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み言葉のいづみ

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今、知りました

2015-11-01
千代崎 備道
 
   あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、 私は知りました。・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この
 目であなたを見ました。
(ヨブ記四十二章2、5節)
 
   ヨブは正しい人でしたが、あるとき、突然の災難を体験します。一日の内に、これまで築き
上げてきた全財産を失い、将来の望みである子どもたちを失います。さらに健康を失い、妻も
厳しい言葉を投げかけ、苦しいときに寄り添ってくれた友人たちからも非難を受けるようにな
ります。
   ヨブはそれでも自分の正しさを主張し、自分の知恵を誇ります。自分自身の自尊心は失われ
なかったのです。ところが、目下の者からの言葉がヨブの高慢な思いにくさびを打ち込みま
す。「神はある方法で語られ、また他の方法で語られるが、人はそれに気づかない」。神は
ヨブの受けた災いでさえ用いて、彼に語りかけているのに気が付かなかったのです。この若
者の言葉を聞いてヨブは沈黙しました。彼が黙ったときに、神はヨブに語りかけてくださっ
たのです。
   私たちが生ける神を知ることを妨げているものは、ある人にとっては持っているもの(財産
だけでなく、夢やプライドや経験)から心が離れないことかも知れません。また人との関係
の中で埋没し、論争や自己弁護をするあまり、神に対してさえ心を閉ざしてしまうときもあ
ります。そのとき、私たちに必要なことは神の前に沈黙することです。

   有名な詩篇四十六篇10節は、文語訳では「汝ら静まりて我の神たるを知れ」ですが、「静
まる」とは「黙る」という意味です。新改訳は「やめよ」、新共同訳は「力を捨てよ」と訳
しています。ヨブにとっては、災いに遭い、さらに論争でも行き詰まったとき、始めて沈黙
し、神の声を聞く姿勢が出来たのです。ヨブの災いは彼にとっては神からの「静まれ、やめ
よ」となったのです。
   神からの圧倒的な語りかけは、ヨブの小さなプライドも、限りある知恵も打ち砕くもので
した。そして、彼はこれまで知っていると思っていた「小さな神」ではなく、「生きて働い
ておられる神」を目の当たりにしました。ヨブが生ける主を知ったとき、彼の人生は再び動
き始めたのです。
   私たちも、生ける神を知るときが来ています。神の前に静まって、細き御声に耳を傾けま
しょう。主は、私にも語りかけておられるのです。

主はここにおられるのに

2015-10-01
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らな
かった」と言った。
(創世記二十八章16節)
 
  ヤコブが始めて神様が生きておられ、自分と関わってくださることを知ったのは、兄から逃げ、石を枕にして地面に寝ていたときでした。彼はその場所に神がおられると考え、その町を「神の家」(ベテル)と呼ぶようになりました。しかし、彼はまだ知らなかったのです。神様は、その町だけでなく、彼の行くところ、どこにでも共にいてくださることを(15節)。神様は今も生きておられるおかたです。でも私たちの方がそれに気が付かなかったり、頭では分かっていても心から信じることが難しくなってしまうのです。
  ヤコブは人生の挫折の時に始めて神様を個人的に知りました。それまでは父や祖父の信仰している神だと理解していました。でも、家族の守りを失ったとき、自分の神であるお方として知ったのです。人生の特別なとき、特に試練の時に人は神を求め、その中で生ける神に出会います。愛する人の死、大切なものを失ったとき、人生に行き詰まったとき、救いを求める思いになって始めて、そこにおられる神様を認めるのです。求める気持ちが強くないときは、認めたら負けのような気がするのか、神様が本当に生きておられることを否定したくなることもあります。でも自分の力では人生をどうすることも出来ないと認めざるを得なくなったときは、神様に対しても素直になれるのです。ですから、「特別な試練」が信じる機会となるのかもしれません。
  しかし、特別な時でなければ生けるまことに神に出会えないということでもありません。神様が語ってくださる言葉を、聖書の言葉を通して聞くならば、いつでも神様はご自身を私たちに示してくださいます。毎日、聖書を読み祈っているクリスチャンは少なくないでしょう。でも、毎日読む御言葉から神様の語りかけを聞き、この御声に導かれて歩むためには、聴く心を養い、神様を信頼して従う姿勢が必要です。そのような「聞く耳」を持つようになるなら、日々のどんな出来事においても、そこにも神様の助けと導きがあることを知ることが出来るのです。
  奇蹟のような特別な経験だけを求めることは、全てのときに全てのことを支配しておられる、生ける真の神を認めないことになります。家庭や職場、どこにいても、「この場所に神様がおられる」と認める信仰者とならせていただきましょう。

