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み言葉のいづみ

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主のなされた祈り

2013-03-01
  千代崎 備道

  さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
 「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
 
  (ルカの福音書 十一章 1節)
 
  主イエスが教えられた祈りというと「主の祈り」が有名ですが、それだけではなく、イエス様はさまざまな機会
 
に弟子たちに祈りに関して教え、また実際に祈っている姿をお見せになり、お聞かせになりました。ゲツセマネ
 
での祈りも、弟子たちが聞こえるところで祈られたのは、その祈りを知って欲しかったからです。そのような祈
 
りの実践例として重要なものの一つは、十字架上の祈りです。
 
  十字架で語られた七つの言葉の中で、明らかに祈りであるのは三つです。十字架につけられて最初にされた
 
祈りは、「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ二十三・34)でした。苦難のただ中で、しかもその苦しみを与えてい
 
る人々が赦されるように、とりなしの祈りをなさったのです。私たちも、この祈りの対象に含まれています。です
 
から、クリスチャンの祈りは、自分のためだけでなく、とりなしの祈りであるのです。
 
  第二は、有名な「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ二十七・46)です。これは
 
詩篇二十二篇の引用として、絶望や敗北ではなく、苦難の中での信仰を告白しているのですが、もちろんイエス
 
様の苦しみを赤裸々に述べたものでもあります。人間には限界があり弱さがあります。その中で神様に正直な
 
気持ちで「苦しいです」と訴えることは、決して不信仰ではありません。どんな祈りでも、砕かれた心からの言葉
 
を神は受けとめてくださいます。
 
  第三は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ二十三・46)との祈りです。最後は、主に委ねるのです。
 
出来ることを誠実に実行しても、なお足らないことがあります。逆に、自分の力で結果を左右しようとして握りし
 
めてしまうこともあります。最後は、全てを神に委ねるとき、神様がご栄光を現してくださるのです。
 
  十字架の祈りは、肉体を持って人間として歩まれた主イエスにとって、ギリギリの限界でなされた、私たちのた
 
めの祈りの教えです。私たちも苦難の中で絶望しそうになるかもしれません。その時、イエス様が私のために十
 
字架にかかり、私のために祈ってくださったことを覚え、私も天を仰いで祈る者となりましょう。

祈りを聞かれる神を知る

2013-02-01
千代崎 備道

「祈りを聞かれる方よ。」
(詩篇 六五篇 2節前半)
 
  聖書の中には祈りに関する約束が多くあり、私たちが信じて祈るなら神様はその祈りを聞い
てくださる、と教えられています。しかし、実際には、祈ってもなかなか祈りが聞かれない
ことがあります。神様は祈りを聞いておられるのだろうか。聞いていても、かなえては下さ
らないのだろうか。そのように悩み、祈りを止めてしまいそうになります。しかし、神様は
確かに祈りを聞いてくださり、私たちが考える以上のことをもって祈りに応えてくださるの
です。
  人間には言い間違えることがあります。もし、ミカンが欲しいと思いながら、「リンゴを
ください」と言ってしまい、そのとき相手がリンゴをくれたら、少し残念ですが、相手の親切
に感謝します。もし、相手がこちらの気持ちを察してミカンをくれたなら、自分のことを良く
理解してくれる相手の配慮に感謝できます。神様に祈るとき、祈ったものが与えられる以上に
素晴らしいことは、祈りをきいていてくださる神様がどういうお方かをを知ることなのです。
  昔、アメリカの田舎に貧しい牧師一家が住んでいました。食べていくのに精一杯で、生活に
必要なものでも買うことができない一家は、一人暮らしの叔父さんがクリスマスに送ってくれ
るお金で毎年助けられていました。ある年、クリスマスにお金ではなく、プレゼントの箱が送
られてきました。しかし中身は、貧しい一家には相応しくなくて使えないものばかり。がっか
りしたと同時に、必要なものを今年は買えないことで落胆してしまいました。しかし牧師は言
いました、「家族のいない叔父さんが私たち一人一人のことを想いながら選んでくれたプレゼ
ントだ。叔父さんの愛に感謝しよう」。家族は感謝して、自分へのプレゼントを受け取りまし
た。牧師婦人が、彼女には似合わない派手なバッグを手にとって開けてみると、中には毎年と
同じ金額の小切手が入っていたのでした。
  神様は私たちにとって何が本当に必要なのかを知っておられ、いつそれを渡すのが最も良い
かもご存じです。私たちは自分の欲しいものが、自分の願ったときに、自分の計画していた方
法で与えられることを求めがちですが、神様は最善のことを知っておられるのです。祈りなが
ら神様に問いかけるときに、神様に近づくことができ、神様の思いを教えていただき、神様の
素晴らしさに触れることが出来たら、なんと幸いなことでしょう。祈りを聞きたもうお方を信
頼し、祈りによって御側に近づきましょう。

