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        <title>恵みを味わって証ししよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。（新改訳第三版）&lt;br&gt;あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知ったはずである。（口語訳）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;（ペテロ第一の手紙二章３節）&lt;br&gt;&lt;br&gt;宣教は教会の第一の使命です。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」（マタイ二八19）、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」（マルコ十六15）、「あなたがたは、これらのこと（十字架と復活）の証人です」（ルカ二四48）とイエス様が命令されたからです。命令なさったのは、それが困難だからです。一世紀の教会はキリストを証ししたために迫害されました。今でも、キリストを伝えようとしても、なかなか受け入れてもらえません。特に家族や近い人ほど難しいかもしれません。でも、私たちの主が命じられたことに、私たちは従おうとするのです。&lt;br&gt;確かに伝道や証しは簡単ではないでしょう。でも、同時に簡単なことでもあります。それは、私たちが恵みを知ったからです。神の慈しみ、つまり神の恵みによって私たちは救われました。また何度も困難を乗り越えることが出来たのも神様の憐れみがあったからです。誰もが一度ならず、恵みを体験してきました。その恵みを、私たちは証しするのです。&lt;br&gt;ペテロは「味わう」という表現を使って、恵みを食べ物に例えています。食べてみて美味しいと感じたなら、他の人にも勧めることができます。難しい言葉で説明できなくても、グルメ評論家でない素人でも、美味しかったと伝えることができ、また、良いお店なら人を誘うことが出来ます。&lt;br&gt;しかし、美味しさを味わっていなければ、伝えるのは困難です。味わうにはどうしたら良いでしょう。スルメのように何度も噛みしめないと味わえないものもあります。最初は空腹のためか、味わわずに呑み込んでも、何度かすると落ち着いて味を確かめることもできます。誰かが説明してくれたのを聞いて素材や作り方が分かってくると、また違った味わいを楽しむことができるかもしれません。&lt;br&gt;私たちは受けた恵みを、何度も噛みしめるように思い起こし、また聖書を通してその深い意味を知って驚き、そして何度も何度も恵みを体験し、それを数え上げるとき、これまで以上に恵みの素晴らしさに感動するのです。その時、証しは喜びとなり、自然と心の中から生まれてきます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <title>神の恵みを伝えよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」&lt;br&gt;そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;　（ルカ８章39節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;悪霊に憑りつかれ人生が破綻していた男性は、周囲からも恐れられ疎外されていました。その彼がイエス様と出会い、人生が変えられたのです。私たちも、悪霊ではありませんが、罪のために心が乱れ、神との関係も人との関係も損なわれていたところから、イエス様によって救っていただき、人生が変えられたのです。神様が与えてくださった救いの恵みがどれほど大きなことだったかを知れば知るほど、私たちは神様に感謝と賛美を捧げるのです。でも、それだけで良いのでしょうか。&lt;br&gt;イエス様はこの男性に、まず家族に話して聞かせるように命じました。でも彼は家族だけではなく、町中の人たちにイエス様がしてくださった恵みを証ししたのです。聞いた人たちはイエス様の力を恐れて追い出しましたが、彼の証しを聞いた人々の中から、やがてイエス様を信じる人々が起きていったことでしょう。神の恵みを、受けた自分だけでとどめるのではなく、それを証しするとき、恵みへの感謝は何倍にも広がっていきます。それを聞いた人たちも、神様をあがめ、また悩んでいる人は他の人の証しを聞いて励まされ、信仰から信仰へと前進していくのです。&lt;br&gt;今年の教会のテーマは証しと伝道です。難しいことを話すのではなく、まず自分が受けた恵み、自分の体験を伝えるのです。それを聞いた人がすぐに同じ信仰を持つようになるかは分かりません。その人それぞれに「神の時」があり、それまでは忍耐をもって祈りつつ待ち続けなければなりません。でも伝えなければ、いつになっても変わりません。家族や友人、一番知って欲しい人、一緒に天国に行きたい人、神様が引き合わせてくださった人。誰かに神様の恵みを伝えましょう。&lt;br&gt;一人だけでは難しいと感じるなら、兄弟姉妹にも手伝ってもらいます。信仰の友と一緒に祈り、また誘ってきてくれた人を紹介して、新しいつながりを持ってもらいます。また最初から未信者に伝えるよりも、まず教会の仲間に語るなら理解してもらいやすいでしょう。礼拝や集会後の交わりのときに少しでも良いので、受けた恵みを話してみましょう。（いづみに寄稿するのも、伝えることを整理できる機会です。）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <title>賛美は永遠に</title>
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        <name>1</name>
        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇七十二篇19節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ヨハネの黙示録五章13節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;詩篇は五巻に分けられ、各巻の最期には頌栄と呼ばれる賛美の言葉が書かれています。その一つ、七十二篇の最後には、神の栄光が全地に満ちわたるようにと賛美の祈りがなされています。その栄光は「とこしえに」と言われている通り、聖書の一番最後の書であるヨハネの黙示録には天上での賛美が記されています。神様が使徒ヨハネに幻の中で見せてくださった世の終わりの情景は恐ろしくもありますが、最後には天から都が降りてくる。これは天国を描いています。天では世界中のあらゆる存在が主を褒め称えているのです。「御座にすわる方」とは父なる神様のことであり、「小羊」とは十字架で贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストのことです。&lt;br&gt;私たちも天国に行ったなら、そこで神様を心から賛美し、救い主の御名を褒め称えるのです。死も涙も無いと書かれている天国は永遠の世界です。その永遠とは単に長い時間が続くということではなく、いつまでも主と共におらせていただける世界です。退屈することなどありません。喜びと感謝に満ちあふれ、主を賛美しないではいられない。賛美は永遠に続くのです。&lt;br&gt;今、私たちはこの世にあって限られた時間を生きており、悩みや苦しみが多く、悲しみも無くなりません。そんな私たちが、イエス様の御救いに与り、兄弟姉妹と共に主を賛美するとき、この世にあっても天国の生活に触れることができるのです。永遠の時間と比べるなら、苦難は一時です。永遠のいのちの本番は天国に行ってからです。今は、その準備の時ですが、神様は私たちに賛美という手段を与えてくださり、永遠の神様に心を向け、天国の希望を持てるようにしてくださるのです。ですから、今年だけでなく、これからも、一生の間、主を賛美し続けましょう。そのとき、私たちも神様を仰ぎ見ながら生きる、永遠のいのちを味わう者とされるからです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;旧約時代の信仰者の賛美に併せて、そして新約時代の教会の信仰にならい、天国に向かいつつ賛美をささげてまいりましょう。「しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。」&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇百十五篇18節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <title>苦しみの日に賛美が生まれる</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;br&gt;&lt;br&gt;彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。&lt;br&gt;しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。&lt;br&gt;それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇五十九篇15～16節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;詩篇には旧約聖書時代の信仰者たちの祈りと賛美が載せられています。祈りとは苦しみの時に神様に祈ったもの、賛美は神様が救ってくださったときに歌ったものです。時には、一つの詩の中で苦しみの祈りが賛美に変えられることがあります。私は苦しい、「しかし」私は主を賛美します、と祈りが賛美に変えられるときは「しかし」という切り替えがあります。&lt;br&gt;右の詩篇五十九篇も苦しみを示す言葉が続きます。自分を苦しめる者たちを野犬になぞらえて語っています。そのような悪者たちに囲まれているときに、この詩人は神様が自分を助けてくださるお方であり、ちょうど戦争の時に砦に逃げ込んで助かるように、神様に祈って平安を得たのです。神様が自分の心にとって逃げ場、あるいは隠れ家となってくださることを詩人たちは体験します。この信仰を持つようになったとき、まだ苦難は続き、暗闇の中におかれていても、必ず夜明けが来て主の救いが明らかになるときが来るという希望を持つようになるのです。この信仰を詩人たちは賛美として神様に歌って信仰を告白し、また後世の信仰者たちのためにこのような賛美が集められ書き残されたのです。&lt;br&gt;時代は数千年の違いがあり、文化や社会も異なります。でも神様は変わることの無いお方であり、全世界の王ですから、今、私たちが苦難のただ中に置かれていても、この神様を信じるなら、私たちの心にも救いが与えられ、賛美が生まれて来るのです。&lt;br&gt;まだ、自分は苦難のただ中で、賛美することなど出来ない、という方は、教会で一緒に賛美しましょう。讃美歌を歌うときに、神様が心の中に語り掛けてくださり、心が内側から変えられるからです。讃美歌の背後にある御言葉が聖霊によって語られて、力を与えてくださるのです。詩篇だけでなく聖書全体で使われている「ハレルヤ」とは、「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。この呼びかけに応答して主を賛美する者になりましょう。そのとき、私も主の力を体験し、主の恵みを味わい、喜びつつ感謝と賛美を献げるようにしていただけるのです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <title>生も死も主が崇められる</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;br&gt;&lt;br&gt;それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ピリピ書一章20節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;使徒パウロの切なる願いは、どんな時にも福音を大胆に語り伝えることですが、その目的はキリストが崇められることでした。彼にとって生きることも死ぬことも、すべてが主への賛美なのです。&lt;br&gt;旧約聖書の時代は復活のことがよく分からなかったため、信仰者たちの願いは、生きて主を賛美することでした。キリストの十字架と復活により新しい時代となり、死んだ後も天国で主を賛美するようになることが新約聖書全体で教えられています。そのような希望とは反対に、一世紀の教会は迫害を受け、多くのクリスチャンが殉教しました。その痛みと苦しみの中で主イエスを崇めたのが『使徒の働き』七章のステパノの殉教です。パウロも、何回も命の危険がありましたが、主の御名が崇められることを願い、宣教を続けたのでした。&lt;br&gt;今、私たちは当時のような迫害はありません。（ただし、国によってはそれと同じくらいの迫害を受けているクリスチャンもいます。）それでも死は避けられません。いつかは地上の人生が終わる時が来ます。命の限り主を賛美するとは、その命が終わる時まで、そして永遠の命によって天国で生きる時にも、主を賛美し、主の御名が崇められることを願うことなのです。&lt;br&gt;ここ数年、何人もの兄弟姉妹が天国に召されました。礼拝堂の空席を見ると、かつてそこに座っていた方たちのことを思い起こします。それらの兄弟姉妹は、お元気なときには教会で主に仕えて奉仕をなさり、礼拝堂で賛美を捧げておられました。教会に通うことができなくなっても主を崇め続け、そして息を引き取り、ご葬儀のときにも、その方を思い起こして賛美が主に捧げられたのです。また教会に来たことがなかったご遺族までもがキリスト教式の葬儀に参列され、聖書の御言葉を聞き、亡くなった方の証しを知ったのです。大胆に救いが語られ、主の栄光が表されたのでした。&lt;br&gt;パウロが語ったことは決して私たちと無関係なことではありません。世の終わりには迫害の時代が来ると預言されています。また一人一人の人生は確実に終わる時が来ます。でも、どんな場合にも、そして私たちの生きるときも死ぬときも、主の御名が崇められることを祈り願いましょう。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-09-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>賛美は私たちのために</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;br&gt;&lt;br&gt;神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（創世記一章27節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;人間は自分が中心であり、世界も自分のためにあるかのように考えてしまうことがあります。聖書は、この世界は神様が造られたものであって、人間も神様のお考えの中で造られた存在だと教えています。その私たちが存在する目的は、造ってくださったお方の素晴らしさを表すことです。美術品が芸術家の才能や努力を示しているように、大自然は創造主なる神様の偉大さを映し出している神の作品です。その作品の中でも最高のもの、いいえ、神様ご自身を反映する「神のかたち」として造られたのが人間です。ですから、私たちの全存在をかけて神様の素晴らしさを示すとき、私たちは造られた目的を果たすことが出来るのです。&lt;br&gt;しかし、私たちは神様の素晴らしさを表すどころか、造ってくださったお方にとって恥となるような生き方をしてしまいます。それでも神様は御子を遣わし、私たちを神に背く罪から救ってくださいました。キリストによってこそ、神の素晴らしさは余すところなく示されたのです。では、私たちは神の素晴らしさを表すことが何一つできないのでしょうか。私たちがすることも、全て神の助けの中でなされ、決して私の力ではないからです。&lt;br&gt;そのような私たちに聖書は、「主を褒め称えよ、ハレルヤ」と教えています。生き方や行い、心や思いにおいては欠けだらけの存在です。救っていただいた「恩」ばかりが増えていきます。でも私たちが賛美を捧げるとき、僅かであっても神様の偉大さをこの世に示すことができるのです。もし神様が賛美という恵みを与えておられなかったなら、私たちは何一つ神様の偉大さを示すことはできない小さく弱い存在なのです。&lt;br&gt;賛美と祈りを捧げるとき、私たちの心は主に向けられます。そして御言葉に耳を傾け、神様を信頼するとき、もっと神様を偉大さに触れて、主を褒め称えたくなるのです。これこそ、神に造られた人間の目的です。それは地上だけでは終わりません。天国に行っても、私たちは主を礼拝し、賛美を捧げ続けることが「ヨハネの黙示録」に描かれています。こんな祝福を神様は備えてくださり、私たちに賛美という恵みの手段を与えてくださったのです。ですから、もっと主を褒め称え、心から主を崇めましょう。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-08-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>共に主を賛美しよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。&lt;br&gt;いと高き所で主をほめたたえよ。&lt;br&gt;主をほめたたえよ。すべての御使いよ。&lt;br&gt;主をほめたたえよ。主の万軍よ。&lt;br&gt;主をほめたたえよ。日よ。月よ。&lt;br&gt;主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇百四十八篇１～３節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;　ハレルヤという言葉は、讃美歌の中でも、またクリスチャンの語る言葉の中でも用いられることがありますが、普段はその意味を意識していないかもしれません。