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み言葉のいづみ

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涙と汗を見ておられる神

2012-08-01
千代崎 備道

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」
(詩篇百二十六篇5節)
 
  八月は高校野球にオリンピック、テレビに釘付けの方もおられるかもしれません。応援し
ているチームの攻守に一喜一憂し、選手の動きを見て自分まで力が入ったり。しかし、どれ
ほど応援しても勝者と敗者がいるのもスポーツの世界です。優勝できるのは一校だけ、金メ
ダルも一つ。でも、途中で敗退したとしても、それまでの厳しい練習や訓練が背後にあるこ
とを想うならば、何位であっても、それは尊いのではないでしょうか。多くの汗と涙を流し
てきた選手たちに心から「良くやった」と言いたいものです。
  イエス様の語られた有名な譬え話の中に「ぶどう園の労務者の譬え」があります。ぶどう
園の主人が日雇いの労働者を町の市場に集めに行きました。朝早く雇われて一日働いた人々
と、九時、十二時、三時、そして日没が迫る五時頃に雇われた人々、全員に等しい賃金が支
払われたのを見て、最初からの労務者たちが文句を言いました。『この最後の連中は一時間
しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼ける
ような暑さを辛抱したのです』(マタイ二十・12)。確かに、この世の原理では多く働いた
者が多くの報酬を得るのは当然です。しかし、この主人は神様を表し、神の国の原理によっ
て評価しているのです。それは、働きによる救いではなく、恵みによる救いです。
  最初の労務者たちにとっての一日は、報酬のために「労苦と焼けるような暑さを辛抱」す
ることでした。最後に雇われた者たちにとっては、同じ暑さの中で、ぶどう園ではなく市場
で一日立ちつくし、もしかしたら今日は無収入となって家族を飢えさせるかもしれない心配
をし続けた一日でした。最初の労務者には、その心労は見えなかったでしょうが、自分たち
も偶々早く声を掛けられなかったなら、同じ苦しみを味わったいたはずだと想像できたはず
です。
  神様は、私たちの行った働きだけでなく、神様さえも見ていないと思っていた悲しみや苦し
みも、全てご存じであり、私たちを憐れみ、恵みをもって救いを与えてくださったのです。そ
の人が流してきた汗と涙によって心を磨き、品性を練って高め(ローマ五3~4)、ついに
「御霊の実」(ガラテヤ五22~23)を実らせてくださるのです。涙と共に蒔くとき、喜びと共
に刈り取らせてくださるお方を信じてまいりましょう。

あなたのために義の太陽が昇る

2012-07-01
千代崎 備道

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしが
ある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
(マラキ四章2節)
 
  暑い季節がやってきました。上前淳一郎氏の「読むクスリ」という本の中でこんな事を読
んだことがあります。
・・・・日本のある食品会社が、中近東で魚の缶詰を売ろうとしたが不人気だった。原因を調べ
てみたら、会社のマークが太陽であることが問題だった。その地域では、太陽は灼熱をもた
らす恐ろしい存在というイメージがあったので、敬遠されたようだ。…
北欧の人々は、長い冬の間の短い日照時間を補うかのように、夏の間は寸暇を惜しんで日光
浴をするそうです。同じ太陽なのですが、地域や文化によってイメージが正反対なのですね。
  ある人にとっては恐ろしい存在であり、ある人にとっては恵み深いお方です。それは神様
が変わったのではなく、人間の側の態度が原因です。神様を愛し敬い、神様のなさることに
間違いはないと信頼するなら、どんな状況にあっても神様は恵みの光を注いでくださると受
けとめることが出来ます。神様に背を向けるような生き方をしていると、神様の光に照らさ
れることは恐ろしいと感じます。
  預言者マラキを通して神様は、「義の太陽」が昇る時が近いことを告げられました。その
光と熱は、高慢な罪人にとっては焼き尽くす裁きの炎となりますが、主を畏れ敬う人々には
病を癒す光となるのです。私たちはどちらの光を受ける者でしょうか。もし、自分に罪があ
ることに気がついているとき、光の前に出ることは恐怖です。そのため、神様に近づくこと
を控えてしまいたくなるかもしれません。聖書の言葉が心に迫ってきて、自分の問題をずば
り指摘されるのを恐れて、神様との距離を取ってしまいたくなることもあります。しかし、それでも神様に救いを求めて近づいていくとき、神様は私たちの罪を癒してくださるのです。
  自分は悪くない、と高慢になったり、神様を愛するよりも罪の状態の中に留まることを愛
するとき、神様の光は裁きとなります。でも、神様は私たちを滅ぼすのではなく、御言葉の
光を用いて、心の中を照らしてくださるのです。それは、私たちが悔い改めて、神様の光に
よって救われるためです。神様の光から遠ざかるのではなく、光に向かって進んでいきまし
ょう。そのとき、神様が進むべき道を示してくださり、あなたの義の太陽となってくださる
のです。