主は生きておられ、私は・・・

2015-09-01
千代崎 備道
 
  あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私た
ちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光
のうちに現れます。
(コロサイ三章3~4節)
 
  ご葬儀のたびに、私たちは「死」について考えます。私たちは誰もがいつかは死ぬ存在です。
それに対し、神様は永遠に生きておられるお方です。神様は命の根源であり、「いのちの主」
です。ところが、その神様が人間の肉体を取られて地上を歩まれ、ついに十字架の上で死ぬと
は、「命の創造主」であるお方にとって、あるはずが無いと思えるような出来事です。でも全
知全能の神様は、人間には理解できないことをなさいました。何のためでしょうか。それは、死ぬべき人間を救い、永遠の命を与えるためです。復活されたイエス様は、私たちに新しい命
を与えてくださったのです。
  今、私たちは、この地上では寿命がありますが、天に昇られたイエス様を見上げるなら、そ
こに自分の命がある、とパウロは語りました。「世の終わりまであなたがたと共にいる」と約
束されたイエス様は、私たちの人生に伴ってくださるだけでなく、死ぬ時も一緒に死の川を亘
ってくださり、共に天国に連れて行ってくださるのです。このお方を信じ、キリストによる永
遠の命を信じるなら、イエス様を見るときに死への恐れは消え去ります。古い命、罪に従う生
き方は、イエス様と共に十字架の上で死に、今は主に従う新しい生き方に移されたことを受け
入れるなら、主は私たちのうちに生きておられ、私たちもイエス様のなかに生かされているの
です。
  「主は生きておられる」と信じる信仰は、私が生かされている間も、天に召されるときが来
ても、変わることはありません。自分の姿を見るなら、失望することもあります。でも、そん
な自分を愛して十字架にかかってくださり、今も生きておられるイエス様を見上げるなら、失
望に終わることの無い人生を歩むことができるのです。
  愛する家族を天に送る悲しさも、イエス様を信じ信頼するとき、やがて主の愛により心が満
たされていきます。どんな問題でも、主が共にいてくださり、私たちも主のなかに生かされて
いるとき、解決できない悩みは無いのです。
  「主は生きておられる」との告白は、自分とは無関係なことではなく、私も共に生かされて
いると信じる恵みとなります。一人一人が「私の仕える万軍の主は生きておられる」と信じ、お従いしていきましょう。

生ける神を知る

2015-08-01
  千代崎 備道
 
     すべての道で主を認めよ。(箴言三章6節 口語訳)
 
