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み言葉のいづみ

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救いの主に出会う時

2016-02-01
千代崎 備道
 
  そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い
出してください。」イエスは、彼に言った。「まことに、あなたに告げます。あなたは
きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカの福音書二十三章42~43節)
 
  キリストの両隣で十字架にかけられた二人の犯罪人の一人が、イエス様が天国の王座にお
就きになるお方だとの信仰を告白したとき、主は彼に天国に「きょう」入ることを約束され
ました。イエス様の十字架の贖いによって天国に入った人の中で、もしかしたら彼が第一号
とも言えるかも知れません。この男は、強盗の罪で捕まり処刑を受けていますので、自分が
法律にてらして「犯罪人」であることは理解していました。しかし、他の福音書を見ると、最初はもう一人の受刑者と共にイエスを罵ったと書かれています。ところが、イエス様の態
度を見て、このお方は罪の無いお方だと分かり、それに比べて、自分は処刑されてあたりま
えの罪人だと、心から認めたのです。そのとき、主は彼を救ってくださったのです。
  この御言葉は、私の救いの御言葉です。小学生の時ですが、この箇所からメッセージを聞
き、自分の罪を示され、イエス様の十字架が私のためだった、と心から信じ、救いの恵みに
与りました。それまでも教会学校で罪について教わっており、自分にも罪があると頭では理
解していましたが、心の底から自分の罪を認め、悔い改めたのは、その時が初めてでした。
  教会に何年も来ていていますと、自分は罪人だということを何度も聞いて、また納得もし
ているでしょう。でも、心のどこかで、「人類全員が罪人なら、私も罪人なのは仕方が無い。
でも『あの人』より私の方が少しはマシだ」などという思いがあるかもしれません。あるい
は、長年「私は罪人」と言い続けるうちに、罪人であることに慣れてしまうこともあるでし
ょう。そんな私たちが、御言葉の光にあらためて照らされ、聖霊が私の目を自分の罪に向け
させてくださったとき、自分はなんて酷い罪人であって他者を批判できる資格もないし、ひ
ょっとしたら天国に入れて頂けるような者でもない、と気が付くのです。その時、イエス様
は私にも「あなたは私と共に天国に入るんだよ」と優しく語ってくださるのです。
  主は救いの勇士」であることを知るのは、自分が救われなければならない者だと知ること
から始まります。主の御言葉によって心の深みまで点検していただきましょう。

勇士である救い主

2016-01-01
千代崎 備道
 
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。
 
(ゼパニヤ書三章17節)
 
  今年の教会の御言葉です。すでに元旦礼拝と、最初の主日礼拝でこの箇所からメッセージを
取り次ぎましたが、もう少しだけ、『いづみ』の誌面を通して、お話しさせていただきます。
それは「勇士」という言葉のことです。
  今の日本は平和です。かつては戦争に明け暮れる時代もありましたし、今でも世界の各地で
は戦争や争いがあります。でも私たちの日常生活から見る時、戦争は遠い世界の出来事に感じ
ます。そして、少しでも戦争のニオイがする言葉を使うと拒絶反応が出てくる。それくらい日
本は平和である、ということなのでしょう。
  旧約聖書のイスラエルは、いつも戦争が身近でした。小さな侵略や略奪も含めるなら。いつ
の時期にも戦いがあり、そのために備えることは常識でもありました。聖書の中には戦争に関
係する用語が多く使われています。それは読む人に奇異な印象を与えることはなく、良く納得
できる表現となって伝わったと思います。
  詩篇の中に「戦いのために私の手を鍛え」(一八34)という言い回しがあります。新共同訳
では「手に戦いの技を教え」と訳されています。何だか物騒な言葉に感じるかもしれません
が、当時の人、特に戦いを指導する王であるダビデにとっては、大切なことであり、神が自
分を強めてくださることは、戦争の時には恵みであり、また同じように信仰も鍛えてくださ
る、と語っているのです。
  「勇士」とは戦いの時に強い人のことです。強い戦士と訳すこともできます。それは、恐怖
心を与えるような恐ろしい存在では無く、危険な状況でも、この人が側にいたら大丈夫、とい
う安心感を与える存在です。そして、戦いに関しては、勇士は誰よりもよく戦い方を知ってい
る、専門家です。また周囲の戦士を導く指導者です。
  「主は我が救いの勇士」とは、私たちを救い、信仰の勝利に導く専門家であり指導者だとい
うことです。自己流の戦いや、命令に従わないで勝手に敵に向かうことは自分も仲間も危険に
陥らせる行為となります。このお方を頼り、従うときに、悪魔や罪との戦いも、恐れることは
無くなり、試練にも立ち向かえるのです。
  この年、様々な困難もありましょうが、この「勇士」が私と共にいてくださることを憶え、主に従い、信頼する一年とならせていただきましょう。