このヘブル語は「主を賛美しよう」という呼びかけの言葉です。文法的には命令形で、複数の相手に対して語られています。「あなたたちは主を賛美しなさい」ということです。詩篇の中には多くの賛美がありますが、「私」個人が賛美しているものもありますが、それも周りにいる人々に聞かせて、一緒に賛美するようになることを願っています。「私たち」と語られている詩篇も、ちょうど礼拝で司会者が会衆に呼びかけるように、一緒に賛美をしようと招いているのです。一人から始まった賛美も、最後は民全体に、さらに全世界の存在が神を褒め称えるように、と広がっていくのです。天使たちも、天体も、全てが神様の栄光を讃えるのです。&lt;br&gt;　歌を歌うのも、ソロで歌うのも美しいですが、合唱で複数のパートに分かれ、男声女声、様々な個性ある声が一つに溶け合うのも素晴らしいものです。絵画も、単色の絵も芸術的ですが、多くの色が巧みに用いられる絵もあります。教会は様々な人が集まっています。一人一人の持ち味が生かされつつ、でも全体が力を合わせてキリストのためにと仕えるとき、それを神様が用いてくださり、素晴らしいハーモニーとしてくださるのです。&lt;br&gt;　教会で賛美をするとき、奏楽のリードに沿いながら、他の人の声を聞いて合わせるのは、最初は難しいかもしれませんが、慣れてくると楽しくなってきます。すぐには出来なくても訓練のようにして一緒に賛美を捧げる。その時、教会はキリストにあって一つとなり始めます。それは礼拝賛美や聖歌隊だけのことではなく、教会のあらゆることが「共に」主が崇められるものなのです。&lt;br&gt;　「ハレルヤ」と共に主を賛美する教会となりましょう。讃美歌を歌うときも、礼拝も奉仕も交わりも、全てが主の栄光が表される共同作業なのです。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2025-07-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>どこにいてもどんな時も賛美しよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。&lt;br&gt;生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（イザヤ書三十八章18～19節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;夏は教会だけでなく、様々な場所で普段とは違う日時で集会が行われます。聖会やキャンプもそうです。また休暇で出かけた先で、大自然を観て主を賛美する機会もあるでしょう。神様は天地万物を造られたお方ですから、人間の作った場所に制限されることはなく、私たちも、どこにいても、またどんな時でも、主を賛美することができるのです。それは、困難な場所、悲しみの時でもそうなのです。&lt;br&gt;右の御言葉はヒゼキヤ王が作った祈りの詩です。彼は重病のため、預言者から死が近いことを宣告されます。ヒゼキヤが涙を流して祈ったとき、神様は彼に十五年間、寿命を延ばすと約束してくださったのです。その時のことを覚えつつ、彼はこの詩を記しました。&lt;br&gt;同じような詩が詩篇の中にもいくつか見出せます。それが共通して述べているのは、簡単に言えば、「死んでしまったら神様を賛美出来なくなる。死の世界では賛美ができない。だからまだ生かして欲しい」という訴えです。神の民が主を賛美することは、もっとも大切な使命の一つですから、賛美出来なくなることが無いように助けを願ったのは、当時の人たちの信仰でもありました。ただ、旧約時代は、まだイエス・キリストによる救いが無かった時代です。復活が無かったため、死んでしまったらもうオシマイだという理解しか無かったのです。でもイエス様が復活されたことで、死でさえも克服できないものではなくなったのです。私たちは死んだ後も、天国で永遠のいのちによって生きることができ、神様の前で賛美と礼拝をするのです。&lt;br&gt;でも、それは死んでからだけのことではありません。この復活の主を信じ、死も命も全てを治めておられる神様を信頼するとき、ヒゼキヤのように重病や死が迫っている状態でも、なお主を讃えることができるのです。苦しみの中で祈った祈りも詩篇には多く載せられていますが、その祈りもやがて信仰へと導かれ、最後は主を崇める賛美に変えられて行くのです。&lt;br&gt;今年も猛暑です。身体が弱ることもあるでしょう。でも、いついかなる時でも、どこにいても、主が共にいてくださいます。そのお方を見上げ、祈りと賛美を捧げるとき、自分の力では立ち上がることが出来なくても、主が支えてくださることを体験できるのです。&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-06-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>賛美できない時にも</title>
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        <description>&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇百三十七篇３～４節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされ、人々は捕虜としてバビロンに連れて行かれ、迫害された時代の詩篇です。シオンとはエルサレムの別名で、バビロンの人々が余興として、彼らが倒した国の都で歌われていた歌を歌うように求めるのですが、それはイスラエル人にとって主への賛美の歌です。歌わないと酷い目に遭わされるのですが、そんな笑いものにされるために賛美歌を歌いたくはない。彼らは楽器を隠したり、忘れたと言って拒みたい。でも、本当は一時たりともエルサレムのことを忘れたりしない。心の中では主への賛美を歌いたい。でも、戦争に負けて捕虜にされたときに、連れて行くのに足手まといになる老人や幼子を敵に殺された。その恨みの言葉が口からでてきてしまう。そんな苦しみを歌ったこの詩篇は、聖書の中でも異色の存在です。&lt;br&gt;私たちも賛美が出来ないときがあります。４月から６月、何人もの方を天に送り、悲しみに打ちひしがれたこともありました。個人的には病気で伏したこともあり、その間は教会員の方々が牧師の不在をカバーしてくださり、大変に忙しい三ヶ月でした。こんな大変なときに賛美なんて歌えるのでしょうか。もし賛美が私たちにとって楽しみを求めることであるのなら、歌えないのは当然です。&lt;br&gt;この詩篇も讃美歌というよりも苦難の中で嘆いている祈りに分類されます。苦しいときには祈るのも精一杯で、口からは苦い言葉が出てくることもあるでしょう。でも神さまは私たちのそのような辛さや悲しさを受け入れてくださるお方だからこそ、この詩篇が聖書の中に残されているのです。もっとも暗い詩篇と言われますが、その祈りが突き抜けていったとき、詩篇の最後は「ハレルヤ」という天国の賛美に向かいます。讃美歌を歌えないときは、その気持ちをそのまま祈るなら、その心にも神さまは語りかけ、導いてくださるのです。&lt;br&gt;新聖歌などの讃美歌集には、明るい歌も静かな歌もあり、悲しみの中での平安を歌った祈りの賛美もあります。きっと、どれかの讃美歌が、その時の私たちの心に響いてくるでしょう。教会でも沢山の讃美の歌に触れていただき、人生の様々な時に、その心を慰め励まし、あるいは感謝を献げる賛美に出会ってください。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-05-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>賛美の上におられる主を信じる</title>
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        <description>&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。&lt;br&gt;主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（出エジプト記十五章１～２節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;エジプトから救い出され、紅海を歩いて渡り、そして追い迫るエジプト軍が海で滅んだのを見たイスラエルは、モーセが作ったこの賛美を共に歌いました。この十五章の詩は「海の歌」と呼ばれ、旧約聖書最古の讃美歌と言われます。それまでも重要なことを詩の形で述べることはありましたが、神を褒め称えた最初の歌であり、後の時代に作られた詩篇の原型にもなった、大切な賛美です。&lt;br&gt;この賛美が作られたのは、エジプト軍からの救いという出来事を心に記憶するためです。ただ感動しただけなら、時が来ると忘れてしまいます。出来事を引き起こされた神さまを崇め、神がどのようなお方かが心に刻みつけられるとき、次の困難が来たときにも、この神さまに祈って助けを求めることができます。&lt;br&gt;残念ながら、イスラエルの民は、この救いの出来事だけに目が向いてしまっていたようで、この直ぐ後で神さまに不平を鳴らし、神さまを試みようとしたことが記されています。彼らにとって、賛美が信仰に結びつかず、ただの感動体験から生まれた歌に過ぎなかったからです。創世記２章のアダムも「骨の骨、肉の肉」と感動の歌を歌いましたが、次の章で「この女が悪い」と言わんばかりに妻を批判しました。ただ感動をしただけで、造り主なる神さまを褒め称える信仰に至らなかったのかもしれません。&lt;br&gt;時には強い感情から賛美が出ることもあります。感謝の賛美、喜びの賛美、また悲しみの中で祈る賛美。様々な賛美の歌が新聖歌などの讃美歌集にも載っています。その賛美の歌詞に目を留めましょう。その詩が教えている、神の素晴らしさ、キリストの救いの恵み、また昔の信仰者たちの神への信頼。賛美の背後には神さまの栄光が隠されています。賛美自体も心を喜ばせ、あるいは平安を与えてくれますが、神ご自身に心が向けられるとき、それが私たちの信仰となります。&lt;br&gt;良いことがあったときは、神さまに感謝をし、賛美を捧げましょう。辛いときは祈りを捧げ、主からの平安をいただいて主を崇めましょう。そして賛美を受けてくださる主を信頼しましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-04-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>十字架と復活の主を賛美しよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。&lt;br&gt;それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ピリピ人への手紙二章6～11節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;この箇所は、一世紀の教会で賛美として用いられていたそうです。メロディは分かりませんが、クリスチャンたちが復活の主を心から賛美していたことを思わされます。前半は、キリストの謙遜と言われ、神の御子の身分を離れて人間の姿となり、父なる神の御心に従って十字架で死なれたことを述べています。後半は、その従順の故に父なる神は御子を死の底から引き上げ、世界中のものがキリストと父なる神を褒め称えることが予告されています。私たちもこの賛美に加わり、「イエスは主なり」と告白し、神を賛美しているのです。&lt;br&gt;もし、イエス様が単なる教師であり、素晴らしい教えを述べられただけならば、偉大な人物の一人としての栄誉は受けても、天地の全てのものから崇められるには至らなかったでしょうし、「地の下になるもののすべて」までが主イエスに膝をかがめて礼拝することはなかったのです。十字架と復活のキリストこそが賛美を受けるに相応しいお方なのです。&lt;br&gt;私たちの賛美も、物事が上手くいったから感謝と賛美を捧げるだけであるなら、苦難に陥ったときに賛美できなくなります。でも十字架の死からよみがえられたお方を信じるなら、どのようなどん底にいても、そこも主が共にいてくださる場所となり、主と共に復活の命に生きるようになるのです。私たちは決して行き詰まりません。もうダメだ、と人間には思えるときでも、キリストはそれを乗り越えられたお方です。罪と死に閉じ込められていた私たちを救うために主は十字架につかれ、よみがえってくださったのです。人生の最後には死が訪れますが、私たちは死に打ち勝ちたもうイエス様を信頼し、天国であらゆる者と共に神を褒め称えるときを待つのです。&lt;br&gt;ユダヤ人は土曜日を安息日として守りましたが、クリスチャンは復活を記念して日曜に礼拝するようになりました。イースターだけでなく、毎週、復活の主を崇め、心から賛美と礼拝を捧げましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-03-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>十字架の主を賛美しよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ヨハネの黙示録五章12節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;新聖歌の各ページの下には、その賛美のテーマが書かれています。「受難・レント」というテーマには十字架に関わる讃美歌が多く含まれていますし、それ以外のテーマでも十字架をモチーフとした讃美歌がたくさんあります。それくらい、賛美と十字架とは切り離せないのです。聖書の最後にある黙示録には天国の情景が描かれていて、世界中の民が神さまを礼拝し、賛美を捧げています。そこに「ほふられた子羊」が褒め称えられています。この子羊とはイエス・キリストのことです。イエス様は、神の御子であるから、当然、賛美を受けるに相応しいお方ですし、福音書に記されている、その教えと行いは、誰よりも素晴らしいお方だということができます。しかし、どれほど偉大な人物であったとして、人を罪から救うことはできません。人間的には立派で品行方正な人物でも、神さまの目から見るなら罪人ですから、自分の死によって他の人の罪の身代わりとなることはできないのです。救い主の働きは十字架と復活がなければ色あせてしまいます。&lt;br&gt;十字架の前夜、ゲツセマネの園で祈られたイエス様は「できるなら、この杯を取り除いて欲しい」と、十字架がどれほどの苦しみであるかを父なる神さまに訴えつつ、「しかし、あなたの御心通りにしてください」と十字架の道に従いました。偽りの証言によって有罪とされ、悪いことをしていないのに罰として鞭打たれ、裸にされて十字架に釘づけられた。そして父なる神さまから見放されるという苦しみを最後まで耐え忍んで、私たちが受けるべき罪の身代わり（贖い）となってくださった。こんなことは、他の誰にも出来ない、イエス様だけの働きです。この十字架によって救われた私たちが、十字架の故に主イエスを褒め称えるのは当然のことです。&lt;br&gt;世の中では成功した人を讃えます。力ある人、見栄えが良い人、権威や富を持っている人。でも、弟子たちに裏切られ、民衆から拒絶され、裸に剥かれ、血を流し、犯罪人の一人として処刑された人を褒め称えるのは、このお方によって救われた私たちだけができることです。十字架がどれほど有り難い恵みを私たちにもたらしたかを証しし、十字架の本当の価値を世に示す。それが私たちの賛美です。これからも十字架の主を心から、命の続く限り、そして天国に行っても、賛美し続けてまいりましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <title>信仰による賛美</title>
