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み言葉のいづみ

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主は生きておられ、私は・・・

2015-09-01
千代崎 備道
 
  あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私た
ちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光
のうちに現れます。
(コロサイ三章3~4節)
 
  ご葬儀のたびに、私たちは「死」について考えます。私たちは誰もがいつかは死ぬ存在です。
それに対し、神様は永遠に生きておられるお方です。神様は命の根源であり、「いのちの主」
です。ところが、その神様が人間の肉体を取られて地上を歩まれ、ついに十字架の上で死ぬと
は、「命の創造主」であるお方にとって、あるはずが無いと思えるような出来事です。でも全
知全能の神様は、人間には理解できないことをなさいました。何のためでしょうか。それは、死ぬべき人間を救い、永遠の命を与えるためです。復活されたイエス様は、私たちに新しい命
を与えてくださったのです。
  今、私たちは、この地上では寿命がありますが、天に昇られたイエス様を見上げるなら、そ
こに自分の命がある、とパウロは語りました。「世の終わりまであなたがたと共にいる」と約
束されたイエス様は、私たちの人生に伴ってくださるだけでなく、死ぬ時も一緒に死の川を亘
ってくださり、共に天国に連れて行ってくださるのです。このお方を信じ、キリストによる永
遠の命を信じるなら、イエス様を見るときに死への恐れは消え去ります。古い命、罪に従う生
き方は、イエス様と共に十字架の上で死に、今は主に従う新しい生き方に移されたことを受け
入れるなら、主は私たちのうちに生きておられ、私たちもイエス様のなかに生かされているの
です。
  「主は生きておられる」と信じる信仰は、私が生かされている間も、天に召されるときが来
ても、変わることはありません。自分の姿を見るなら、失望することもあります。でも、そん
な自分を愛して十字架にかかってくださり、今も生きておられるイエス様を見上げるなら、失
望に終わることの無い人生を歩むことができるのです。
  愛する家族を天に送る悲しさも、イエス様を信じ信頼するとき、やがて主の愛により心が満
たされていきます。どんな問題でも、主が共にいてくださり、私たちも主のなかに生かされて
いるとき、解決できない悩みは無いのです。
  「主は生きておられる」との告白は、自分とは無関係なことではなく、私も共に生かされて
いると信じる恵みとなります。一人一人が「私の仕える万軍の主は生きておられる」と信じ、お従いしていきましょう。

生ける神を知る

2015-08-01
  千代崎 備道
 
     すべての道で主を認めよ。(箴言三章6節 口語訳)
 
 
  夏休みに旅行をして、自然に触れる機会があったでしょうか。大自然を通して私たちは神様
の偉大さと、また大きさだけでなく細やかなところにまで行き届いている神様の知恵があるこ
とを知ります。また聖会や退修会などの特別な集会に出席し、あるいは毎週の礼拝や毎日個人
で聖書を読むことを通して、聖書の登場人物と共に神の導きを知り、聖書の中心である御子イ
エス・キリストを通して神の愛を知ることができます。
  生ける神を知るとは、どのようにしたら出来るのでしょうか。知ると言っても、自分の力、自分の頭だけで完全に理解できるほどに神様は小さなお方ではありません。何か特別な学び
をして自分で知ろうとするのではなく、むしろ、苦難や問題のただ中で語りかけてくださる
ことによって神様の方が私たちにご自身を知らせてくださるのです。その神様の働きは、特
別な機会だけに限られるのではなく、聖霊は実に自由に私たちに働きかけることがお出来に
なります。キリストは、父なる神と、神がこの世に遣わされたキリストを知ることが永遠の
命なのだと教えられました(ヨハネの福音書十七章3節)。このお方を知らなければ、豊か
な人生にはなり得ないのです。
  もし普段の生活の中で、それが教会生活だけに限るのではなく、仕事や家庭、あらゆること
において、そこに主が共にいてくださることを認め、神様が私の人生を治めておられることを
受け入れるなら、神様はそのようなへりくだった心の中に働きかけてくださるのです。
  冒頭の箴言の聖句は有名な言葉です。口語訳聖書では「すべての道で主を求めよ」と訳され、新改訳第三版では「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」、そして新共同訳聖書は
「常に主を覚えてあなたの道を歩け」と意訳しています。どの訳も味わい深いと想います。ど
こに行っても、どんな時にも、人生の全ての道において、主を認めるなら、そこに主が生きて
働いておられることを知り、豊かな恵みに満ちた人生に変えていただけるのです。もし神を認
めず、「この場所は私のもの、私の思い通りにしたい」と頑なになるなら、生ける神を知るこ
とは出来ないのです。
  あなたが置かれている場所、歩んでいる道、取り組んでいる働きや学び、それが何であって
も、自分から神様を神様として認め、このお方に従って行く者となりましょう。その道は天国
に続く道だからです。

