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み言葉のいづみ

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神の栄光への招き

2014-11-01
千代崎 備道

  主の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。
 
   なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。

(エゼキエル 四十三章4~5節)
 
  エゼキエルはユダ王国が滅亡してバビロン捕囚に連れて行かれた時代の預言者です。前半は神の審きと
してエルサレムが破壊されることが告げられます。その理由は、神に背いて罪を犯し続ける人々を見捨てて、栄光の神が神殿から離れたからです。神の栄光無しには、どれほど煌きらびやかに見えても、神の家は空し
 
いものです。後半は、エルサレム崩壊後に、やがて神がイスラエルを救ってくださり、エルサレムも回復される
 
ことが預言され、その締めくくりとして、新しい神殿の姿をエゼキエルは幻のうちに見せられます。
 
  四十章から始まる長い部分は、幻の神殿の描写で、読んでいても退屈なところです。そこに描かれている神
 
殿は、案内役の天使と響き渡る神の声を別にすれば、まるで誰もいないかのように感じます。神の栄光が満ち
 
あふれる神殿は、人っ子ひとりいないのです。それは、今は罪のために捕囚地で辱めを受けている人々に、彼
 
らが神を信じ、罪を悔い改めて立ち帰るなら、神は素晴らしい場所を用意して待っていて下さることを示してい
 
るのです。神様は人々を、その栄光に輝く場所へと招いておられるのです。
 
  イエス様が弟子たちのために用意される天国の住まいも、素晴らしい場所に違いありません(ヨハネ十四章
 
2節)。でも、私たちがそこに入るのでなければ、その輝く場所を見ることも味わうこともできません。それは、この人生が終わった後のことだけではありません。神様は、今、この世において私たちが生かされている人生
 
においても、私たちをご自分の栄光を現す生涯を送るようにと招いておられます。それを求めて経験するかは、私たち次第なのです。
 
  聖徒と呼ばれる信仰の先達を思うとき、あの方たちのような、光り輝くクリスチャンとなれるだろうかと自問し
 
ます。私には出来ないように感じます。でも、誰も、自分には出来ると思っていなかったでしょう。ただ、神様の
 
御声に従い、約束の御言葉を信じて生きたのです。そのとき、神様が用意してくださった生涯を歩むことができ
 
たのです。そして、本人も気がついたとき、なんと、ここに栄光の神様が一緒にいてくださった、と驚くのではない
 
でしょうか。神様は私たちの心の宮にも入ってくださり、内側から栄光を輝かせたいと待っておられるのです。あ
 
なたの人生を主に委ねましょう。

種蒔きから収穫へ

2014-10-01
千代崎 備道

   神の国は、人が地に種を蒔くようなものです。
(マルコの福音書 四章26節)
 
   収穫の秋です。春に蒔かれたものが、夏に生長し、秋に実を結ぶ。そのプロセスの一つ一つ
は不思議に満ちています。どのように育つのかは人は知らない、とキリストは語りました(マ
ルコ四27)。現代の科学では植物の生長のメカニズムは、その多くが解明されましたが、なお
分からないことがあるので学者たちは探求を進めており、創造の神の知恵がどれほど深いかを
覚えます。確かに「成長させてくださるのは神なのです」(第一コリント三7)。また、神の
御業の偉大さと共に、農業に携わる方々の苦労も覚えます。夏の暑いときに、水をやり雑草を
抜き、虫や病気から守る。それは簡単には書けないほど大変なことでしょう。しかし、どれほ
ど人間が力を尽くしても、なお災害のために思い通りの収穫とはならないこともあります。人
間の努力と神様の御業を考えると、収穫がどれほど素晴らしい恵みであるかを知ります。
   このプロセスの中でどうしても必要なことがあります。それは、種を蒔くことと、実ったも
のを収穫することです。種が無ければ実りもありませんし、実っても刈り取らなければ得るこ
とができません。その働きは人間に委ねられています。私たちの信仰のためにも、神様は種を
与え、成長させ、実りを与えてくださいます。しかし、種を蒔かなければ、始まりません。
   すでに御言葉の種をたくさん受けておられますね。その御言葉を実行し、生活の中に実践し
ようとするとき、種は芽を出します。聞くだけでは、いつか種は失われます(マルコ四15から
17)。実行に移すとき、不思議なように神様が働いてくださって、芽を出し根を張り伸びてい
くのです。まだ種が足らないという方は、もっと種を求めるのも良いでしょう。神様の恵みも
御言葉も、無尽蔵に与えられます。でも、どこかで自ら進み出ることが大切です。救いを求め、あるいは、きよめを願い、成長を目指すのでしたら、信じます、従います、と決断するのです。
そのとき、神様は助けを備え、水を注ぐ人を与え、太陽の光で照らし、成長を促してください
ます。
   成長への一歩を歩み出すなら、もうすでに収穫への不思議な働きは始まっているのです。
それが、「栄光から栄光」の「栄光から」の部分です。あなたも栄光への一歩を踏み出し
ませんか。それ無しに栄光の収穫はあり得ないからです。