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        <description>&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎備道&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」&lt;br&gt;それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（歴代誌第二20章20～21節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;世にも奇妙な戦いでした。兵士よりも前に聖歌隊が進み、声高らかに「主に感謝せよ」と賛美の声を上げながら進んでいきます。敵にとっては格好の的です。しかし、賛美を受けておられる神が敵を打ち負かしてくださり、大勝利となったのでした。讃美歌を歌うことに特別な魔法があったのでしょうか。いいえ、この賛美は、神さまへの信頼の証しでした。その信頼、すなわち信仰に対して、神さまが応えてくださったのです。&lt;br&gt;ヨシャパテ王はダビデのように信仰深い人でした。ユダ王国にはびこっていた偶像礼拝をやめさせ、正しい信仰へと国民を導いた宗教改革者でした。失敗もありましたが、彼は再び信仰に立ち返り、国の危機には国民と一つになって神さまに祈ったのです。ですから、聖歌隊を先頭にするというのは人間の知恵や奇策ではなく、彼の信仰による決意でした。どんなことがあっても、神さまに信頼し、神さまを第一とする。この信仰が勝利につながったのです。&lt;br&gt;私たちにとっての賛美も、決して自分のためではありません。歌うのが好きだから、自分の気持ちが良くなるから。そうではなく、私よりも神さまが優先であり、神さまのお名前が崇められることを願っているのです。この信仰が生活に生かされるなら、どんな時にも神さまに従い、神さまを第一とする生き方。それは「神の国と神の義を第一に」と言われたイエス様の教えでもあるのです。&lt;br&gt;私たちの前には多くの問題や課題があります。何もしないわけではありません。ヨシャパテも全軍を整えて、押し寄せてくる侵略軍に備えました。でも、賛美を後回しにするのではなく、まず神さまを崇めたのです。私たちも主を賛美することから始めたいと思います。するべき努力は大切です。人間の出来る備えは行います。でも、それで十分ではなく、神さまを第一とする。この大切なことを忘れないために、賛美と祈りをもって神さまに心を向けるのです。そして生きて働いておられるお方を心から信頼しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2025-01-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>命の限り主を賛美しよう</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（詩篇一〇四篇33節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;私たちはなぜ賛美をするのでしょうか。讃美歌を歌うのが好きだから、という方もおられるでしょう。まだクリスチャンでない人でもキリスト教を愛してくださることを主も喜んでおられます。救われた恵みに感謝して神様を褒め称える方もおられます。旧約聖書の詩篇には多くの祈りと賛美が含まれていますが、苦難の中での祈りは最後に賛美の誓いと呼ばれる、祈りが聞かれて助けられたなら神様を褒め称えます、との誓いで祈りを閉じているものがあります。また賛美の中にも神様がしてくださった救いの御業を感謝して賛美を捧げている詩が少なくありません。&lt;br&gt;しかし、詩篇の賛美の中には、何か良いことをしてもらったからではなく、何も無くても、神様が神様だから賛美を捧げているものがあります。詩篇１０４篇もその一つで、神様が天地創造の主であるから、褒め称えているのです。&lt;br&gt;賛美とは偉大なお方を讃えることで、時には音楽を用い、時には絵画などの芸術を用い、その賞賛の思いを表すことです。私たちが讃美歌を歌うときに、その賛美が向けられている神様を心から崇めて、神様の御業を言い表して、心の底から讃えるなら、私たちも詩篇の賛美を生み出した旧約時代の信仰者たちと同じ、賛美者なのです。&lt;br&gt;今年の教会標語は「命の限り主を賛美しよう」です。生きている限り、何歳になっても幼子たちの賛美のように、心からの感謝と喜びをもって神様に賛美を捧げましょう。命の限りを尽くし、私たちの力を尽くし、思いを尽くして、主を崇めましょう。それは、救われたから、助けていただいたから、感謝による賛美でも良いでしょう。でも、何も無くても、神様が私たちの神となってくださった、天の父となってくださった、ですから無条件で主を賛美するのです。&lt;br&gt;最初は賛美が分からない人でも、救いの恵みに与り、感謝を献げ、敬愛の思いを込めて主を崇めるようになることを、神様は喜んでくださいますが、まだ何も恵みをいただいていないのに、心から主を賛美する者を、神様はさらに喜んでくださるのではないでしょうか。主を崇め、信頼するなら、それ以外のことは、全て「添えて」与えられます。今年は、まず主を讃えて進んで参りましょう。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-08-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>見えないが働いている主の手</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（エステル記六章１節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;エステル記というのは旧約聖書の中でも一番の変わり種で、一度も神様の名前が出て来ません。礼拝や信仰に関する言葉も一切使われていないという徹底した書物です。見かけ上は神様が登場しないままにストーリーが進んで行くのですが、見る人が見れば、確かに主が生きて働いておられることが分かります。&lt;br&gt;時はペルシャ帝国が世界を支配していた時代、多くのユダヤ人がペルシャの支配下で生きていました。迫害が強い時期もあって宗教的なことを書かないようにしたのかもしれません。あるとき、ユダヤ人を憎む政治家によってユダヤ人虐殺計画が進められていました。それを知ったユダヤ人たちは「断食した」と書かれていますが、これはダイエットのためではなく、祈っていたことは明らかです。その祈りに神様が応えてくださり、御手を伸ばしてくださったのです。&lt;br&gt;「その夜」とは特別な時でした。この日に事が起きなければ大変なことになるかもしれないのが次の日でした。王様が眠れなくなった。誰にでも起きることです。どうしても眠れない王様は記録の書、つまり王宮日誌を持ってこさせます。一番面白くない書なので、読ませているうちに聞いている自分が眠くなると考えた。でも人間の計算通りになりません。眠れないままに日誌が読み進められていくうちに、一つの記録が読み上げられた。それが、この後で殺害計画を変えて解決する切っ掛けとなる出来事でした。もし、王様が眠れていたら、もし王様がこの書を選ばなかったなら、きっとユダヤ人は皆殺しになっていたでしょう。こんな小さな出来事を起こして、歴史の流れを動かしたのは、見えない神様の御手でした。&lt;br&gt;今も神様は目に見えないお方です。その神様のなさることも、信仰の目で見なければ、日常のありふれた出来事だったかもしれません。でも神様は普通の出来事、当たり前の生活の中にも御手を伸ばしておられます。超自然的な奇蹟ではなくても、小さな事を通して私たちの信仰を導き、人生を変えて行ってくださるのです。神の御手は不思議な手です。&lt;br&gt;私たちは自分に都合の良い、そして信仰抜きでも分かりやすい結果を求めて祈るかもしれません。でも神様にはご計画があり、タイミングがあり、小さな切っ掛けをも用いてくださることがおできになります。この神様の御手を信頼しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-09-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>祈りに応える主の手</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（マルコの福音書一章41節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;イエス様が病人を癒されるとき、言葉だけで癒すこともおできになりますが、手を差しのばして触れてくださることもあります。一人の病人がイエス様に癒しを求めて進み出ました。彼の病は、当時は宗教的な汚れだと人々が考えていたため、彼に近づこうとする人は少なく、あえて触れようとする人はいませんでした。でもイエス様は彼を深く憐れみ、彼に触った上で、病気を癒し、人々が汚れだと言っていた彼の体をきよくしてくださったのです。&lt;br&gt;神様は手を伸ばされるとき、それは裁きのためであったり、救いのためであったりします。また、いつ手を伸ばしてくださるかは、神様が決めることです。ですから人間の思い通りにはなりません。でも、神様は人間に「祈れ」と命じておられます。私たちが祈る時に、神様は人間を憐れんでくださり、手を伸ばしてくださるからです。他には頼ることが出来ない。ただ神様だけを信頼して、助けを求めている姿に、神様は深い憐れみを覚えておられる。そのことを神の御子であるイエス様は私たちに示してくださったのです。&lt;br&gt;「神の手は短かろうか」、いいえ、決して短いはずがない。きっと手を伸ばして私たちを救ってくださる。私たちは、そう信じています。でも、それはただ待っているのではありません。神様の手が伸ばされるときを待ち望み、祈るのです。直ぐに応答があるかは分かりません。長く待つこともあるでしょう。そのことを通して、忍耐が養われ、神様への信頼が強められます。また、願った通りの結果ではなく、違った形で神様の御業がなされるかもしれません。その時は、神様の正しさが自分の考えよりも正しいことを学び、義なる神様を信頼するようになります。祈らないで結果だけを受け取るのでは信仰は成長しません。ですから神様は祈ることを命じておられるのです。&lt;br&gt;神の御手は、私の心の中にある「汚れ」、つまり罪にまで伸ばされます。隠しておきたかった心の奥にある罪、気がついていなかった心の汚れに気がつかされるのは嬉しくありません。でも、主の手が伸ばされ、そこに触れてくださるなら、その心をきよめてくださる。それが主の御心なのです。私たちが聖書を読み、また祈るとき、神様との生きた交わりを通して、神の御手が私たちにも伸ばされるのです。ですから、神様の助けが必要な存在であることを認め、主に祈り求めてまいりましょう。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-10-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の手が短いのではない</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（イザヤ書五十九章１、２節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;神の助けを願っても与えられないでいると、神様が自分を見放して手を伸ばしてくださらないのか、あるいは、この問題に関しては神様も手が短くて救うことが出来ないのか、と考えてしまいます。&lt;br&gt;神様の御手が伸ばされないのには理由があるでしょう。ある場合は、神の時が来ていないからです。今はその時ではなく、最善の時があるのを神様はご存じです。あるいは、私たちの求めることが御心とは違っていて最善の結果とはならないのなら、神様は違う形で祈りに応えてくださるでしょう。もしかしたら、私たちの成長に必要な訓練であるなら、直ぐには手を伸ばされないでしょう。でも、逃れの道も用意していてくださいます。&lt;br&gt;しかし、もっと深刻なケースがある。それは罪の問題です。イザヤが語ります、イスラエルの民が助けを求めても主の手が伸ばされないのは彼らの罪が原因だ、と。イスラエルは何度も神様に背いて罪を犯してきました。その結果、彼らが災いに遭う。するとそれまで真剣に神を求めて来なかったのに都合の良い助けだけを求めて祈る。それでも憐れみの神は何回も彼らを苦難から救ってくださったのですが、このようなことを繰り返しているなら、彼らは本当に罪に染まって、信仰も形だけの御利益信仰となってしまう。そこで、神様は彼らに裁きを下し、彼らが心から悔い改めて立ち返るのを待っている。ですから、彼らの咎の故に祈りに応えないのです。&lt;br&gt;では、本当に神様は罪の問題には手を伸ばすことが出来ないのでしょうか。いいや、「主の手は短かかろうか」。神様は右の手、すなわち最も力強い「手」を伸ばしてくださった。それが御子を遣わしたことです。十字架により人間を罪から救ってくださったのです。&lt;br&gt;今、私たちのためには、主の手は十分に伸ばされています。すでに十字架の贖いは完成しました。聖霊が私たちの心に使わされています。教会が救いの場として与えられました。ただ、私たちが自分から心を開かないのなら、神様は無理矢理に私たちを変えようとはなさいません。神様との間を仕切っている罪があるなら、私たちの側から罪を告白し、主からの救いを祈りましょう。そのとき、主の手は私の心の底にまで伸ばされ、罪を赦し、汚れをきよめ、私たちを造り変えてくださるのです。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-11-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の手を妨げてはならない</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（マタイの福音書十九章13節・口語訳）&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;br&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;池の上教会では「子ども祝福」と称して、月に一度、子どもたちの頭に牧師が手を置いて神様の祝福を祈ります。それはイエス様が子どもたちを祝福したことに倣って行われていることです。&lt;br&gt;新約聖書の時代にも人々は教師や祭司のような宗教的指導者のところに子どもを連れてきて、神様からの祝福を祈ってもらっていたのでしょう。イエス様も神の国を教える教師と見られていたので、人々は子どもたちを連れてきました。でもイエス様の毎日は大変に忙しいものでしたから、弟子たちはイエス様を患わせないようにと、彼らをたしなめて近づけようとしませんでした。しかし、イエス様はその弟子たちを叱ったのです。「邪魔をしないで、わたしのところに来させなさい」。そして言われました、「天の御国はこのような者たちの国なのです」。&lt;br&gt;　神の国は子どもたち、そして子どものように素直に御言葉を受け入れる者が入れていただけるのだと教えられました。子どもたちは自分ではイエス様のところに行けないかもしれません。両親や大人たちに連れられて行くのです。そんな小さな存在に、イエス様は手を差し伸べ、近づけてくださったのです。主の手は子どもたちに伸ばされたのです。&lt;br&gt;　ところが、その主の手を妨げたのは誰でしょうか。他でもない、主の弟子たちでした。十二使徒を初めとする数百人、あるいはそれ以上の弟子たちがいました。後に弟子たちはクリスチャンと呼ばれるようになります。クリスチャンが主の手を妨げてしまったのです。そこには多忙で、時には疲れることもあったイエス様を守りたかったという思いやりがあったのかもしれません。もしかすると、自分たちこそキリストの側にいることが許されているという特権意識が働いたのかもしれません。動機が何であっても、彼らのしたことはキリストの御心に反することでした。&lt;br&gt;　私たちも、自分の考えで主の手を妨げてしまってはいけません。もしイエス様が救おうと考えて御手を伸ばしているなら、その働きを妨げるのではなく、お手伝いをするべきです。たとえ、自分の考えが正しいと思っても、イエス様のお考えに従うのです。そうすれば、主の手はますます豊かに広く伸ばされ、多くの人が祝福に与るようになるからです。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-12-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の御手は伸ばされ続ける</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（詩篇百三十九篇９～10節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;世界のどこに行っても、そこで神の御手が導いていてくださることを、この詩篇は驚きを込めて詠っています。遠いバビロンに捕囚とされた民はこの詩に慰められたでしょう。現代はインターネットの時代で、世界中どこででもつながることが出来ますが、神様は旧約聖書の時代から既に全世界に御手を伸ばしておられるお方です。&lt;br&gt;クリスマスに良く語られる「インマヌエル」とは、「神が我らと共におられる」という意味ですが、イザヤ書七章で預言者イザヤがアハズ王に告げた言葉です。アハズは偶像を拝む不信仰な王でしたが、神自らしるしを与えるから信じなさい、と迫られました。そのしるしがインマヌエルです。ところがアハズはなおも神様の言葉に背き、イスラエルの民も神様に従いません。そこで神の怒りの手がイスラエルに伸ばされた、とイザヤ書は続けています。神の怒りの手がくだされ、北王国は滅亡し、南王国も壊滅状態になりますが、それでも彼らは悔い改めない。そこで怒りの御手は何度も伸ばされます。でも、最後に神の御手は彼らを救うために伸ばされる。その遣わされた御手こそが御子イエス・キリストです。&lt;br&gt;イスラエルにだけ伸ばされたのではなく、神の救いの御手は全世界に広められました。イエス様の弟子たちが世界中に出て行って福音を宣べ伝えたのです。今も御手は伸ばされ続けています。私たちにも救いの御手が伸ばされ、また私たちをも用いて主は救いを広めておられるのです。でも私たちは道具のように使われるのではありません。主を証しする私たちにも主の恵みの御手が伸ばされ続け、御業を行ってくださるのです。たとえ遠く離れていても、苦しみの中に深く沈んでいても、そこにも主の御手は伸ばされ、主の御手が私たちを導いていてくださるのです。&lt;br&gt;まもなく二〇二四年が終わり、新しい年が始まります。これからも主の御手は伸ばされていきます。人間はもうダメだと諦めそうになることもあります。でも御子をも遣わし、聖霊をも注いでくださった神様は、私たちを諦めたりはしません。どこにいても、どんな状態でも、主の御手が私を導き、力強い主の右の手が私を捕らえて放さないのです。この御手に信頼するなら「主は私たちと共におられる」、インマヌエルの主であるイエス様が共に住んでくださるのです。来年も主を信頼しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-07-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>私の手に渡す主の手</title>
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        <name>1</name>