主はここにおられる

2015-07-01
千代崎 備道

    たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
(詩篇百三十九篇8節)
 
   小学生の頃、始めて自分のラジオを持ちました。何かの付録だったか、鉱石ラジオのよう
なものだったか、忘れてしまいましたが、実際にラジオ放送の電波を受信したのを聞いたと
きの不思議な驚きは覚えています。テレビやラジオは家にあっても、子どもとしては自分の
ラジオという意味で、始めての体験でした。
   神様は全世界におられるお方で、神学用語では「遍在」と言います。でも空気のようにど
こにでもある、というだけですと「空気のような存在」になりかねません。それは特に私た
ちとの関係において、私がどこにいてもそこにおいでになるということです。詩篇の詩人は、天でも黄泉(死者の世界)でも、主はそこにおられる、と告白し、賛美しています。
   電波もどこにでもあるのでしょうが、それを受信して始めて、存在を実感できます。神様
がここにおられることを実感する体験が、神は生きておられるということを理屈として知っ
ているだけではなく、強く生き生きとした信仰へと私たちを導きます。そのような体験は人
生に一度だけということではなく、必要な時に何度でも神様は私たちに声をかけてください
ます。
   ヤコブは自分の罪が原因で挫折したときに神と始めて個人的な出会いをしましたが(創世
記二八章)、彼の頑固な自我が砕かれるためには、神と取っ組み合い(の祈り)をする必要
がありました(同三二章)。アブラハムの妻サライの女奴隷ハガルも、自分の高慢の罪の結
果、主人から逃亡している途中で神の使いに出会いましたが、また同じ罪により自分の息子
が主人の息子を敬うように育てなかったために追い出され、そこで再び神の声を聞きました
(同十六章、二一章)。私たちの人生にも、そのような経験が必要であり、あるいは何度も
必要なのではないでしょうか。
   神様との生きた出会いなんて、特別な人間だけが出来るのであって、自分には出来ない。
そう思うのは、まるで自分を神様から遠ざけ、地の果てや黄泉の底に逃げているかのようで
す。しかし、私たちがどこに行っても、逃げようとしても、どんな霊的状態でも、またハガ
ルのようなイスラエルの正当な歴史からは疎外されているような存在でも、神様は見ていて
くださり、声を掛けていてくださるのです。この生きておられる神様を知る経験を求めてみ
ませんか。

主が家を建ててくださる

2015-06-01
千代崎 備道

    主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
  主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
(詩篇百二十七篇1節)
 
