み言葉のいづみ

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新しい私たち

2026-04-01
千代崎 備道  

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(第二コリント五章17節)

新年度となり、新入生、新社会人など、新しい歩みを始めた方も、そろそろ新しい生活に慣れてきたことでしょう。新しくなった喜びや元気な思いが、古くなって色あせて無くなっていくのではなく、さらに成長していっていただきたいと願っています。
さて、教会員の方々は、池の上教会あるいは他の教会で洗礼を受けて新しくクリスチャンとなった体験があることでしょう。この体験は古くなるのではなく、さらに新しくなると聖書は教えています。
洗礼とは何かということを説教で触れることがあります。その人がイエス・キリストを信じて救われたことを神と人の前で明らかにする意義もありますが、それだけなら違った形でも良いのかもしれません。聖書が洗礼(バプテスマ)を重んじているのは、その形そのものにも意味があるからです。池の上教会では滴礼というスタイルですが、元々は浸礼といって水の中に身体全体を沈めることをします。それは、水の中で一度「死に」、新しいいのちとなって立ち上がることで、キリストの復活の力による新しい人生が始まったことを表しているのです。それを会衆の前で明らかにするのが礼拝での洗礼式です。
クリスチャンとしての新しい人生は、イエス・キリストを救い主として信じた時から、すでに始まっています。私たちは新しいいのちに生きているのです。その新しさは、何年か経ったら古くなくなるようなものではありません。新しいいのちはこれからも成長し、豊かになっていく、永遠のいのちなのです。ただ、このいのちはキリストによるいのちです。キリストとつながっていないと栄養不足になって元気を失ってしまいます。教会に毎週通うこと、聖書を毎日読み、一日になんどでも祈ること。そのようにして神様に心を向け、恵みを注いでいただくとき、キリストが私たちのうちにおられることが分かるのです。
もし信仰が元気を失っていると感じたら、もう一度神様の前に進み出ましょう。離れて迷子になっているような気がしたら、神様に心を向け、キリストの名前によって祈りましょう。弱くなって消えかけていた新しいいのちの火が再び燃え上がるとき、周囲の人も気がつくように変えられます。溢れ出て輝くようなキリストによる新しいいのちの人生を歩みましょう。それが証しの生き方です。



心が燃えるとき

2026-03-01
千代崎 備道

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカの福音書二十四章32節)

イースターの日の午後、エルサレムからエマオ村へと向かっていた二人の弟子がいました。一人の名はクレオパ、もう一人の名前は聖書に記されていません。敬愛する先生が悲惨な死に方をしたことを嘆きながら歩いていた二人に復活の主が話しかけられましたが、二人は彼が誰であるか気がつきません。その人から、聖書全体から救い主の受難と栄光に関する預言を教えられ、二人は不思議な思いが湧き上がり、宿に入り、食卓について、その人がパンを割く様子を見て、それがイエス様だと気がつきました。その時、イエス様の姿は見えなくなりましたが、復活の主と出会ったことが分かった二人は、心が熱くなり、エルサレムに走って戻り、弟子たちにその知らせを伝えたのです。
復活を信じる前から、この二人の心は燃え始めていました。私たちの信仰が完全なものでなくても、御言葉によって心が熱くなることがあります。単なる古典文学ではなく、聖書の言葉が自分の心に語られている事を知り始めたとき、自分の心の中に光が照らされ、時には罪が示され、時には希望が与えられ、神の愛を知らされたときがそうです。そして、その思いが、全てキリストにつながっていることに目が開かれたとき、私たちはこのお方を信じ始めているのです。イエス様こそ、私を救ってくださるお方だ。その思いは、最初は小さな炎かもしれません。時には消えそうになるかもしれない。でも、一度ついた火は、消えかけても、また燃え始めます。私たちが伝えていきたいのは、この小さな炎です。
クリスマスにキャンドルサービスを行います。今は火事や火傷にならないように電気の光を使いますが、昔は蝋燭を使いました。小さな炎でも、次の人に渡すと、その人の蝋燭にも火がつきます。小さな光ですが、集まると会堂全体をほの明るくします。私たちの証しも巨大な炎や爆発的な火でなくても良いのです。私が体験した、小さな心の炎。心が熱くなったり、暖かくなった。それがイエス様と結びつくとき、証しとなります。
神様から与えられた愛や喜び、感謝や平安。小さな火を証ししましょう。暗闇の中にいる人に手渡されるなら、それが希望の光になります。悲しむ人に慰めを、孤独な人に優しさを、どんな人にも必要なキリストによる救いを伝えていきましょう。



恵みを味わって証ししよう

2026-02-01
千代崎 備道  

あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。(新改訳第三版)
あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知ったはずである。(口語訳)
(ペテロ第一の手紙二章3節)