あなたは輝いています

2017-04-05
千代崎 備道

  あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また曲がった邪悪な世代の中
にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の
光のして輝くためです。
(ピリピ二章15、16節)
  先日は天体ショーで日本中が沸き立ちました。数十年ぶりの金環蝕が東京でも見ることが
できました。残念ながら金星蝕は雲のために見えませんでしたが。明けの明星とも言われる
明るい金星も、夜道を照らすことが出来る月も、太陽の光を反射して輝いています。その軌
道の正確さは、創造主の御手の巧みさを表します。輝くのは天体だけではありません。ある
方が山の木々を見て、「こんなに様々な種類の緑色があるなんて」と感嘆されました。確か
に、新緑と深い緑、淡い緑と濃い緑、一つの木でも葉によって色彩に違いがあり、太陽の光
を浴びて緑に輝いています。同じ日光が反射しているのですが、光の三原色の絶妙な配分に
より、どれほどの「色」が生まれることでしょう。神様は最高の芸術家です。
  私たちも主の光を受けて輝く存在です。その輝き方は一人一人異なります。神の聖さを映
し出して、その人がいるだけで主のご臨在を感じさせる方がおられます。神の義のように、まっすぐな生き方を示された方がおられます。神の愛を反映して様々な愛の働きをしておら
れる方々は、数え切れないほどです。神様のご性格の一部が、様々な配分でその人の中に働
き、その人でなければ出すことのできない色合いで輝いているのです。
  また、同じ人でも輝き方が段々と変わっていくのを見ることができます。自分の力で輝こ
うとしていた人が、主に委ねた穏やかな光となります。苦難の中で一事は輝きを失ったよう
に見えた方が、それでも主に信頼するようになったとき、小さい光ですが、磨かれた宝石の
ような輝きを放つようになります。みなさんは、神の作品であり、神の宝の民なのです。
  イエス様が「あなたがたは世の光」と言われたのは、何年も修行して世の光となれ、とい
うことではなく、主を信じて救われたときから、すでに「光」としていただいたということ
です。それは、自分の光(栄誉)ではなく、救ってくださったお方の恵みの光が反射するか
らです。ですから「自分は大丈夫かしら」と心配は無用です。主からの光をたっぷりと受け
てください。主があなたの光を整えて、ご計画のままに素晴らしい作品に仕上げてくださる
のです。

命の光を持っていますか

2012-05-01
千代崎 備道

  この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 
  (ヨハネ一章4~5節)
 