輝く人生をあなたに

2014-09-01
   千代崎 備道

   しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。
(箴言十六章31節)
   若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。
(箴言二十章29節)
 
   私たちが天国に行ったときには、栄光のからだに変えていただけることを知っています。でも、地上での人生
 
は失敗や罪のために、とてもではありませんが、自分の人生に栄光があるとは思えないかもしれません。しか
 
し、聖書は私たちに「栄光から栄光に変えられる」と語っています。今すぐに、とは言えないとしても、やがて輝
 
くような人生となることを願います。
 
   上にあげた二つの聖句は「しらが」について語っています。もちろん、頭髪の話では無く、年長者のシンボルと
 
しての「しらが」です(ですから、白髪とは違う状態になっても心配はありません)。旧約聖書は高齢者への尊敬
 
を繰り返して命じています。特に正しい人生を送った人が模範として敬われるのは御心にかなったことです。そ
 
の尊敬は最初からあるのではなく、長い時間をかけて培われていくものです。若いときは自分の力に頼り、自分
 
で栄光を得ようとします。しかし、人生の苦難を経験し、謙遜を学び、神からの知恵を学び、神の恵み深さを味わ
 
い知ったとき、その人が醸し出すものは、若い人には太刀打ちできない、重みのある言動となっていくのです。
 
旧約聖書の言葉であるヘブル語では、「栄光」という言葉の語源は「重い」という言葉です。
 
   力や明るさに溢れる若者の賛美も主の栄光を現します。信仰の人生を歩んでこられた方々の祈りも主の栄光
 
を述べています。若者にも年長者にも大切なことは、主を畏れ、主の言葉に従うことであり、それが人生の知恵
 
であることを箴言は教えています。それが、栄光から栄光へと進む生き方だからです。もちろん、そのような生き
 
方は簡単ではないかも知れません。しかし、主に従う生活は、自分の力だけで出来るのではなく、主を信頼する
 
信仰による毎日の結実です。ですから、次の御言葉を忘れないようにしましょう。
 
   「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じ
 
ようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼ
 
う。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ書四十六章3節後半から4節)。

苦難と栄光のメカニズム

2014-08-01
千代崎 備道
 
   私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
 
   それは、患難が忍耐を生み出し……と知っているからです。
 
 (ローマ書五章2~5節抜粋))
 
   昨今のトマトは果物のように甘いものがあります。そのような甘さを作り出すために、実がなり始めると、トマト
 
の葉を剪定し、極限まで水分を減らすと聞きました。すると必死で水分を求めて、その結果、甘さが濃縮されて
 
いるらしいです。トマトにとっては災難ですが、命のたくましさの不思議を思います。
 
   自然界のメカニズムを創造された神様は、人間の命をも造られ、どのように私たちが成長するかを、どんな専
 
門家よりもご存じです。冒頭の御言葉は、特に3~4節が有名です。患難が忍耐、品性、希望へとつながってい
 
く様子は、人生の経験を積んだ人にとっては理解出来るかもしれませんが、若い人には、特に、今、苦難の中
 
におかれている人にとっては、理解しろと言っても無理かもしれません。しかし、この御言葉は、「若い時の苦労
 
は買ってでもしろ」というような人生訓ではありません。2節には「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と書
 