        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（第一サムエル記二十三章４節）&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;旧約聖書の中で神様が何回か言われた言葉に、「（敵を）あなたの手に渡す」という言い回しがあります。勝つことが難しい敵に勝たせてくださる、という意味です。ダビデはサウル王に命を狙われて逃亡中でした。ケイラという町がペリシテ人の略奪隊に襲われ、すでに作物が奪われ、このままいくと町中が殺される。ダビデの仲間たちは、自分たちも困難な状況なのに他の人たちを救うのは無理だとダビデを止めようとします。でも彼は神様に問いかけ、神様はダビデがその町を救うようにと命じたのです。そして、「あなたの手に渡す」と言って、勇気を出して戦うようにと励ますのです。&lt;br&gt;神様は誰かに頼まなくても、ご自分の手で町を救うこともできたでしょう。でも、ダビデが自分のためではなく、人々を救う王となるようにと訓練を与えられたのです。ダビデは神様の思いを受け止め、その命令に従いました。神様は私たちにも何かを託されることがあります。私たちを用いて主の手の働きを成し遂げるためです。時には困難もあるでしょう。でも、それも私たちが成長するための訓練なのです。&lt;br&gt;同じ章の中には主に背いたサウル王の姿も記されています。ダビデがケイラの町を敵から救い出し、その町に滞在しているのを聞いたサウルは、これを好機と考えました。これまでダビデを捕まえようとして何回も失敗をしてきたので、町の中に留まっているなら捕まえやすいと考えたからです。そのときサウルが言ったのは、「神は彼を私の手に渡された」（７節）。神様から言われたのではないのに、自分に都合良く考えたのです。神様からダビデを渡された、だから彼を好き勝手にして良い、という自己中心な考えの王でした。&lt;br&gt;私たちが何でも自分の思い通りに考えて、しかもそれを神様からお墨付きをいただいたと思うのは、決して神様のお考えではありません。神様の御手は私たちの欲望を叶えるために働くのではなく、私たちを、また私たちを通して誰かを救うために伸ばされるのです。そして、主の手は私たちをも用いることが出来る力があり、もし神様のお言葉に従って働こうとする私たちが、力が足らずに悩むなら、その時は神様に祈って助けを受ければ良いのです。そのようにして神様は私たちの生活を通して訓練を与え、信仰を成長させてくださるのです。これが主の手の御業なのです。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-06-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の手に手渡す</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（マタイの福音書十四章19節・口語訳）&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;br&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;　成人男性だけで五千人という大群衆を「あなたたちで彼らに食べ物を与えなさい」とイエス様から言われた弟子たちはどれほど頭を悩ませたことでしょう。「五千人の給食」と呼ばれるこの奇蹟は、四つの福音書の全てに記録されているほど、弟子たち全員の記憶に刻まれた出来事でした。&lt;br&gt;　一人の少年が、お母さんに持たされたお弁当だったのでしょうか、五つのパンと二匹の魚をイエス様のためにと弟子たちのところに持ってきました。たったこれだけでは五千人以上の人々に何の足しになるでしょうか、と計算する弟子もいました。もし欲深い者がいたら、イエス様のところにもっていかずに受け取った自分たちだけで山分けしたり、争ったりしたかもしれません。でも、弟子たちはイエス様に手渡しました。&lt;br&gt;　イエス様をパンと魚をご自分の手にとって、天を仰いで祝福をしました。それからそれらを裂いて弟子たちに手渡し、弟子たちは百人か五十人ごとに座ったグループの恐らく代表者に手渡し、そして一人一人の手に手渡されたのでしょう。全員が食べて満腹し、あまったものも無駄にならないように集められたと記されています。群衆を帰らせたあとで、弟子たちの夕食になったのかもしれません。&lt;br&gt;　弟子たちが自分たちの手だけで配ったら、最初の数人で終わっていたでしょう。イエス様に手渡して委ねたから奇蹟が起きたのです。私たちが自分の手に握りしめているなら、自分の力では解決できません。主の手にお任せする信仰が大切です。&lt;br&gt;　イエス様は、そして弟子たちも、少年から奪い取ったりはしません。少年が自ら弟子たちに手渡し、弟子たちもイエス様に委ねたのです。神様は私たちのもっているものを無理矢理に取り上げたりはしません。それがモノであろうと、困難であろうと、です。主の手は決して短くありませんが、私たちの心を軽んじて強制的に働かれるのではありません。私たちが神様を信頼して委ねるのを待っておられるのです。なかなか素直に信じることができない私たちが、結局、自分ではどうすることもできずに倒れてしまったときには、手を出されるかもしれませんが、神様の御心は、私たちが主に手渡す決心をすることです。主を信頼しましょう。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-05-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>私の手ではなく</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（詩篇四十四篇３節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;　牧師の仕事には様々なことがありますが、一番大切なことの一つは説教でしょう。神の言葉を教会に伝える。単なる講演会ではありません。気をつけなければ教会の人たちが御言葉を間違って理解するようになり、知らずに御心に背くようになったら大変です。自分は本当に聖書を正しく語っているだろうか。この重要な問題に取り組むことも留学の目的の一つでした。&lt;br&gt;　自分でもそれなりに聖書を理解しているつもり、と考えていたかも知れませんが、世界から集まってくる優秀な留学生（牧師も多くいます）と比較するなら自分は何て力が足らないか痛感します。追求しようと選んだ研究テーマは、学べば学ぶほど、思っていた以上に大きな課題であり、自分の手には負えないと思いました。でも最後に気がついたのは、神様が私に分からせ、伝えさせてくださることを忠実に語る、ということでした。&lt;br&gt;　留学中は学生牧師として一つの教会を牧会するようになりますが、学生ですから勉強のために時間を費やさなければならず、出来る働きも限られています。人数が減少していき、ついには閉鎖もやむなしか、と悩むようになったころ、再び救われる人たちが起こされ、教会も成長していきます。留学生仲間であった神学生や牧師たちが力を貸してくださり、また信徒の方たちも協力してくださり、順調に教会が形成されていった矢先、中心となっていた役員一家が突如帰国となり、出鼻を挫かれます。でも神様はさらに導いてくださり、教会は次のステップへと前進していきました。&lt;br&gt;　私たちは自分の力でできると思っています。全てのことは無理でも、自分の専門分野なら自力で出来る。また沢山の人と力を合わせれば出来ることは多くなる。でも、どこかで自分の力や集団の力にも限界が来て、出来ないときがあることを痛感します。そのとき、自分の考えていた以上に神様の御腕が私たちを支え、導いていてくださることに気がつかされるのです。私の腕が短いと分かるとき、それは神様の御腕が私にも伸ばされている恵みに気がつくときなのです。ですから、「私たちは・・・窮することはありません」（第二コリント四８）。主の御腕が私たちを救ってくださるからなのです。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2024-04-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の手は命と死をも越えて</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。　&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（イザヤ書三十八章18～19節）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;&lt;br&gt;復活を知らなかった旧約時代の信仰者たちは、命の危険の中で祈る時に、「死んだら神様を賛美できないので、生かしください」という祈りを度々捧げました。ヒゼキヤという王は国際危機が迫る中で不治の病であることを告げられ、自分のためではなく国を守るために、必死で神様に延命を求める命をしたことがイザヤ書や列王記に記録されています。神様は彼の祈りを聞き入れて、寿命を十五年延ばしただけでなく、神様が国の都を守ると約束をしてくださったのでした。冒頭の聖句は、その時の感謝の祈りです。&lt;br&gt;人々は神様だって死んだらどうすることもできない、という考えの中におりましたから、そのように祈るしかなかったのです。でもキリストの復活により、私たちも死んだ後に天国で永遠の時が与えられると信じることができ、さらに天の御国では救われた大群衆が国や言語を越えて一緒に神様を賛美している様子が黙示録に描かれています。&lt;br&gt;神様の御手はどこまで伸ばされるのでしょうか。人間の理解では、死の先には届いていないかのように考えてしまいます。でも「主の手は短かろうか」。死さえも越えて伸ばされているのです。私たちが死んだ後にどうなるかは、知ることはできません。でも、神様を信頼することができます。きっと神様は最善のことをしてくださる。そう信じること、私たちは平安と希望をあたえられるのです。&lt;br&gt;昨年暮れから今年初めにかけて何人もの兄弟姉妹を天に送りました。また新しい命の誕生もありましたし、キリストを信じて救われ永遠の命を受けた方もおられます。「母の胎にいるときから、白髪になるまで」、いいえ、黄泉に下ってさえ、神様は生ける者も死せる者も支配しておられるのだと私たちは信じています。&lt;br&gt;自分の手では届かないときは、神様の御手に委ねましょう。私たちが考えていること以上のことを神様はなさることがおできになるし、また不思議なことをしてくださるのです。そのことを信じて、今は、生かされている私たちにできる限りのことをするのです。今、生きている意味も人生の目的も、全ては神様と共にあります。ただ主を信頼し、従っていこうではありませんか。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2024-03-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の手は命と死をも越えて</title>
        <link>https://www.ikenoue-ch.jp/pages/18?detail=1&amp;b_id=70&amp;r_id=268#block70-268</link>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。　&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1 style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;（イザヤ書三十八章18～19節）&lt;br&gt;&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;br&gt;&lt;/h1&gt;&lt;h1&gt;&lt;span style=&quot;font-family: TsukuGoPr5-R;&quot;&gt;復活を知らなかった旧約時代の信仰者たちは、命の危険の中で祈る時に、「死んだら神様を賛美できないので、生かしください」という祈りを度々捧げました。ヒゼキヤという王は国際危機が迫る中で不治の病であることを告げられ、自分のためではなく国を守るために、必死で神様に延命を求める命をしたことがイザヤ書や列王記に記録されています。神様は彼の祈りを聞き入れて、寿命を十五年延ばしただけでなく、神様が国の都を守ると約束をしてくださったのでした。冒頭の聖句は、その時の感謝の祈りです。&lt;br&gt;人々は神様だって死んだらどうすることもできない、という考えの中におりましたから、そのように祈るしかなかったのです。でもキリストの復活により、私たちも死んだ後に天国で永遠の時が与えられると信じることができ、さらに天の御国では救われた大群衆が国や言語を越えて一緒に神様を賛美している様子が黙示録に描かれています。&lt;br&gt;神様の御手はどこまで伸ばされるのでしょうか。人間の理解では、死の先には届いていないかのように考えてしまいます。でも「主の手は短かろうか」。死さえも越えて伸ばされているのです。私たちが死んだ後にどうなるかは、知ることはできません。でも、神様を信頼することができます。きっと神様は最善のことをしてくださる。そう信じること、私たちは平安と希望をあたえられるのです。&lt;br&gt;昨年暮れから今年初めにかけて何人もの兄弟姉妹を天に送りました。また新しい命の誕生もありましたし、キリストを信じて救われ永遠の命を受けた方もおられます。「母の胎にいるときから、白髪になるまで」、いいえ、黄泉に下ってさえ、神様は生ける者も死せる者も支配しておられるのだと私たちは信じています。&lt;br&gt;自分の手では届かないときは、神様の御手に委ねましょう。私たちが考えていること以上のことを神様はなさることがおできになるし、また不思議なことをしてくださるのです。そのことを信じて、今は、生かされている私たちにできる限りのことをするのです。今、生きている意味も人生の目的も、全ては神様と共にあります。ただ主を信頼し、従っていこうではありませんか。&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;</description>
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        <dc:date>2024-02-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>恐れるな、主の手は短かくない</title>
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        <description>&lt;h1&gt;&lt;br&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（イザヤ書四十一章10節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　現代は不安の時代です。もちろん昔から天災があり戦争などの社会的な混乱はありました。命に関わる病は、医学の発達していない時代には今よりも恐ろしかったでしょう。しかし現代の私たちは、失いたくないものが増え、ちょっとしたことで平穏な日常が崩れてしまいます。何よりも、神様への信頼感が損なわれている時代、頼るのが人間であり自分であるなら、力が及ばないことがあれば、たちまちに不安に囲まれてしまいます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　神様が人間に語る言葉は、昔も今も変わりません。「恐れるな」、「恐れてはならない」という御言葉が旧約聖書にも新約聖書にも何回も出て来ます。今も神様は私たちに語っておられます。「恐れなくて良いのだ」と。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　池の上教会では、昨年終わりから立て続けで五人の兄弟姉妹を天に送りました。寂しさを感じると共に、これまで共に歩み、共に主に仕えて来た方にとっては、これからどうなるか、という不安があります。これからも天に召される方があるということは厳粛な事実です。教会は、そして私たち一人一人はどうなるのでしょうか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私たちは、それでも御言葉の約束を信じ、天国の希望を堅く持ち続けます。「死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません」との詩篇を思い起こし、いかなる困難が待ち受けていても、ついに地上の生涯が終わるときが来ても、主の手に守られていることを信じましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　日本だけでなく多くの先進国で少子高齢化が叫ばれています。多くの教派や教団でも信徒の高齢化、若者の流出や減少、そして牧師不足が課題となっています。十年、二十年先にはどうなっているでしょう。複数の教会を兼任する牧師が当たり前になり、それでも足らずに無牧となる教会、他教会と合同や、あるいは閉鎖。信徒数の減少は人材的にも経済的にも教会の働きも交わりさえも維持できなくなる「限界集落」ならぬ」「限界教会」。不安は尽きません。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　だからこそ、私たちはもう一度、主の御言葉に耳を傾け、「私の義の右の手で、あなたを守る」と言ってくださる主の助けを信頼して、仕えてまいりましょう。自分たちの力では足らないとき、もうどうすることもできないと諦めたくなるとき、それでも「主の手は短かろうか、いいや、そうではない」と信じて、主の手の助けを仰ぎつつ祈りましょう。&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2024-01-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>主の手は短かろうか</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（民数記十一章23節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;　天地を造られた神は全知全能のお方です。人間が考えそうなことはご存じです。でも人間は有限の存在であり、時には自分が間違った考えをしていることさえ分かっていない。