 
  夏休みに旅行をして、自然に触れる機会があったでしょうか。大自然を通して私たちは神様
の偉大さと、また大きさだけでなく細やかなところにまで行き届いている神様の知恵があるこ
とを知ります。また聖会や退修会などの特別な集会に出席し、あるいは毎週の礼拝や毎日個人
で聖書を読むことを通して、聖書の登場人物と共に神の導きを知り、聖書の中心である御子イ
エス・キリストを通して神の愛を知ることができます。
  生ける神を知るとは、どのようにしたら出来るのでしょうか。知ると言っても、自分の力、自分の頭だけで完全に理解できるほどに神様は小さなお方ではありません。何か特別な学び
をして自分で知ろうとするのではなく、むしろ、苦難や問題のただ中で語りかけてくださる
ことによって神様の方が私たちにご自身を知らせてくださるのです。その神様の働きは、特
別な機会だけに限られるのではなく、聖霊は実に自由に私たちに働きかけることがお出来に
なります。キリストは、父なる神と、神がこの世に遣わされたキリストを知ることが永遠の
命なのだと教えられました(ヨハネの福音書十七章3節)。このお方を知らなければ、豊か
な人生にはなり得ないのです。
  もし普段の生活の中で、それが教会生活だけに限るのではなく、仕事や家庭、あらゆること
において、そこに主が共にいてくださることを認め、神様が私の人生を治めておられることを
受け入れるなら、神様はそのようなへりくだった心の中に働きかけてくださるのです。
  冒頭の箴言の聖句は有名な言葉です。口語訳聖書では「すべての道で主を求めよ」と訳され、新改訳第三版では「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」、そして新共同訳聖書は
「常に主を覚えてあなたの道を歩け」と意訳しています。どの訳も味わい深いと想います。ど
こに行っても、どんな時にも、人生の全ての道において、主を認めるなら、そこに主が生きて
働いておられることを知り、豊かな恵みに満ちた人生に変えていただけるのです。もし神を認
めず、「この場所は私のもの、私の思い通りにしたい」と頑なになるなら、生ける神を知るこ
とは出来ないのです。
  あなたが置かれている場所、歩んでいる道、取り組んでいる働きや学び、それが何であって
も、自分から神様を神様として認め、このお方に従って行く者となりましょう。その道は天国
に続く道だからです。

主はここにおられる

2015-07-01
千代崎 備道

    たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
(詩篇百三十九篇8節)
 
   小学生の頃、始めて自分のラジオを持ちました。何かの付録だったか、鉱石ラジオのよう
なものだったか、忘れてしまいましたが、実際にラジオ放送の電波を受信したのを聞いたと
きの不思議な驚きは覚えています。テレビやラジオは家にあっても、子どもとしては自分の
ラジオという意味で、始めての体験でした。
   神様は全世界におられるお方で、神学用語では「遍在」と言います。でも空気のようにど
こにでもある、というだけですと「空気のような存在」になりかねません。それは特に私た
ちとの関係において、私がどこにいてもそこにおいでになるということです。詩篇の詩人は、天でも黄泉(死者の世界)でも、主はそこにおられる、と告白し、賛美しています。
   電波もどこにでもあるのでしょうが、それを受信して始めて、存在を実感できます。神様
がここにおられることを実感する体験が、神は生きておられるということを理屈として知っ
ているだけではなく、強く生き生きとした信仰へと私たちを導きます。そのような体験は人
生に一度だけということではなく、必要な時に何度でも神様は私たちに声をかけてください
ます。
   ヤコブは自分の罪が原因で挫折したときに神と始めて個人的な出会いをしましたが(創世
記二八章)、彼の頑固な自我が砕かれるためには、神と取っ組み合い(の祈り)をする必要
がありました(同三二章)。アブラハムの妻サライの女奴隷ハガルも、自分の高慢の罪の結
果、主人から逃亡している途中で神の使いに出会いましたが、また同じ罪により自分の息子
が主人の息子を敬うように育てなかったために追い出され、そこで再び神の声を聞きました
(同十六章、二一章)。私たちの人生にも、そのような経験が必要であり、あるいは何度も
必要なのではないでしょうか。
   神様との生きた出会いなんて、特別な人間だけが出来るのであって、自分には出来ない。
そう思うのは、まるで自分を神様から遠ざけ、地の果てや黄泉の底に逃げているかのようで
す。しかし、私たちがどこに行っても、逃げようとしても、どんな霊的状態でも、またハガ
ルのようなイスラエルの正当な歴史からは疎外されているような存在でも、神様は見ていて
くださり、声を掛けていてくださるのです。この生きておられる神様を知る経験を求めてみ
ませんか。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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