祈りにより神に近づこう

2013-01-01
千代崎 備道

  「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった
  助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
(ヘブル人への手紙 四章16節)
 
  平均的な日本人が祈るときが二種類あります。一つは、年の初め。数千万人もの方々が初詣に行き、一年の
 
無病息災商売繁盛等々を祈ります。それは、何らかの利益を求める祈りです。もう一つは、「困ったとき」の神頼
 
み。自分に起きた問題が解決され、結果としては益になるのですから、これも利益を願う祈りです。ですから御
 
利益があるという神社仏閣には多くの人が集まります。しかし、その中で、その神仏に祈ること自体を喜びとして
 
定期的に訪れている信心深い人や、祈っている相手のことをもっと知りたいと思って学ぶ人は、あまり多くはな
 
いでしょう。
 
  決して、他の宗教を批判しているのではありません。私たちも同じ事をしていないでしょうか。神様に祝福を願
 
い、助けを求めて祈ることは良いことです。しかし、祈りが答えられること以上に、祈りを聞いていてくださる神様
 
を慕い求めているでしょうか。自分の利益を求めることだけが祈りの目的であるなら、それは自己中心な祈りな
 
のです。
 
  しかし、神様は、そのような自己流の祈りでも良いから「祈りなさい」と言われます。それは、祈っているとき
 
は、神様の前に出ていくからです。最初は自分の願いをひたすら述べるだけであっても、やがて、神様に「ど
 
うしてですか」と問いかけ、自分の気持ちをぶつけるようになります。そのとき、私たちは神様に心を向けてい
 
るのです。神様は、私たちが心を注いで祈るのを待っておられます。形だけでなく、心を開いて神様に話しか
 
けるのを求めておられるのです。そして、私たちが心の耳をすますなら、細き御声をかけてくださり、また聖書
 
の言葉を通して御心を示してくださる。その時、神様との会話、神様との交わりが始まっているのです。
 
  祈りは難しいと思われるかもしれません。最初は自分勝手な祈りでも良いのです。祈り続けるとき、神様が
 
もっと近い存在に感じるようになります。神様はいつも私たちと共にいてくださるのですから、私たちも神様に
 
近づきましょう。神様との交わりがわかってくるとき、どんな問題があっても平安が与えられ、どんな願いが叶
 
えられるよりも素晴らしい喜びが生まれてくるのです。祈りをすることによって、神様に近づく一年といたしま
 
しょう。

闇の中にいる人のための光

2012-12-01
千代崎 備道

  さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使い
 
  が彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。
 
 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」
 
(ルカの福音書二章8~10節)
 