  牧師として何人もの方を天にお送りするなかで、お一人お一人の人生と、その終わりに関
して考えます。クリスチャンの召天は、全員が同じなのではありませんが、それぞれの方の
信仰から教わることが沢山あります。ある方に「あなたは天国に行ける確信がありますか」
と問いかける時を神様が備えてくださいました。その方は、苦しい中にも、しっかりと
「はい」と返事をなさいました。平安に満ちた姿は、既に天国の勝利に輝いていました。
  信仰を持っていても、自分の人生が終わりを迎えるということを考えるのは、決して容易
いことではありません。しかし、誰にも、必ずその時はやってきます。まだキリストの救い
を知らない方にとっては、それは『縁起でも無い』ことかもしれません。しかし、私たちに
とって死は最後ではなく、天国への入り口でもあります。そのことを、知識として知ってい
るだけでなく、心で確信し、口で告白し、証しを立てることは、難しいかもしれませんが、大切なことなのではないでしょうか。どうしたら、そのような確信を持てるのでしょうか。
  それは、「私はよみがえりであり、命です」とおっしゃるイエス・キリストを心のうちに
お迎えすることによります。主イエス様が、私の罪を全て贖ってくださり、私たちにはもう
神様との間に妨げとなるものは無いのです。そして、このお方は、死にも打ち勝たれたお方
ですから、私たちが死ぬ時にも共にいてくださり、必ず私を天国にまで連れて行ってくださ
り、私のうちに始めてくださった救いを完成してくださる真実なお方なのです。
  有名な詩篇二十三篇に「死の陰」と訳されている言葉があります。原語では「深い闇」と
いう言葉なのですが、その闇が死を連想させるほど恐ろしいので、「死の陰の谷」と言われ
るのです。人が闇を恐れるのは、死を恐れるからです。しかし、命であり光であるお方が共
にいてくださるなら、心配や不安があっても、恐れる必要は無くなるのです。
  私たちを脅かすのは死だけではありません。もし、あなたが恐れや闇の中におられるなら、心にキリストを
お迎えし、いつも主として仰ぎ信頼しましょう。

闇を求めてしまうとき

2012-04-01
千代崎 備道

たとい私が、「おお、やみよ。私をおおえ。
私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく
夜は昼のように明るいのです。
(詩篇一三九篇11~12節)
 
  春分を過ぎ、ますます日が延びてきました。自然界は春の光に輝いています。光が闇に
打ち勝つことを、昔の人々も日常生活の経験から良く知っていました。それなのに、何故、この詩人は闇に覆われることを願っているのでしょうか。
  睡眠のためには闇も必要でしょうし、暗い季節と明るい季節が回り巡ることで、農作物も
自然の美しさも豊かなものとなります。その意味では闇も必要です。しかし、自分の人生に
おいて暗闇を願う人はいません。明るい日々が続くことを願います。しかし、私たちには、闇を願い、あるいは好む場合もあります。欲望や自己中心のために罪の中にとどまりたいと
願うとき、人は闇を好み、神からの光を拒みます。あるいは、自分の力では闇を解決出来な
いのに自己正当化しようとすると、他者を非難するか、自己憐に陥り、闇の中に安住するこ
とが心地良いかのように考えてしまいます。
  「たとい」と断っていますから、本当には闇を求めていないとしても、闇の中で苦しみもが
く言葉は詩篇の中に少なくありません。まして、もし自らも闇を求めてしまうなら、そこから
抜け出すのは大変に困難と思えます。しかし、不可能なのではありません。神様ならば、どん
な闇も照らして明るくすることが出来るのです。
  誰が見ても、闇のような人生を過ごす人がいます。「瞬きの詩人」と言われた故・水野源三
さんは、小学生のときに脳性麻痺となり、体も動かせず言葉も発することが出来なくなりまし
た。しかし、彼はイエス様と出会い、人生が変えられ、闇を光として頂いたのです。彼のよう
な特別な人だけが、光の主による救いを頂くのではありません。人知れず、心の中の闇に苦し
む人は少なくありません。でも、自ら目を瞑ってしまうのではなく、目を開き、上を見上げる
ならば、神はそこにいて、私の光となってくださるのです。闇の中で、光の主が分からなくなっ
ているときでも、実はいつも共にいてくださるお方がおられることを知るならば、そこはもう
闇ではないのです。
  「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」
(詩篇一三九篇18節)
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