ですから神様はあえて問いかけ、私たちの間違いに気がつかせてくださるのです。&lt;br&gt;　聖書の中にはたびたび反語と呼ばれる表現が出て来ます。今年の教会の標語「主の手は短かろうか」とは、主の手は短いと言っているのではなく、「短いと言うのか、いいや、決してそうではない」という強い否定を意味します。以前は、どうしてこんなひねくれた言い方で語られるのか、と不思議に思っていました。ストレートに「主の手は短くない」と言えば分かりやすいのに。でも、聖書を読み続けているうちに、神様が自分にも問いかけていることに気がつくのです。私は、もしかして主の手が短いと思っていなかったか。神様は、そうではないぞ、主の手はお前が思っているより遙かに長いのだ、と語っておられるのです。&lt;br&gt;　二〇二四年は年明けそうそう能登半島で大地震があり、飛行機の事故があり、今年は大変な年になりそうだと予感された方もおられるでしょう。池の上教会にとっても、昨年末に何人もの方が天に召され、まだ受け止めきれない思いもあります。コロナがすっきりと終わったとは言えない中で、かといっていつまでも留まり続けることはできませんので、前進していかなければなりません。しかし本当に大丈夫だろうか、と現状を見ると不安を払拭できません。&lt;br&gt;　その時、私たちは知らないうちに、私たちと共にいてくださる神様の手が短いと思っているのです。神様だって、こんな状況の私たちを助けることは出来ないのではないか、と。本当にそうでしょうか。主の手は、決して短いはずがないのです。神様が何をなさるかは分かりません。私たちの願いが叶うということではありません。でも、神様が池の上教会の上に、また神様を信じる私たち一人一人の人生に、必ず御手を伸ばしてくださると信じるのです。&lt;br&gt;　厳しい荒野を旅していた民は、周囲の状況を見て神様に背きました。モーセでさえ、神様の力を信頼できずに、「イスラエル全員に肉を飽きるほどに与えるなんて、いくら神様でも無理です」と思ってしまった。そのモーセに「主の手は短かろうか。私を信じなさい」とチャレンジなさったのです。私たちも神様のお言葉を受け止め、もっと神様を信頼して前進していこうではありませんか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-12-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国の王キリスト</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。&lt;br&gt;ひとりの男の子が、私たちに与えられる。&lt;br&gt;主権はその肩にあり、その名は、&lt;br&gt;「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」&lt;br&gt;と呼ばれる。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（イザヤ書九章６節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;　クリスマスに度々開かれる預言の言葉です。四つ（読み方によっては五つまたは六つ）もの名前を持つのは、この方が王であるからです。この預言が成就したのは言うまでもなくイエス・キリストです。キリストは王としてお生まれになったお方です。当時、イスラエルの王であったヘロデは、このお方を王と認めずに殺そうとしましたが、東の国から来た博士たちはこの幼子を王として礼拝したと記されています。&lt;br&gt;やがて成長され大人になったイエス様は人々に神の国の教えを伝え、その権威と力によって奇蹟を行い、多くの人を癒やされました。五千人以上を五つのパンで養われたとき、人々はイエス様を王としようと考えましたが、それは自分たちの欲を満たすためで、そのような王ではないイエス様はそのことを拒みました（ヨハネ六15）。結局、民衆はイエス様から離れ、ついには「十字架につけよ」と叫ぶようになったのです。&lt;br&gt;神の国は、神が王であって、その神様が遣わされたキリストを主として従うのが、神の国の国民です。神の義は、神の正しさであって、それと照らし合わせるなら人間は義ではなく罪人です。しかし、キリストの十字架は私たちの罪を贖って、生まれ変わらせて義なる者としてくださる。キリストの義とは私たちに与えられる救いです。&lt;br&gt;このイエス様によって救っていただいた私たちが、神の国を第一とし、神の義を求めて生きることは当然のことと言えましょう。でも、それは自分の力で完璧にできるのではなく、与えてくださるキリストを信頼し、その御言葉に従うことが大切です。それは、今年だけでなく、これからも追い求め、導かれていく道なのです。&lt;br&gt;私たちのために生まれてくださった救い主は、不思議な助言者として私たちを教え諭され、力ある神として助けてくださり、永遠の父として天国まで導き、平和の君として私たちを守ってくださいます。こんな素晴らしいお方が王として主として共にいてくださる。この恵みを忘れずに、これからも「神の国とその義を第一に求め」てまいりましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-11-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国の犠牲と恵み</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ルカの福音書十八章29～30節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;歴史を振り返るなら、世界のどこでも、およそ国の誕生にあたって苦難が無いことはないでしょう。独立しようとして周囲の国から攻撃されることもあります。また内部で反対する者たちから反抗されることもあります。戦争になることも少なくありません。そこには多くの犠牲者があり、困難に対面する者は数知れません。たとえ、その国が正義によって打ち立てられる場合でも、苦しみがないことはあり得ないのです。多くの犠牲が支払われたのです。&lt;br&gt;神の国が建て上げられるために、多くの人の犠牲がありました。誰よりも、イエス・キリストご自身が十字架の苦しみを受けられました。御国の福音を伝えた使徒たちも殉教しました。多くのクリスチャンが迫害を受けました。また、世界に福音を伝えるために困難を味わった宣教師がどれほどいたでしょう。今、私たちは、多くの人たちの苦難の結果として祝福に与っているのです。&lt;br&gt;では、私たちには何の困難も無いのでしょうか。この世の流れに身を任せて、当たり障りの無い道もあるかもしれません。しかし、神様の御心に従って歩むときには罪の世との軋轢(あつれき)が生じます。そして、その困難との戦いで犠牲を払うこともあります。&lt;br&gt;しかしイエス様は弟子たちに、その犠牲は決して無駄では無く、この世でも多くの恵みが与えられ、天国では永遠の命が約束されていると教えました。ルカの福音書の記事では、家や、家族を捨てると書かれていますが、マタイの福音書十九章29節では、「あるいは畑を捨てた者は」と、財産の全てが含まれています。一昔前は日本でもクリスチャンになるときに親から勘当された人もいます。友人関係も整理することもあるでしょう。仕事にも影響するかもしれません。でも、失うものよりも与えられるものははるかに勝っているのです。神の国はそれほどに価値のあるものです。&lt;br&gt;もし地上で幾ばくかのものを手にしたとしても、それを思いがけないことで手放すかもしれませんし、何よりも天国を失うことを考えるなら、目に見えるものに固執することは得策ではありません。神様が私たちを救うために御子を与えてくださったことを思うなら、私たちも喜んで神様のために犠牲を払うことが出来るのです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <title>神の国は神のもの</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（第一歴代誌二十九章11節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;神の国は、神様が王です。王の思いのままに国は建てられ。治められます。神様は御国を建て上げるために人間を用いなさいますが、人間が建てるのではありません。人間の思い通りではなく、神様の御心が最優先です。何が正しいかを決めるのも義なる王です。&lt;br&gt;人間はいつも自分の国を欲します。自分の思い通りになると考えるからです。でも実際には、人間の国は思ったとおりになりません。その原因は人間の無知であり、王なる神様に背くからです。本当の幸いは、神が王となってくださることです。ですから私たちは祈ります。「御国が来ますように」と。&lt;br&gt;今、世界は混乱に満ちています。数年に及ぶ病魔の影響、各地で戦争と戦争のうわさがあります。人間が思い通りにしたいと願って、政治を行い、商売を行い、最善を尽くしたつもりでも、問題が押し寄せてきます。それが人間の国々です。私たちは祈ります。「主よ、来たりませ」と。&lt;br&gt;一番の問題の原因は、私自身です。他者の言葉にも、神様の御言葉に対してさえ、耳を傾けるのが遅く、自分の考えが正しいと思い込む。その自分中心な姿勢は、人間関係を混乱させ、神様との関係がよどんでしまいます。私たちは祈らなければなりません、「主よ、私は罪人です。お赦しください。主よ、あなたが王となってください」と。&lt;br&gt;今年は「神の国とその義を第一に求めよ」との御言葉を教会の標語として歩んでまいりました。神の国は一朝一夕でできるものではありませんが、私たちの姿勢は今すぐにでも変える決断ができます。冒頭の聖句はダビデの語った祈りの言葉です。国に平和をもたらし、王座を固くしたダビデですが、神様こそが彼の国の王であると認め、そのお方にすべての栄光をお返しした祈りです。この国は、そのすべての栄光も、主よ、あなたのものです、とダビデは告白しています。私たちは国王ではありませんが、自分の身の回りでは王になって思い通りにしたい、と考えます。何でも「私のもの」にしたいのです。でも、神様に「あなたのものです」と捧げるときに、神様が一番良い形へと作り変え、成長させ、完成に導いてくださるのです。神の国を求め、すべてを神様に明け渡しましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-09-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国の喜びと楽しみ</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。&lt;br&gt;イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。&lt;br&gt;シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇一四九篇１～２節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;　イスラエルは、エジプトから救い出していただいた建国の頃は王がいない国でした。それは「神こそが王である」という信仰があったからです。やがて。他の国々には王がいるのを見て、うらやましくなった民が王を求めるようになり、サウルが王となり、さらにダビデが王となりました。しかし、人間の王は自分の上には神が王として君臨していると信じて御言葉に従うなら、その王は良い王となりますが、神に従わず自分の意思と欲に従う悪い王により国は滅亡してしまいました。&lt;br&gt;　神様はかつてダビデに、彼の子孫が王座に着くと約束されましたが、その時も、もし子孫が神の言葉に背くなら国は倒れると警告され、その通りにアッシリヤやバビロンによってイスラエルは滅んでしまったのです。　捕囚として連れて行かれた民は、自分たちの罪に気がつき、やがて預言の通りにエルサレムに帰って神殿を再建した民は、「主こそが王である」と、喜びをもって賛美をするようになったことが、詩篇の後半に示されています。&lt;br&gt;　詩篇の最後は「ハレルヤ詩篇」と呼ばれる五つの詩が全体の結論となっていますが、人々は「ハレルヤ」（主を褒め称えよ、の意）と神様を賛美した。その賛美は喜びに満ちていました。彼らが神を王として従うとき、神様は彼らを喜ばせ、楽しませてくださったことが、冒頭の詩篇のメッセージです。シオンとはエルサレムの別名です。やがて時代が変わり、イエス・キリストがロバの子に乗る平和の王としてエルサレムに入城されたとき、イエス様を信じて従う人々は喜びの余り「ホサナ」（主よ、お救いください、の意）と主を賛美しました。&lt;br&gt;　私たちがイエス様を心の王としてお迎えするとき、私たちの心に聖霊が喜びを与えてくださいます。そして、その王のもとで王の言葉に従って歩む民は、楽しみさえも味わうのです。その楽しさは快楽や自己中心ではなく、主を愛し敬い、また主にある兄弟姉妹と一つとなって体験できる楽しみです。教会には、また一人一人も、苦難を通ります。それでも主を信じて従い、神の家族と心を合わせて苦境を乗り切る。それは、簡単で楽な喜びではなく、厳しさを通り抜けたからこそ味わうことができる喜びであり楽しさなのです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-08-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国の偉大な者</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（マタイの福音書十一章11節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;「女から生まれた者」とは、アダムとエバという特例を除けば、全人類を指します。イエス様ご自身がバプテスマのヨハネの偉大さを証ししているのです。しかし天国に入った者は全員が彼よりも偉大だというのは驚くべきことです。決して矛盾を語られたのではありません。「出ませんでした」と過去形で語っておられますから、ヨハネ以降の人物は別なのかもしれませんが、もう一つは、人間的な方法で生まれた者、パウロならば「肉から生まれた者」と言うでしょう。それに対して、天国に入るのは「水と霊から生まれた者」（ヨハネ三・５）だとイエス様はニコデモに教えられました。人間の努力や才能ではなく、神様の恵みによって救われることを信じるときに、聖霊が働いてくださり、洗礼を受けるのです。&lt;br&gt;バプテスマのヨハネの偉大さは、彼のところに多くの人たちが集まって悔い改めのバプテスマを受けたことや、彼の死後も影響を受けた人たちが多くいたことを聖書は記し、『使徒の働き』に登場するアポロもその一人でした。では、天国に入る者の「偉大さ」とは何でしょうか。ヨハネの素晴らしい点は、イエス様のことを、「私にはその人の足のひもを解く値打ちもない」と語り、「彼は栄え、私は衰える」と言ったことです。イエス様をキリストと認め、自分よりも上のお方だと証言できるのは、謙虚さがなければなりません。&lt;br&gt;神様は高慢な者を退けるお方ですから、ヨハネが人々の評価を受けておごり高ぶっていたら滅ぼされたでしょうが、彼はイエス様の前に謙ることができました。私たちも自分や他者の評価を求めたり高ぶったりする罪を悔い改め、自分の罪を赦すために十字架についてくださったキリストを信じるとき、私たちの心は自己の罪を認める「砕かれた魂」となるのです。その点では、十字架以前に殺され、罪の悔い改めをできなかったヨハネよりも心を低くすることができた。ですから「彼より偉大」だとイエス様は語られたのです。&lt;br&gt;教会は天国の「ひな形」です。自分の罪を認め、キリストの前に謙り、自分の力ではなく、ただイエス様の恵みにすがって十字架を信じることが最も賞賛されます。素直な幼子は大人よりも純粋に自分の小さな罪を認め、イエス様を信頼する点で天国に相応しい、とイエス様は教えられました。大人も幼子のような素直な信仰を持ちたいと思います。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-07-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国の王は？</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;国々の中で言え。&lt;br&gt;「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」&lt;br&gt;天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇九十六篇10、11節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;旧約聖書の中では「神の国」という言い方は、ある意味、当たり前のことです。イスラエルは神の民と呼ばれています。詩篇では93篇から99篇までに「主は王」というテーマが繰り返されています。&lt;br&gt;日本語の翻訳を比べてみますと、新改訳は「主は王である」と訳していますが、口語訳聖書や、一番新しい聖書協会共同訳では「主は王となられた」と訳しています。「王となった」というのは、それまでは王ではなかったのか、という屁理屈を言う人がいるかもしれません。むしろ、神様の「御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます」（詩篇九十三・２）とも書かれているように、天地を造られたお方は、それよりも前から王であり、世界の所有者でしたし、天地が滅んだ後も、新しい天と地を支配される永遠の王です。このお方が世界を正しく治めてくださるとき、世界に生きるものは全て祝福された存在となります。&lt;br&gt;問題は人間です。最初の人が神様の御言葉に背いたときからずっと、人間は自分が王であると考え、神様の御心に背いて、自分の思い通りに生きてきました。