  救い主誕生のしらせを最初に聞いたのは、その当時、低い身分とされ、人々から卑しめられていた羊飼い
 
たちでした。天使が現れたときは夜中であり、彼らは野宿をしていました。街灯など無い時代、辺りはどれほ
 
ど暗かったでしょうか。羊飼いたちの焚き火が弱い光を周囲に投げかけているのみでした。その暗さは、彼ら
 
の置かれている境遇を象徴し、また、彼らの心を反映しているかのようでした。そこに天使が現れ、「主の栄
 
光が回りを照らした」のです。突然の輝きに「彼らはひどく恐れた」と書かれています。暗闇を照らす光が与え
 
られても、まだ心の中に本当の光が無いために、天からの光さえも恐れてしまったのです。
 
  罪の闇に支配される生き方をしていると、神様の光がまぶしすぎて隠れたくなったり、光に照らされて自分の
 
罪に気が付くのが嫌で逃げようとすることがあります。光は良いものです。しかし、その光を受け入れられない
 
ほど、私たちの心は闇に囚われてしまうことがあるのです。
 
  天使は「恐れることは無い」と彼らを励まし、「この民全体のため」の知らせを告げました。恐れの中に閉じこ
 
められている人々のためにも、この「すばらしい喜び」のニュースが与えられたのです。クリスマスは、全ての
 
人のための恵みです。特に闇の中で悩み苦しんでいる人のための「知らせ」です。なぜなら、自分の力では闇
 
から抜け出せない人々のために、救い主は自ら闇の世界に来てくださったからです。「主はわたしの光」(詩篇
 
二十七・1)、それは、どれほど自分の心の中に闇があっても、その闇夜を照らし、新しい喜びの世界とするた
 
めに、キリストが光となって入ってきてくださるお方であることを意味します。
 
  あなたの心に闇はありませんか。もしそうならば、このクリスマスの良き季節に、もう一度、あなたの持ってい
 
る暗闇を神様の前に包み隠さずに述べて、「まことの光」(ヨハネ一・9)として来てくださった主イエス・キリスト
 
に、「わたしの光となってください」と祈ろうではありませんか。

輝かせてくださるのは神

2012-11-01
  千代崎 備道

  あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れの
  ときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
 
(ペテロの手紙第一 1章7節)
 
  神様が光であることは真理です。たとえ世界が闇であったとしても、黒雲の上で輝く太陽のように、変わること
 
のない光です。また、私たちに永遠の命という光が与えられ、世の光として輝くようにと召されていることは、御
 
言葉により神様が約束してくださったことです。それなのに、なぜ私たちは闇の中で悩み苦しみ、また自分の罪
 
のために自分が世の光としての使命を果たしていないと感じるのでしょうか。これは、簡単には答えが出ない難
 
問です。
 
  私たちはこの世の基準に基づいて判断したり、自分の理解できる範囲で考える傾向があります。聖書は、永
 
遠の視点から神の真理を示します。地上においては光と思えることが、実は一時の輝きであり、やがては消え
 
失せてしまうものがあります。今は薄汚れている原石が、磨かれたとき、人間の生涯よりも長い間輝き続ける
 
宝石となることがあります。しかし、それも永遠の光ではなく、燃やせば灰になってしまうものかも知れません。
 
  神様が光であるとは、停電の時だけ役に立つ懐中電灯ではなく、天地の始まる前から光であり、また世界の
 
光を創造されたお方、そして天地が滅びた後、永遠の世界においても輝いているお方が、私たちと共にいてく
 
ださることです。私たちが世の光であるのも、私のためではなく、神様の栄光を反映するものとして用いられる
 
ためであり、神様の目的と計画に沿って輝くのです。
 
  神様は、私が自分の力で輝くのではなく、神様ご自身が私たちを磨き、洗い清め、聖なる者となって、神様の
 
光を豊かに受けて反射して輝くものとなるようにと計画なさり、主が再び来られて新天新地が始まるときに最高
 
の輝きとなるようにと備えておらえるのです。ペテロは苦難の中にいる信仰者たちに、地上での試練は金を純
 
粋にする精錬の炎だと教えました。私たちにも試練の時があります。しかし、それは神様が私たちを見捨てた
 
のではなく、取り扱っておられるのであり、必ず、天からの栄誉を受けて輝くものとなることを示しているのです。
 
神様のお取り扱いを妨げる「頑固な自我」を砕いていただいて謙遜な心に変えられ、光を受けることを妨げてい
 
る罪があるなら、赦しきよめていただいて、神様に精錬され研磨された宝石としていただきましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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