主は今も働いておられる

2015-12-01
千代崎 備道
 
   イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。
    ですからわたしも働いているのです。」
(ヨハネの福音書五章17節)
 
  福音書の中で度々、イエス様と敵対する者たちとが安息日に関して論争しています。律法
学者たちは安息日を労働禁止と理解し、良い働きさえも禁じました。イエス様は父なる神の
御心を実行し、良い働きを続けました。
  創世記二章で神様が「休まれた」と書かれているのは、天地創造の御業を終えられたこと
を述べているのであり、創造後の世界を保持する働きは続けておられるのです。もし神様が
何もなさらなかったら、世界は秩序を失い崩壊してしまいます。聖書は「安息日を聖とせよ」
と命じています。ですから単なる「休養日」なのではなく、聖なる日として神様にお捧げし、御旨に従う日です。ですから私たちも聖日には礼拝を捧げ、主に仕え、主の御言葉に従って
新しい一週間をスタートするのです。
  父なる神が今も働いておられ、世界を治め、保っておられるように、キリストも教会の主
として私たちを守り、導き続けておられます。私たちが信仰を持って生活しているのも、信
仰が弱った時も主の憐れみにより支えられているのも、主が今も働いておられるからです。
「イスラエルを守るお方はまどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇百二十一篇)と言
われるように、私たちが倒れているのに気が付かないで眠っているようなお方でも、また
「今日は休みだから助けない」と言うようなお方でもないのです。このお方を主と仰ぎ、お頼りするからこそ、安心して休息を取り、行き詰まりの中でも祈りつつ歩むことが出来る
のです。
  私たちが日々の生活を営み、信仰によって歩み続けていること自体が、神が今も、そして
私の中にも働いていてくださる証しです。自分の力で何でも出来ていると自己過信する時は、生きておられる主を知ることは出来ません。謙って主の助けを憶え、恵みを数え上げるとき、主が私のために働いておられることを知るのです。また、行き詰まって、あるいは倒れたと
き、自分や周りを見て愚痴や絶望を述べるのではなく、主を仰いで助けを祈る時、そのよう
に祈ることが出来ること自体が、既に主が私を助けていてくださるのだという証しなのです。
今年一年のお守りを感謝し、来年も主を信頼して歩みましょう。

今、知りました

2015-11-01
千代崎 備道
 
   あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、 私は知りました。・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この
 目であなたを見ました。
(ヨブ記四十二章2、5節)
 