その結果、神様との関係は悪くなり、人間同士も争い合い、苦しめ合ってきました。そして、自然界をも思い通りにしようとして破壊してきたのです。神様は、人間が悔い改めるまで、人間の自主性に委ねて見守っておられ、しかし救いを求める人には手を差し伸べてくださいました。どれほど人間が王のように振る舞って過ちを犯しても、神様はまことの王として私たちを導こうと御言葉を語っておられるのです。&lt;br&gt;私たちは、キリストの十字架によって救っていただいたときから、キリストのもの、キリストの弟子となりました。でも、自分の思い通りにしたいという自己中心の罪があって、だから揺るがない人生どころか、悩みつつ、自他を苦しめつつ歩んでいます。しかし、詩人は語ります、「主は王である」と。私たちが神様こそが王であると求め、このお方の前にひれ伏し、従う決心をするとき、主が私の王となってくださり、私たちの人生を造り変えてくださるのです。&lt;br&gt;あなたの人生の王は誰でしょうか。主が王です、と告白するとき、神様が王として私たちを救い、導き、神の民としてくださるのです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-06-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国に属する民</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;br&gt;&lt;br&gt;けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ピリピ人への手紙三章20節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;&lt;br&gt;神の国とは地上だけのことではありません。人間の国は永遠ではありませんが、神の国は永遠だからです。私たちは、その神の国に入れていただく者なのです。天国に入ることは、死んでから行くということではなく、地上にいるときから始まっています。そのことをパウロは「私たちの国籍は天にある」と言います。どの国で生活しているとしても、私たちは天に国籍のある「天国人」です。天国に属する私たちが、地上の国に一時的に生活しているのです。&lt;br&gt;海外で長く生活していると、自分が「外国人」だということを意識するときがあります。選挙権が無いことや、ビザが必要なことなどです。不便を感じることがありますし、時には差別を受けることが無いとは言えません。いつか自分の国に帰って、手足を伸ばして温泉に入りたいとか、○○屋の牛丼を食べたいとか、とりとめもないことを考えたりもしました。&lt;br&gt;クリスチャンが地上で生きている間は、信仰の故に悩むことも、小さな迫害を感じることもあるかもしれません。でも、私たちの国籍は天にあるのですから、地上での幸いだけを目指すのではなく、いつの日か天国に帰ることを忘れてはならないのです。どんな状況に置かれても、天国人としての自覚と誇りを持ち続けましょう。ヘブル書十一章には旧約聖書の信仰者たちの生き方が描かれていて、彼らが地上での生活で満足するのではなく、「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた」（16節）と証言しています。その彼らの信仰をご覧になった「神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした」。私たちが神の国に属する民として生きるとき、神様がそれを誇りとしてくださるのです。&lt;br&gt;私が池の上教会に赴任してから、もう数十人の方を天国に送りました。彼らが本当の国籍がある天国に到着したとき、天使たちが歓声を挙げて迎え、神様は、「良くやった、良い僕よ」との褒め言葉を持って迎え入れてくださるのです。この栄誉を受けるためなら、地上で「外国人」として歩む困難をも乗り越えることが出来るのです。&lt;br&gt;天の御国には先に行かれた先達が待っています。再会したときに、地上での苦労話、いいえ、神様の恵みによって生かされ、導かれたことを感謝を持って証ししあう時が来るのです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-05-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国を継がせる聖霊</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、&lt;br&gt;盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。&lt;br&gt;あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（第一コリント六章９～11節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;神の国は人間の力で打ち立てられるものではありません。人間が治める国には罪が忍び込みます。コリント人への第一の手紙六章９～10節には「罪のリスト」と呼ばれるものの一つがあります。他の箇所にも罪のリストがありますから、ここに書かれているのは一部です。罪を犯す者が神の国を受け継ぐことも、そこに入ることもできません。では、誰が神の国に入れていただけるのでしょうか。&lt;br&gt;それはキリストの御名を信じた時に聖霊が来てくださり、心の中からきよめられた人です。イエス様は「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」（ヨハネ三・５）と教えておられます。水は洗礼のことで、キリストを救い主と信じたことを告白して洗礼を受けます。でも水だけで救われるのではなく、御霊によって生まれ変わるのです。そのとき、「聖なる者とされ、義と認められ」、神の国に入れていただけるのです。&lt;br&gt;ペンテコステに聖霊が来てくださったのは、そのためです。イエス様は「神の国は近づいた」と宣言されましたが、それが十字架によって完成し、聖霊によって私たちのうちに成就するのです。聖霊によって私たちも神の国に入れていただくのです。それは、私たちが聖霊の声に従うことです。&lt;br&gt;聖霊と力とを混同する人がいて、聖霊を受けたら力が与えられる、その力が欲しいから聖霊を求めるのですが、それは間違いです。聖霊は神様ご自身です。私たちが力を所有するのではなく、聖霊が語る御言葉に従うとき、神様が働いてくださるのです。神の国の国民は神様に従う民です。しかし人間は自分の願いや思いを優先するあまり、神様の御心を二の次にしてしまいます。神の国と神の義を第一とするのは難しいのです。自分の力では出来ません。だからこそ神様は私たちを助けるために聖霊を送ってくださったのです。このお方の声を聞き、助けをいただいて歩みましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2023-04-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>復活の主による神の国</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（使徒の働き一章３節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;イースターから五十日目がペンテコステ（五旬節）です。イースターの朝に復活されたイエス様はおよそ四十日の間、弟子たちに姿を見せられた後、天に昇られました。その間、復活が確かであることを示すために、時には手の釘あとを見せ、時には魚を食べて幽霊ではないことを示されました。復活を証拠立てて示されただけでなく、弟子たちに教えられたこともあります。それは「神の国のこと」を語られたことであり、またルカの福音書二十四章などでは、旧約聖書全体からご自身について預言されていることを確認させたのですが、それは十字架以前にも彼らに教えたとおりでした。&lt;br&gt;ところが弟子たちの反応は、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねているように（使徒一６）、神の国をイスラエルの復興だと期待していたのです。イエス様の奇蹟によってローマ軍を追い出し、イスラエルが再び独立国家となり、ダビデやソロモンの時代のように繁栄して、世界中から崇められる国になることを願っていたからです。しかし、それは人間の治める国、自分たちの思い通りにイスラエルが世界を治める国です。イエス様は彼らの願いを否定はせずに、それは父なる神様が定めることだと教えて、弟子たちの願っていることも神様が決めることに従うことを教えました。神の国とは神様が治める国だからです。&lt;br&gt;今年の教会の標語は「神の国とその義を第一に求めよ」ですから、神の国が実現することを祈り求めてまいります。でも、それは人間の考えや計画によって定まるのではなく、自分よりも神様のお考えを第一とする国です。時には、弟子たちのような脱線をしてしまうかもしれませんが、イエス様は忍耐をもって弟子たちを、そして教会を導いてくださり、教会のかしらであるキリストが神の御心を成し遂げてくださるのです。それを信じるために、私たちもキリストが今も生きておられ、教会を導き、聖書を通して神様のお考えを教えていてくださることを心に留めたいと思います。&lt;br&gt;私たちの人生にもキリストがおいでくださり、心のうちにキリストが王として宿っていてくださる。その御声にいつも耳を傾け、主のしもべとして従うのです。そのとき、キリストは生きておられることを私たちにも証ししてくださいます。このお方を信頼してまいりましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2023-03-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>十字架による神の国</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（マタイの福音書二〇章28節）&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: left;&quot;&gt;イエス様の十二弟子の中にヤコブとヨハネという兄弟がいます。エルサレムに向かう最後の旅の途中、この二人の母親がイエス様に、息子たちをイエス様が王となる時、その国でイエス様の左右に座る、言わば「右大臣と左大臣」にして欲しいと願い出ました。彼らは神の国を地上の政治的国家と同じに考えていたのです。人間の組織では誰もが人の上に立ちたい、出世したい、と願います。イエス様は彼らに「私の杯を飲めるか」と問いかけましたが、その杯が十字架だとは分かっていなかったのです。ヤコブとヨハネの抜け駆けに腹を立てた他の弟子たちも考えていたことは同じです。そこでイエス様は、上に立ちたい者は仕える者になりなさい、と教えた後、人の子（キリスト）が地上に来た目的は「多くの人の贖いの代価として命を与えること」、すなわち十字架だと告げられたのです。&lt;br&gt;神の国は、イエス様がこの世においでになったことで「神の国は近づいた」と宣言されたように、実現の条件が整い、イエス様が十字架にかかったことで成就しました。それは人間が考えるような国ではありませんでした。王であるお方に背く罪を犯した人々を救うために、王であるお方自身が十字架で犠牲を払われる国です。そんな国は歴史上存在したでしょうか。それは神の国だけです。&lt;br&gt;十字架につかれたキリストを王として従う者、それが神の国の国民です。私たちも人の上に立って自分の思い通りにしようとする生き方ではなく、皆に仕える僕の生き方を目指します。そこには犠牲も伴います。自己中心では歩むことができません。でも、確かにイエス様の足跡をたどる道なのです。クリスチャンとしてこの世界で生きるとき、困難があるでしょう。教会でお互いに仕える奉仕をするのは犠牲かもしれません。でも私たちはイエス様と一緒に生きているのであり、その人生は来るべき天国へとつながっています。&lt;br&gt;出世を願った二人ですが、ヤコブは十二弟子の中で最初の殉教者となり、イエス様の後に続きました。一番若いヨハネは、十二弟子の中では一番最後の殉教者となります。「右大臣と左大臣」かは分かりませんが、弟子として立派に生き抜いたのです。私たちも、残された生涯を通して、イエス様の弟子として歩みましょう。それが「神の国」を生きることなのです。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <title>神の国に攻め入る者</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（マタイの福音書十一章12節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「神の国」のことを「天の御国」（口語訳聖書では「天国」）と呼ぶこともあります。天の御国を激しく攻めるとはどういう意味か、さまざまな意見が挙げられています。良い意味も悪い意味もあります。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;バプテスマのヨハネがイエス様の先駆けとして登場して以来、イスラエルの人々は「天国」や「永遠の命」を願い求めました。でも、イエス様によらないでは神の国に入ることはできません。イエス様を救い主として信じることを拒んだ人たちは、それを受けることが出来ませんでした。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;悪魔は、神様の働きに反抗して、神の国に入ろうとする人たちを邪魔して誘惑し、神の国の民を奪おうとします。多くの人が悪魔の甘言に惑わされて、キリストを拒み、離れていってしまいます。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;私たちは神の国を求めているでしょうか。もし、神様を王とすることを拒み、自分の思い通りに生きることを第一とするなら、自分が王である自分の国を求めていることになります。「自分が正しく、他の人が間違っている」と他者を裁き、「自分が不幸なのは神様のせいだ」と神様を裁いているなら、それは自分を義としており、神の義からは離れています。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;もし、私たちが何ものよりも神の国と神の義を求めて、神の国に入るために全力になるなら、それは「攻め入る」ような姿ですが、でも、神様はそのように求める者を喜んでくださり、「奪い取る」以前に、恵みとして与えてくださるのを受け取るのです。私たちは、どれくらい神の国を求めているでしょうか。二の次、三の次、いいえ、気が向いたら求めるけれども、他のものが全部手に入ってから、最後に天国を願おうか。それでは神様が喜んで迎え入れてくださるのでしょうか。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「激しく攻め」「奪い取る」とは物騒な言い方ですが、遠慮をせずに救いを求める人を神様は喜んでくださいます。旧約聖書のヤコブは、人を押しのける自己中心な人間でしたが、神様の祝福を願うことにかけては真剣でした。それがヤコブが兄エサウよりも神様に愛された理由です。新約聖書でイエス様に娘の癒やしを願った異邦人の女性は、貶(けな)されるような言葉を受けてもイエス様に求め続け、その信仰を賞賛されました。私たちも神の国とその義を真剣に求める者となりましょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2023-01-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>神の国とその義を第一に求めよ</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。&lt;br&gt;こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。&lt;br&gt;だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもとは全て与えられます。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（マタイの福音書六章31～33節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　私たちは神様に何かを求めて祈ることがあります。世の中では祈りとは自分の願いを叶え、欲しているものを求めることですが、私たちは欲望のままに願い求めることが貪欲の罪であると知っています。でも、本当に必要なことを求めるのは決して貪りではありません。しかし、全ての人に一番必要である飲食について、神様は私たちが祈る前からご存じであって、父なる神様は必要なことは必ず与えてくださるはずです。ですからイエス様も、これらのことで心配して、思い患ってはならない（口語訳）と教えておられます。&lt;br&gt;　では、私たちは何を求めたら良いのでしょうか。「神の国と神の義」こそ、第一に求めることだと御言葉は語っています。神の国は、王である神様に従うことです。強いられてでは無く、自ら進んで神様のお声に従うしもべとなるのです。また神の義は、自分の正しさを主張するのではなく、神様の正しさの前に悔い改め、従おうとしてもできない自分の罪を赦していただくことも神様の御心にかなった祈りです。第二、第三と、祈ることはさらにあるでしょうが、第一のことを第一とするなら、他のことは神様が整えてくださいます。&lt;br&gt;　それでも私たちの祈りがいつのまにか自分中心になったり、神様への信頼に欠けて不安に陥ることもあるかもしれません。だから、祈ることを通して神様の前に進み出るのです。その時、神様との交わりが生まれます。人間の力や功績ではなく、神の国と神の義を求めるには、神様を抜きには不可能です。私たちが神の国と神の義を求めるときに、私たちが神様に頼り、神様からの言葉を聞いて教わることを神様はご存じで、私たちとの交わりを待っておられるのです。&lt;br&gt;　今年、教会全体でも「神の国と神の義」ということを考え、また実践すると共に、一人一人が神の国と神の義を求めて、祈り、また王なる神の御声に聞き従うことを大切にし、それを他のこと以上に求めて行きましょう。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2022-12-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>キリストのからだのかしら</title>
