてしまいます。それでも神様は御子を遣わし、私たちを神に背く罪から救ってくださいました。キリストによってこそ、神の素晴らしさは余すところなく示されたのです。では、私たちは神の素晴らしさを表すことが何一つできないのでしょうか。私たちがすることも、全て神の助けの中でなされ、決して私の力ではないからです。
そのような私たちに聖書は、「主を褒め称えよ、ハレルヤ」と教えています。生き方や行い、心や思いにおいては欠けだらけの存在です。救っていただいた「恩」ばかりが増えていきます。でも私たちが賛美を捧げるとき、僅かであっても神様の偉大さをこの世に示すことができるのです。もし神様が賛美という恵みを与えておられなかったなら、私たちは何一つ神様の偉大さを示すことはできない小さく弱い存在なのです。
賛美と祈りを捧げるとき、私たちの心は主に向けられます。そして御言葉に耳を傾け、神様を信頼するとき、もっと神様を偉大さに触れて、主を褒め称えたくなるのです。これこそ、神に造られた人間の目的です。それは地上だけでは終わりません。天国に行っても、私たちは主を礼拝し、賛美を捧げ続けることが「ヨハネの黙示録」に描かれています。こんな祝福を神様は備えてくださり、私たちに賛美という恵みの手段を与えてくださったのです。ですから、もっと主を褒め称え、心から主を崇めましょう。
しかし、私たちは神様の素晴らしさを表すどころか、造ってくださったお方にとって恥となるような生き方をしてしまいます。それでも神様は御子を遣わし、私たちを神に背く罪から救ってくださいました。キリストによってこそ、神の素晴らしさは余すところなく示されたのです。では、私たちは神の素晴らしさを表すことが何一つできないのでしょうか。私たちがすることも、全て神の助けの中でなされ、決して私の力ではないからです。
そのような私たちに聖書は、「主を褒め称えよ、ハレルヤ」と教えています。生き方や行い、心や思いにおいては欠けだらけの存在です。救っていただいた「恩」ばかりが増えていきます。でも私たちが賛美を捧げるとき、僅かであっても神様の偉大さをこの世に示すことができるのです。もし神様が賛美という恵みを与えておられなかったなら、私たちは何一つ神様の偉大さを示すことはできない小さく弱い存在なのです。
賛美と祈りを捧げるとき、私たちの心は主に向けられます。そして御言葉に耳を傾け、神様を信頼するとき、もっと神様を偉大さに触れて、主を褒め称えたくなるのです。これこそ、神に造られた人間の目的です。それは地上だけでは終わりません。天国に行っても、私たちは主を礼拝し、賛美を捧げ続けることが「ヨハネの黙示録」に描かれています。こんな祝福を神様は備えてくださり、私たちに賛美という恵みの手段を与えてくださったのです。ですから、もっと主を褒め称え、心から主を崇めましょう。
共に主を賛美しよう
2025-08-01
千代崎 備道
ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。
主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。
主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
(詩篇百四十八篇1~3節)
ハレルヤという言葉は、讃美歌の中でも、またクリスチャンの語る言葉の中でも用いられることがありますが、普段はその意味を意識していないかもしれません。このヘブル語は「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。文法的には命令形で、複数の相手に対して語られています。「あなたたちは主を賛美しなさい」ということです。詩篇の中には多くの賛美がありますが、「私」個人が賛美しているものもありますが、それも周りにいる人々に聞かせて、一緒に賛美するようになることを願っています。「私たち」と語られている詩篇も、ちょうど礼拝で司会者が会衆に呼びかけるように、一緒に賛美をしようと招いているのです。一人から始まった賛美も、最後は民全体に、さらに全世界の存在が神を褒め称えるように、と広がっていくのです。天使たちも、天体も、全てが神様の栄光を讃えるのです。
歌を歌うのも、ソロで歌うのも美しいですが、合唱で複数のパートに分かれ、男声女声、様々な個性ある声が一つに溶け合うのも素晴らしいものです。絵画も、単色の絵も芸術的ですが、多くの色が巧みに用いられる絵もあります。教会は様々な人が集まっています。一人一人の持ち味が生かされつつ、でも全体が力を合わせてキリストのためにと仕えるとき、それを神様が用いてくださり、素晴らしいハーモニーとしてくださるのです。
教会で賛美をするとき、奏楽のリードに沿いながら、他の人の声を聞いて合わせるのは、最初は難しいかもしれませんが、慣れてくると楽しくなってきます。すぐには出来なくても訓練のようにして一緒に賛美を捧げる。その時、教会はキリストにあって一つとなり始めます。それは礼拝賛美や聖歌隊だけのことではなく、教会のあらゆることが「共に」主が崇められるものなのです。
「ハレルヤ」と共に主を賛美する教会となりましょう。讃美歌を歌うときも、礼拝も奉仕も交わりも、全てが主の栄光が表される共同作業なのです。
どこにいてもどんな時も賛美しよう
2025-07-01
千代崎 備道
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
(イザヤ書三十八章18~19節)
夏は教会だけでなく、様々な場所で普段とは違う日時で集会が行われます。聖会やキャンプもそうです。また休暇で出かけた先で、大自然を観て主を賛美する機会もあるでしょう。神様は天地万物を造られたお方ですから、人間の作った場所に制限されることはなく、私たちも、どこにいても、またどんな時でも、主を賛美することができるのです。それは、困難な場所、悲しみの時でもそうなのです。
右の御言葉はヒゼキヤ王が作った祈りの詩です。彼は重病のため、預言者から死が近いことを宣告されます。ヒゼキヤが涙を流して祈ったとき、神様は彼に十五年間、寿命を延ばすと約束してくださったのです。その時のことを覚えつつ、彼はこの詩を記しました。
同じような詩が詩篇の中にもいくつか見出せます。それが共通して述べているのは、簡単に言えば、「死んでしまったら神様を賛美出来なくなる。死の世界では賛美ができない。だからまだ生かして欲しい」という訴えです。神の民が主を賛美することは、もっとも大切な使命の一つですから、賛美出来なくなることが無いように助けを願ったのは、当時の人たちの信仰でもありました。ただ、旧約時代は、まだイエス・キリストによる救いが無かった時代です。復活が無かったため、死んでしまったらもうオシマイだという理解しか無かったのです。でもイエス様が復活されたことで、死でさえも克服できないものではなくなったのです。私たちは死んだ後も、天国で永遠のいのちによって生きることができ、神様の前で賛美と礼拝をするのです。
でも、それは死んでからだけのことではありません。この復活の主を信じ、死も命も全てを治めておられる神様を信頼するとき、ヒゼキヤのように重病や死が迫っている状態でも、なお主を讃えることができるのです。苦しみの中で祈った祈りも詩篇には多く載せられていますが、その祈りもやがて信仰へと導かれ、最後は主を崇める賛美に変えられて行くのです。
今年も猛暑です。身体が弱ることもあるでしょう。でも、いついかなる時でも、どこにいても、主が共にいてくださいます。そのお方を見上げ、祈りと賛美を捧げるとき、自分の力では立ち上がることが出来なくても、主が支えてくださることを体験できるのです。