   ヨブは正しい人でしたが、あるとき、突然の災難を体験します。一日の内に、これまで築き
上げてきた全財産を失い、将来の望みである子どもたちを失います。さらに健康を失い、妻も
厳しい言葉を投げかけ、苦しいときに寄り添ってくれた友人たちからも非難を受けるようにな
ります。
   ヨブはそれでも自分の正しさを主張し、自分の知恵を誇ります。自分自身の自尊心は失われ
なかったのです。ところが、目下の者からの言葉がヨブの高慢な思いにくさびを打ち込みま
す。「神はある方法で語られ、また他の方法で語られるが、人はそれに気づかない」。神は
ヨブの受けた災いでさえ用いて、彼に語りかけているのに気が付かなかったのです。この若
者の言葉を聞いてヨブは沈黙しました。彼が黙ったときに、神はヨブに語りかけてくださっ
たのです。
   私たちが生ける神を知ることを妨げているものは、ある人にとっては持っているもの(財産
だけでなく、夢やプライドや経験)から心が離れないことかも知れません。また人との関係
の中で埋没し、論争や自己弁護をするあまり、神に対してさえ心を閉ざしてしまうときもあ
ります。そのとき、私たちに必要なことは神の前に沈黙することです。

   有名な詩篇四十六篇10節は、文語訳では「汝ら静まりて我の神たるを知れ」ですが、「静
まる」とは「黙る」という意味です。新改訳は「やめよ」、新共同訳は「力を捨てよ」と訳
しています。ヨブにとっては、災いに遭い、さらに論争でも行き詰まったとき、始めて沈黙
し、神の声を聞く姿勢が出来たのです。ヨブの災いは彼にとっては神からの「静まれ、やめ
よ」となったのです。
   神からの圧倒的な語りかけは、ヨブの小さなプライドも、限りある知恵も打ち砕くもので
した。そして、彼はこれまで知っていると思っていた「小さな神」ではなく、「生きて働い
ておられる神」を目の当たりにしました。ヨブが生ける主を知ったとき、彼の人生は再び動
き始めたのです。
   私たちも、生ける神を知るときが来ています。神の前に静まって、細き御声に耳を傾けま
しょう。主は、私にも語りかけておられるのです。

主はここにおられるのに

2015-10-01
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らな
かった」と言った。
(創世記二十八章16節)
 
  ヤコブが始めて神様が生きておられ、自分と関わってくださることを知ったのは、兄から逃げ、石を枕にして地面に寝ていたときでした。彼はその場所に神がおられると考え、その町を「神の家」(ベテル)と呼ぶようになりました。しかし、彼はまだ知らなかったのです。神様は、その町だけでなく、彼の行くところ、どこにでも共にいてくださることを(15節)。神様は今も生きておられるおかたです。でも私たちの方がそれに気が付かなかったり、頭では分かっていても心から信じることが難しくなってしまうのです。
  ヤコブは人生の挫折の時に始めて神様を個人的に知りました。それまでは父や祖父の信仰している神だと理解していました。でも、家族の守りを失ったとき、自分の神であるお方として知ったのです。人生の特別なとき、特に試練の時に人は神を求め、その中で生ける神に出会います。愛する人の死、大切なものを失ったとき、人生に行き詰まったとき、救いを求める思いになって始めて、そこにおられる神様を認めるのです。求める気持ちが強くないときは、認めたら負けのような気がするのか、神様が本当に生きておられることを否定したくなることもあります。でも自分の力では人生をどうすることも出来ないと認めざるを得なくなったときは、神様に対しても素直になれるのです。ですから、「特別な試練」が信じる機会となるのかもしれません。
  しかし、特別な時でなければ生けるまことに神に出会えないということでもありません。神様が語ってくださる言葉を、聖書の言葉を通して聞くならば、いつでも神様はご自身を私たちに示してくださいます。毎日、聖書を読み祈っているクリスチャンは少なくないでしょう。でも、毎日読む御言葉から神様の語りかけを聞き、この御声に導かれて歩むためには、聴く心を養い、神様を信頼して従う姿勢が必要です。そのような「聞く耳」を持つようになるなら、日々のどんな出来事においても、そこにも神様の助けと導きがあることを知ることが出来るのです。
  奇蹟のような特別な経験だけを求めることは、全てのときに全てのことを支配しておられる、生ける真の神を認めないことになります。家庭や職場、どこにいても、「この場所に神様がおられる」と認める信仰者とならせていただきましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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