        <link>https://www.ikenoue-ch.jp/pages/18?detail=1&amp;b_id=70&amp;r_id=250#block70-250</link>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（コロサイ人への手紙一章18節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;　今年は「キリストのからだを建て上げるため」との標語を掲げ、キリストのからだである教会のことを考えてきました。「からだ」に例えられるような有機的な交わりが教会にとって大切ですが、同時にコロナ禍にあっては交わりを持つことが難しいという課題にも向き合ってきました。足らない面を補うように、祈りによって結びつき、またインターネットなどの最新の方法も取り入れてきました。困難な一年でしたが、教会成長の新しい可能性も垣間見ることができた一年でした。&lt;br&gt;　しかし、私たちが教会を外面的なこととして捉えるのには気をつけなければなりません。人数という数字だけを追求することも、また教会員の満足という視点だけを顧みることも、教会を単なる人間の集合体としてしまいます。キリストのからだは、からだだけの存在ではなく、頭（かしら）が不可欠であり、そこに命の根源があります。&lt;br&gt;日本語でも「かしら」と「あたま」は同じ漢字を用いますが、聖書の言葉でも「かしら」は「あたま」を意味しますし、さらに「一番のもの」でもあります。キリストが教会のかしらであるとは、キリストが第一のお方だということで、私たちが第一ではないのです。また、身体が頭脳の命令に従うように、私たちはキリストの御声に聞き従うべき存在です。「お頭」と言うとリーダーのことですが、イエス様こそが私たちのリーダーであり、もし私たちが間違っているときは正しく導いてくださる羊飼いですから、私たちはキリストの言葉によって歩むのです。&lt;br&gt;「からだ」について御言葉から多くのことを学ぶことができましたが、身体だけに目を向けるのではなく、あらためて、かしらなるキリストに目を向けましょう。クリスマスは神の御子が人間となって生まれてくださったのですが、それは十字架で私たち全ての罪を背負って、私たちを救ってくださるためであり、さらに復活によって新しい命を与え、キリストのからだである教会の一員としてくださるためです。教会の営みの全てにおいて、キリストがかしらであり、また私たちの人生においてもキリストは主です。いつもかしらなるキリストに従う教会、また一人一人でありましょう。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2022-11-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>生ける石となって教会を建てよう</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（第一ペテロ二章５節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;今年の池の上教会の標語『キリストのからだを建て上げるため』は教会のことです。教会を現す例えとして用いられるのは、「からだ」以外にも「民」や「家族」のような人間的な交わりを示すものもありますが、「家」（家屋）も用いられます。「建て上げる」も家の建設をイメージしています。&lt;br&gt;キリストが使徒ペテロに「この岩の上にわたしの教会を建てます」（マタイ十六・18）と言われましたが、そのペテロが書いているのは、「自分だけではなく、あなたがたも石であり、教会を建て上げるものだ」ということです。昔の家は石を積み上げて作りました。キリストの霊が住んでおられる家は、私たち一人一人が積み重ねられてできているのです。その石の中でも一番大切な役目と言われる「尊い礎石」（第一ペテロ二・６）はイエス様ご自身です。&lt;br&gt;家の壁となっている石は、上の石から重さがかけられます。苦しさや痛みがあるかもしれません。でも、自分も下の石に支えてもらって、全ての重さは土台の石にのしかかります。池の上教会もキリストと御言葉の上に山根先生が最初の石を据えられ、その上に多くの先達が石を積み上げてくださいました。今、私たちもその石の一つとなって、さらに教会は成長していきます。誰一人として無駄な石はありません。誰かが欠けるなら、壁に穴が空いて隙間風が入ります。様々な色の石が組み合わさることで生まれる美しい模様は聖霊による芸術です。&lt;br&gt;「生ける石」という表現も不思議です。石は命の無いものだと私たちは考えます。私たちがキリストのからだであり、霊の家である教会の一員であるとき、私たちはキリストの命につながっています。それは永遠の命です。教会の歴史において、教会設立の時の方々は順に天に召されていきます。でも、キリストのからだの部分として、霊の家の石として、今も生きて働いているのです。ギリシア正教では礼拝堂に昔の聖人の絵を飾り、その人たちは今も一緒に礼拝をしている、と受け止めています。それは天国の前味わいでもあります。&lt;br&gt;地上での人生を送っている私たちも「生ける石」です。自分にピッタリの場所が教会にあって、そこに当てはまるときに、与えられた賜物が用いられ、周りの兄弟姉妹との関係も落ち着ける。一人一人が教会の一員なのです。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2022-10-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>不思議なキリストのからだ</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（コリント人への手紙第一・十五章44節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;パウロは復活について教えている中で、血肉のからだと御霊（あるいは「霊」）のからだの違いを語っています。イエス様のお体は、十字架以前は私たちと変わらない肉体（血肉）で、疲れることもありました。復活後は不思議なからだとなり、戸を閉じていても室内に入ったり、エマオからあっという間にエルサレムに戻ったりしておられます。十字架の傷跡もありつつ新しいからだとなったのです。&lt;br&gt;教会が「キリストの」からだと言うとき、単なる肉体とは違います。教会に限らず、どんな組織でも「からだ」のように様々な人が集まっています。またかしらであるリーダーが存在します。部分である手や足が力を合わせることで大きな力を発揮します。しかし、教会はそのような組織以上の存在です。かしらであるキリストが聖霊を遣わして、教会に、また私たち一人一人の内側に働いておられます。ですから人間の力を越えて神の御業がなされるのです。&lt;br&gt;パウロは、この不思議なからだを「御霊」のからだと表現し、復活について教えました。教会は復活の主のおられるところです。人間の肉体はいつか終わりが来ます。組織も時代と共に変化し、衰えることもあります。しかし教会は時代の波にもまれて倒れたように見えても、また立ち上がります。迫害により多くの信徒が殉教しても、また救われる人が起こされます。時代の思想によって信仰がゆがみ、暗黒時代となっても、内側から改革が起きて息を吹き返します。人間の組織であると同時に、キリストの生きておられる場所なのです。また、イエス様のお姿は今は私たちの目には見えません。キリストのからだなる教会も、目に見える個々の教会とともに、全世界を覆っている目に見えない教会があり、個々の教会はその大きな教会の部分部分となっています。また、キリストが世の終わりに再臨されるように、キリストのからだなる教会は時代を超えて永遠に存在します。なんと不思議なからだでしょうか。&lt;br&gt;私たちの教会も創立以来、多くの方を天国に送りました。しかし、それは人数が減ったということではなく、今も天国で証人として祈っておられ、先に行って待っておられるのです。ギリシャ正教では昔の聖人の絵（イコン）を飾り、共に礼拝していると信じているそうです。私たちも先達の方も、またこれからの教会を担う人たちも、心を合わせてかしらなるキリストに仕えてまいりましょう。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2022-09-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>キリストのからだの成長</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。　　　　　　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（エペソ人への手紙四章16節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「からだ」の成長には様々な面があります。身長や体重と言った数値的な成長も大切ですし、内面的な成長も不可欠です。教会もきりすとのからだとして、あらゆる面で成長が期待されます。&lt;br&gt;人間のからだを考えると、その組織がいかに精巧に作られているかを知ると、神様の創造の御業の素晴らしさを感じます。また、その部分部分の組み合わせも驚くほどです。私は医学や生物学に関しては素人ですから詳しいことは言えませんが、肉体の一部分の調子が悪くなるだけで、その影響が全身に現れるのを見ると、からだとは単なる部品の寄せ集めではなく、絶妙に組み合わされ結びつけられた存在だと思います。さらに精神的な側面も結びついていて、心がからだに、またからだが心に影響を及ぼします。&lt;br&gt;一人のからだだけではありません。さらに人は他の人たちとの結びつきによって生きています。聖書でも、人間の創造は「男と女に創造された」と書かれ、「一人でいるのは良くない」と言われているように、最初から共同体を形成するようにと神様は導いておられたことが分かります。さら、「神のかたちに創造された」と教えられているのは、神様との関係も無くてはならないということです。&lt;br&gt;教会、すなわちキリストのからだを建て上げるというのは、教会全体の数量的な成長だけでなく、個々人のクリスチャンの信仰的人格的な成長、そして、その信徒同士の交わりが神様との結びつきの中で強められ、深められていくということも大切なのです。それが福音書では「神の国」と呼ばれ、『使徒の働き』と書簡では「教会」に関する教えにも示されています。&lt;br&gt;一つ一つの部分は地からも役割も違いがありますが、その力に応じて他の兄弟姉妹と結びつきを築き上げ、「あらゆる結び目」とあるように、各会や様々な奉仕、教会での交わりと、手紙やメールなどのやりとりなど、あらゆることが私たちを結びつけ、しっかりと組み合わされるのです。人間同士ですから時には人間関係のトラブルも起こるかもしれませんが、キリストの愛によって互いに許し合い、助け合う。これが、キリストのからだの建設です。肉体に無駄な部分がないように、教会の誰もがこの働きのために招かれ、用いられ、そして共に主にお仕えしていくのです。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2022-08-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>質も量も成長する教会</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;　（ガラテヤ人への手紙四章19節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「教会成長」ということが言われるようになったのは最近のことではありません。ホーリネス教団でも教会を次々と開拓した時期がありました。その頃、人数だけを増やすのはどうなのか、小さな教会はダメだと言うのか、という反論もあり、そのときに言われたのは、質と量における成長ということです。教会員数が増える、教会の数が増えるという量の成長だけを基準とすると、地方の小さな教会はなかなか増えることができないが、過疎地の小さな教会でも、そこに集っている信徒は、困難な環境でも信仰を守り通している、質の高いクリスチャンであり、教会は質的な成長も大切だ、という意見です。しかし、質か量か、ではありません。質が高いなら、生き生きとした信仰が周囲の人を惹き付け、人数も増えていくはずですし、また多くの人が来るようになれば、交わりと訓練により信仰も成長し、質的にも成長するはずです。数だけを誇ったり、質だけにプライドを持つなら、どちらも停滞する結果となってしまいます。&lt;br&gt;「キリストのかたち」は、キリストのからだである教会に属する一人一人に与えられている目標であって、キリストの十字架によって救っていただいた者はキリストのものとされ、キリストの御心に沿った者となり、その人の姿を通してキリストの栄光が証しされるのです。パウロは、多くの異邦人に福音を伝えて各地に教会を建て上げただけでなく、各教会のクリスチャンが成長してキリストのかたちとなっていくために、「産みの苦しみ」と表現するほどに、祈り、配慮し、また命がけで再訪問し、手紙を書いたのです。&lt;br&gt;今も、池の上教会がキリストのからだとして建て上げられ、成長しています。質も量もです。コロナ禍という特殊な状況のために、質的には厳しい状況ですが、その間、教会は新しい働きを始め、これまでは教会に来ることができなかった人ともつながり、祈りの交わりが増えてきています。三密を避けるために三部礼拝を行ったことは、将来に礼拝人数が増えても対応できる準備であり、仕事や学校の部活動など日曜の朝に来られない人に配慮する助けにもなります。十字架の苦しみさえも救いの道に変えられたキリストは、どんな困難をも用いて、私たちを御心のままに造り変えてくださるのです。子どもが質（人格）も量（体格）も成長するように、キリストのからだなる教会も、その一員である私たちも成長しましょう。&lt;/div&gt;</description>
    </item>
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        <dc:date>2022-07-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>教会はひとりの救いから</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（ルカの福音書十五章10節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;ルカ十五章でイエス様は三つのたとえ話を語っています。「百匹の羊のうち、一匹が迷子になる」、「十の金貨のうち、一つが見つからなくなる」、「二人の息子のうち、一人がいなくなる」。共通しているは、失われた一つの救い、です。一匹の羊、一つの銀貨、そして放蕩息子。その一人が救われたとき、大きな喜びが天にあるのです。新約聖書の中には数千人が一度に救われるという出来事（使徒二～四章）が記されていますが、一人の救いも描かれています。イエス様もサマリヤの女性（ヨハネ四章）や悪霊に憑かれたゲラサ人（ルカ八章）を救うためにわざわざ出かけていきました。使徒八章ではピリポが一人の宦官を救うために遣わされます。&lt;br&gt;近代では多くの人を集めての伝道集会が盛んになりました。ビリー・グラハム大会や「セレブレーション・オブ・ラブ」などの集会を覚えている方もおられるでしょう。大きな集会でも、求道者が決心をするときは一人が一人を導きます。教会成長も多くの人に福音を伝える面と、一人一人に救いを手渡す面の、両方が大切です。池の上教会の歴史も遡っていくと創立者である山根可弌先生が救われたことが発端であり、それは教会のお母さんと呼ばれた恵代先生の祈りと献身があったからだということは、何度もお聞きになったことがあるでしょう。&lt;br&gt;一人が救われるためには、何人ものクリスチャンが陰にあって祈り続け、また様々な形でその人の救いのために尽くしていたことが背後にあります。誰かが祈り、誰かが集会に誘い、誰かが声をかけ、誰かが親切にし、誰かが福音を伝える。その時、聖霊も働いてくださり、やがて、その人が信仰を告白するようになっていくのです。&lt;br&gt;キリストのからだである教会を建て上げるのは、教会全体が聖霊によって一つとなって働くことが大切であると同時に、一人一人の信仰が成長し、豊かな恵みに満たされ、祈りと証しがなされていくことも大切です。個々の信徒が、そして教会全体が神様の御心にかなった姿となるとき、その一人一人が用いられて宣教の働きも前進していく。個人と全体、信仰成長と教会成長、それは別々のことではなく、固く結びついているのです。ですから、一人が救われるときには、祈った人、導いた人、そして教会全体が喜びを感じ、天でも御使いたちに大きな喜びがあるのです。一人が一人を導く、この原則を忘れないようにしましょう。&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2022-06-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>私の教会、私たちの教会</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。　　　