宣教は教会の第一の使命です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ二八19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ十六15)、「あなたがたは、これらのこと(十字架と復活)の証人です」(ルカ二四48)とイエス様が命令されたからです。命令なさったのは、それが困難だからです。一世紀の教会はキリストを証ししたために迫害されました。今でも、キリストを伝えようとしても、なかなか受け入れてもらえません。特に家族や近い人ほど難しいかもしれません。でも、私たちの主が命じられたことに、私たちは従おうとするのです。
確かに伝道や証しは簡単ではないでしょう。でも、同時に簡単なことでもあります。それは、私たちが恵みを知ったからです。神の慈しみ、つまり神の恵みによって私たちは救われました。また何度も困難を乗り越えることが出来たのも神様の憐れみがあったからです。誰もが一度ならず、恵みを体験してきました。その恵みを、私たちは証しするのです。
ペテロは「味わう」という表現を使って、恵みを食べ物に例えています。食べてみて美味しいと感じたなら、他の人にも勧めることができます。難しい言葉で説明できなくても、グルメ評論家でない素人でも、美味しかったと伝えることができ、また、良いお店なら人を誘うことが出来ます。
しかし、美味しさを味わっていなければ、伝えるのは困難です。味わうにはどうしたら良いでしょう。スルメのように何度も噛みしめないと味わえないものもあります。最初は空腹のためか、味わわずに呑み込んでも、何度かすると落ち着いて味を確かめることもできます。誰かが説明してくれたのを聞いて素材や作り方が分かってくると、また違った味わいを楽しむことができるかもしれません。
私たちは受けた恵みを、何度も噛みしめるように思い起こし、また聖書を通してその深い意味を知って驚き、そして何度も何度も恵みを体験し、それを数え上げるとき、これまで以上に恵みの素晴らしさに感動するのです。その時、証しは喜びとなり、自然と心の中から生まれてきます。



神の恵みを伝えよう

2026-01-01
千代崎 備道  

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」
そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。 
 (ルカ8章39節)

悪霊に憑りつかれ人生が破綻していた男性は、周囲からも恐れられ疎外されていました。その彼がイエス様と出会い、人生が変えられたのです。私たちも、悪霊ではありませんが、罪のために心が乱れ、神との関係も人との関係も損なわれていたところから、イエス様によって救っていただき、人生が変えられたのです。神様が与えてくださった救いの恵みがどれほど大きなことだったかを知れば知るほど、私たちは神様に感謝と賛美を捧げるのです。でも、それだけで良いのでしょうか。
イエス様はこの男性に、まず家族に話して聞かせるように命じました。でも彼は家族だけではなく、町中の人たちにイエス様がしてくださった恵みを証ししたのです。聞いた人たちはイエス様の力を恐れて追い出しましたが、彼の証しを聞いた人々の中から、やがてイエス様を信じる人々が起きていったことでしょう。神の恵みを、受けた自分だけでとどめるのではなく、それを証しするとき、恵みへの感謝は何倍にも広がっていきます。それを聞いた人たちも、神様をあがめ、また悩んでいる人は他の人の証しを聞いて励まされ、信仰から信仰へと前進していくのです。
今年の教会のテーマは証しと伝道です。難しいことを話すのではなく、まず自分が受けた恵み、自分の体験を伝えるのです。それを聞いた人がすぐに同じ信仰を持つようになるかは分かりません。その人それぞれに「神の時」があり、それまでは忍耐をもって祈りつつ待ち続けなければなりません。でも伝えなければ、いつになっても変わりません。家族や友人、一番知って欲しい人、一緒に天国に行きたい人、神様が引き合わせてくださった人。誰かに神様の恵みを伝えましょう。
一人だけでは難しいと感じるなら、兄弟姉妹にも手伝ってもらいます。信仰の友と一緒に祈り、また誘ってきてくれた人を紹介して、新しいつながりを持ってもらいます。また最初から未信者に伝えるよりも、まず教会の仲間に語るなら理解してもらいやすいでしょう。礼拝や集会後の交わりのときに少しでも良いので、受けた恵みを話してみましょう。(いづみに寄稿するのも、伝えることを整理できる機会です。)

賛美は永遠に

2025-12-01
千代崎 備道  

とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。
(詩篇七十二篇19節)
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
(ヨハネの黙示録五章13節)

詩篇は五巻に分けられ、各巻の最期には頌栄と呼ばれる賛美の言葉が書かれています。その一つ、七十二篇の最後には、神の栄光が全地に満ちわたるようにと賛美の祈りがなされています。その栄光は「とこしえに」と言われている通り、聖書の一番最後の書であるヨハネの黙示録には天上での賛美が記されています。神様が使徒ヨハネに幻の中で見せてくださった世の終わりの情景は恐ろしくもありますが、最後には天から都が降りてくる。これは天国を描いています。天では世界中のあらゆる存在が主を褒め称えているのです。「御座にすわる方」とは父なる神様のことであり、「小羊」とは十字架で贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストのことです。
私たちも天国に行ったなら、そこで神様を心から賛美し、救い主の御名を褒め称えるのです。死も涙も無いと書かれている天国は永遠の世界です。その永遠とは単に長い時間が続くということではなく、いつまでも主と共におらせていただける世界です。退屈することなどありません。喜びと感謝に満ちあふれ、主を賛美しないではいられない。賛美は永遠に続くのです。
今、私たちはこの世にあって限られた時間を生きており、悩みや苦しみが多く、悲しみも無くなりません。そんな私たちが、イエス様の御救いに与り、兄弟姉妹と共に主を賛美するとき、この世にあっても天国の生活に触れることができるのです。永遠の時間と比べるなら、苦難は一時です。永遠のいのちの本番は天国に行ってからです。今は、その準備の時ですが、神様は私たちに賛美という手段を与えてくださり、永遠の神様に心を向け、天国の希望を持てるようにしてくださるのです。ですから、今年だけでなく、これからも、一生の間、主を賛美し続けましょう。そのとき、私たちも神様を仰ぎ見ながら生きる、永遠のいのちを味わう者とされるからです。

旧約時代の信仰者の賛美に併せて、そして新約時代の教会の信仰にならい、天国に向かいつつ賛美をささげてまいりましょう。「しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。」
(詩篇百十五篇18節)

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
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FAX.0422-33-0061
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