  神様が家を建ててくださるとは、何と感謝なことでしょう。もちろん、人間の働きによって家は建築されます。
 
一晩寝ている間に、神様が家を建ててくださるということは、もちろん全地全能の神様なら不可能はありませ
 
んが、神様は人間の働きを無視なさるお方ではありません。むしろ人間の側が、自分の力に頼りすぎ、神様
 
の助けを忘れてしまうことのほうがありがちです。しかし、主が一緒に働いてくださって、建てる者を守ってくだ
 
さるなら、例え困難があっても、必ず乗り越えることが出来ると信頼し、嵐の時にも平安が与えられるのです。
 
  家屋の建設だけではありません。敵が攻撃してきたときに町(当時は町を囲む城壁の上に見張り台がありま
 
した)を神様が守っていてくださらなければ、人間の見張りがいても敵の攻撃を防ぎきることができません。敵
 
からの防衛だけではありません。私たちの人生の、生活の、あらゆることにおいて、神様が共にいて働いてく
 
ださらなければ、いつかは人間の力の限界がきて、行き詰まってしまいます。特に、人生の最後に訪れる死に
 
関しては、人間にはどうすることもできないのです。ですから、あらゆる道で主が共にいてくださることを、認め、信頼し、求めていくことが大切なのです。
 
  「主は生きておられる」ということを私たちが知るためには、普段から共におられる主に心を向けることが必要
 
です。そうでないと、神様が危機から守ってくださったときに気が付かず、自分の力で成し遂げたと錯覚してしま
 
います。また思わぬ嵐が襲ってくるとき、神様への信頼を忘れていると、平安が持てないだけでなく、神様への
 
不平さえ心に湧き上がってくるのです。小さなことでも、いつも主に祈り、助けを仰ぎつつ歩む人は、神様が生き
 
て働いておられることに敏感になり、どんな困難な状況でも、神様を信頼することが出来るのです。
 
  今年は会堂の補修工事の年です。人間の力だけで成し遂げようとするなら、心配や恐れが生じます。しかし、会堂工事の時こそ、神様が助けていてくださることを学ぶ最良の機会です。主が率先して家を建てていてくださ
 
ることを信頼し、私たちも主と共に歩んでいこうではありませんか。

私たちとともに働かれる主

2015-05-01
千代崎 備道

  そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ十六章20節)
 
  ペンテコステ(五旬節)の日に、弟子たちの上に聖霊が降られたときから、弟子たちが
力を受けて世界中に福音を伝え始めたことは、『使徒の働き』の二章以降に記されていま
す。彼らが奇跡(しるし)も含め、力ある働きをしたのは、聖霊の働きであるとともに、聖霊を遣わしてくださった主イエス様の働きでもあるのです。
  今年の教会の標語は「主は生きておられる」で、それは、神様は聖書の書かれた時代だ
けでなく、今も生きて働いておられるお方だ、ということは何度もお話ししてまいりまし
た。この生きて働かれる主は、教会を通し、また一人一人のクリスチャンを通して、今も
変わることなく働いておられます。ですから、教会の働きを見ていると、確かに主は生き
ておられることを知ることができるのです。
  確かに今日では初代教会の時のように、いわゆる「奇跡」を通して、生きておられる主
を見せていただけるかと問われれば、奇跡的な出来事は無いわけではありませんが、それ
ほど顕著ではないかもしれません。でも、歩けない人が歩けるようになったり(使徒三章)、絶体絶命の危機から救われる(使徒十二章)と言った奇跡はめったにないかもしれません
が、人が救われること自体が奇跡ではないでしょうか。罪が分からなかった人が自分の罪
を示されて悔い改め、どうしても信じることが出来なかった人が主イエス様を救い主とし
て信じる。それこそが最大の奇跡です。教会の誕生したときに三千人が救われたように、今も教会を通して救われる人が起こされているのを見るとき、確かに主は今も生きて働い
ておられることを知るのです。洗礼式は教会の中で主が働いておられるしるしです。

  信じて救われるという、クリスチャン人生のスタートだけが奇跡ではありません。その人
が信仰から信仰に進み、キリストの姿へと成長していくことも、主の働きなしにはありえな
いことです。その人の人生が新しくされ、今も、新しくされ続け、一生涯、主の恵みを受け
て変えられ続ける。それが、主が共におられるしるし、聖霊が私たちの内に住んでいてくだ
さるしるしなのです。
  自分の力でクリスチャンらしくなろうとしても難しいでしょう。でも、私と共にいてくだ
さる主が私を導いてくださる。そのことを信頼するなら、私の中にも主は働いてくださるの
です。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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