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（詩篇六五篇３節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;礼拝で信仰告白として読む「使徒信条」の冒頭は、原文では「我、信ず」と始まり、信じるのは「わたし」ですが、「我らの主、イエス・キリストを信ず」と、自分だけでなく教会全体にとってキリストが主であると告白しています。先に掲げた詩篇の言葉も、赦されるべきは「私の咎」であり、「私たちのそむきの罪」だと、個人の罪と共同体全体の罪とを結びつけています。&lt;br&gt;旧約聖書の時代は、神様はイスラエルを民族としてエジプトから救い出され、彼らを「神の民」として共同体を導いていかれますが、多くの人が偶像礼拝に染まってしまった時代には、「でも、私は主なる神様を信じます」と個人の信仰が重要なときがありました。新約時代になると、ユダヤ教や異教社会の中から一人一人がキリストを信じて救われるという個人の救いが原則となりますが、救われた者たちは「キリストのからだ」である教会を形成し、新しい「神の民」となっていきます。&lt;br&gt;欧米社会では、どちらかというと個人の信仰を重視してきたように思えます。教会も、気をつけませんと個人の寄せ集めになってしまう危険があります。日本などのアジア社会では共同体の力が強く、その中に生きている個人がキリストを信じようとするときに強い決断を必要とすることもあります。信じて救われてからは、新しい共同体である教会の中で、個人の信仰に立つよりも、「みんなが信じているから自分も大丈夫」と、共同体の中に埋没してしまわないように、しっかりと信じることを忘れてはいけないのです。&lt;br&gt;個人と共同体は、どちらも大切です。個人だけになると教会は個人主義に陥り、自分だけという自己中心に傾いてしまいます。反対に共同体を強調しすぎて、個人の心を押さえつけてしまうのは間違いです。両者のバランスが必要です。そのためには、教会のかしらであるキリストを中心とすることが大切なのです。もう一つは、他の人の信仰を受け止めあうことです。証しを通して、一人一人になされた神様の御業を崇めます。また誰かの罪を批判するのではなく、自分も同じ罪人であり、共に神様の前に心を合わせて祈り、赦しをいただくのです。こうして私たち一人一人がキリストの前で一つとなるとき、キリストのからだである教会は強められ、成長していくのです。今日も、お互いに信仰を励まし合い、また他の人の悩みのために祈りあいましょう。&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2022-05-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>キリストのからだに聖霊が注がれて</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道&lt;br&gt;&lt;br&gt;神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（創世記二章７節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;神様が人間を造られた様子を描いています。人間の物質としてのからだは、「土地のちり」から造られ、死んだら塵にもどると言われるように、儚く脆い存在です。その肉体に神様が息を吹き込まれたことによって「生きた」存在となったのです。神様のいのちの息と表現されているのは、人間の霊のことだとも言われます。ヘブル語の「霊」（ルーアハ）という言葉は、息や風と訳されることもあるからです。神が霊を与えてくださらなければ、人間は単なる物質であり、動物と大して変わらない生物にすぎません。「神のかたち」（一章27節）として造られたと言われる人間の特別な面は、この霊が与えられていることだと言われます。&lt;br&gt;キリストのからだと呼ばれる教会も、それと似ているのかもしれません。弟子たちが集まっているだけですと、それは生きた教会ではない。イースターの午後、弟子たちは集まって恐れていました。復活のイエス様が彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。イエス様が天に昇られた後、弟子たちは集まって祈っていましたが、そこに聖霊がくだられ、教会が誕生しました。それがペンテコステです。神の霊を受けなければ、、キリストのからだも生きていないのです。&lt;br&gt;私たちは、教会は建物ではないと教わりますが、建物はそこに集まるためのものです。現代はコロナ禍のために集まることが困難な時代ですが、迫害時代もクリスチャンは表だった建物ではなく、隠れて集まりました。今はインターネットも一つの集まる方法となっています。でも集まっただけでは足らないのです。私たちが聖霊に満たされる必要があります。祈りと御言葉のうちに聖霊が働いてくださいます。私たちが信仰をもって祈り、また聖書の言葉に聞き従うとき、そこに聖霊の働きが始まります。聖霊が生きて働かれるとき、人間の限界を超えて御業がなされます。インターネットでさえ、聖霊は用いることができるのです。離れていても、聖霊の助けをいただき、御言葉と祈りの交わりにより、私たちが霊的に一致するとき、それが生きた教会、キリストのからだとなるのです。&lt;br&gt;「キリストのからだを建て上げるため」、今日もお互いのために祈り合い、愛をもって仕え合いましょう。また同じ御言葉によって導かれ、キリストの御心に従う群れとなりましょう。そこに人知を超えた聖霊の働きがなされるからです。&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2022-04-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>復活によるキリストのからだ</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（エペソ人への手紙一章20節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;「教会はキリストのからだである」ということは今年の教会の標語でもあるエペソ書四章に教えられていますが、一章の最後にも書かれています。それは最初からそうだったのではなく、キリストの復活と召天が背後にあることを、この一章20節は教えています。復活前は、人間となられたイエス様の肉体はいつもイエス様とともにありました。しかし復活されたイエス様のお体は、これまでとは異なった面があったのです。遠く離れていた場所に一瞬で移動でき、鍵で閉ざされた部屋の中に突然に出現された。見た目は以前と変わりませんし、手に釘痕もあります。でも新しい体、復活のからだとなられたのです。&lt;br&gt;さらにイエス様は天に引き上げられました。今度は肉眼では見えなくなりましたが、代わりとして来てくださった聖霊が教会に下られ、一人一人の心に宿ってくださり、聖霊を通じてイエス様が心の中にいてくださるのです。聖霊が教会の中に豊かに働かれることで、かしらであるキリストが教会を導いてくださり、教会はキリストのからだとしての役目を果たすことができるのです。&lt;br&gt;復活と昇天、そして聖霊降臨という大きな御業があったからこそ、教会はキリストのからだとなることができたのです。私たちが自分の力でキリストにふさわしい姿となり、御心に忠実な働きをして、キリストのからだなる教会が建てあげられるのではなく、人間の働きも聖霊の助けをいただいて、キリストご自身が働いてくださり、教会が建てあげられていくのです。&lt;br&gt;どうしたら、私たちは教会を建て上げることができるか。それは、この神様の全能の力を信頼し、キリストに従うことです。かしらであるキリストのお考えを無視して、自分の思いのままにするなら、いつのまにか神様の働きを妨げるかもしれません。神様まかせで自分は傍観者になるなら、建て上げられていくキリストのからだからも離れてしまいます。聖霊が語りかけてくださるままに、御言葉に示されることに従い、喜んでキリストの僕として仕えていくとき、キリストのからだは成長していくのです。今年は、キリストのために、神の栄光のために、心から神様に従うしもべとなりましょう。神様はそんな私たちを嬉しく思い、豊かに祝福して用いてくださるのです。&lt;/div&gt;</description>
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        <dc:date>2022-03-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <title>キリストのからだを結ぶ十字架</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（エペソ人への手紙二章16節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;この御言葉の中で「両者」とはユダヤ人と異邦人のことです。旧約聖書の時代にはイスラエル人は自分たちだけが神の祝福に与ることができると思っていました。確かに神様はイスラエルを神の民とされましたが、その目的は彼らが世界中の人が神様の祝福を受けるための「祭司の国」となることでしたが、高慢と自己中心のためにユダヤ人は異邦人を見下していました。そんな彼らのことを周囲の異邦人も嫌がり、ユダヤ人と異邦人の間には敵意という隔ての壁があったのです。その壁を打ち砕き、両者を一つとするのは並大抵のことではありません。&lt;br&gt;この手紙が書かれた一世紀だけでなく、今も教会の中に隔てが生じることは度々あります。もともと私たちはそれぞれ違いがあります。好みや考え方、あらゆることで違いがあるのは当然です。また性格の違う人と「馬が合わない」のも普通です。しかし、それが隔てとなり、敵意にまでなってしまうのは、やはりそこに人間の罪があるからです。違いに目をとめて、自分は正しく相手は間違っていると考えるのは「自己義認」の罪です。相手を自分の思い通りにしたい、そうでなければ敵視する、というのは自己中心です。&lt;br&gt;お互いに、あるいは一方が我慢をしていても、続きません。本当の解決は十字架だと聖書は教えます。十字架は私たちに神様との和解をもたらします。神に背を向けていた罪を赦してくださり、神の子として受け入れてくださった。その神様の愛を知るなら、神様と敵対することはできなくなります。そのようにして私を受け入れてくださった神様が、我慢できないと思っている相手のことをも愛しておられ、イエス様が十字架の贖いで救ってくださった。その恵みを否定するなら、自分の救いも否定することになります。キリストの十字架が間に立っているとき、「両者」はキリストのからだ、すなわち教会の中で一つとしていただけるのです。&lt;br&gt;教会の交わりは、人間的な交わりだけですと、時には仲違いもおきるでしょう。十字架を中心とした交わりが聖徒の交わりとなるのです。キリストのからだである教会には様々な部分があり、違いがあります。それを結びつけるのは十字架に示された神の愛、キリストの恵みによる救いです。キリストのからだを建て上げるために、もう一度十字架に目を向けましょう。今は受難節です。&lt;/div&gt;</description>
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        <title>キリストのからだを建てる信仰</title>
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        <description>&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: FP-HiraKakuProN-W3;&quot;&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。　&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-family: FP-HiraKakuProN-W3;&quot;&gt;（マタイの福音書十六章18節）&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-family: FP-HiraKakuProN-W3;&quot;&gt;&lt;br&gt;「教会」という言葉が新約聖書の中で初めて登場する箇所で、ペンテコステに教会が誕生する前からイエス様は教会を建てることを計画しておられたことが分かります。この岩が何かについては、カトリック教会ではペテロのことだと言われます。ペテロとは「石」を意味しますので、岩との関連性があるからです。でも、この直後にペテロはイエス様から「下がれ、サタン」と叱られてしまいます。プロテスタントでは、この岩とはペテロが告白した「あなたは生ける神の子キリストです」（16節）という信仰告白だと考えられています。&lt;br&gt;教会がその上に立てられるべき土台がイエス様を救い主だと信じる信仰告白にあるということは大切なことです。イエス様を信じる人がいなければ人数が多くても教会とはなりません。二人、また三人でもイエス様を信じて集まるなら、そこに教会が建てられます。私たちもイエス様の十字架によって救われ、イエス様を救い主として信じる信仰によって生きるとき、キリストのからだである教会が建てあげられていくのです。また、その信仰を告白し、語り伝えるなら、教会は広がっていきます。ペテロがイエス様の十字架を否定し、人間的な考えを優先したとき、「下がれ」と言われてしまった。教会はイエス様への信仰が第一なのです。&lt;br&gt;この御言葉で見落としてはいけないのは、「わたし」です。ここで「わたし」と言っているイエス様です。教会は「わたしの教会」、すなわちイエス・キリストの教会であって、人間のものではありません。キリストを頭（頭）とする、キリストのからだなのです。また、「わたし」が建てる、というのは、人間の力だけでは教会は立つことはできません。イエス様が共にいてくださり、イエス様に従って働くとき、イエス様が建ててくださるのです。&lt;br&gt;今年の池の上教会の標語は「キリストのからだを建て上げるために」です。教会とは何か、キリストのからだとはどのように働くのか、一つ一つ考えてまいります。まず、イエス様こそ私の、また私たちの救い主キリストであることを信じる信仰を確認しましょう。まだ世界は揺れ動いています。でも小さくてもイエス様を信頼するなら、ハデス（黄泉）の門という人間には打ち勝てない死の力にさえも打ち勝つ。それが教会だとイエス様は約束しておられるのです。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;</description>
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        <title>キリストのからだを建て上げるため</title>
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        <description>&lt;div&gt;千代崎　備道　　&lt;br&gt;&lt;br&gt;それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり･･･。　　&lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;（エペソ人への手紙四章12節）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;「キリストのからだ」とは教会のことですが、教会を建て上げるとは建物の建築ではありません。今も生きておられるキリストの「からだ」としての働きを担っている教会に、神様に召された私たちがキリストを中心として集められ、一つとなって主なるキリストに仕える。それがキリストのからだなる教会を建て上げることです。&lt;br&gt;疲れた体と心は休むことで癒やされても、休んだままですと動く力まで衰えてしまいます。コロナ禍の疲れから癒やされるために、教会は何をしたら良いのでしょうか。教会は互いに仕え合うため、また宣教のために存在しています。仕え合うとは具体的には奉仕です。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」とは、キリストに仕えたいクリスチャンが御言葉によって信仰を整え、御心を学び、より良く仕えることで、キリストに仕える喜びがあります。昨年はできないことも、できたこともありました。退修会やコンサート、若者たちの新しい活動、また先輩の信徒たちがインターネットで集会を行いました。今年はさらにできることを探し、これまで以上に助け合いつつ神様に仕え、教会はますます成長するのです。&lt;br&gt;昨年は聖餐式も二回行いました。聖餐式は主の命令であり、十字架の意味を教えます。「キリスト、我がうちにありて生くるなり」と、キリストが私を通して働かれ、キリストと同じ生き方へと変えられる。最後の晩餐でイエス様は弟子たちの足を洗い、僕となって互いに仕えるように教えました。私たちも教会の中でも外でも、隣人に仕え、福音を伝えるのです。仕えるよりも人の上に立ちたいのは自己中心です。僕となって仕えるときに私たちは成長します。私たちが主に仕え、奉仕と宣教で互いに仕え合い、自分も教会も前進する。それがキリストのからだを建て上げることです。&lt;br&gt;現実の教会には不足があり、不満を覚えるでしょう。でも自分も足らない点があり、それを補い合うのが愛です。人の不足を裁くのではなく愛によって補うとき、人間の不足にキリストが働かれ、その愛がキリストのからだの各部分をつなぎます。昨年来、教会の交わりは大きな打撃を受けています。でも共に祈り、共に主に仕え、離れていてもお互いのために何かをして、前よりも強く結び合うのです。どんな試練も乗り越える力が与えられ、教会はさらに強められます。教会も一人一人も成長することを目指していきましょう。&lt;br&gt;（元旦礼拝説教より）&lt;/div&gt;</description>
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