かれています。神の栄光を望んでるからこそ、苦難の中でも、それが希望につながり、失望には終わらないと
 
信じて、どんな状況でも喜ぶことが可能となるのです。
 
  イエス・キリストを信じて救われ、神の栄光を目標とする生涯に入れていただいた私たちは、このようなメカニ
 
ズムの生き方になったのです。ですから、苦難があっても、必ず、忍耐、品性、希望へとなるのです。そのため
 
に神様は、神の愛を私たちに注いでくださるのです。神の愛を忘れ、信仰と恵みを忘れ、人生の目的が神の栄
 
光であることから目が離れてしまうなら、このメカニズムを理解することは出来ません。でも、忘れてしまいやす
 
いのも私たちの持つ弱さです。ですから、神様はそのことを学ばせ、思い出させてくださるように、苦難の中で御
 
言葉をかけてくださるのです。
 
   アメリカに留学していたころ、様々な困難がありました。経済的な苦労もありましたが、本分である勉強でも苦
 
労しました。読んで理解するのに一年かかる(それは私の力不足でもありますが)本を二冊読んだとき、自分の
 
中での聖書の読み方が変えられ始めました。それは後から分かるようになったのですが、その苦労は決して無
 
駄では無かったのだと痛感しました。今でも説教の準備では苦労が無くなったのではありませんが、困難だから
 
こそ、神様の恵みを豊に味わうことができて、感謝なのです。

栄光の神に近づく

2014-07-01
千代崎 備道
 
   わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。
(レビ記十章3節)
 
   神は人間を「神のかたち」として造られた、と創世記1章27節は告げています。「神のかたち」の意味について
 
は諸説あり、一言では説明できませんが、ハッキリしていることは、私たちは神の栄光を現すべき、特別な存在
 
として造られた、ということです。しかし、その後の創世記3章で人間は罪を犯してしまいます。そして、パウロが
 
ローマ書三章23節で語っているように、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず」
 
という状態になってしまいました。しかし、「この恵み(救い)に信仰によって導き入れられ、そして神の栄光に与
 
る希望」(ローマ五・2、口語訳)が与えられ、「栄光から栄光へと」(第二コリント三・18)変えられて行くのです。
 
   でも、私たちは問います。自分のような者が神の栄光を現すことが出来るだろうか、と。答えは『人には出来
 
ない』です。「これはまさに、御霊なる主の働きによる」(第二コリント三・18)と書かれている通りです。神様だ
 
けが私たちを栄光の姿に変えることがお出来になるのです。だから、私たちは、まず神様に近づくことが必要
 
なのです。
 
   レビ記十章には、最初の大祭司となったアロンの二人の息子が間違った方法で神の前に出て行ったために、
 
神の審きを受けたことが記されています。それは単なる間違いではなく、神様の命令に真っ向から背く、反逆
 
の罪だったのです。神様は、ご自分に悪しき思いで近づく者を滅ぼすことで、神の聖さが汚されるないようにし、神の栄光を示されたのです。とても悲しい事件でしたし、私たちは誰でも罪ある存在ですから、この事件を考え
 
ると、神に近づくことを恐れてしまいます。しかし、イザヤは神の前に立たされましたが、滅ぼされはしませんで
 
した(イザヤ六章)。それは、彼らが自分の罪を自覚し、謙って神の前にひれ伏したからです。神は彼の罪を赦
 
し、聖め、神の栄光の働きに召してくださったのです。
 
   私たちは欠けだらけの存在です。神様の前に出ると、それを認めざるを得なくなります。でも、その罪を覆い
 
隠したり、逃げて遠ざかるのではなく、神様の前に自分の弱さを認め、自分には神様の助けが必要なのです、と言いつつ進み出るなら、そのような人を神様は喜んでくださり、栄光を示してくださるのです。
宗教法人日本ホーリネス教団
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